2006/12/25(月) 20:39:50 [海外便]

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パラオの桜と英霊 (特集)

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紺碧の空と海に囲まれたパラオ
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南海の親日国家

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日本の国旗を模したパラオの国旗

 パラオ共和国(Republic of Palau)(現地では「ベラウ」と呼称)は、南北およそ640Kmに渡って散在する200以上の島々を統括した国家である。このうち9島のみに人が居住し、残りの島々は無人島である。人口は 20,044人(2006年 太平洋共同体事務局)。人口の7割がパラオ人で、残り大半はフィリピン人で占められ、支那、米国、日本などからの移住民も含まれている。
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パラオが親日国家である事由

 国内の言語は、基本的にパラオ語と英語だが、現地の年配の人々には、戦時中に日本語による教育を受けていたために流暢な日本語を話す人が多い。日本語がそのままパラオ語として使われている言葉が非常に多い。たとえば「はい」「扇風機」「大丈夫」「浴衣」「どうぞ」「大統領」等々。

 パラオは、第一次世界大戦の戦後処理、そのためのパリ講和会議によって、日本(大日本帝国)の委任統治領になった。

 当時の様子は、「コロールには南洋庁の支庁を置かれ、パラオは周辺諸島における統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住(最盛期には2万5千人ほどの日本人が居住)した。このため、学校や病院・道路など各種インフラの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていった。また日本統治の開始にともないドイツ語から日本語による学校教育が先住民に対しても行われるようになった」(
Wikpedia)とある。


 日本統治の時代は、現地民に愛された時代であった。礼儀正しさと節度、道徳心。他を思いやる心。それらの悉(ことごと)くが、今日の民族性に引き継がれ、反映されている。現地を訪れた研究者によれば、パラオの国定教科書では8パーセント近くを日本統治時代に充てており、「日の丸の旗のもとに」との題名が付けられた章もあるそうだ。

 日本の統治時代は、パラオの歴史の中で最も輝かしく、現地の人々の心に残る時代であった。そして、パラオで今も語り継がれる「ペリリュー島の戦闘」があった。

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現地民間人に死者を出さなかった戦い

 パラオの南端部にペリリュー島がある。面積は、20平方キロメートルほどの珊瑚礁の島だが、フィリピン防衛のために重要な拠点であった。その島に、昭和19年(1944年)9月、米軍が攻撃を開始。米軍の戦力は圧倒的に勝っていた。日本軍は、守備隊が約1万2000名。だが、米軍が制海権を制空権を握り、15倍近くの兵力を投入。航空機、戦車、重火器のいずれの面でも、100倍、1000倍の軍事力をもって同島の攻撃に臨んだのである。

 米軍は「攻撃は2、3日で終了」と予測。退路を断たれた日本軍は、武器と弾薬、食料の補給路は無かった。いよいよ、9月12日に始まった米軍の攻撃。だが、日本軍はこれを持久戦に持ち込み、73日間にわたってペリリュー島を勇敢に守ったのである。10月30日には、攻撃に臨んだ「米軍海兵第1師団を全滅判定(損失60%)に追い込み、陸軍第81師団へ交代する場面も現れた」(Wikipedia)。米軍は日本軍に倍する犠牲者を出したのであった。

 しかし、戦闘が終局に達した11月24日。生き残った将兵はわずか60人足らずになっていたという。「ついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底をついたため、司令部は玉砕を決定、地区隊長中川州男大佐と師団派遣参謀村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による「万歳突撃」が行われた」(Wikipedia)。

 壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、このペリリュー島の民間人には1人も犠牲者が出なかった。戦局を鑑(かんが)みた司令部の配慮により、すべての島民のパラオ本島他への移住をほぼ完了させていたからである。残った島民も疎開させるため、戦火をかいくぐるように本島へと送り出している。

 「毎日新聞」(記載年月日不肖)掲載と伝えられるが、この時の様子を記した「コラム」がネットで紹介されている。「毎日新聞」らしからぬ感動的な「コラム」だが、このような状況が実際に、随所にあったと感じ、小稿に紹介する。

遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」 
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。


やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。


それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」  
日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…


船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。


しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。


(以上、引用)
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 戦闘が終わったペリリュー島は、米軍の激しい爆撃で変形していた。この珊瑚の島に戻った島民たちは、累々と散らばる日本兵の遺体に涙を流し、日本兵の墓地を作った。この墓地は島民の手によって今も整然と維持され、その英霊の遺徳が讃えられている。

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兵士の遺徳を讃える歌

 パラオに1981年に憲法が制定・発布された。この時に「日章旗」を模した国旗とともに、ペリリュー兵士の歌も作られた。ペリリュー兵士とは日本兵を意味している。題して「ペ島の桜を讃える歌」。国のために尊い命をささげ、死しても島民を守り抜いた日本兵士を桜に譬(たと)え、その遺徳への感謝をつづった歌である。

 作詞者はオキヤマ・トヨミ氏、ショージ・シゲオ氏。日本人ではなく、現地の人々である。日本を慕って止まない心。それが国民の8割以上が、姓名のいずれかに日本名を名乗る習慣となった。両氏の名前は、その事実を物語っている。

  一
  激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
  オレンジ浜を血で染めた
  強兵(つわもの)たちはみな散って 
  ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる


  ニ
  小さな異国のこの島を
  死んでも守ると誓いつつ
  山なす敵を迎え撃ち 
  弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない


  三
  将兵(ヘいし)は桜を叫びつつ
  これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ
  別れの桜に意味深し


  四
  日本の桜は春いちど
  見事に咲いて明日(あす)は散る
  ペ島(じま)の桜は散り散りに
  玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に


  五
  今守備勇士(もののふ)の姿なく
  残りし洞窟(じんち)の夢の跡
  古いペ島(じま)の習慣で
  我等勇士の霊魂(たま)守る 

  六
  平和と自由の尊さを
  身を鴻(こな)にしてこの島に
  教えて散りし桜花
  今では平和が甦る

  七
  どうぞ再びペリリューヘ
  時なし桜花(さくら)の花びらは
  椰子の木陰で待ち佗(わび)し
  あつい涙がこみあげる    


  八
  戦友遺族の皆さまに
  永遠(いついつ)までもかわりなく
  必ず我等は待ち望む
  桜とともに皆さまを


(以上、詩文引用)
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 パラオには桜が無い。だが、現地の人々は、未だ見ぬ桜の美しさを日本人の美徳と尊敬し、憧れの念を桜に譬えて慕っている。

 つぼみが膨らむ開花前の健気。咲き始める華麗さ。満開の美しさ。そして、いさぎよく散り行く誉れ。

 今も珊瑚の島に眠る英霊のご冥福を心よりお祈し、小稿を捧げる。
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【筆者記】

 パラオの国旗は、太平洋に浮かぶ月を象(かたちど)っている。なぜ「月」なのか。現地を訪れた研究者(筆者の知人)によれば、太陽(日本)があってこそ「月の輝きがある」との意味が込められているとのことだ。中心から微妙にズレている。これは「同じでは日本に失礼だから」とわざと中心をはずした、との有名なエピソードがある。

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パラオの国旗成立の理由(現地 Clickで拡大)

 一部の他国が、捏造をもとにいかに非難しようとも、建国以来、幾多の先人、幾多の英霊がもたらした恩恵によって、日本の今日がある。先人、英霊が自らの命と引き換えに、守り育てた国土に我々は生まれ、生活している。

 そして、我々が今守るべきもの、後代に伝えるべきものは何か。その明確なる答えを、先人、英霊は教えている。
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2006/12/25(月) 08:51:32 [台湾]

