「勉強ができるせいで蔑まれた」
という秀才の声が、ネットで話題になった。これについて論じる。
( ※ ゲーム脳やケータイ脳との関連で。)
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このことは最近、ネット上で話題になった。
→ 「勉強ができる」という蔑称
著者は女性。中高一貫の女子校を経て、東大に入って、理学博士になった。
彼女の子供のころからの体験談。「勉強ができる」と言われていたが、ろくなことはなかったという。「頭のいい子」という称号がついて回った。それは、賞賛の意味でそう呼ばれることも多かったが、「変わってる」「すかしてる」という意味での蔑称として呼ばれることもあったという。級友に集団でいじめられた記憶はないが、小学校三、四年生のころの教師には手ひどくいじめられたという。そこで、
「勉強ができるせいで蔑まれた」
という結論。そして、この理由を、社会に帰して、こう主張する。
「日本の科学技術の発展を妨げているもののひとつは、勉強ができることを蔑みの対象とするような、小学校から企業にも広がる精神風土なのではないか」
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これについて、あれこれとコメントや批判などが来たようだ。だが、ざっと目を通しても、どれもがピントはずれだと思う。そこで、私なりに、見解を示してみたい。
( ※ この件は、「ゲーム脳」「ケータイ脳」などの問題と関連する。最近の若い人々に特有の傾向の一つとして認識できる。そこで、一種の時代の問題として、文化論的に論じる。)
( ※ なお、この女性のプロフィールを見ると、ポスドク時代を経て、新婚さんだというから、30歳前後の比較的若い女性だと思える。)
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初めにお断りしておこう。以下では、かなり厳しい見解を述べるが、別に、この女性を批判することが目的ではない。(ブログには本人を批判する声が多いが、私はその立場ではない。)
この女性は、特に風変わりなのではなく、現代の若者に典型的なもので、ありふれたものだと思う。ゲームやケータイばかりをやっていて、ろくに友人たちと遊ばなかったという子供時代を経たならば、こういうふうに育ったとしても当然だ、という気がする。
その意味で、批判するとしたら、この女性だけではなくて、現代の若い人々全般だ、ということになる。この女性はその代表ないし典型であるだけだ。特にこの人を批判したいわけではない。
その趣旨で、以下の話を述べる。
( ※ この人は俎上に上がるので、迷惑千万だと思うかもしれないが、本人にとっても役立つ話もあるので、できれば斟酌していただきたい。ただし、本人にとっては迷惑がかかりそうなので、その点では、初めにお詫びしておく。)
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いきなり厳しい言葉を浴びせるが、この人は認識ミスをしているようだ。私はそう思う。
「勉強ができるせいで蔑まれた」
というのが彼女の認識だ。だが、それは正しくあるまい。正しくは、こうだ。
「勉強ができるとしても、蔑まれることがある」
勉強ができる人は、蔑まれることもあるし、蔑まれないこともある。勉強ができるのに蔑まれることもあるし、勉強ができていて尊敬されることもある。
つまり、蔑まれるかどうかは、勉強ができることとは関係がない。両者は無関係のことだ。
ところが、彼女は、ここに因果関係をつけてしまう。
勉強ができる ⇒ 蔑まれる
というふうに。しかし、この論理は、あっけなく破綻する。例外がいくらでもあるからだ。それが前述のことだ。つまり、「蔑まれるかどうかは、勉強ができることとは関係がない」ということだ。
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彼女は理系であるくせに、因果関係というものをまったく理解できない。ある現象があったときの原因を、ただ一つの理由に帰してしまう。実証されたわけでもないのに、思い込みで。
ではなぜ、彼女はそういう思い込みを得たのか?
それはおそらく、前もって別の思い込みがあったからだ。それは、
「勉強ができれば尊敬されて当然だ」
という思い込みだ。それがあったから、それとは反対の現象にぶつかったとき、論理をひっくり返して、
「勉強ができるせいで尊敬されない(蔑まれる)」
というふうに認識してしまう。論理の倒錯が起こってしまうわけだ。(非論理的な発想。)
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彼女は、勝手な思い込みを取る前に、現実を見るべきだ。自分一人を見るだけでなく、大勢の人々を見るべきだ。そうすれば、ただちに事実がわかるはずだ。
「頭のいい子には、蔑まれる子もいるし、尊敬される子もいる」
この事実は、まわりを見れば、すぐにわかるはずだ。
私の体験で言っても、このことは成立する。クラスには、頭のいい子は何人かいたし、そのレベルは、上記の彼女と同レベルだったと思う。
それでも、同じぐらいの秀才を見ても、尊敬される子もいたし、尊敬されない子もいた。では、その違いは?
