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■■ Japan On the Globe(361)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 国柄探訪: 麗しの島の幸福な日々 もしもタイムマシンで元に戻れるなら、もう一度 日本時代に戻りたいです。 ■■■■ H16.09.12 ■■ 32,868 Copies ■■ 1,299,997 Views■ ■1.助けてくれた日本人の将校さん■ 昭和20年の春、台湾南部を走る満員の汽車のステップに立 ち、振り落とされまいと必死に鉄棒に掴まっている12、3歳 の少女がいた。名は楊素秋(日本名:弘山貴美子)さん。台南 第一高等女学校(4年生の旧制中学)を受験するための参考書 などを詰めたリュックを背負い、3日分の米と野菜を入れた布 袋2つが両腕に痛いほど食い込んでくる。 隣に立っていた20歳ぐらいの日本人の将校さんが心配そう に「大丈夫ですか」と聞くが、もう返事をする気力も残ってい なかった。 将校さんが「その荷物を捨てなさい。早く捨てなさい」と言っ た。ちょうど汽車は鉄橋にさしかかった所だった。鉄棒から片 方の手を離して荷物を捨てた時、ゴーと鉄橋に渦巻く列車の轟 音にハッとした楊さんは、左足をステップから外してしまった。 「助けて」と叫ぼうとしたが、目の前が真っ暗になって、意識 を失ってしまった。 遠くで聞こえていた大勢のざわめきが、段々と近くなってき た。誰かが頬を叩いている。「気の毒にね。いたいけな子供が。 顔が真っ青だよ。」「いやぁ、その軍人さんがいなかったら、 この子は川の中だったな。」 気がついたら、楊さんは知らないおばさんの膝の上に抱かれ ていた。おばさんはニコニコしながら「ああ、よかった。息を 吹き返さなかったら、どうしようかと心配していたのよ」と、 楊さんのおかっぱ頭を撫でた。台南駅につくと、おばさんは楊 さんを抱いて窓から外に出してくれた。窓の外には、あの将校 さんが待ち構えていて、楊さんを抱き降ろした。 ■2.他の人に尽くす力も与えてくれた■ 汽車のステップの上に立ち、自分の荷物を抱えて立っている だけでも大変なのに、その将校さんは気を失って転落しかけた 楊さんをとっさに掴み、引っ張り上げてくれたのだった。下手 をすれば自分も一緒に落ちてしまうかもしれないのに。 「あのう、、、お名前を教えていただけますか?」と楊さんが 聞くと、将校さんはプッと吹き出し、「ハハハ、子供のくせに。 いいから気をつけて帰るんだよ」と将校さんは手を振って、汽 車に乗り込んだ。爽やかな笑顔だった。汽車が遠くかすんで見 えなくなるまで、楊さんはそこに立ちすくんでいた。将校さん への感謝を繰り返し、武運長久を祈りながら。 楊さんは、その後、名前だけでも聞いておけばよかった、と 50年以上も悔やむことになる。生きている間にもう一度お会 いして、お礼を言いたい、、、 そんな思いを抱きつつ、楊さんは戦後、成人してから小児麻 痺の子供10人と健常者の子供20人を預かって育てあげた。 あの将校さんは自分の命を助けてくれただけでなく、他の人に 尽くす力も与えてくれたのだった。 ■3.清潔で治安の良い街■ 楊さんは昭和7(1932)年、台南市に生まれた。父は台北工業 高校を首席で卒業し、台湾電力に勤めていた。多くの日本人の 部下を抱え、彼らから尊敬されていた。日本統治下に生まれた 父親は完全な日本人になりきっており、楊さんが生まれてから は家庭でも日本語で通した。ただ母親は日本語が片言しかでき なかったので、楊さんは母親とは台湾語で話した。 父親は銭湯が好きで、よく楊さんの手を引きながら、連れて 行った。道すがら「お手々つないで」や「夕焼け小やけ」など 日本の歌を教えてくれた。 