2008年06月21日

同じ土俵で競ってこそスポーツだ(6/17掲載分)

オリンピックは「参加する事に意義がある」
と言われた時代が懐かしい。

今回の競泳用の水着問題は、
「参加する事に意義」はない。
「勝つ事に意義」があり、勝つためには、何かできる立場や
環境にいる者が有利である事を再認識させられた。

泳ぐのは選手であり、水着が勝手に泳ぐわけではない。
しかし、記録が出た選手に尋ねる事は、
水着の事ばかり・・・。

競争は同じ条件で競ってこそ成り立つもの。
高価な道具が手にできるものと
できないものとで、既に差が生まれてしまったら
公平な競争にはならないだろう。

極端に言えば、
野球で一チームだけ金属バットを使ってくるようなものだ。

これでは、勝ちたいがために選手間で蔓延した
ドーピング問題の深層が、何一つ完結していない事を
意味しないか?

本来、水泳なんて素っ裸で泳ぐわけにいかないから、
水着を着用したわけで、あくまで道具。
泳ぐために最低限の場所が隠せる水着があれば良かったはず。

それを競泳選手の身体全体を覆いつくすような水着になったら
反則だろ!

技術の進歩の妨げになるというなら、
その年、一番いい水着を作ったメーカーを
五輪指定水着にして、
世界各国どこの国の選手でも着られるように
しなければ競泳は成り立ちません。

北島選手が「泳ぐのは自分だ」と書いたTシャツを着ていたが、
まさしく公平な条件のもとで、技術と体力を競い合える大会に
しなければ・・・。

いつまでたっても人間の心のドーピング問題は
消えないだろう。