尊敬される子は、クラス員などをして、明るくて人望の厚い子であった。
尊敬されないのは、根暗で勉強ばかりやっていて、内に閉じこもっている子だった。
私の体験では、クラスには三人の秀才がいたが、そのうち二人は、上記のように分かれた。
( ※ この二人は、勉強ができるだけでなく、勉強をとても熱心にやっている努力家であり、秀才タイプだった。一方、もう一人、変人タイプがいた。勉強は[宿題さえも]学校以外ではちっともやらないで、朝から晩まで遊んでばかりいて、いたずらばかりやっている。そのくせ、常に成績は傑出して一番という子。それが誰であるかは……想像してください。 (^^); )
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とにかく、「勉強ができるかどうか」は、尊敬されるか蔑まれるかとは、全然別のことだ。なのに、両者を結びつけて、
「勉強ができるせいで尊敬される」
「勉強ができるせいで蔑まれる」
というふうに思うようでは、物事を勘違いしていることになる。人間関係というものをまったく理解できていないことになる。(一種のオタクか。理系オタク?)
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では、勉強は無関係だとしたら、彼女はなぜ蔑まれたのか? ここでは、次のように考えるといい。
「勉強ができるにもかかわらず、蔑まれた」
つまり、他の子を見れば、勉強ができて愛されるのに、彼女はなぜか、勉強ができても蔑まれた。それは、なぜか?
ここから先は、話が厳しくなるが、次のように言えるだろう。
「彼女には蔑まれる理由があった」
では、それは何か? 通常、思い浮かぶのは、何らかの欠点だ。
「頭が悪い」
「デブである」
「容姿が悪い」
など。
しかし、それよりも決定的な理由がある。
「性格が悪い」
ということだ。そして、その典型は、こうだ。
「自分の損得ばかりを考えていて、他人への思いやりが欠けている」
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彼女には、その傾向があったか? 実物に会ったわけではないから断言はできないが、その傾向はあったと思う。なぜなら、そのことが、ブログの文章にも表れている。
彼女のブログには「自分は正しい」「世間が間違っている」という趣旨の言葉ばかりが書かれている。自分の正当化と、他者や社会への憎しみ。……これじゃ、まるでトンデモマニアと同様である。他人を批判するばかりで、自己に対する尊大さがあふれている。
こういう人は、世間から決して尊敬されないだろう。むしろ、蔑まれるだろう。
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彼女は人生というものがまったくわかっていない。人生経験が少ないのかもしれないが、30歳ぐらいになっても人生経験が少ないとしたら、それまで人生経験を積む作業をまったくサボっていたとしか思えない。(勉強のしすぎ。自分の知力を高めることに熱中して、他者への思いやりが欠落している。そういうことだろう。)
そこで、彼女のために、人生というものを教えてあげよう。
人生では、彼女のように、つらさを味わうこともあるだろう。しかし、人生とはもともと、そういうものだ。この社会には、つらいことはたくさんある。理不尽なこともある。そういうものなのだ。
そして、それに対して、「社会が悪い」などと批判しても、何にもならない。そういう批判は単に、彼女が「世間知らず」であることを意味し、また、彼女に「社会への適応力がない」ことを意味するだけだ。……簡単に言えば、オタクなのである。
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まともな人生経験があれば、そうではないはずだ。社会を恨むよりは、社会に感謝するはずだ。
たとえば、彼女は、自分が東大で学べたことに感謝していいはずだ。なのに、そうしない。それはおおかた、
「東大に入れたのは自分の実力だ、自分が頭がいいからだ」
とでも思っているのだろう。しかし、それは間違いだ。
彼女が東大で学べたのは、国立大学というものがあったからだ。それゆえ、高い学費を払わなくても、最高レベルの教育環境に入ることができた。一方、米国ではハーバード、英国ではオックスフォード、というものがあるが、いずれも私学であり、高い学費を要求される。なのに、彼女は日本にいたおかげで、国立大学で学べた。そして、それは、社会の税金でまかなわれているのだ。
とすれば、東大で学べたことで、「社会の皆さん、ありがとうございます」と感謝するべきだろう。実際、私はとても感謝している。その感謝を忘れたことはない。だから、社会から与えられたものを、社会に還元したいと思って、いろいろと努めている。
なのに、彼女には、そういう観念はない。社会への感謝のかわりに、社会に対する恨みだけがある。
とすれば、こういう人は、蔑まれても仕方ない、とも言える。
「他人が悪い、社会が悪い」
と恨んでばかりいて、自分が与えられたものをすっかり見失っている。一種の恩知らず。これでは、周囲からどう思われるかは、自明の理だろう。
