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第42回 日台東京フォーラム

日本人に知ってほしい台湾史


  第42回日台東京フォーラムは、99年10月18日、伊達物産アジア研究所会議室で開催されました。奇美実業の許文龍会長が3回にわたって『中華週報』に連載した「日本人に知らせたいもうひとつの台湾史」の内容を中心に青山登会員が報告。日本の植民地時代について、これほどまでの高い評価を、われわれはどう受け止めたらいいのか。
参加者=日本7名、計7名


発題=青山登会員・中近東センター

  今日は奇美実業の会長の許文龍さんの話ですが、ABSという樹脂会社の会長をされている方で、世界一の生産量です。プラスチックは70年代の後半からあまりもうかる商売ではなくなってきているのに、事業を大きくしてきた。それで、日本人が「奇美」詣でをするようになった。今年から富士通と組んで液晶の生産をするそうです。この方が、人民の立場から日本統治下の台湾を語ったものですが、驚き以外の何物でもない。

  植民地を統治したことは悪いことをしたことだ、という気持ちを我々は持っている。日本を評価するという外国人の話を聞いても、「そうは言っても悪いことしたんだ」という気持ちがある。私はもう、マインド・コントロールがとけたから、「おっしゃる通り日本はいいことをした」と思っていますが、それは何回か読んでからで、最初は、「そこまで言えるかなあ」という気持ちがあった。

  許会長は、「日本人と台湾の若者に今伝えなければ、この台湾史は永遠に埋もれてしまう」と言っています。台湾に行くと、「台湾が今あるのは日本のおかげなんだ」とおっしゃる方がいる。国民党政権がずっと続いていたら、この証言はなくなっていたでしょう。ところが、李登輝さんが民主化してこういう声が出てくるようになった。これは日本人に与えられた貴重な機会だと思います。


「日本人であったことを誇りにしている」

  「日本が植民地時代について悪いことをしました」と言うのは結構ですが、「台湾については中国が自由にしてください」と言うばかな日本人がいっぱいいる。こういう人たちの声を聞くと、裏切ってはいけないと思うようになる。日本人だったことを誇りに思っている人をなぜ日本人が裏切るのか。

  許会長のスポンサーで、後藤新平シンポジウムを台湾で開いています。そこで、日本の学者も招いてやったところ、「戦前は悪いことをしました」と謝ったそうです。すると台湾の人が立ちあがって、「戦前の謝罪なんかしなくていいですよ。それより、戦後50年間、日本が台湾に対してかなり冷たくしてきたのに、台湾の人が日本人に好意を抱いていることを感謝してください」と言ったそうです。

  許文龍さんは、第4回日経アジア賞を6月に受賞しています。受賞の時の講演で、「私は当時日本であった台湾の南部に生まれました。太平洋戦争が終結しましたので、その時突然、台湾人になりました」と言っています。今年の『正論』8月号でも出ていて、最近、日本のマスコミにも登場されています。「李登輝総統や蔡焜燦さんや私たちは日本人であったことを誇りにしています」と言っています。蔡焜燦さんは司馬遼太郎が『台湾紀行』を書いた時にお世話した人です。また、「本来の日本が過去に対して自信を喪失していて、あの戦争で命を投げ出した人々に対して申し訳ない」と言う。

  横路にそれましたが、今日の話は、1993年の2月から8月に、社員に対して奇美実業の歴史を話されたのが最初だそうです。そのうち、歴史の部分だけをまとめたものです。戒厳令の解除は89年でしたが、李登輝さんが司馬さんと話をして、「台湾人に生れた悲哀」と言って物議をかもしたのは94年ですから、まだそこまで言い切る雰囲気ではなかった頃の発言です。

  台湾の歴史を区分すると、「オランダ人時代、鄭成功時代、清朝時代、日本統治時代、国民党政府時代」に分けられるとあります。私は、李登輝時代を付け加えてもいいと思います。「国家の版図がいかに大きく、民族が強勢でも、必ずしも人民が幸福であるとは限らない」とも言っている。

  「私個人は、『忠』という言葉に感心しない。果たして誰に忠を尽くすのか、一個人が自分に忠でないのに家庭、ひいては国家に忠であるわけがない」。これは意外な言葉だと思いました。オランダ時代については、「一般民衆は割に良い治安下にあり、また遵守する制度もあった。すなわち、初めて系統的に台湾を統治したのはオランダ人であった」。


