鮮やかな花が供えられていた。その墓に眠るのは、岡山城を築いた戦国武将・宇喜多秀家だ。没後三百五十年余の歳月を経て、なお大切にされていることに驚いた。
東京から三百キロほど南、伊豆諸島南部の八丈島にある。関ケ原の戦いで敗れて流刑となって過ごした地だ。墓は一般の墓地の中にあり、近所の人が日常的に花を供えているという。
江戸時代に流刑地となった八丈島の流人第一号が秀家だった。島では流人も住民に溶け込んですごしたという。薩摩から芋焼酎の製法がもたらされるなど、流人は新しい文化を運んでくる役割も担っていた。
島での秀家の生活は、近年徐々に解明されてきた。遺訓では、関ケ原の戦いで寝返った武将らを批判し、豊臣秀吉への信義を貫いた自分の生き方を誇ったという。戦国武将として長寿の八十三歳まで生き、心穏やかな人生をまっとうしたともみられる。島での秀家の生き方は興味深いところだろう。
昨秋、岡山県内から秀家ゆかりの松を植樹するなど、八丈島と岡山の交流が深まってきた。今月十七、十八日には島の八丈町の行政・議会代表が、宇喜多家ゆかりの地である瀬戸内市や岡山市を訪れる予定にしている。
秀家や岡山に対する島の人々のまなざしは温かい。時空を超えた、かけがえのない縁だ。