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彼女がなすべきことは、
「自分は頭がいいんだから、もっと報われて当然だ」
と思うことではない。むしろ、
「自分は才能を伸ばすだけの教育を社会から与えられたのだから、せっかく育てた力を十分に発揮して、社会に還元しよう」
と思うべきだ。
なのに彼女は、やっていることも思っていることも、正反対である。
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このようなことは、彼女に影響するだけでなく、彼女の子供にも影響する。彼女が今の考えを改めなければ、子供にも悪影響が及ぶ。彼女の二の舞みたいなものができてしまう。
たぶん彼女は、
「勉強が一番大切なことですよ。しっかりと勉強しなさい」
というふうに教育しているのだろう。しかし、そんなことをしてはならない。(もし、そうすれば、彼女の二の舞になるだけだ。)
なすべきことは、何か? 子供にこう教育することだ。
「勉強は、自分のためにやることです。それより大切なのは、世の中のためになるようにすることです。自分の利益のことだけ考えるような利己的な人になってはいけません。世のため、人々のためになるように、優しい人間になりましょう。困ったお年寄りがいたら、助けてあげましょう。体の具合の悪い人がいたら、助けてあげましょう。人間にとって一番大切なのは、優しさです。勉強などは、二の次、三の次です」
こういうふうに教えるべきなのだ。
そして、彼女がもし、自分の親からそういう立派な教育( or しつけ)を受けていたならば、彼女は立派な子供に育っただろう。そういう子供は、人々から愛され、尊敬されるので、ブログに書いたような苦労を味わうことはなかっただろう。
結局、彼女に欠けていたのは、「人間性」だったのだ。「勉強ができなければ、蔑まれることもなかっただろう」ということは、成立しない。仮に彼女が、勉強ができなければ、「自分のことばかり考えている女」として、もっと手ひどくいじめられたかもしれない。
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ただし、注意してほしい。
最初にも述べたが、上記のことは、特に彼女だけを批判しているのではない。同様のことは、同年代の大多数の人々に当てはまる。
・ ゲームばかりやっている子供
・ ケータイばかりやっている子供
こういうのは、わんさといる。そして、そのなかには、
・ 勉強ばかりやっている子供
というのもいるだろう。(それが彼女だ。)
そして、こういう連中はすべて「オタク」なのだ。その対象は、ゲーム、ケータイ、勉強、というふうに形を変えているが、そのいずれにも、共通点がある。それは、
「自分の狭い世界に閉じこもって、社会性・協調性を有しない」
ということだ。子供時代に、ちゃんと仲間といっしょに遊べばいいものを、引きこもりオタクみたいに閉じこもって、ゲーム、ケータイ、勉強ばかりに熱中している。
そのせいで、他人の心を推し量ることもできないし、他人への優しさもろくにない。
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「いや、私はそんなことはありません」
と反論する人もいるかもしれない。もしそうならば、次のチェックリストで、確認してほしい。
電車では常に老人や妊婦に席を譲るようにしている。
階段で重い荷物を持っている老人を見たら助ける。
困っている老人を見たら、声をかける。
困っている外人を見たら、声をかける。
集団行動をするときは、常に最弱者に目を配る。
ブログやホームページでも、社会貢献に努める。
PTAや自治体活動などで率先的に奉仕する。
身障者にはなるべく優しくふるまおうと常に努める。
自分が与えられた多くのものに、常に感謝する。
自分が与えられた分、なるべく還元したいと思う。
これらは別に、珍しいことではない。欧州や、あるいは途上国では、このリストに対して全項目「イエス」と答える人が大多数だろう。ただし、日本では、そうではあるまいが。
( ※ ちなみに、米国では、ボランティア活動をしている人がすごく多い。先日はオバマもやっていた。日本は全然違うが。)
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とにかく、日本では、こういうふうに「オタク」つまり「社会性のない人々」が多すぎる。
それが肝心の点だ。(例の彼女を批判したいわけではない。例の彼女は、ただの一例にすぎない。)
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さて。問題はこのあとだ。
このような社会的な傾向があるとしたら、いったい何がこのような事態を引き起こしたのか?
理由はいろいろと考えられるだろう。「ゲーム」「ケータイ」など。だが、それだけが理由ではあるまい。現代のように、ゲームやケータイがあふれている社会でも、まともに育っている子供は決して少なくない。
では、その違いは、何か?
