2009年02月07日

すべての現象のなかに自己を証かす

自分の好みを知るということが結局自分を知ることなんだと思う」や「頭で考えるのではなく、身体で直観する」で、いろいろと書いてみたものの、結局のところ、「自分を知る」ということなのかもしれない。



様々な現象のなかで様々なものを感じ取っている自分を現象の只中において知るということなのだろう。

自我によってすべてを認識しようとするのが迷いなのだ、諸々の現象のなかに自我の在りようを認識するのが覚りである。
道元(石井恭二訳)『現代文訳 正法眼蔵1』

僕が「直観」と呼んだのは、道元のいう「覚り」に近いものなんだろうと感じます。ただ単に感じたままの感覚を「直観」と呼ぶのではなく、自分も含めてあるがままの現象とその現象を感じとっている過去にも未来にもつながった自分を認識することを僕は「直観」と呼びたい。

「すべての現象のなかに自己を証かす」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 01:17 | コメント(2) | 言及した情報へのリンク (0) | ライフハックス | はてなブックマークに追加 | このエントリーをdel.icio.usにブックマーク

2009年02月06日

自分の好みを知るということが結局自分を知ることなんだと思う

デザインする人に必要な能力は?」ではいろいろ書きましたが、デザインする人にとって何が最も大事なことかをひとつだけあげるとすれば、それは「良い物を良いと見抜く力」なのだろうと思います。



「良い物を良いと見抜く力」をもった人としては、古くは千利休古田織部のような茶人がいました。近代でも柳宗悦さんや青山二郎さん、白洲正子さんなどは、その目利きの力を評価されています。

こうした人びとは、それぞれに自分の好みについて明確な理解がありました。利休好み、織部好みなどという言葉もあります。
何が良い物かということについて一般化できる答えなどはありません。一般解を求めるのではなく、それぞれが自分の好みを明確に知ることが大事でしょう。自分の好みが明確にわかっていなければ他人の好みがわかるはずがないのだから。

「自分の好みを知るということが結局自分を知ることなんだと思う」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 21:39 | コメント(0) | 言及した情報へのリンク (0) | デザイン | はてなブックマークに追加 | このエントリーをdel.icio.usにブックマーク

頭で考えるのではなく、身体で直観する

どうしたらいいか?と考え悩むのではなく、あるがままにまずは受け止めてみることが大事なんだろう。

それはまったく「考えない」ということとはちょっと違う。
考えないようにするといってもそもそもむずかしい。ただ、おなじ考えるにしても、すぐにどうしたらいいか?と結論を急ぐのではなく、まずはあるがままをじっくり感じ取るということをしてみるのがいいのかもしれない。

「頭で考えるのではなく、身体で直観する」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 02:31 | コメント(2) | 言及した情報へのリンク (0) | ライフハックス | はてなブックマークに追加 | このエントリーをdel.icio.usにブックマーク

2009年02月04日

デザインする人に必要な能力は?

発作的に、なんとなくデザイン(企画・設計)をする人に必要な能力なるものをまとめてみたくなったので実行(ようは自分の頭のなかを整理するため)。

もちろん、ここでいう「デザイン」は、ある問題を発見して解決するためのプランを考え実現させることをいう。なので、決して狭義のデザイナーのことではありません。

で、そういう意味での「デザイン」をする人にとって必要な能力をまず、ザクッと分類すると以下の4つに分けられるのではないか、と思います。

  • 知る・感じる・疑問に思う
  • 解釈する・発想する・組み立てる
  • 具体化する・検証する・洗練させる
  • 仕事をはじめ、終わらせる

どれもデザインをする上では欠かせない。



というわけで、ひとつひとつ整理していくことにします。

「デザインする人に必要な能力は?」の続き
タグ:デザイン
posted by HIROKI tanahashi at 21:56 | コメント(1) | 言及した情報へのリンク (1) | デザイン | はてなブックマークに追加 | このエントリーをdel.icio.usにブックマーク

2009年02月03日

うつぼ舟I 翁と河勝/梅原猛

日本の中世史がおもしろい。
もちろん、おもしろいと感じるのは、僕自身がそこに関心をもっているから。特に芸能民を中心とした職能民についての歴史、それに関連して市場や座が生まれ定着した室町期の歴史にとても関心があります。
いかにして僕らの歴史から断絶した感のある現代を、そうした歴史的な流れに接続するか。それが現在の日本が抱えた大事な課題なんじゃないでしょうか?

