真珠湾への道程.
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| NHKスペシャル 「御前会議」 視聴感想. NHK番組 |
| 参考引用 「天皇独白録」 (文藝春秋 1990年12月号) 年表 新憲法 日本国憲法 |
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今も一般に比喩として使われる「御前会議」.・・・ だが、初めて公開された貴重な資料とともに、その実態を画像で伝えたのはこの番組がはじめてではなかっただろうか。
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NHKスペシャル「御前会議」 タイトル
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大日本帝国憲法において「軍事」は天皇が統帥する大権と規定されており、一般国務(立法・行政・司法)から独立していたが、昭和5年、政府がロンドン海軍軍縮条約に調印した事から「統帥権干犯問題」に発展し、その後統帥、すなわち軍隊の動員・作戦は政府の触れることの出来ない絶対の聖域として定着した。
日中戦争によって戦時態勢にあった日本の国策は、常に軍事を含めた国の政策である。したがってその原案は陸海軍の中堅官僚によって起案され、調整を経て陸海軍の部局長会議に上げられる。
その後、大本営と政府との連絡会議に諮られ、ここで合意に至ると国策として事実上決定された。
しかし、太平洋戦争開戦のような国策については御前会議が開かれ、天皇を前にした会議で天皇が納得したという形がとられた。
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| 国 務 |
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天 皇 |
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統 帥 |
| 国務官僚 |
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中堅軍務官僚原案起案 |
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↓ |
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↑ |
部局長会議 調整 |
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↓ |
| 政 府 |
→ 大本営政府連絡会議 ← |
大本営 |
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出席国務大臣は総理・外務・陸・海軍大臣 統帥部は陸軍参謀総長・海軍軍令部総長
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| 番組を参考に作成 |
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| 【国策原案を最も多く作成したと言われる石井陸軍中佐】 |
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・・・わしらは真っ先に、第一弾をやれば、それは大切な国策になるんですな。そして大分修正を食うこともありますけど、まあそのくらい重要なものでした。 それみんな死んだ。生きとるのはわしだけになった。 そういう国策をね、一番余計書いたのはわしでしょう。やっぱりわしが第一人者でしょう。罪は深いですよ。 |
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番組より |
..国策を最も多く作成したという若手軍務官僚・陸軍石井中佐と海軍藤井中佐

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みずからの侵略による日中戦争の泥沼に喘いでいた陸軍は、昭和16年6月に始まった三国同盟の盟友・ドイツの独ソ戦開始と、その後のドイツの攻勢から、ドイツの勝利を予測し、その勝利に便乗して長年の仮想敵国・ソ連をドイツと挟撃、そしてドイツ勝利による独ソ戦終了後の国策を議題とした御前会議を7月2日開いた。
そこでは、資源を求める海軍の南方進出も審議された。 |
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かつてはあれほど三国同盟に反対した海軍にしても、その後は“いわゆる「空気の支配」”に抵抗できず陸軍に引きずられ、卑しい野心に流されていく。
石油の75%をアメリカに依存しているにもかかわらず、ドイツ占領下にあるフランス・ビシー政府を相手に火事場泥棒的・「北部仏印進駐」を実行してアメリカを刺激し、アメリカの対日くず鉄輸出禁止等を呼び起こしたにもかかわらず、その警報を理解せず、その後御前会議決定・南方資源獲得のための進出の国策を、さらにアメリカを刺激する「南部仏印進駐」という形で実行した。
これはアメリカの安全保障上、また援蒋ルートの分断に対する更なる警戒心を呼び起こし、より強固な対日制裁を生じさせた。 在米日本資産凍結と石油対日全面輸出禁止である。
北部仏印進駐におけるアメリカの反応になにも感じず、対日全面禁輸に至って初めて感じたと思える「日本軍務官僚の驚き」こそが驚きである。
futsuin
:/  |
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| 【海軍軍務官僚】 |