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私が思うに、それは、教育環境であろう。親が子供の躾をないがしろにしておけば、子供は駄目な子供になる。「勉強だけなさい」と言われて、あとはゲーム機だけを与えられているような子供は、結局はスポイルされてしまう。
一方、親からちゃんとした人間教育や躾を施されていれば、人間的に優しさを備えた子供になる。
そして、そのような人間教育をもたらすのは、親だけではない。周囲の友人や、大人たちも影響する。
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ちなみに、私の例を挙げよう。私はちっとも蔑まれなかったし、とても楽しい小学生時代を過ごした。ほとんど天国のような気分だった。 (^^);
私と彼女とは違う。では、どこが違うか? 私がとても善良であったことか? いや、私はやんちゃな悪戯っ子であったし、とても善良ではなかった。悪戯が過ぎて、教師に「悪太郎」と呼ばれたことすらあった。それほどの悪ガキだった。 (^^);
私と彼女との違いは、私のまわりの人間環境が良かったことだ。すばらしい級友がいたし、すばらしい教師がいた。今にして思っても、実にすばらしい人々であったと思う。
手に負えない悪戯っ子であった悪ガキをていねいに扱って、きちんと教育してくれた教師。いつも快活だった、明るい優しい親友たち。(超美人の異性を含む。 (^^); )
実にすばらしい環境があったと思う。その意味で、私はとても幸運であった。
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私の子供時代はそうだった。そして、例の彼女も、すばらしい教師や仲間がいれば、ひどい思いを味わうこともなかっただろう。また、彼女自身が、彼らの影響を受けて、仲間に対して優しくしようとふるまっただろう。「勉強だけできても意味がないよ」ということを教えてくれるような、大人や仲間たちと出会って、人間形成の時間を過ごして、ちゃんとした愛される子供になれただろう。
しかし彼女は、そのいずれも得られなかったようだ。たぶん、ゲーム機とかテレビとか、そんなものばかりを与えられていたのだろう。本をたくさん読むのはいいが、本以外には大切なものを何も与えられなかったのだろう。そしてまた、親は、「勉強なさい」とだけ言って、「世の中のために尽くせる人になりなさい」とは言わなかったのだろう。
その意味で、彼女は、いくらか不運であったとも言える。そういう根源的な不運があるせいで、その後、いくら多くのものを得ても、感謝するどころか、他人を恨むようになってしまった。そういうことなのだろう。
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子供のころの教育環境というものは、とても大切なものだ。
私が思うに、彼女の受けたころには、年老いた教師がいただけなのだろう。若々しい優秀な教師が、愛情と情熱あふれる教育をしてくれた、という体験はなかったのだと思う。(最近のテレビドラマと、昔のテレビドラマを見ても、その違いがわかる。昔は熱情、今はクール。全然違う。)
若い教師から情熱的な教育を受けた私は幸運だったが、それを得られなかった彼女は不運だった。こういう教育制度(教育環境)の違いが、彼女には不運をもたらしたのかもしれない。
現代の子供はゆとり教育(など)で遊んでいるが、その一方で、教師は疲弊している。教育のレベルは低下する一方だ。彼女はその被害者と言えなくもない。
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だから、彼女が嘆くとしたら、
「頭がいいせいで蔑まれる」
という点ではなくて、
「頭がいいだけでは蔑まれることもある」
ということに気づかずに成長してしまった自分の不運さだ。── まともな教育を得られないせいで、まともな人間形成ができないままだった。そのせいで、勉強ばかりができる(勉強しかできない)、くだらない人間になってしまった。
それは、彼女のせいではあるまい。彼女の不運だ。そこには、時代ゆえの不運がある。
仮に、彼女がもっと古い時代に生まれてきたなら、もっとすばらしい教育を受けて、もっと豊かな人間性を獲得できただろう。ゲームやケータイや塾通いなどをしないで、人間として一番大切なものを育まれただろう。もしそうだったなら、彼女は後年、「勉強ができるせいで蔑まれる」などとは書かず、「せっかく得た自分の能力を社会に還元するにはどうしたらいいでしょうか?」というようなことを書いていただろう。
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最後に少し、補足しておこう。
彼女の主張するように、
「頭がいいせいで蔑まれる」
ということはない。正しくは、
「頭がいいかどうかは、尊敬されるかどうかには関係ない」
ということだ。そのあとで、こう思うべきだ。