台湾経営の視点から見る

  その後、鄭成功がオランダに変わって台湾を統治するわけですが、彼は中国で民族の英雄と言われた。彼はまた、近松門左衛門の国性爺合戦の主人公で日本でも知られた人です。民族主義なら、人を殺したり略奪しても英雄です。植民地は必ず悪で鄭成功のような民族主義は善というステレオタイプについて、許会長はおかしいと言っている。彼の目的は「復明」にあり、台湾をいかによく経営するかは考えていないし、台湾人にとっては侵略者だったと。

「われわれが学生時代によく『反抗大陸して三民主義で中国を統一せよ』とスローガンを叫ばされた」とありますが、終戦の時18歳で、台南高等工業付属工業学校の生徒だった。その後、省立台南高級工業学校機械科を卒業して、やがて独立して会社を興すわけですが、終戦の時が18歳ですから、日本教育をほとんど受けてしまった。その後に、大陸反抗と言われてもピンとこないというわけです。そして台湾経営という視点から見れば、日本やオランダの方があったと言う。これは、民族主義的な人には迷惑な意見です。   これは金美齢さんがテレビで言っていたことですが、「日本が植民地にしたことをどう思うか」と聞かれて、「清朝は台湾を『化外(けがい)の民』と言って、文化から外れたところとして、植民地扱いをしていたと言っていました。搾取したものを本国に持ちかえるような三流の人物ばかり送ってきたと。

  例外が劉銘傳という人で、台湾は重要な所だからと鉄道を引き、広東省の一部ではなく台湾省にした人です。進んで台湾に来た人です。この人は例外と言っています。

  「清朝時代には、飢餓に遭遇すれば農民は群れを成して城内に強奪に行く」とありますが、台湾は無政府状態だったわけです。「従って城門を夜間は締めてなければならない」状態だった。日本はそういう城壁のない珍しい国です。

日男 クレムリンというのが城壁という意味ですね。ロシアにはたくさんクレムリンがある。

青山  「『宋江陣』が廟の祭りで町を練り歩く」とありますが、宋江は水滸伝の主人公です。かつての台湾では、略奪にくる土匪に対しては、警察や郡はないので自衛しかなかった。お寺を中心に、お寺で若い人が武術の訓練をした。お祭りで武術を披露したりもした。今は平和になていますが、そのなごりとして、武術をやりながら町を練り歩くのが宋江陣です。

  「当時、人民の安全は保障されず、基礎建設の道路、港湾、衛生施設などはほとんどない状態であった」とあります。ここから日本当地の時代が始まります。


日本語を学んだことが大きかった

  日清戦争に負けた清朝が勝手に日本に譲り渡してしまうわけですが、当初はまだ台湾人は完全な日本人とは見なされず、そうなるのは皇民化運動をすすめてからになります。そして日本人としての教育を始める。昭和21年に衆議院議員を出すところまで行きましたが、先に終戦が来てまぼろしにおわりました。植民地支配といっても衆議院議員を出させているような植民地支配だったことは記憶していいことだと思います。

  日本当地の初期にすぐ、清朝官吏が台湾民主国を作り、紙幣や切手を発行して日本に対抗しましたが、すぐ大陸に逃げてしまった。「こんな心がけで台湾を管理できるわけがない」と言っています。許文龍さんは、大陸と取引をしていますが、「支那人」と言うそうです。

  「台湾が近代化し世界各国と肩をならべられるようになったのは、日本人が台湾に上陸した後の事である。もちろん日本人が台湾人の幸福のために、あるいは全然無目的で台湾を経営し近代化したのではない」。許文龍さんが今日成功されたのは、工業高等学校で教育を受けられたからと思っておられると思います。中国語だけでは、石油化学の知識を得て工場を建てようとは思わなかったと思います。日本語を学んだことが大きかったと思います。

  「台湾が終戦後中国に接収された時の状況を回顧すると、台湾に来た62軍の兵士は、雨傘をさし鍋釜を天秤棒に担ぎ、台湾人のわれわれが想像した軍隊とは全然違う、土匪軍に近い外観で、このような軍隊は飢えれば土匪になるに違いない」。「見てびっくりした、日本の兵隊とは全然違う」ということは台湾の方からよく聞きます。

