[トップページ] [平成10年上期一覧][地球史探訪][210.755 大東亜戦争:アジア解放][224 インドネシア]
_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/ _/ _/ _/ Japan On the Globe (36) _/ _/ _/ _/ _/_/ 国際派日本人養成講座 _/ _/ _/ _/ _/ _/ 平成10年5月9日 2,458部発行 _/_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/_/ _/_/ 地球史探訪: _/_/ インドネシア国立英雄墓地に祀られた日本人たち _/_/ _/_/ ■ 目 次 ■ _/_/ 1.カリバタ国立英雄墓地に祀られた日本人 _/_/ 2.独立への願い _/_/ 3.独立を戦いとれる実力を _/_/ 4.植民地復活を狙うイギリス、オランダ _/_/ 5.独立戦争への支援 _/_/ 6.命を捧げてくれた日本青年を偲ぶ _/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■1.カリバタ国立英雄墓地に祀られた日本人■ ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地は、日本軍降伏後、4年 5ヶ月におよんだイギリス、オランダとの独立戦争で、特別な功労 を立てて戦死した人々が祀られている。この中に11名の日本人が 一緒に手厚く葬られている。[1] 1945年8月15日の日本軍降伏後も現地に残留して、インドネシア 独立義勇軍に身を投じた人々は、1〜2千人程度と推定されている。 400名程度が戦死され、そのうちの32名が各地区の英雄墓地に 祀られている。また独立50周年となった平成7年、残留日本兵 69名に対し、渡辺インドネシア大使から感謝状が贈られ、スハ ルト大統領は官邸に招いて、お礼を述べられた。[2,p109、3] これらの人は、何を思って、異国の地に留まったのだろうか。 ■2.独立への願い■ インドネシアがオランダの植民地となったのは、1605年、それ以 来、3世紀半にわたって、人口わずか0.5%のオランダ人が全生 産額の65%を独占するという収奪が続く。 1905年に、日本がロシアを破ったことは、アジア人もまた 西洋をうち負かすことができるほど強くなれるという信念を 強化させた。それ以降、インドネシア人は、大国として発展 する日本にいっそうの注目をそそぎはじめた。(インドネシ アの歴史家サヌシ・パネ、[4,p242]) 独立を願う民衆の間には、いつしか、「いつか北から同じ人種が やってきて、とうもろこしが芽を出して実をつけるまでに(約3ヶ 月半)インドネシア人を救ってくれる」という予言が生まれた。 ■3.独立を戦いとれる実力を■ その予言は、1942年3月1日に現実のものとなった。今村均中将率 いる第16軍は、総兵力5万5千をもって、ジャワ上陸を敢行した。 攻略は上陸後3ヶ月を要するだろうと予想されていたが、わずか1 0日後には、オランダ軍司令官は全面降伏した。予言を信じた現地 人が、オランダ軍が築いたバリケードなどの邪魔物を取り除くなど、 積極的に日本軍の進撃を助けたからだ。 独立運動の指導者スカルノ、ハッタの情熱に感銘を受けた今村中 将は、次のように言って、彼らを支援した。 「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべ きものだ。かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、 われわれの仕事だ、、、」[4,p263] それから、独立国への準備が始まった。300近い言語をインド ネシア語に統一する、州の長官、副長官などに現地人を登用し、州 や市の参議会を作って、行政や議会運営を習得させる、さらにイン ドネシア義勇軍を編成し、3万5千もの将校、兵士を育成した。こ れらの人々が後の独立戦争の主役となっていく。 ■4.植民地復活を狙うイギリス、オランダ■ 日本軍が降伏した1945年8月15日の二日後、スカルノとハッタは すかさず独立宣言を行う。18日には、インドネシア共和国憲法を採 択し、それぞれ大統領、副大統領に就任した。 しかしイギリスとオランダは、植民地の復活を狙い、「日本軍は 連合軍が進駐し、交代を命ずるまで、現状を維持し、治安を確保す べし。そのために必要なる武器は保持してもよろしいから、暴動は 必ず鎮圧すべし」と命令した。さらに「原住民の集会禁止、武器の 携帯、民族旗の掲揚を取り締まるべし。