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奪われた記憶を求めて
元日本軍「慰安婦」沈達連さんの強制連行の現場から
「自由主義史観」グループは、軍や官憲による報制連行的な日本軍「慰安婦」の連行はなかったと主張している。だが、中国・フィリピン・インドネシアなどの日本軍による占領地だけでなく、植民地支配していた朝鮮でも、日本軍による奴隷狩りのような連行は行なわれた。姉と一緒に拉致・誘拐された沈連蓮さん(69歳)と拉致現場を確認し、強制連行の証人たちを見つけ出した。
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強制連行の現場を発見
次に、沈さん姉妹が拉致された場所へ向かう。昼頃から降り続いている小雨はやみそうにもない。国道を渡って少し歩くと、小川にコンクリート製の橋がかかっていた。「昔は小さな橋だった」と言う。自宅の場所がわかったので、彼女は迷うことなく拉致された現場を探し出した。芽吹いたばかりの雑草で線のじゅうたんを敷いたような田植え前の水田が広がっている。昔と違うのは、ビニールハウスが何棟か建っていることくらいだろう。場所を特定する大きな目標は、当時と同じ位置に敷かれている京釜線(注2)の線路だった。ひっきりなしに列車が行き来する。線路から30メートルほど国道寄りのこの場所で、沈さん姉妹は日本兵に捕まったのだ。
「一家の生活は貧しくて学校には行けませんでした。食糧の足しにするためにヨモギを姉と二人で摘んでいました。すると、赤い腕章をした兵隊に突然手を捕まれ、広い道の方へ引っ張られていったのです。そこには幌をかぶせた一台のトラックが止まっていて、数人の兵隊がいました。トラックがやってきたのには気がつかなかったのです。乗せられる際に抵抗した私は、靴でひどく蹴られました。荷台にはすでに何人かの女性がいました」
沈さんは、トラツクに乗せられてからのことを次のように語った。「私たちを乗せたトラックは、ここから離れた学校の正門に乗りつけました。そして、中から出てきた5〜6人の女の子たちを捕まえて乗せたのです。私よりも少し若い女の子たちでした。連れていかれる途中では、食べ物もほとんど与えられませんでした。
ある日、姉だけが別の場所へ連れていかれ、戻ってくるとすごく泣いていました。私たちは船に乗せられて海を渡りました。そして20人ずつに分けられることになり、姉とは別の集団に入れられたのです。私は必死に抵抗しました。ですが、姉と別のトラックに乗せられてしまいました。それ以来、姉の行方はわからないのです。今でも、この時の様子は忘れられません」
日本兵に姉を奪われたことは、沈さんの心に深い傷として残っているようだ。「日本人を煮て食べたとしても怒りはおさまらない。姉を返してくれれば日本に何も求めない」
と語る。私は思わずたじろいだ。無表情に淡々と話す内容があまりにも激しい日本への怒りだったのである。
「慰安所」での生活については次のようである。
「着いてからは洗濯と炊事をさせられ、数日後に大勢の兵隊に犯されたのです。気がついたら病院でしたがすぐに戻されました。文字を知らない私は、他の女性たちよりも兵隊に殴られたのです。慰安所の周辺には山が多いために寒く、2〜3年すると体がボロボロになりました。食事の量は少なく、私たちを犯す兵隊たちの方もすごくやせていて、骨と皮の状態だったのです。若い兵隊ばかりだったので同情さえしました」
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http://www.jca.apc.org/~earth/sub10.htm
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朝鮮の慰安婦の記事を書いたら本が何冊もできるだろう。朝鮮現地の「女衒」は無数にいたし、若い少女が高く売れたのも事実だ。日本軍が直接女をかき集めたなんて、それほど日本軍は落ちぶれてはいない。また戦闘が行われなかった朝鮮で女が不足するはずもない、戦争中の常識で考えれば高いお金を稼げる慰安婦はむしろ競争倍率が高かったと知るべきである。
2007/3/10(土) 午後 7:29
>Lamerfonteneさん 日本軍は落ちぶれていたんだよ。これは政府首脳も頭を抱えるくらいひどい状態だったんだ。とにかく、戦地で女という女を強姦しては殺してしまう、略奪して火を放つ、中国人とみれば、虫けらのように殺してしまう。その対策として従軍慰安婦を与えたんだ。ところが、たくさんの日本人の病気を持っていない女性を集めることは、困難だったので、植民地や占領地の若い女性を手段を選ばず集めたと言うことなんだ。もちろん多くの場合は、軍の委託した人身売買の仲介者がいたわけだが、公的機関の軍が人身売買された女性を監禁して性のサービスを強要させる公的制度創ったことは人道に対する重大犯罪であることには変わるわけじゃない。世界中が皇軍性奴隷を認めない日本を知って唖然としている。目が覚めた方がいいよ。
2007/3/10(土) 午後 11:03 [ ele**ric_*eel ]