2009年2月の日記
2009.02.01.
映画の日が日曜日の時って、映画館的には嬉しいんだろうか残念なんだろうか、ちょっと気になる時の不定期連載。
いまだに荒野の夢を見る。
というより、うなされる。おかげで目を開けてからしばらく天井を眺めるのが、このところの癖になった。数週間も彷徨った荒野の記憶と、いま見ている現実と、どちらかが揺れて薄れていくのを待つ。
現在のところ、常に後者が勝っている――幸いにも。
葛藤が終わってみれば、現実が勝つのは当たり前だった。無駄な時間だ。もっとも、
(別にすることもないし、いいんだけど)
むくりと起き上がって、陰鬱につぶやく。
カーテンを閉じた窓からは朝日がのぞいていた。日差しの角度で分かる。実のところそう早くもないが、昼にはなっていない。そんな時刻だ。部屋に時計はない。住人が避難の時に持っていったか、侵入者が盗んでいったのだろう。
(いいんだけど)
こいつは繰り返した。ベッドの脇に置いてあるバスケットにはクッションが詰めてあって、そこにディープ・ドラゴンが寝ている。その様子を確かめるものの、今までと変化はない。
ここ数日、まったく変化がなかった日常と同じく、なんの変化もない。
黒い獣に倣うわけでもないが、こいつはまだしばらく寝台に寝そべっていようか、誘惑に駆られた――眠気はないものの、妙な倦怠感が手足に絡みついている。だが意を決して飛び起きると、身支度を調えた。もちろん寝間着があるわけでもなく、昨日の夜に干しておいた服を着込むだけだ。
部屋は、ほとんど生活に支障ない程度には家具が残っていた。
家具を持ち出さなかったということは、避難は急なものだったのだろう。となると元の住人は、よほどの慌て者だったと思わざるを得ない――アーバンラマに程近いこのあたりが争乱に脅かされたことはまだ一度もなく、その危険を感じさせることすらなかったはずだ。キムラック崩壊の報を聞いて、慌てて逃げ出したのだろう。
2009.02.02.
まさか風邪で倒れるとは……時の不定期連載。
荒野を抜けてきたから実感することだが、騎士軍はキムラック東方にはほとんど布陣していない。タフレムは戦力不足に喘いでいるが、それは騎士軍も同じようだ。もっとも、それを知ってか知らずか、アーバンラマ市は門を固く閉じて防備を強めている。
おかげで……
(こんな目の前で手詰まりなんだから)
呆れる。
着てから気づいたが、服はまだ生乾きだった。やはりもう少し寝ていたほうが良かったのかもしれない。
のろのろした足取りで、階下に降りる。
台所に下りるものの、家にもう食料が残っていないのは確認済みだった。持っていた携行食も尽きて――朝食を用意するつもりなら、寝室に置き去りになっていたサボテンでも調理するしかないだろう。
もっとも、そのつもりもなかった。単に食指が動かなかったというのもあるが、この家主なき家の、仮の主人のように思えたからだ。
応接間のソファーに、そいつがいた。なにをするでもなくただ座っている。
そいつはそこにいるか、そこで眠っているか、あるいはまったくどこにもいないか、このどれかだった。にもかかわらず退屈しているようにも見えないし、退屈潰しすらしている様子がない。
「おはよう」
こいつはつぶやいた。仕方がないため一応こちらから声をかけるのだが、いつも奇妙な心持ちにさせられる――長い間、いっしょに暮らしてきたみたいだ。恋人どころか家族というくらいに。そいつの無反応さがそれを思わせるのだろうが。
ただ、むしろこいつにとっては警戒感が増していた。
2009.02.03.