これがためには、兵器の使 用も可である。」との命令が来た。降伏した日本軍を使って、独立 運動を阻止しようというのである。 一方で、インドネシア側は、来るべき独立戦争に備えるためにも、 何としても日本軍が保有している武器が必要であった。今まで日本 軍に協力してきた幹部達は、必死に日本軍に支援を訴えた。 独立運動で暴徒化したインドネシア群衆が、武器を要求して、日 本軍の施設を襲う事件も起きた。日本軍は断じて「撃つな、指導者 と話し合え」と厳命を下した。暴徒に銃殺された日本人のなかには、 「インドネシアの独立に栄光あれ」と自らの血糊で壁に書き残した 人もおり、現地人に多大の感銘を与えて、今も記念として残されて いるという。[4,p290] ■5.独立戦争への支援■ 日本軍には、オランダ軍の目を盗んで、インドネシア側に協力す る人々が現れた。中部ジャワ地区の馬淵逸雄少将は、廃兵器処理の 許可を得るや、それを拡大解釈して、トラック何台分もの武器をチ レボン河の河原に捨てた。対岸で待機していたインドネシア側がこ れをごっそり手に入れた。 こうしてインドネシア側に、小銃3万5千挺、戦車、装甲車、自 動車など200台、中小口径砲など多数と、ジャワの日本陸軍の装 備の半分以上が手渡された。[4,p289] 自ら、軍籍を離脱して、インドネシア軍に身を投じた人々も多か った。その一人古閑正義中尉は、熊本県出身、明治大学で柔道とラ グビーの名選手だった。スマトラのアチエ州で、地元の青年達を 「何が何でも独立を勝ち取れ」と教育していた。 昭和天皇の終戦の詔勅の中の「東亜解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ、 遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ズ」という言葉から、インドネシア人を見 捨てて、日本に帰る気持ちにはなれず、同じ部隊の少尉4名ととも に、独立軍に参加した。戦闘に慣れないインドネシア人を率いて、 常に先頭に立って、指揮をした。[2,p94] オランダとの独立戦争は1949年12月までの4年5ヶ月も続いた。 兵員こそ200万人もいたが、武器は日本軍から手渡された数万挺 の小銃が中心である。オランダ軍は都市への無差別爆撃なども行い、 80万人もの犠牲者、1千万人を超える負傷者が出たと言われる。 インドを始めとするアジア諸国がオランダを非難し、国連安保理事 会や米国議会も撤兵勧告を行った。全世界の世論に押されてオラン ダは再植民地化を諦めたのである。[5] ■6.命を捧げてくれた日本青年を偲ぶ■ 平成7年5月29日、戦後50年を記念して、「アジア共生の祭 典」が開かれた。ちょうど、独立50周年を迎えたインドネシアか らは、スハルト大統領特使として、陸軍大学長、駐日大使などを歴 任したサイデマン外務省上級大使が参列された。 サイデマン大使は、約1万人の参列者に対して、次のような挨拶 をされた。 第2次大戦中、あるいはその直後、植民地の独立のために、 外国の人々が力を貸してくれるということが見られました。 私の国インドネシアの場合、多くの日本の青年たちがインド ネシアを自由にするために独立の闘士たちと肩を並べて戦っ てくれました。そして多くの日本の青年がそのために命を捧 げてくれました。今日このアジア共生の祭典において、私た ちの独立のために命を捧げてくれたこれらすべての若者たち を偲びたいと思います。[6] 「かれらが(独立を)戦い取ることのできる実力を養ってやるの が、われわれの仕事だ」という今村均中将の言葉は、現実となった のである。 [参考] 1. 独立50周年のインドネシアを訪ねて、日本の息吹、H7.10 2. アジアに生きる大東亜戦争、ASEANセンター編、展転社、S63 3. インドネシアで顕彰される元日本兵たち、祖国と青年、H7.11 4. アジア独立への道、田中正明、展転社、H3 5. オランダの戦争責任、祖国と青年、H6.10 6. 日本よ、勇気と自信を回復せよ−サイデマン外務省上級大使 との対話、祖国と青年、H7.7 7. JOG(2) 国際社会で真の友人を得るには インド独立50周年を記念して、昨年8月に代々木公園野外ステ ージで開催された「インドの夕べ」では、インド側代表の最高裁弁 護士ラケッシュ・デヴィーディ氏が「インド独立の為に日本人が共 に血を流してくれたことを忘れません」と、語った。インド解放を 狙ったインド国民軍と日本軍合作のインパール作戦からインド独立 までのあゆみを紹介。
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