  話しは戻りますが、台湾民主国を作ってすぐ逃げた人たちは、略奪して帰った。当時、同じ民族という自覚はなかったのです。そこで、早く日本に入ってもらおうということになった。この時、日本軍を迎えに行った人が辜顯栄さんで、李総統の懐刀で中国との交渉に当っている辜振甫さんのお父さんです。経済界の人ですが、非政治的接触ということでやっている。去年、江沢民に会って、「台湾は中国の一地方ではない」と言い切って話題になった。もう80歳を過ぎた人です。辜顯栄さんの孫でリチャード・クーという人は証券アナリストとして知られている。また、辜顯栄さんは貴族院議員になった3人の一人です。韓国人はもっと多かった。

    「さて、日本は台湾でどういう仕事をしたか」ですが、「まず日本の台湾接収に抵抗したのは」、清朝官吏ではなく、「無名の台湾人であった」とあります。この人たちはとことん抵抗した。一人の日本兵を殺すのに30人が死んだといわれるくらい玉砕に近い抵抗をした。接収時点で1万3千から6千人が亡くなったそうです。2・28事件の時はこれより多いということで、台湾人の中国人への恨みになっているそうです。しかも、日本とのは戦闘行為ですが、2・28は平時に殺された。そして、対日戦で我々の祖先は勇敢だった、ということが心の支えになっていると言います。日本の評価ばかりでなく、戦うべきところでは戦ったのだということです。


「我々は原住民の血を受け継いでいる」

  「第4代児玉総督時代に後藤新平が民政長官に就任、彼は医師で、日本でも一流の人材である」。彼は、地籍調査を行い、衛生つまり医療の普及に努めた。「当時の台湾人は非常に哀れな境遇にいた。平均寿命は30歳未満でマラリヤ、赤痢、チフスなどの病気が流行した。日本台湾派遣軍の病死者は、戦死者の数倍という状況である」。「台湾の人は免疫ができているとは言っても、マラリヤや赤痢にはやられる。福建省から移住してきても10人に1人しか生き残れない。それでも福建省では食えない人が命がけできた。そして台湾原住民の奥さんを貰った。その子孫が今の台湾人です。最近、我々は原住民の血を受け継いでいるという意識が芽生えてきています」。

  「後藤新平は徹底的に衛生管理と医療の徹底をした。阿片は少しずつ減らす政策を取り、昭和10年から15年頃に、吸う人が無くなった」。今、台湾には覚醒剤が密輸されてきていますから、逆になった。平均寿命が大きく延びたということは評価せざるをえないでしょうね。我々もマッカーサーの支配を評価しているし、植民地統治を評価することは異常なことではない。我々もそうアメリカを恨んではいない。韓国人や中国人のようには我々は怒らない。国際的に主張することも非常識ではないのではないかと思うようになりました。

  色々な建物を建てただけではなく、「日本台湾統治の50年間、戦争末期の10年を除けば40年の期間、台湾が治安衛生の悪い清朝時代から一転していわゆる「夜不閉戸」の治安の良い社会になったのは、人民にとって非常な一大事である」。

  次に、医療と教育を推進とありますが、「日本人は台湾で病院を建て、近代化の教育をした。私の印象では、流行病のはやる季節には民衆に予防策を施し、学童には毎年1,2回、回虫駆除薬を飲ませた。日本政府がこのような施政をしなくても誰も異議はない」。初めここを読んだ時は、「おーっ」と思いました。

日女  どうしてこんなことをしたのですか。

青山  これは明治維新の延長ですね。文明開化ですよ。ある意味では押しつけがましいかもしれませんが、文明開化をしていくんだという情熱があった。

日男  この世代の人はそう思ったのでしょうね。

青山  「例えばマレーシア、インドネシアの道路とかの基礎建設は立派であるが、それらは植民地に住む英国人、オランダ人の享受のためにある。当時の台湾の衛生方面の施設はこれらの国々と比べても最高のレベルにあった」と言っています。下水道の普及率は日本より高かったそうです。マラリアの特効薬を飲ませたのではなく、蚊や蝿を少なくする結果として下水道が普及したようです。日本人だからという面もあったでしょうが、やはり後藤新平の個人的な資質が影響していると思います。「一般的に、政府の一番割に合わない投資は衛生、医療と教育であろう。投資した資金が効果として出るのに20年、30年もかかる」と言っています。

