Taurosのインターネット案内−5

et案内home

 

 

中華民国 日本語公式Webサイトhttp://www.roc-taiwan.or.jp/

台湾の歴史を区分すると、オランダ時代、鄭成功時代、清朝時代、日本統治時代、国民党時代に分けられる。日清戦争に勝利した日本は、下関条約(18950417)の第1条で長らく清の属国だった朝鮮(韓国は属国だった事を認めない)をその屈辱的な地位から解放し、第2条では台湾全島および付属諸島を永遠に譲られ、台湾はその後50年間日本の領土となった。

 

台北週報http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/index.html

2001(010517)より『中華週報』から現在の名前になった。親日的な記事が多く、台湾国内の正常とともに、マスコミ情報なども掲載される。

 

日本人に知らせたい もうひとつの台湾史許文龍・奇美實業董事長
1.http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1873/107.html
2.http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1874/107.html
3.http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1875/107.html

日本人に知ってほしい台湾史 42回−日台東京フォーラム

http://home.att.ne.jp/red/dateasia/kako/taiwan42.htm

世界最大のABS樹脂メーカー、奇美實業の許文龍(ウー・シンロン)会長が社員に訓話した内容をまとめたものを雑誌に掲載、そこから転載されたもの。この流れが、台湾の反日史観に満ちた教科書を変える事になった。許文龍氏は李登輝前総統の友人でもあるが、総統選挙では陳水扁氏を推した。台湾総統選挙を扱ったNHKスペシャルではストラディバリウスを弾く許氏の姿が印象的だった。

 

教科書『認識台湾』(歴史篇)を読む
1.http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1890/110.html
2.http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1891/113.html
3.http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1892/113.html
4.http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1893/113.html
5.http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1894/113.html
6.http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1895/113.html
解説−黄文雄:http://www.geocities.co.jp/Berkeley/5931/t_rekisi.html

1997年から、台湾の中学1年生は『認識台湾−歴史編』と言う新しい歴史教科書で学ぶようになった。これにより、それまでの反日教科書から方向転換する事になった。台湾発展の基礎は日本統治時代に整備された教育やインフラの寄与が大きいと正当に評価している。

 

 

台湾で最も愛される日本人・八田興一

1.http://www.yorozubp.com/9907/990718.htm

2.http://www.yorozubp.com/0005/000509.htm

珊瑚潭に臨むhttp://www.asahi-net.or.jp/~gc6d-htt/uzantou.html

烏山頭水庫と八田與一http://www.a-eda.net/asia/hatta1.html

八田與一(ハッタ・ヨイチ)は東京帝大工学部を出てから台湾に赴任したが、1920(T09)年から30年まで10年の歳月をかけ、黒部ダムの3/4の貯水量を誇る東洋最大の烏山頭(ウーサントウ)ダムを建設する。セメントは全て内地から運び、張り巡らした灌漑用水路は16,000Km−愛知用水の13倍、万里の長城の6倍に達する距離−と言う大工事を完成させた。これにより、作物の育たなかった嘉南平野は穀倉地帯に変貌、農民の生活は急激に改善したため、彼らは感謝の念を込めて―建設中から慕われていた―八田の銅像をダム湖畔に作った。このダムと用水路は現在も使われているが、烏山頭ダムの人造湖は今では珊瑚潭(サンゴタン)と呼ばれる観光名所になっている1942年、八田は陸軍に徴用されフィリピンに向かう途中、乗った船がアメリカの潜水艦に攻撃され死亡、遺体は山口県萩市見島(ミシマ)に漂着した。敗戦が濃厚になり日本に引きあげなければならなくなった19450805、外代樹(トヨキ)夫人は子供達に強く生きるよう言い残し、夫が心血を注いだ烏山頭ダムの放水路に身を投げて命を絶った。嘉南の農民は慟哭した。194612月、嘉南大圳農田水利組合によりこの地に夫妻の墓が建てられた。八田與一の銅像は戦争末期の金属供出や蒋介石の時代も農民によって隠し通され、1981年1月、37年ぶりに日の目を見たが、今では台湾に残る唯一の日本人の銅像である。50年以上も八田の命日508には毎年欠かさず夫妻の供養が行われ、台湾からの年間74万人の観光客のうち約8万人が八田の故郷・金沢を訪れる。

山口県萩市・見島http://www.pref.yamaguchi.jp/3misima.htm

 