10秒チャージっていうけど、測ってみたらわたしあのゼリー吸いきるのに50秒かかってました。時の不定期連載。
もともと脆かった共生関係は、今や完全に意味を失っている。食糧はもうないし、荒野を抜ければ道案内の意味は薄い。アーバンラマは目の前だ。それでもまだふたりがここにとどまっているのは、単に市内に入るあてがないからに過ぎない。
(……あとは)
やましくもあったが、こいつは認めた。別離を言い出せば、自分とこの男との関係は、標的を狙う殺し屋とその邪魔者に変わる。
現実的に考えて、いまだその準備はできていない。
が、そいつは珍しくこちらを無視しなかった。
だからといって愛想があったわけでもない。そいつはただこいつのほうを見、議論の余地のない口調でただこう言った。
「すぐにここを出る」
「え?」
「準備ができた」
怪訝な心持ちを隠せず、こいつが眉間にしわを寄せていると、そいつは億劫そうに言い足した。
「なら置いていけばいい――という顔だな」
「良くはないけど……」
こいつはうめいた。他に言うことも思いつかず、一番あり得そうにない言葉を口にする。
「それ、親切心?」
そいつはしばらく考え込んだようだった。
2009.02.04.
丸かぶってやったぜ時の不定期連載。
「近いな」
平然と言うそいつに、こいつは念を押した。
「食い違うとアレだから、一応質問させてね。親切心ってどういう意味で使ってる?」
「互いの益になるよう利用することだ」
「……反対語は、自分の利益のためだけに利用すること?」
「そうだ」
しばらく検討して、反論する意味はないと判断し、こいつは話題を切り換えた。
「準備って、どんなことを?」
「情報収集だ」
「誰とも会ってなんか――」
つい言いかけて、口ごもる。
そいつは知ったことではないという風に手を振ってみせた。
「尾行していたのは知っている。だから分からないよう連絡を取った」
と、そいつは懐から何通かの書簡を取り出して、テーブルに放った。
見ろということなのだろうと見当をつけて、こいつはそれを手に取った。どの紙片にも土や草の汚れがある――どこかの隠し場所に置いてやり取りしていたのだろう。
一番上にあった書類を、こいつは読み上げた。
「外大陸開拓計画」
大陸中で噂されていることだ。キムラック難民の間で知れ渡り、そして難民は大陸中を巡るのだから、噂が広まるのも早かった。
半年前には第一陣が発ったという話もある。まことしやかに囁かれる伝説の類とは違って、信憑性は高いと思っていた。が、こうして書類など見ると、夢で見た怪物に肩でも叩かれたようで、ぎょっとする。
「こんなこと可能なの?」
それは質問ではなく、つい口をついて出た言葉だった。が、そいつは答えた。
「不可能だ」
2009.02.05.
よく行く喫茶店に会議室があって、今日はその入り口が見える席にいたんですが。
入り口に札がついてるわけです。その会議室を利用する団体名の。俺たち会議しちゃうぜの会、とか、そんなんです。
で、今日は最初、雑誌名がかかってました。みなさんもよく知っておられるであろう有名な。
取材かなにかなんですかね。カメラマンとか記者らしき人とか入っていって、フラッシュが扉の向こうから漏れたりしてました。
で、しばらくして……
中にいる人たちはそのままなのに、店員が来て、札をまったく違う会社名に入れ替えていきました。会議は続行。
会議中、みんなが一斉に転職したに違いないと信じています。時の不定期連載。
そいつの言いように、こいつは顔を上げた。その視線の前に、そいつの表情はただ自明の理とばかりに繰り返す。
「失敗する」
「どうして?」
「失敗する可能性が一番高いからだ」
肩をすくめて、そいつは話を続けた。
「アーバンラマが市を挙げて、門を閉ざして取り組んでいる計画だ。公然の秘密で、こうした動きがあるのはとうの昔に知っていた。計画を主導しているのはアーバンラマのいくつかの資産家だが、実質、あいつで間違いない」
「…………」
こいつが黙っているうちに、また言い足す。
「貴族連盟が奴を殺したい理由のひとつでもある――最優先課題でもないが。失敗は確実だからな」
「あの人は、どうしてこれを?」
「いくつか推測することはできるが、差し当たっては、身の安全を守るのに都合が良かったんだろう」
「そうかしらね」
思わず皮肉な口調になる。どのみち、この場で良いように解釈しようと悪いように解釈しようと、意味がないことには変わりない。
と、ふと矛盾に気づいて、こいつは訊ねた。
「わたしに分からないよう情報を集めたってことは、アーバンラマに入る前に、わたしを撒くつもりだったんでしょう。どうして気を変えたの」
手元の書簡を叩く。
2009.02.06.