日本時代の町の特徴は、とにかく清潔なことだった。朝早く 起きて、戸を開け、まず家の掃除。その後、家の前の道を掃く のだが、隣の家がまだ起きてなかったら、そちらも掃いてあげ る。そうすると、今度は隣の家が翌朝はもっと早く起きて、こ ちらの分まで掃いてくれるのだった。 道路脇の側溝を掃除するおじさん、散水車、除草の車なども 朝早くやってくる。こういう作業員はみな政府に雇われていた。 かつては「瘴癘(しょうれい、風土病)の地」と呼ばれた台湾 の衛生状態を改善するに日本政府は力を入れていたのである[a]。 治安も良かった。今の台湾では窓に鉄格子をしているが、日 本時代には鉄格子のない家で、戸締まりなどしなくとも安心し て眠ることができた。道ばたで物を拾っても、自分のものにす ることもなかった。楊さんの家の前には派出所があり、日本人 のお巡りさんがいた。楊さんが時々落とし物を拾って届けると、 「君、また拾ってきたのか」と褒めてくれた。 ■4.日本人のお隣さんたち■ 楊さんの家の周囲には、日本人がたくさん住んでいた。お向 かいの金子さん、裏には榊原さん、中学教師の広瀬先生、台南 の法院長を務めていた緒方さん。 このあたりで電話があるのは楊さんの家だけだったので、ご 近所あてに電話があると、楊さんは走って「電話ですよ」と呼 びに行った。呼ばれた日本人の家では、後でかならずお寿司な どを持ってお礼にきた。 また近所の日本人は、よくおはぎをたくさん作っては、親子 揃って、楊さんの家に遊びに来た。楊さんの家でもお返しに台 湾餅などを作った。それを届けるのも楊さんの役目だった。 台湾にも隣組の制度があり、日本人と台湾人の区別なく構成 されていた。朝は、幾つかの隣組が集まり、組長さんが交代で 号令をかけてラジオ体操をする。 天皇誕生日などの祝日には、町中の家が日の丸を揚げていた。 台湾は即ち日本であり、自分たちは「台湾に住んでいる日本人」 としか思っていなかった。 ■5.手を取って家まで帰ってくれた宮本先生■ 楊さんが小学校に入って、最初の担任となったのは宮本先生 という美人で優しい先生だった。楊さんは入学したその日から、 宮本先生が大好きになった。 学校の裏手にある牧場に連れて行ってくれた事があった。先 生が「皆さんは誰のおっぱいを飲んで大きくなりましたか」と 聞くと、お父さん子の楊さんは威勢良く手を挙げて「はい、私 はお父さんのおっぱいで大きくなりました」と答えた。皆に笑 われたので、楊さんは泣き出してしまった。 その日の放課後、宮本先生は楊さんの手をとって家まで一緒 に連れてきてくれ、父親に成り行きを話した。父親は嬉しそう に「ワッハッハ」と笑った。楊さんは、先生が一緒に帰ってく れるだけで嬉しくて、泣いたことなどケロッと忘れてしまった。 楊さんが落とし物を拾って届けると、宮本先生はまた楊さん の手を引いて家まで来てくれて、父親に色々、楊さんのことを 褒めてくれた。父親は目尻を下げて聞いていた。宮本先生に限 らず、当時の先生方は生徒に自分の子供のように接し、また親 とも緊密な信頼関係を築いていた。 ■6.一緒に遊んでくれた小谷先生■ 3年生の時の担任は、小谷先生という男の先生で、楊さんの 家の裏に住んでいた。楊さんは放課後、家に鞄を投げ出すと、 小谷先生の家に遊びに行くのだった。先生はお話しをしてくれ たり、習字を教えてくれたりした。 台湾神社や開山神社のお祭りや夜市があると、先生は楊さん たちを連れて行ってくれた。浴衣に着替えた先生が迎えにくる と、「わー」と先生の腕にぶる下がる。友達が「私も私も」と 言うので、かわりばんこにぶる下がった。そして神社に行って は、金魚すくいをしたり、お菓子を食べたりするのが、楽しく て仕方がなかった。 授業では、楊さんは修身の時間が大好きだった。