既存の権威の崩壊に即した民衆の自治のはじまり

最近では、網野善彦さんの『日本の歴史をよみなおす』『無縁・公界・楽』『異形の王権』だったり、昨年末では、内藤湖南さんの『日本文化史研究』『東洋文化史』を紹介しましたが、室町期には、いまの日本につながる大きな社会の転換が起こっている。

その転換は一言でいえば、既存の権威の崩壊に即した民衆の自治のはじまりということができるでしょう。

その背景としては、鎌倉期に起こった新仏教である時宗や浄土宗、一向宗、禅宗、法華宗などがこぞって悪党や女性をふくむあらゆる民、そして、山川草木悉皆成仏と有情/無情のものに限らずあらゆるものが成仏するとした教えを説いたこと、古代より海や山河の道でネットワークされた職能民のつながりが各地に自治的な都市を形成し、そこに宿場や市場を開いたことなどがある。

そして、そうした仏教の影響、都市の経済的な影響を背景に、中世には以降の日本文化を形作ることになるさまざまな芸能が室町期には生まれてくる。能楽、茶道、華道、書道、香道、作庭などの文化はいずれも、鎌倉期に生まれた新しい仏教である浄土・禅・法華などの影響を受けながら日本の生活文化を形作ることになります。

芸能民・職能民の末裔として

室町紀以前は畏怖の目をもって受け止められた芸能民・職能民。それが室町期を経て、賤視の目に晒されることになる。

網野さんが『日本の歴史をよみなおす』で書いているように、古来より日本には、人間と自然とのそれなりの均衡のとれた状態に欠損が生じたりする場合に穢れを感じる傾向があった。建物や庭を作るために巨木や巨石を動かすこともケガレとされていた。そうした職能をもつ職能民はその力において畏怖の対象であると同時に、その職能そのものがもともと有する穢れによって賤視の対象になっていた。

現代において、「人間と自然とのそれなりの均衡のとれた状態に」変化をもたらすことを仕事にする、何らかの形でものづくりに携わる、そうした賤視の目に晒された職能民の末裔だということを自覚したほうがいい。それが僕が中世の職能民たちが歩んだ歴史に着目する理由。

この本もそうした中世の職能民の歴史を紹介してくれる一冊。

以前に『隠された十字架―法隆寺論』や、白川静さんとの対談『呪の思想―神と人との間』といった本を紹介した梅原猛さんのこの『うつぼ舟I 翁と河勝』は、そんな中世芸能史においても室町文化を代表するもののひとつである能=申楽の発生と展開の歴史にフォーカスした芸能史論です。

「うつぼ舟I 翁と河勝/梅原猛」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 23:34 | コメント(0) | 言及した情報へのリンク (0) | | はてなブックマークに追加 | このエントリーをdel.icio.usにブックマーク

2009年02月02日

物事へのこだわりと元気のなさ

最近、いろんな会社の人にお会いして「元気がないな」と感じることがあります。
積極性や前向きさを感じなかったり、意欲や緊張感がなかったり、大人しかったり、身軽さを感じなかったり、もっと単純に生気を感じなかったり。そういういろんな要素が混ざって「元気がないな」というのを感じます。そういうのって個人が、というより、会社単位で、という印象がある(といっても、僕がお会いするのは大きな会社のごく一部の部門の一部の人たちではありますが)。

今年にはいって、よけいにそれを感じるのはやっぱり不況のせいでしょうか。
でも、そういう人ばかりかというと、決してそうでもなくて、割合としては少ないほうになってしまいますが、相変わらず元気が感じられる会社の人たちもいます。

「物事へのこだわりと元気のなさ」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 23:12 | コメント(0) | 言及した情報へのリンク (0) | デザイン | はてなブックマークに追加 | このエントリーをdel.icio.usにブックマーク

2009年02月01日

生きた文字が溢れている

ラフカディオ・ハーン=小泉八雲の『日本の面影』を読んでいます。

僕が読んでいるのはハーンが1890年の4月に日本にやってきてはじめて書いた作品集『知られぬ日本の面影』27編から11編を抜粋して編集した角川ソフィア文庫『新編 日本の面影』。いまはその本の半分くらいの6編を読み終えたところです。

この本を読んでると、日本のことがますます好きになります。そして、僕らにはもはや目にすることが叶わない明治20年代の日本に触れることができたギリシア生まれで日本に帰化したハーン=八雲のことをうらやましく感じます。

詳しくは書評をあらためるとして、今日は「東洋の第一日目」と題された1編から気になったところを抜粋しておきます。

「生きた文字が溢れている」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 21:39 | コメント(0) | 言及した情報へのリンク (0) | デザイン | はてなブックマークに追加 | このエントリーをdel.icio.usにブックマーク

どうせ持つなら長く使えるものを

最近、買い物をするときにひとつの基準にしているのが「長く使えて、使ううちに味が出てきそうなもの」を選ぶことです。



この一昨年の秋から履いているラッセルモカシンのゼファーブーツ(右)と、同じく一昨年の冬から着用のサンダースのカントリーブーツ(左)もそう。ガンガン履き続けたことで、だんだん味が出ていい感じに育ってきました。