葉わさびの手巻き寿司にはまってます。時の不定期連載。
そいつは即答した。
「親切心だ」
そいつがそれをどう説明したか、思い出そうとしている間に、そいつ自身が言い直す。
「あいつは俺が来ることは予想している。予防線を張っているかもしれない。だから――」
だから頭数を増やして欺瞞するということなのだろう。なるほど、親切心か――こいつは内心うめきつつ、つぶやいた。
「もしかしたら、わたしが来ることだって予想しているかも」
(え?)
言ってから、ぞっとする。
思いつきで喋ったことだが、自分がなにを言ったのかを悟って、つい胸に痛みを覚えた――具体的な苦痛ではない。ただ、自分で自分の足下に罠を置いたと気づいた。
(予想、していたら?)
あいつはどうするだろう。予防線を張っているだろうか。追い返すため、邪魔されないために?
「そうだとしても――」
そいつのしたり顔は、なんとも腹立たしいものだった。
明らかになんの感傷もなく、こともなげにそいつはただこう言った。
「追加の害はない」
2009.02.07.
♪ディキディキディッ。トゥーデュルデュー(こんな音がいきなり頭で鳴って止まらなくなった時の不定期連載)。
すぐに発つというのは無論、すぐにということだ。
荷物をまとめて、捨てられた家を出る。再び無人になった建物を見返すこともなくアーバンラマへの道を目指す。また無言の旅かとこいつが思っていると、そいつが突然口を開いた。
「問題は、計画の実行日が俺の予想より早かったことだ」
もともと歩くのが速いそいつだが、確かにとりわけ急いでいるようではある――こいつは問いかけた。
「いつ?」
「四日後だ」
「四日……」
絶句する。地図を思い浮かべても、移動に要する距離というのはなかなか見当のつかないものだが、少なくとも余裕がないことは想像できた。
「アーバンラマに着くまで――」
「丸一日というところだな」
「すぐ入れるの?」
「手はず通りだとしても一日はかかるだろう」
淡々と答えるそいつに、こいつは八つ当たりと認めつつも、つい口を尖らせた。
「予想より早かったって、どれくらいを予想してたの」
「実行にこぎ着けることは永遠にないと思っていた」
「…………」
あとはまた元通り、無言の旅にもどった。
2009.02.08.
一年前、鞄に貼ったシールがそろそろ剥がれそうで剥がれない日々。時の不定期連載。
その日の暮れ方に、道ですれ違うようにして、ひとりの農夫と会った。
そいつとその男は互いに無愛想に一言二言話して、農夫からそいつに、ひとつの包みが手渡された。古びた革でくるまれた、そう大きくない荷物だ。そいつはその場で包みを開け、中身の半分をこいつに押しつけた。
(手紙)
封蝋は破られている。宛名は見覚えがなかったが、貴族らしい名前だった。サイフェーシア・エインズハンボット。差出人はベン・エバンズ法律事務所。
中をのぞく。王都の貴族、エインズハンボットは今回の戦争で資産を失い破産寸前であり、アーバンラマのとある工場が残された唯一の資産であるらしい。問題は、アーバンラマが門を閉ざしたことでそれが実質差し押さえられてしまっていることだ。アーバンラマ市に申し立てをして所有権を主張できれば、銀行から融資を受けられる可能性が……云々。
「これでアーバンラマに入れるの?」
疑わしげに訊くと、そいつは即座に首を振った。
「いや。無理だから、俺たちは不法侵入をする。それは捕まった際の保険だ。留置場から抜け出すのはわけないが、取り調べに余計な時間をかけられたくない」
「子供騙しじゃない?」
「その手紙自体は本物だ。アーバンラマにいるベン・エバンズの親類に照会させれば証言させられる」
こいつは目をぱちくりした。
「じゃあ、このサイフェーシア……ええと、エインズハンボット? って人、すごく困ってるんじゃないの」
「本物のサイフェーシアは半年前に病没している。が、閉鎖しているアーバンラマにその情報はない。俺は護衛役だ」
包みに入っていた残りもやはりすべて書類で、工場の権利書その他というところだ。こちらは偽造らしい。
手紙を眺めつつ、こいつはつぶやいた。
「わたしが考えてること、分かる?」