先生は偉人 伝の本を読んでくれたり、紙芝居を見せてくれたりした。楠木 正成、二宮金次郎、宮本武蔵から、野口英世、東郷元帥、乃木 大将、そしてエジソンやキューリー夫人、、、これらの人物が 艱難辛苦を乗り越えて、立派な人になった、という話に、楊さ んは感動して、自分もそうなりたい、と思った。 先生は「我が国には昔こういう偉い人がいた」という具合に 教えてくれた。「日本には」とは言わなかった。だから楊さん も「我が国」と覚えてきた。 毎朝の朝会では明治天皇の御製(御歌)などを朗詠するので、 楊さんたちも自然に覚えた。その中にはこういう御歌があった。 新高(にいたか)の山のふもとの民草も茂りまさると聞く ぞうれしき 新高とは台湾の代名詞である。明治天皇が日本人と同様に、 台湾の民をご自分の民として思って、その繁栄を喜ばれている 事がよく分かった。 ■7.自分の国の兵隊さんは、こんなに素晴らしい■ 台南には日本陸軍の第2歩兵連隊が駐留しており、年に何回 かある記念日には閲兵式があった。その行進の歩調は、イチニ、 イチニとピッタリ揃っていて、沿道を埋め尽くした人々が、み な固唾を呑んで見とれていた。 ある日、演習があって、楊さんの家の前の木陰で休んでいた 兵隊さんが立ち上がろうとした拍子に銃を落としてしまった。 上官がそれを見て、兵隊さんに鼻血が出るまでビンタを張った。 ぶたれながらも兵隊さんは気を付けをしたまま、敬礼して「あ りがとうございました」と言うだけだった。その敬礼は崩れず、 実に格好良かった。 その様子を息をこらして見ていた楊さんは、子供心にも軍の 厳しさを感じ取った。兵隊さんでだらしのない人は一人も見た ことがなかった。自分の国の兵隊さんは、こんなに素晴らしい のだと、楊さんたちは誇りにしていた。 ■8.兵隊さんに肩車■ 昭和18年、楊さんが5年生の時には、台南市でも米軍の爆 撃が激しくなり、一家で祖母のいる大社村という田舎に疎開し た。そこにも日本の若い兵隊さんたちがおり、日本語の話せる 楊さん一家に、自然に遊びに来るようになった。 楊さんの母親は兵隊さんたちを自分の子供のように可愛がっ て、おやつやご飯をたくさん作って、たらふく食べさせた。満 腹になって帰って行く兵隊さんたちには「明日もおいで」と声 をかけた。 兵隊さんたちは、お礼代わりに、水汲みを手伝ってくれたり、 また支給品の三角巾や薬を使わずに持ってきてくれた。中には 自分が使っていた立派な万年筆を楊さんの父親にあげようとし て断られると、「お願いですから使って下さい」と半ば強引に 置いていった兵隊さんもいた。 兵隊さんたちはお互いの間では「おい、こら」などと言って いるのに、楊さんに向かうと「喜美ちゃーん」とニコニコして いた。子供にはとても優しかったのだ。 軍隊では時々映画を見せてくれるので、そういう時は「喜美 ちゃーん、映画に行かんか」と誘ってくれる。楊さんは「はー い」と言って元気に家を飛び出す。5年生で小さな楊さんは周 りが皆兵隊さんばかりで画面が見えないので、いつも肩車して もらうのだった。 ■9.やってきた蒋介石の軍隊■ 楊さんの幸福な日々も、日本の敗戦とともに終わりを告げた。 その最初のショックは、中国から蒋介石の軍が上陸した時だっ た。シナ兵は裸足でボロボロの服を着て、天秤棒に鍋と七輪を ぶら下げ、こうもり傘を担いでだらだらと歩いていた。手で鼻 をかんだり、痰を吐いている人もいて、まるで乞食の行列だっ た。こんな兵隊がやってきて、台湾はどうなるのか、と心配に なった。その心配は現実のものとなった。今まで戸締まりなど しなくても安心して寝ていたのに、家の自転車が盗まれてしまっ た。 終戦2年目の1947(昭和22)年2月28日には、蒋介石政府 の横暴に怒った民衆が台湾全土で暴動を起こした。228事件 である。