「どうせ持つなら長く使えるものを」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:11 | コメント(0) | 言及した情報へのリンク (0) | 日記 | はてなブックマークに追加 | このエントリーをdel.icio.usにブックマーク

2009年01月30日

日本の歴史をよみなおす/網野善彦

日本の歴史をよく知らない人ほど、その歴史に対して漠然としたイメージをもっていたりします。

例えば、

  • 日本は古くから農業中心の社会で、稲作を中心に据えてきた
  • 日本の人口の大部分は農業民で、多くの村は農村だった
  • 商工業民は農耕民より身分が低いものとされ、芸能民を含む非人は賤視されてきた
  • 昔は識字率が低く、一部の階層の人しか文字を読むことはできなかった
  • かつては村などの共同体単位で自給自足の生活をすることが多かった
  • 明治期の開国において日本は一気に資本主義化、産業主義化を果たした

などなど。

でも、この本を読むと、こうしたイメージがまったくの想像の産物でしかないことがわかって唖然とします。
そして、そこからはまったく別の日本のイメージがそこには浮かび上がってくる。

  • 日本の村の四分の三が室町時代に出発点を持っている
  • 14世紀を超えて15世紀にはいる頃になると、それまで漢字中心の文章からひらがな交じりの文章の割合が圧倒的に増える
  • 金属貨幣の流通が本格化しはじめたのは13世紀後半から14世紀にかけてのこと
  • 天皇という称号が制度的に定着するのは天武・持統朝。日本という国号もそれとセットで7世紀後半に定まった。つまり、聖徳太子は「倭人」ではあっても「日本人」ではない
  • 縄文時代からすでに日本は朝鮮半島や北のサハリンと交流があった。海は日本の国境ではなく、むしろ東と西をはじめ、いまの日本の国内に複数の国が存在していた
  • 百姓は必ずしも農民を意味しない。土地をもたず貧しいと考えられていた水呑百姓は必ずしも貧しくはなく、むしろ廻船業を営むなどして裕福である場合もあった
  • これまで貧しい村と考えられていた田畑の少ない離島や山奥の村であっても必ずしも貧しいとは限らなかった。むしろ、海路や陸路における要衝の地で栄えている場合も少なくない
  • 律令国家はすべての民を戸籍に記し田畑を与えたが、稲による租税の徴収を行おうとしたが、実際はすべての民が農業に従事することはなく、とうぜん租税も米に換算した別の物資(鉄、海産物、絹や麻など)で支払われることになった、
  • また、律令国家はそれまでの海や河を通じた交易から、陸路による交易へと転換しようとして、都から地方へと延びる真っ直ぐな道を整備したが、しばらくすると海路・水路による交易に戻って、陸路の道は廃れた
  • 南北朝の動乱を期にした社会構造の大変換で、各地に自治的な都市や村ができ、海路や水路を使った交易はより盛んになり、それ以降近世を通じて商工業の力は非常に大きな蓄積があった

まさしくこの本で網野さんは「日本の歴史をよみなおす」作業をその根本から行っています。

このことを知ると、逆に明治期の転換など、室町期の転換に比べれば一部的なものでしかなく、むしろ、室町期の大胆な構造変換があったからこそ、西洋文明の受け入れも、科学技術の導入も可能だったのだなと感じられるようになる。その意味で従来の近世から近代へという形での歴史の区切りはそれほど重要ではない。これは僕にとっては非常に新鮮な発見でした。

「日本の歴史をよみなおす/網野善彦」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 22:54 | コメント(0) | 言及した情報へのリンク (0) | | はてなブックマークに追加 | このエントリーをdel.icio.usにブックマーク

異形の王権/網野善彦

この本は中世において「異類」または「異形」と呼ばれた人びとにスポットをあてています。

例えば、中世、河原で行われた罪人の処刑の執行を実際に行ったのは「放免」と呼ばれる非人たちでした。「放免」は、彼ら自身が前科のある者でありつつも、その罪に対する罰則を文字どおり免れた放免囚人で、検非違使庁の下級刑吏として犯罪者の探索・捕縛・拷問・処刑を職能とした人びとです。彼らは口髭、顎鬚を伸ばし、特殊な祭礼時や一部の女子にしか許されなかった綾羅錦繍、摺衣と呼ばれる派手な模様のある衣服を身につけていたといいます。

また、牛車に付き添って牛の世話をする牛飼童は、成人しても童形をした人びとで、烏帽子をつけず髻(もとどり)を結わず垂髪、口髭や顎鬚を生やしていたといいます。成人になっても童形をした人びとにはほかにも、猿曳、鵜飼、鷹飼などの鳥獣を操る人のように「聖なる存在」として、人ならぬ力をもつと畏怖された人びとが多かったようです。とうぜん、本当の童である子どもも神に近い「聖なる存在」として受け入れられていました。

