便利というものは不便とセットで存在する。失った時は、依存度の大きさに比例して喪失感を募らせる。
インターネットや携帯電話がまさにそうだ。文字や印刷技術の発明と並び称されるほどにコミュニケーションの形を激変させて、功罪両面の副産物を我々にもたらした。
英語に堪能な全盲の友人は、パソコンに音読システムをインストールして、メル友を世界に広げた。ハンディを越えて羽ばたくためのツールになった。
一方で、若者たちに「携帯がなくなったら」と問うと、「生きていけない」という答えが返ってくる。「死んじゃう」と涙を浮かべる少女もいる。
事実、自殺予防の電話相談ではここ数年、「メールや電話の着信拒否で仲間外れにされた」という訴えをよく耳にする。ネットの切れ目が縁の切れ目。現代版「村八分」のツールとしても使うことができる。
思いの丈を文字に記した手紙の時代には、じれったいほどの時間があった。人が互いに向き合って会話をする社会には、相手の息遣いや表情を感じた。それに比べて今は、何事も刹那(せつな)的に思えてならない。
昨今、携帯の学校への持ち込みの是非が問われている。背景にはマナーの欠如や、誹謗(ひぼう)中傷や犯罪がらみの裏サイトの存在が指摘されている。
上意下達で禁じる動きもあるが、規則には参加する者の心が伴わないと、「臭いものにふた」の発想にとどまる。
何事も使い方次第ではあるが、この際一つ、携帯問題を子供と親と先生がヒザを交えて話し合う格好の題材にできないものだろうか。
毎日新聞 2009年2月8日 0時18分