そのきっかけを作ったのは、中国人の密輸タバコ取締 官が台湾人の女性の所持金を取りあげ、銃で殴っているのを、 日本海軍から戻ったばかりの若者が守ろうとしたことだった。 この暴動を鎮圧するために、全土で3万人近くの台湾人が殺 された。楊さんの父方の親戚の湯(とう)さんも、大衆の見守 る中で銃殺された。学生たちの命を守ろうと、学生連盟の名簿 を役所から持ち出して燃やしたからである。湯さんの奥さんが 夫の亡骸に毛布をかけてやろうとすると、中国兵はその手を払 いのけて、銃剣で死体を突っついた。中学2年生の楊さんには、 あまりにも衝撃的な光景だった。[b] ■10.あの平和で穏やかな時代に戻りたい■ 蒋介石政権の戒厳令は40年間も続いた。そしてようやく 「中華民国」から脱却して「台湾」への道を歩み始めたのは、 「私は二十二歳まで日本人だった」と語る前総統・李登輝の時 代になってからである。[c] 日本時代は、人民は政府を信頼していました。そして、 それに応えるかのように政府も人民の生活を良くしてあげ たいという気持ちを表していました。また、兵隊さんも、 先生方も、お巡りさんも良くしてくれ、町中至る所にいい 雰囲気が溢れていました。 もしもタイムマシンで元に戻れるなら、もう一度日本時 代に戻りたいです。あの平和で穏やかな時代に。 台湾は別名をフォルモサともいう。16世紀にやってきたポ ルトガル人が、緑溢れるその美しさに感嘆して「フォルモサ (麗しの島)」と呼んだのである。その麗しの島で、かつて台 湾人と日本人が力を合わせて幸福な時代を築いた。それはまた 日本人の目指す理想の社会でもあったろう。 日本時代とは私にとって、素晴らしい時代であり、私の 人生の道標をこしらえてくれたと言っても過言ではありま せん。私の向かうべき人生の指針を与えてくれました。 私の心の中には、いつもとても綺麗な日の丸の旗が翩翻 (へんぽん)とはためいています。[1,p272] (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(145) 台湾の「育ての親」、後藤新平 医学者・後藤新平は「生物学の法則」によって台湾の健全な 成長を図った。 b. JOG(062) 台湾史に見る近代化の条件 李登輝総統:植民地というのはトクな面がある。その本国の いちばんいい所が植民地で展開されるからだ。 c. JOG(061) 李登輝総統の志 漢民族5千年の歴史で初の自由選挙で選ばれた台湾総統。 「世界でももっとも教養の高く、かつ名利の欲の薄い元首(司 馬遼太郎)」 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. 楊素秋、「日本人はとても素敵だった」★★★、桜の花出版、 H15 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「麗しの島の幸福な日々」について 鬼軍曹さんより 「麗しの島の幸福な日々」を読み不覚にも涙腺を刺激されてし まいました。いつも仕事の合間に読むのですが、職場で泣くわ けもいかないのでそこはグッと堪えましたが。 平和な日本統治時代と蒋介石ら乗り込んできた後とのギャッ プを実体験で知る人は皆御高齢になりつつあると思いますが、 当時を知る親日家の方々が御存命のうちにこのような逸話を広 く世に知らしめたいと思いました。同じく日本統治下にあった パラオでも似たような話を聞きます。(お隣の国だけは正反対 の事しか言いませんが、、、) 日本統治は戦後教育の言う「侵略」とは随分とかけ離れてい たものと実感する逸話でした。 ■ 編集長・伊勢雅臣より こういう事実、実体験を大切にして、歴史を学びたいですね。© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.