韓国は「植民地にならなかった場合」と比較ができない   「1年なら米を植えなさい、30年なら教育をしなさい」と、子どもの頃聞きましたが、金のかかることをやったわけです。「正直に言って、私個人も日本教育を受けなければ今日の知識はない」。実用と教養の両面で日本の恩恵を受けているということでしょう。また、「中国近代史」を読むといいことばかり書いてあるが、私は外国人の書いた「中国近代史」を日本語訳で読んでもっと客観的に理解できると言っています。6月に日経アジア賞をもらった時のシンポジウムでもそういう発言をしています。

  話はそれますが、韓国人がどうしてそうならないかですが、台湾みたいに日本の植民地にならなかった場合との比較ができないことがある。また、文法が日本語と同じだから、日本語で得た教養も頭の中ですぐに韓国語に変わり日本で得た教養とは思わない。

  台湾の人は、台湾語を話しながら、日本語で学んだことを持ち出す時に、日本に直面せざるをえない。だから、日本で学んだことを無視し、感謝もしないということができない。こういう形で評価してもらうことは、日本人にとってはありがたいことです。

日男  韓国も大統領が代ってから変化が出てきた。彼はしいたげられた人なのに大統領になれたし、通貨危機で日本が支援したことに感謝した。

青山  そうですね。彼は今の日本を評価すべきだと思っている。しかし、さすがに戦前の日本を評価するとは言えない。

日男  軍出身の大統領は仮想敵を作りがちであるが、彼は元軍人でもないから、李登輝さんのようにPRするのではないでしょうか。

青山  韓国では、軍は親日的だった。朴正煕大統領は日本の陸軍士官学校の出身で、売国奴と言われてもいいからと言って、日韓国交回復を実現した。全斗煥、盧泰愚も親日的だった。文民には2種類ある。両班的な文民の李承晩大統領は反日的だった。金泳三が一番ひどかったが、彼は文民です。多分先祖が両班で高い地位にいたと思う。だから恨むんです。金大中さんは文民でも両班ではなかった。彼は、前の大統領を罰してもいないし、今後変わると思う。

日男 軍人は反日的で、民間人はそうではないというパターンで考えない方がいいのでは。ケースバーケースですよ。


「日本人は良心的な仕事をした」

青山  「英国、スペインなどの国々は、日本のように植民地で教育を普及させ、長期的な投資をしていない。私は日本人は非常に良心的な仕事をしたと思っている」、「英国人の居住区は上・下水道を普及させ衛生もよいが、一歩その地区を離れると格段の差がある。おそらく現地人を人とみなさず、その生死に無関心だと思う。日本人が台湾で行った施政は全面的で、山の上の辺鄙な所にも衛生所があった」とある。

  次がダムの話ですが、台南の近くに嘉義というところがありますが、その近くの烏山頭でダムを建設した。これは、石川県の八田與一という人が作った。八田さんは戦死するんですが、奥さんはいよいよ故郷に帰らなくてはならないという時にダムに身を投げて亡くなりました。今、八田さんの銅像が台湾に立っています。

  「一番感心するのは下流の水路である。ダムよりもむしろ全部の農田に通じる灌漑用の水路が大工事である。当時台湾にセメントはなく日本から輸入していた。人々が鍬や鋤で溝を掘り、レベルを測量し、11年の歳月をかけて、ついに網の目のようにはりめぐらされた偉大な嘉南大しゅうを完成した」。これは水利の総延長が1万6千キロで万里の長城の6倍、愛知用水の13倍あります。「諸君の歴史の教科書はこれに触れているか。おそらく教科書では日本は台湾人を搾取し、終戦後祖国に復帰して、初めて台湾人は幸福になったと自画礼賛しているだろう」。

  おそらく今は『認識台湾』には掲載されていると思いますが、まだそれが出る前の時代のことです。医療、教育、農業の基盤開発、そして遵法精神を植えつけたと評価しています。

  「私の子どもが、かつて国産戦争映画『梅花』を見て、感激で涙を流し、私に言うには、彼が大人になったら、絶対に日本人を容赦しないと。このような偏った教育は恐ろしいことだと思う」。私も80年代に『茉莉花(ジャスミン)』という似たような映画を見ましたが、日本が中国に攻めていって、台湾の人も軍属として着いて行くが、国民党の人が作る映画ですからコケにされます。「中国人のくせに日本人の手下になっているのか」と言われて、悩みに悩んで、やっぱり私は中国人だと言って寝返ることになる。