 

台湾育ての親・後藤新平http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog145.html

台湾を近代化したのは医師でもある後藤新平の力が大きい。彼は1898(M31)40歳で民政長官に就任、満州鉄道総裁に転任する1906年7月までの8年余に阿片問題を解決、ゲリラを帰順させ、港湾・鉄道・道路を整備、土地調査、製糖産業の発展など矢継ぎ早に近代化政策を実行した。この時築かれたインフラが現在も台湾経済を支えている。割譲された当時の台湾は、派遣された日本軍の病死者が戦死者の28倍と言う、マラリヤ、赤痢、チフスなどの病気が流行する土地だった。阿片専売制度からの収益を台湾の衛生事業に投資、予防注射、隔離消毒、ネズミの捕獲作業、血液検査の強制、薬品支給などを実施し、伝染病を有効に予防、台湾人の医療衛生観念と習慣を改めさせた。1899年に医学校を設立、今も台湾は世界に優秀な医師を輩出し続けている。

 

後藤新平http://www.city.mizusawa.iwate.jp/htm/roman/mr05701.html

後藤新平は台湾民政長官の後、満鉄初代総裁、鉄道院総裁、東京市長となり、新しい日本の建設に邁進する。東京市長の時には国家予算が15億円規模の時代に「東京8億円大改造計画」を立案、これに賛同したのが安田財閥の創始者・安田善次郎で、後藤の自宅を訪問し匿名の個人寄付を条件に、国家予算の1/3に相当する金額を拠出すると約束した。

 

安田善次郎暗殺事件http://homepage1.nifty.com/oiso/sub2.htm

安田は質素倹約を旨とし、事業に専心していたが「寄付は貰った人を堕落させる」と言う信念を持っていたため、新聞など世間の評判が悪かった。そのため国士気取りの暴漢に襲われ82歳で命を絶たれ、後藤との約束は果たされずに終わった。しかし、安田の遺志は日比谷公会堂や安田講堂などとして残り、我々に親しまれている。暴漢はその場で自殺したが、新聞が持ち上げたためか、安田が暗殺された37日後に原敬首相暗殺事件が発生した。

 

 

西郷菊次郎http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog108.html

西郷隆盛の生涯http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai3.htm

西郷菊次郎は西郷隆盛が奄美大島に流された際に愛加那(アイカナ)との間にできた子供で、隆盛が3年後、鹿児島に戻ってからも奄美に残った。後に鹿児島で英数学を学び、アメリカに遊学する。1877(M10)年の西南の役では父と共に戦い、負傷して片足を失った。台湾が日本に割譲された1895(M28)年から約7年間、台湾に赴任、台湾東北部、台湾第二の平原・蘭陽平原にある宣蘭(ギラン)の庁長として過ごした。宣蘭を流れる宣蘭河は毎年氾濫を起こし、民衆を苦しめていたが、西郷菊次郎はこの治水工事を行い水害を根絶、民衆有志はその恩恵に感激し高さ3mの石碑を立てた。

 

近代都市・京都の建設者http://www.city.kyoto.jp/koho/jichi/jichi1-2.htm

京都市公式HPより、西郷菊次郎が2代京都市長に就任した1904(M37)年当時は経済都市としての発展が伸び悩んでいた。菊次郎は京都市百年の大計として、明治〜大正時代を通じて京都市最大の事業となる三大事業の推進に取り組んだ。

 

 

台湾のWHO加盟http://www.roc-taiwan.or.jp/who/whoindex.htm

台湾の公衆衛生はこの100年著しく改善された。1906年と2000年では、国民の平均寿命は男性39才・女性43才から男性72才・女性78才に向上した。新生児死亡率(出生1000)84.1から5.9に減少、産婦の死亡率(出生1000)7.6から0.1に減少した。坪井栄孝会長が世界医師会々長に就任直後に台湾を訪問し、台湾のWHO加盟に前向きに活動している。HPに日本の衆参厚生労働委員会のメンバー表を掲載しているのを見ても熱意が伝わる。

 

 

台湾@2ちゃんねる: http://academy.2ch.net/taiwan/ 

Yahoo掲示板 Yahoo台湾

どちらも韓国掲示板と異なり、友好的なタイトルや投稿が多い。佐々木敏によれば「旧植民地国は旧宗主国やその文化を敬うのが普通であり、台湾の日本(文化)への態度は別に驚くべきものではない。むしろ異常なのは韓国のほうで、韓国の旧宗主国(日本)に対する態度は世界史の中では例外中の例外である」と言う事になる。