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「南仏印に手をつけるとアメリカがあんなに怒るという読みがなかったです。 そして私も南部仏印まではいいと思っていたんです。よかろうと思っていたんです。根拠のない確信でした。 私はだれからも、外務省の意見も聞いたわけではない。 何となくみんなそう思っていたんじゃないですか。南部仏印ぐらいまではよかろうと。これは申しわけないです。申しわけなかったですよ・・・」 |
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| 【石井陸軍中佐が同志の藤井海軍中佐(↑とは別)について】 |
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あれは(藤井中佐)優秀ですよ。一番優秀。
藤井がいわく
『ええか、これがな(南部仏印進駐)、南進の限界だぞ、これ以上はもう人が何ちゅっても抑えようぜ』 わしは同意や、同意・・・・ |
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| 【石井陸軍中佐】 |
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資産凍結を受けてね、それから、約1週間ばかりに考え通したですよ。 どうしようかと・・・ 夜も昼もうちにおっても役所に出ても、そればっかりを考えた。 そして、もう一滴の油も来なくなりました。 それを確認した上でね、それで、わしは戦争を決意した。
もうこれは戦争よりほかはないと戦争を初めて決意した。 |
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番組より |
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『天皇独白録』 (文藝春秋 1990年12月号 114p) 南部仏印進駐(昭和15年)〔正しくは昭和16年〕 |
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独ソ戦は6月に始つた。連絡会議で南仏印進駐の方針を決定したのは五月〔正しくは六月二十五日〕であったと思ふが七月二日の御前会議では対ソ宣戦論を抑へると共にその代償の意味を含めて南仏印進駐を認めた。・・・・・・
・・・日本が南仏印に進駐すれば、米国は資産を凍結するといふ事は河田〔烈〕大蔵大臣には判ってゐたが当時蔵相は連絡会議に加つてゐなかった為、意見が云へなかった、それに近衛は財政の事は暗いし結局私は軍部の意見しか聞く事が出来なかった、今から考へるとこの仕組みは欠陥があった。(独白録) |
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楽観的事実歪曲から見通しを誤った結果は、いとも簡単な戦争決意である。
昭和16年7月2日、9月6日、11月5日、そして12月1日の4回の御前会議がその後の日本の運命を決定した。
政治責任の負うことのないこうした若手“秀才”軍務官僚によって起案された国策は、上位組織に“若干の修正”を加えられることはあるが、国策と決定され実行された。
そこに政治(輔弼の臣のトップたる総理大臣)の姿は全く見えない。
国運を左右する重大事に統帥の軍部は政治の介入を許さず、また政治も軍のいいなりになにも言わなかったのである。
対米外交交渉の期限もいよいよ迫った10月12日、和戦の決断を迫られた近衛首相は政府の重要閣僚を自宅に呼び、対米戦争への対応を協議、いわゆる荻外荘会談において、近衛は次のように述べた。
「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。(しかし)戦争に私は自信はない。自信ある人にやってもらわねばならん」・・・そして内閣を投げ出すのである。
そして、木戸内大臣と大島企画院総裁(元陸軍中将)は東条を推薦(近衛も承諾)。
東条首相決定に山本五十六は、「近衛もゲテモノ好きだよ」と言ったといわれる。 (松岡洋祐を外務大臣にしたことに対してだったか?)
yomo |
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| 【近衛総理秘書官・牛場冬彦氏へのインタヴュー】 |
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僕はね、近衛さんがもっと、もうだれが反対しようと天皇に会って、ほんとうに気持ちを、ぶちあけたらどうだと・・統帥権というものを何とか一時中止にさせてもらう。 何で(戦争を)やめさすことはできないか、そういうことを言うべきだったと思うですね。 近衛さんに言う勇気がなかったとすりゃ、その点だけですよ、私の不満は・・・・
・・・陛下も戦争をやる気がないのなら、歌(※)を詠まれるかわりに「戦争はやめよう」と一言言われれりゃ、それきりなんですがね・・・。 |
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“四方の海 みな同胞と思ふ世に など荒波の立ち騒ぐらむ”
天皇は御前会議において、戦争への疑問を明治天皇の歌によってあらわしたという。 |
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昭和12年1月、第70議会のハラキリ問答による広田内閣総辞職に続く林内閣(林銑十郎元陸軍大将)の抜き打ち解散による総選挙がおこなわれた。
総選挙は政友会、立憲民政党の圧勝であったが、組閣の大命は民意と異なり青年貴族宰相 ・近衛文麿に下った。
しかし軍部の圧力に屈した近衛近衛内閣において、蘆溝橋事件、日中全面戦争が始まり、三国同盟が結ばれ、南部仏印進駐が行われたのである。
戦後、近衛の自決する勇気は、この時に身命を賭して軍部に対抗する勇気として使うべきではなかったか?