  台湾の人が、「あなたには面白くないだろうが」と言って連れていってくれたのですが、台湾人にとっても面白くなかっただろうと思います。そういう教育を受けていますから、台湾の人が必ずしも許文龍さんのような考え方を持っているとは限らない。そういう話を聞いて、そういうところかなと思っているところだと思います。

  「日本人の行為についてわれわれはよく南京虐殺を例に出すが、果たして国民党は共産党員をどれだけ殺したか。共産党も国民党員をどれだけ大勢殺したかは映画に出てこない。異民族間の殺戮は珍しくないが、同一民族間の内乱と相互殺戮は言語道断なことでもちろん教科書には記載しない」。「台湾の『2・28事件』で多数の人が無実の罪で殺されたが、教科書あるいは教室では絶対に触れない。いかに教育が重要であるかを反省させられる」。

  これも『認識台湾』には、今、書いてあります。国民党が来た時は、祖国に帰ったとみんな喜んだのですが、「どうもおかしい」と思い始める。日本人から没収したものは全部自分たちのものにしてしまうし、小学校の先生や校長はまず国民党の人がなって台湾人は失業した。日本の教育を受けた高校や大学は資格にならないとされた。日本は警察でも賄賂を取らなかったのに警察が賄賂を取る。米は内乱中の大陸に高く売って、飢えたことのない台湾が飢えてしまった。

  そして、闇でたばこを売っていたおばあさんを国民党の兵士が問い詰め、言い返し、逃げて行くという状態になって、民衆が武装蜂起したのが「2・28事件」です。その時、福建省から来た中国人なら台湾語がしゃべれるので、「君が代」を歌わせたそうです。そして歌えない国民党兵士は殴られた。しかし、台湾人が2万人くらい殺された。李総統は国民党にいましたが、国民党員でも誰かにちくられると危なかったそうです。夜中に車がくるたびにビクビクしていたと言います。


「日本統治に公平な評価を」

  「今回想すると、戦時物資が欠乏していた1940年代、日本人は台湾人よりも悪い境遇にいた。すなわち台湾の人々は田舎とか闇市から物資を獲得できたが、日本人は遵法精神が強く、闇買いしないで空腹を我慢した」。台湾人だけが飢餓にひんするようなことはなかったようです。また、自由競争の社会で、台湾人に競争に負けた日本人が自殺したことも書いてあります。

  「仮に台湾が継続して清朝に統治されていたらどうなっただろうか。中央集権的な中国政府の辺鄙地政策は、三流の人材を派遣し、苛税を課すだけだろう。台湾人の幸福な生活など第二義的なことである。派遣官吏は請負制度で、年間どれだけ税金をとれるかが関心事で、人民の生活状況は顧みない。従って日本当地がなければ、台湾人の生活はもっと悪かったと私は思う」。

  その後、「肯定ばかりはできない」として、「日本は異民族の台湾人の反乱を恐れ、皇民化政策を強制した。また、日本式に改姓名することや、日本語使用、日本服着用、神社参拝、神棚奉祭を奨励し、廟の霊媒などを禁止した」と言っています。戦争末期には威張りちらす日本人もいたし、殴られた台湾人もいて、そういう悲哀を味わったそうです。

  続けて、「日本は台湾の文化を保存する政策をとった。逆に、大陸の中国人は台湾接収後、日本人の残した文物を破壊した」とある。私は、神社に強制参拝させたので壊されたとばかり思っていましたが、そうではないようです。

  「一般人民の立場から言えば、前述の事実から日本統治に公平な評価をすべきだと思う」、「台湾の基礎はほとんど日本統治時代に建設したもので、われわれはその上に追加建設したと言ってもよい。当時の日本人に感謝し、彼らを公平に認識すべきである」。

  私自身も天下国家を憂うるのが好きで、まじめに会社で仕事するのは嫌いなんですが(笑)、大事なことは会社できちんと仕事をして、そういう積み重ねで台湾が繁栄そてきたということですね。そして、台湾を無視してはいけないという時代を作ってきた。

  「私は台湾の将来については楽観的である。多数の台湾人がグリーンカード(米国居住権)を持っているが、私は少しも興味がない。なぜならば、台湾は非常に安全である。最近の改革で軍人の勢力は後退し政情も正常化しつつある。将来の歴史家は、私のこの見解を証明してくれるだろう」。◆


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