 

 

田中宇の国際ニュース解説から

台湾の日本ブームhttp://tanakanews.com/990823taiwan.htm

台湾にきてから、政府幹部から台北の若者、老人など10人以上の台湾人、外省人(国民党とともに大陸から台湾にきた人々)に、日本についてどう考えるかを尋ね、得た回答が「日本統治時代はその後の圧政時代より良かった」であった。

 

台湾人のアイデンティティhttp://tanakanews.com/990830taiwan.htm

台湾にはもともと、現在では「原住民」と呼ばれるマレー・ポリネシア系の先住民族の人々だけが住んでいた。そこに、16-17世紀ごろ以降、台湾海峡の向かい側にある中国大陸の福建省や広東省から、中国人が移民してくるようになった。現在、台湾の人口の約85%を占める「本省人」は、その子孫である。本省人の母語である台湾語は、福建省南部の言葉閩南(ビンナン)語と同じである。

 

驚きの多言語社会・台湾http://tanakanews.com/990915taiwan.htm

客家(ハッカ)はもともと、古い時代に中国の政治の中心地だった中原地方(陝西省など)に住む貴族だったが、その後の王朝の滅亡とともに、流民となることを余儀なくされ、福建省などの山間部まで来て、定住した歴史を持つ。各地でよそもの扱いされたため、「客人」という意味の「客家」と称するようになった。今も福建省の客家の中には、外敵から一族を守るため、円形の城砦のような集合住宅(客家土楼)に住んでいる人もいる。

 

台湾の客家に学ぶhttp://tanakanews.com/990915hakka.htm

19世紀前半、清朝が弱体化したとき広東省の客家だった洪秀全が、清朝打倒のために「太平天国の乱」を起こした。その精神は広東省の客家だった孫文に受け継がれ、上海に住む裕福な客家だった宋姉妹の宋一族の資金援助を得て、中華民国の建国に結びついた。ケ小平も客家で「黒い猫でも白い猫でも、ネズミを取る猫は良い猫だ」という言葉には客家の合理性が感じられる。

 

 

李登輝総統の志http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog061.html

台湾近代化の条件http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog062.html

李登輝前総統は京都帝国大学農学部で学び、22歳まで日本人だった。日本敗戦後には国民党が台湾に来るが、1947年の228事件で1・928万人が殺され、その40年近く、戒厳令が敷かれ、その間にでっちあげられた政治的事件29万件余、逮捕・投獄された者14万人と推定されている。日本統治時代とは比較にならない暴虐ぶりである。その台湾を李登輝前総統は民主化した。

 

李登輝前総統の来日http://www.roc-taiwan.or.jp/news/weeknews118.htm

李登輝前総統再?http://43.240.240.39/~jukusou/newslog/20021002.html

日本の政治家を政党ではなく、親中派(李登輝前総統の訪日に反対)か親台湾派(賛成)かで分けると面白い。民主化されていない国は援助に対しても様々な形で政治家にリベートを提供できる。北朝鮮を社会党(社民党)の田辺委員長らと訪問し、総督府時代の賠償に積極的だった金丸信の金庫から無刻印の金塊が出て来たが、それとオウム(アレフ)で見つかった金塊の分析結果では同じ(北朝鮮の)ものと断定された。金丸夫人は「買った」と答えたらしいが、日本のどこに無刻印の金塊を売っていると言うのだろうか?

 

 

謝小姐の台湾日記http://homepage1.nifty.com/MYO/

日本人の通訳もする台湾女性のサイト。台湾のマスコミは国民党〜外省人に握られているため、論調は市民の意見とは乖離があるらしいが、netはこの壁を取り除く。最近は更新されていないが、日本の台湾統治の影響を教えてくれるいくつかのエッセイは興味深い。

 

日本兵になった台湾人http://homepage1.nifty.com/MYO/sub20/sub20.htm

日本の皆さん、アジアには台湾のみならず自分は日本人であると思っている人々がたくさんいる事を少しは思い出してください。・・・心を打たれます。

 