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立憲政治下に於る立憲君主の役割 |
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『天皇独白録』 (文藝春秋 1990年12月号 100p) 張作霖爆死の件(昭〔和〕四?(ママ)年)〔正しくは昭和三年〕 |
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・・そこで田中(総理大臣田中義一)は再ひ〔び〕私のところへやって来て、この問題はうやむやの中に葬りたいという事であった。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った。 こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りであると今は考えてゐるが、とにかくそういうふ云い方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした。もし軍法会議を開いて訊問すれば、河本(張作霖暗殺の首謀者・河本大作大佐)は日本の謀略を全部暴露すると云ったので、軍法会議は取止めと云ふことになったと云ふのである。・・・
・・・この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与える事に決心した。 |
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『天皇独白録』 (文藝春秋 1990年12月号 101p) |
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例へば、かの「リットン」報告書〔昭和六年の満州事変のさいの国連調査団による報告書〕の場合の如き、私は報告書をそのまヽ鵜呑みにして終ふ積りで、牧野、西園寺に相談した処、牧野は賛成したが、西園寺は閣議が、はねつけると決定した以上、之に反対するのは面白くないと云ったので、私は自分の意思を徹することを思い止まったやうな訳である。 田中に対しては、辞表を出さぬかといったのは、「べトー」を行ったのではなく、忠告をしたのであるけれ共、この時以来、閣議決定に対し、意見は云ふが、「べトー」は云はぬ事にした。 |
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「べトー」:君主が大権を持って拒否又は拒絶すること |
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『天皇独白録』 (文藝春秋 1990年12月号 114p) 南部仏印進駐(昭和15年)〔正しくは昭和16年〕 |
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独ソ戦は6月に始つた。連絡会議で南仏印進駐の方針を決定したのは五月〔正しくは六月二十五日〕であったと思ふが七月二日の御前会議では対ソ宣戦論を抑へると共にその代償の意味を含めて南仏印進駐を認めた。・・・・・・
・・・日本が南仏印に進駐すれば、米国は資産を凍結するといふ事は河田〔烈〕大蔵大臣には判ってゐたが当時蔵相は連絡会議に加つてゐなかった為、意見が云へなかった、それに近衛は財政の事は暗いし結局私は軍部の意見しか聞く事が出来なかった、今から考へるとこの仕組みは欠陥があった。 |
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| 【近衛総理秘書官・牛場冬彦氏へのインタヴュー】 |
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僕はね、近衛さんがもっと、もうだれが反対しようと天皇に会って、ほんとうに気持ちを、ぶちあけたらどうだと・・統帥権というものを何とか一時中止にさせてもらう。 何で(戦争を)やめさすことはできないか、そういうことを言うべきだったと思うですね。 近衛さんに言う勇気がなかったとすりゃ、その点だけですよ、私の不満は・・・・
・・・陛下も戦争をやる気がないのなら、歌(※)を詠まれるかわりに「戦争はやめよう」と一言言われれりゃ、それきりなんですがね・・・。
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“四方の海 みな同胞と思ふ世に など荒波の立ち騒ぐらむ”
天皇は御前会議において、戦争への疑問を明治天皇の歌によってあらわしたという。 |
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『天皇独白録』 (文藝春秋 1990年12月号 144〜145p) 結論 |
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開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異なる所はない。 終戦の際は、然し乍ら、之とは事情を異にし、廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のまヽその裁断を私に求めたのである。 そこで私は、国家、民族の為に私が是なりと信んずる所に依て、事を裁いたのである。 今から回顧すると、最初の私の考えは正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時に於てすら無条件降伏に対し「クーデター」様のものが起つた位だから、若し開戦の閣議決定に対し私が「べトー」を行つたとしたらば、一体どうなつたであろうか。 日本が多年練成を積んだ陸海軍の精鋭を持ち乍ら愈ヽといふ時に蹶起を許さぬとしたらば、時のたつにつれて、段々石油は無くなって、艦隊は動けなくなる、・・・・・・
・・・・開戦当時に於る日本の将来の見透しは、斯くの如き有様であつたのだから、私が若し開戦の決定に対して「べトー」したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行なわれ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になつ〔た〕であろうと思ふ。 |