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祝・台湾新幹線開通!
「武士道」は時代を超えて


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台湾新幹線営業許可へ 元日にも開通
【台北24日遠矢浩司】台湾の行政院交通部(交通省)は24日、工事遅れなどで開業が3度延期されていた台湾高速鉄道(台湾新幹線)について「試運転の結果、必要な安全水準に達した」として営業運転許可を与えると発表した。 台湾メディアによると、交通部の営業許可は3日以内に出る見込みで、事業会社の台湾高速鉄路は1週間程度の試験営業を経た後、1月1日にも正式な営業運転を開始する。同社は今月7日に開通式典を実施する予定だったが、試運転中にトラブルが相次ぎ式典は中止。交通部が1カ月無事故での試運転を義務付けていた。 同鉄道は日本の新幹線システムを採用、台北‐高雄間345キロを最短90分で結ぶ。当初は台北郊外の板橋‐高雄間を1日19往復する。2006年12月25日付 西日本新聞朝刊  写真は台湾新幹線(NBSI)。
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台湾インフラの父・新渡戸稲造 

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新渡戸稲造(Wikipedia)

 1895年に日清戦争の敗北が決定的になった清朝は、戦争の早期講和を目指して同年4月17日に日本との間で下関条約を締結。同政府は、日本が求めた台湾地域(台湾島と澎湖諸島)の割譲を承認。台湾は日本の統治領となった。

 後藤新平が民政長官として就任。後藤は、台湾財政確立のために産業振興が必要と考え、郷里・岩手県の後輩である新渡戸稲造を招集。新渡戸が『武士道』を刊行した翌年であった。

 赴任後、新渡戸は、台湾の自然環境を綿密に調査研究。糖業の改良に目をつけた。ハワイからさとうきびを導入して品種改良を重ねた。併せて、搾糖機械の技術改良を進め、台湾における製糖業の近代化を推し進めたのである。

 これによって零細業種であった「糖」は、地域に根ざした産業として発展。次第に近代的な製糖産業へと脱皮し、台湾製糖株式会社をはじめ大規模な製糖会社が次々と設立された。製糖の確立で経済基盤も安定。この新渡戸の貢献が、日本統治時代を通じ、台湾の交通、産業、教育等のインフラ整備が進む下地となった。
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名著「武士道」

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「武士道」

新渡戸 稲造 (著), 矢内原 忠雄 (翻訳) 
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書籍の概要

 「武士道はその表徴たる桜花と同じく,日本の土地に固有の花である」.こう述べる新渡戸(一八六二―一九三三)は,武士道の淵源・特質,民衆への感化を考察し,武士道がいかにして日本の精神的土壌に開花結実したかを説き明かす.「太平洋の懸橋」たらんと志した人にふさわしく,その論議は常に世界的コンテクストの中で展開される。(紹介より)
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名著を手にして

 英文『武士道』(BUSHIDO: The Soul of Japan(初版)が刊行されたのは1990年(明治33年)。原版は完璧な英語で記されている。

 日本統治下の台湾は、新渡戸の「製糖」経済を土台にして、工業化の時代を迎えることになった。紆余曲折や「日本統治」に対するさまざまな解釈があるが、戦後の台湾の経済成長には、50年に渡る台湾時代の基礎が確かに存在していたのである。

 戦後間もなく、台湾の経済が貧窮に面した時代も、製糖産業が、最大の外貨獲得の手段として経済を支えた事実も、新渡戸稲造の功績によると指摘してよい。

 産経新聞(2005年8月5日)に、産経新聞と会見した李登輝氏(前台湾総統)は次のように語っている。「日本統治は台湾にとって大きな転換期。日本が残した教育と人材は、戦後の台湾工業化の基礎になった」。

 また、戦後の台湾について、「日本人は蒋元総統の『以徳報怨(徳をもって怨みに報いる)』との言葉と戦後 賠償の放棄に感謝するが、(国民党政権が戦後)台湾で接収した日本時代の資産は、工業インフラや不動産など、賠償以上の価値があった」と述べている。
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【筆者記】

 台湾の新幹線開通のニュースに、思い出す先人の名前は、新渡戸稲造である。台湾の特にシニア世代では、新渡戸稲造を恩人、インフラの父と讃える人は多い。新渡戸が身をもって示した誠実で剛直な武士道の精神は、今も台湾の人々の心に脈々と生き続けているのである。
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