「人間の価値は、(頭がいいというような)能力の有無によって決まるのではない。その能力をどう使うかによって決まる」
自分の能力を、自分の利益だけに使うとすれば、そんな人間は社会にとっては何の役にも立たないから、尊敬されることはない。また、社会から教育などの福祉を得ていながら、その投資効果を還元しないということは、一種の泥棒であるから、泥棒が軽蔑されるのは当然だ。
自分の能力は、自分のためだけでなく社会の向上のために使うべきなのだ。そうすれば、その人は社会にとって有益だから、尊敬される。
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彼女は、「自分がいかに多くのものを与えられていたか」を気づいていないようだ。そこで、そのことを気づかせてあげよう。
彼女は「中高一貫の女子校」で学んだという。とすれば、まず間違いなく、私学に入ったことになる。とすれば、それだけ裕福な家庭に育ったことになる。これは、幸運なことだ。
私はそうではなかった。近所の公立以外に入ることなど、経済事情からして許されなかった。夢見ることさえ不可能だった。
その後、高校は国立に入ったが、そこで初めて、国立中学で学んだ仲間がいかにすばらしい教育を受けてきたかを悟った。まるで天国と地獄ぐらいの差があった。そのときようやく、「自分も国立中学で学びたかったな」と心から思った。(私よりも学力の低い級友がどんどん国立中学に入っていたから、合否の点では問題なかったはずだ。)
だから、中学時代に限れば、彼女は圧倒的に多くのものを得られた。そして、それは、彼女が私よりもずっと優秀な頭脳を備えていたからではなくて、彼女が裕福な家庭に生まれたからだ。(ちなみに、私の母方の実家は、すごい富豪だったが、農地改革で全資産を国家に没収された。それでも国を恨む言葉は一言も漏れなかった。)
例の彼女は、自分の幸運を忘れている。また、親への感謝を忘れている。何もかも自分の実力でやったと思い込んでいる。視野があまりにも狭い。
だから、彼女に、アドバイスしよう。彼女が尊敬されるためには、頭が平凡になればいいのではない。あるいは逆に、もっと頭が良くなればいいのでもない。あるいは、美人になればいいのでもない。……もっと心優しくなればいいのだ。
つまり、まわりの人々を恨むかわりに、まわりの人々に優しい慈しみの手を与えればいいのだ。たとえば、ボランティアなどをして。
そして、人々に多くのものを与えたとき、初めて気づくはずだ。多くのものを人々に与えることによって、自分がいかに多くのものを得られることになったかを。
【 関連サイト 】
→ 孤児院出身者の話 ,その続編(コメントも)
とてもためになる話。ぜひ、ご覧になることをお勧めします。
ついでに、舌切り雀の話も思い出すといいでしょう。欲張り婆さんの話。
→ 民話のサイト
( ※ あまりにも多くを与えられた人は、自分が与えられているものに気づかないものです。そのあげく、「与えられていない」と騒いで、他人を非難するものです。)
【 関連項目 】
→ 勉強なさい 〜 偉くなるために
※ ひょっこりひょうたん島の歌。こういう優れた番組があった時代は
いい時代だった。
※ そう言えば、次の番組もあった。
→ ケペル先生の教え
2009年02月06日
◆ 頭がいいと蔑まれる?
posted by 管理人 at 19:49
| Comment(4)
| 科学トピック
紹介したブログに寄せられたコメントや、そこにリンクやトラックバックを付けたサイトなどを見ると、あまりにもひどい文章が多すぎる。彼女はそれに丁寧に答えているが、馬鹿ではない。また、悪人でもない。(オタクっぽいだけだ。)
ひるがえって、ある有名アルファ・ブロガーのひどさといったら。馬鹿の見本か。 (^^);
それを見て感じたのは、こうだ。
「蔑まれているというのは、彼女の被害妄想にすぎない」
だいたい、世の中、自分の悪口を言われるぐらいのことは、よくあることだ。彼女はちょっとそれを過大に考えすぎているのだと思う。だから、
「すべては彼女の脳内妄想にすぎなかった」
というのが、事実に一番近いかもね。
「教師には、手ひどくいじめられた。」
ということだが、これは教師のスパルタ教育を誤解したのかも。星一徹や丹下段平みたいな教育者だったのかもね。
「勉強ができるせいで、しごかれる」
ということは、十分に考えられる。
タイムスタンプは 下記 ↓
「ゲーム脳」「ケータイ脳」は、その言葉から世間的に理解されている意味とは、全然違っています。
それぞれの言葉は、(本サイトにおける)言葉がリンク先の項目で説明されているので、ちゃんとそちらの項目を読んでから、それらの言葉を理解してください。
※ 「ゲーム脳」「ケータイ脳」というのは、「そんなことを言うやつはトンデモだ!」と言うトンデモマニアを引っかけるための毛針です。あんまりあっさり引っかかると、詰まらないので、もうちょっと頭を使ってくださいね。
──
なお、彼女のことを非難している、というふうに誤読している人もいるようですが、それはあまりにもひどい誤読なので、ちゃんと本文を読み直してください。