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3daime
data
明治の先人の努力と時代の幸運とのもとで、栄光の時代の国をリードする立場を与えられながら、権力保持のための政治介入と暗闘にうつつを抜かした昭和の軍務官僚は、アジア人でありながら、アジアの信頼を得ることなく武力でアジアの盟主たらんと無為な侵略を重ね、そしてもののみごとに“売り家と唐様で書く三代目”となった。
遅れて来た帝国主義、日本の力づくの共栄圏経営の拙劣さは大帝国主義国家、イギリス・アメリカの巧みさの足元にも及ぶものではなく、大日本帝国などと呼ぶに値するものではない。
日清・日露において奇跡の勝利を収めた大帝国を自分たちが動かしているという幻想に思い上がった、秀才にして“優秀”なる軍務官僚と、そこに口も挟めず、無責任に任せっぱなしにしてきた政治・・・対米20対1の生産力の差を示されても真剣に受け止めず、南方資源を輸送する船舶造船予測と被害予測にも病的な楽観的観測・・・・
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| 東京の陸軍省でも秘密裏に日米の国力調査が行われていた。調査を担当したのは陸軍省戦争経済研究班。ここには多くの民間の学者も加わっていた。責任者は秋丸次朗中佐であった。 |
| 【秋丸次朗氏談】 |
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大体、1対20という、1対20というような見当ですかね。
我々の調査も、新庄さんの調査も合わせて考えて、そして、その戦争指導班にいろいろと意見を述べたんですけどね。
いる人はみんな居眠りしとったです。聞いていない。 |
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番組より |
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「戦争目的」もはっきりしないまま戦争決意に向かう御前会議。
国民の誰もがその存在すら知らなかった御前会議 (東京裁判における木戸内大臣の証言・番組より) は8月15日に向けて一気に突っ走り始めた・・・ |

艦船建造予測と被害予測 |
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アメリカに石油依存をしながら、アメリカと協調しようとせず、アメリカの不信を呼び起こした歴史の画像は、戦後60年にわたり憲法問題を解釈でお茶を濁し、アメリカに防衛を依存しながら、アメリカ追随をそしる国民意識も連想させる。
そこには戦前は「感情的」に国策を煽り、戦後は「感傷的」戦争論に終始して、幻の平和を追いつづける日本のマスコミの介在も感じさせる。
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昭和16年10月17日 朝日新聞朝刊 「国民の覚悟は出来ている。ひじきの塩漬で国難に処せんとする 決意はすでに立っている。待つところは『進め』の大号令のみ。」 |
| (別資料による) |
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資源のない日本の開戦決意は自存自衛の為であったとする論もある。しかし、国際協調なしに資源の枯渇を招いたのは、侵略のための軍事費拡大が原因ではなかったか。東京裁判におけるパル判事は「ハルノートのようなものを受け止めれば、日本のみならずモナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも、米国に対して弌をとって立ち上がったであろう」と述べたが、国力・軍事力の科学的数学的事実を無視して、国民を道ずれにした清水の舞台からの飛び降りるかのような、国家の自殺的戦争国策を決定したのだ。
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昭和17年7月 ガンジーの日本への手紙
「すべての日本人へ」
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あなた方が世界の強国と肩を並べたいというのは立派な野心である。
しかし、中国を侵略したり、ドイツやイタリヤと同盟することは、その野心は度をこしたもので、正当なことではない。
もしあなた方がイギリスが印度から退却したら、印度に入ろうという考えを実行するならば、わが印度は全力を挙げて、かならずあなた方に抵抗する。
われわれはあなた方を最後には道徳的崩壊に終わるに違いない道、いや、人間をロボットにしてしまうに違いない道から正しい道に引き戻したい・・・ |
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記録映画 小林正樹監督「東京裁判」より
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ハルノートを手交される以前にアメリカとの関係を改善できたポイントはどこか?
また、ハルノート受諾か戦争か以外の第3の道はなかったのだろうか・・・
さまざまな歴史のI Fを考えさせてくれる。
番組は昭和16年の4回、10時間の御前会議によってその後3年9カ月におよぶ太平洋戦争に突入し、その合わせて10時間余りの会議が、その後の日本の運命を大きく変えた・・・というフィナーレで終わる。
見ごたえのあるNHKスペシャルの名作としてビデオ化されていないのが不思議である。
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石井陸軍中佐 |
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・・・ハルノートを受けて、中国から撤兵はつぎは満州からの撤兵になる。しかしこれに賛成する日本人はいない・・・もう戦争しかない
・・・問題は・・・こっちがすめば次はこちらという・・・侵略思想があったんですよ・・ |
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番組より NHK番組
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