壱拾円でございますhttp://homepage1.nifty.com/MYO/sub16/sub16.htm

日本語が台湾の共通の言葉となった。山間部の部族間交流も活発になり、現在でも老齢者は小さいときに学んだ日本語で会話をする。それが日本人学者に感動を与えた。

 

驚異のMADE in JAPANhttp://homepage1.nifty.com/MYO/SUB11/sub11.html

技師の誇りは日本時代にこの放送設備の保守を始め、教えられた技術を基本に自分で改良して保持しているということです。日本時代を知っている人たちは一様にいかに日本時代の設備、技術が優秀であったかを誇ります。

 

石原訪台の反応http://homepage1.nifty.com/MYO/sub06.html

地震の後、日本の救援隊が最初に来た。犬や最新の機器をもって駆けつけてくれた日本の救援隊を見て頼もしく思い、感激しました。日本時代を過ごした年配の方は涙を出して感謝しました。中国は地震の後、各国に台湾に救済を派遣する時には北京政府の許可を求めるよう通達を出し、ロシア救援機には中国領土通過を認めず、やむを得ずロシア機は中国を迂回して台湾に来た。

 

 

台湾通信http://www.iris.dti.ne.jp/~taitsu/bn.html (バックナンバー紹介)

編集長は日本人、情報誌のバックナンバーの抜粋だが、台湾の情勢が満載されている。

 

台湾の女性はなぜ強いのか?http://www.iris.dti.ne.jp/~taitsu/8826.html

清朝は婦女子の台湾渡航を禁止していた時期があって、それは1684年から1788年のことだそうだ。台湾が鄭成功の反清朝勢力の根城となったことから、台湾での人口増加を恐れたためだという。その結果、18世紀の初め頃、台湾の漢民族の人口は男が26万人ほどだったのに対して、女は1000人だったという。(編集後記ヨリ)

 

石原知事が誕生−台湾の反応http://www.iris.dti.ne.jp/~taitsu/8814.html

石原知事が地震見舞いの訪台http://www.iris.dti.ne.jp/~taitsu/8843.html

石原知事誕生時の反応が賛否両論だったのに比べ、地震後の素早い対応で台湾の世論が変化した事が良く解る。どちらも「編集後記」に書いている。

 

私は日本人 by KOREANhttp://www.iris.dti.ne.jp/~taitsu/8905.html#tokushu

有名なエピソードだが、タクシーと接触事故を起こした女性が相手と激しく口論、警官には「私は日本人だ」と言い張る。日本語しか話さないので、警察は日本交流協会(外交代表部)に連絡するが、車のナンバーを調べると韓国の台湾駐在代表部のもので、彼女は外交官の妻だと判明した。台湾の親日度と嫌韓度を良く表す話しである。また、韓国人は子供の頃から学校でも「外国で何かまずい事をしたら必ず”I am Zapaneeseと言え”と教えられる」と言う話しに信憑性を与えた事件でもあった。(KoreanJZになる)

 

「自分は日本人」交通事故で偽る

韓国の台湾駐在代表部の公用車ナンバー「外0455」を付けた車を運転していたLEE HWA SOOさん(女性・42歳)は1215日午後、台北市重慶南路と北平西路の交差点で、タクシーと軽い接触事故を起こした。お互い相手のせいだと言い張って一歩も譲らなかったため、警察が現場に出向いて事故処理に当たった。警察の問いに対して、LEEさんが自分は日本人だと主張したことから、警察が女性の身分を調べたところ、女性は結局「ニセ日本人」。 LEEさんは「台湾の警察はいいかげんだが、自分が日本人だと言ったら、待遇がよくなるのではないかと思った」と弁解した。 事故が発生したのは午後1時55分。LEEさんは警察官が現場に駆けつけたのを見てすぐに、自分のことを日本人だと名乗り日本語で話し始めた。外事課に英語が得意な警察官がいたが、LEEさんが日本語しか話さなかったため、日本交流協会に至急連絡した。事故処理が終わるまでに日本側の関係者が現場に到着しなかったのは幸いだった。 警察が処理を始めて1時間ほどすると、韓国側の関係者が集まってきた。警察はLEEさんが運転していた車のナンバーから、ようやくLEEさんが韓国の外交官の家族であることを突き止めたのである。警察官は、「LEEさんの様子から判断すると、夫に知られるのを恐れているようだったが、なぜ自分は日本人であると言い張ったのか分からない」と話している。