このほかにも、柿帷(かきかたびら)に六方笠、蓬髪、覆面、烏帽子や袴の未着用、高下駄、蓑笠、長い鉾や杖、大刀など、本来は禁制となっていた服装を身につけた人びとは「異類」または「異形」、あるいは両方を連ねて「異類異形」と呼ばれたといいます。



「異形の王権/網野善彦」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 01:23 | コメント(0) | 言及した情報へのリンク (0) | | はてなブックマークに追加 | このエントリーをdel.icio.usにブックマーク

2009年01月28日

荒・狂・若

実はこれ、ひとつ前の「感受性と行動力」のエントリーの一部として書いたのですが、長くなりすぎたので別エントリーに切り出し。なので、あわせて読んでいただくと、これ幸い。

その「感受性と行動力」では、次々と入ってくる情報を適宜処理できないのは情報を行動に結びつけて捉える力が衰退しているからで、その結果、情報から何かを感じ取る感受性そのものも鈍化していっているのではないかという仮説について書きました。

端的にいって、おとなしすぎるのかなと思います。
また、慎重すぎるし臆病すぎる。すべてを頭だけで理解しようとするし、頭で理解できることとできることの差がわかってないのかなという気もします。
そんな完璧にコントロールされた状態ではなくて、すこし荒れたところがあっていい。

いま、私たちの誰もが何かに抑圧されているか、無関心をよそおっています。ほんとうに言いたいことが、なかなか言えないようになっている。(中略)本当に荒れるべきときに、荒れることができなくなっているんではないか。


「荒・狂・若」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 20:36 | コメント(0) | 言及した情報へのリンク (0) | 情報社会 | はてなブックマークに追加 | このエントリーをdel.icio.usにブックマーク

感受性と行動力

風邪をひきました。発熱と咳で月・火曜日はほとんど動けず、どうしても外せない仕事の所用に顔を出した程度。ほとんど寝て過ごしました。今日は熱も37度前半に下がってすこし楽になりました。

というわけで、外部からの風邪の菌の侵入に身を犯されるのはつらいですが、その一方で、僕らはもっと外部からの刺激を自分の身で引き受ける努力をしていかないといけないのでは、と思います。

まず、情報に対してよそよそしすぎてはいけない。
そして、インプットばかりでアウトプットがないといけない。

外部からの刺激を自分の身で引き受ける努力というのは、インプットの問題ではなくアウトプットのほうの問題です。受け入れるというのは実はいったん引き受けた情報を編集・変換して外に出す作業をいうのだと思います。

なぜシャッフルディスカッションがブレイクスルーにつながる場合があるのか?」でも書いたとおり、膨大な情報を前に右往左往としたままになるのではなく粗雑な形でもいいのでそれをいったんストーリー化して自分自身で咀嚼することが大事。物語化・文章化することで、仮想的にでも情報を追体験できる。情報を再生して、情報化される前の生の情報を感じることができる。それには自分自身で情報に動きを与えるよう、編集・変換作業を経ないといけない。情報を感じる、身に引き受けるためにはインプット以上にアウトプットを重視しないといけないのだろうなと感じます。

「感受性と行動力」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 18:26 | コメント(0) | 言及した情報へのリンク (0) | 情報社会 | はてなブックマークに追加 | このエントリーをdel.icio.usにブックマーク

2009年01月25日

なぜシャッフルディスカッションがブレイクスルーにつながる場合があるのか?

御指名なので。

あれよあれよという間にというのは大げさだが、翌朝の時点で何チームかがブレイクスルーしちゃったのでした。
なぜ?あれだけオールジャパンクラスの講師が次々とアドバイスしたのにダメだったものが・・・。
タナハシさんどうしてだろう??

これ、何の話をしているかがそもそもわからない方のために書いておくと、昨年の8月27日、28日の2日間にわたって行われた「横浜ワークショップ2008」で、横浜の街のフィールドワークを元に横浜の地図を作成するという課題をこなすにあたって、1日目の夜の時点では多くのチームがデザインの方向が困っていたにも関わらず、2日目の朝になると多くのチームが実際の物の制作をはじめたのは何故だろうか、という話。1日目の夜の最後にシャッフルディスカッション(詳しくは浅野先生の記事を参照)という手法を使ったのですが、どうもそれが効果があったのでは?という話になっています。



まず、最初に事実関係を整理しておくと、

  • すべてのチームがブレイクスルーしたわけではなかった
  • ブレイクスルーしたチームも本当にシャッフルディスカッションの効果でブレイクスルーできたのかは不明
  • シャッフルディスカッションで他チームの意見をそのまま反映したチームはむしろ失敗の方向に進んでいる(このケースは9月に行われた「インフォグラフィックス・ワークショップ 1」でも見られた)

といったところでしょうか。

「なぜシャッフルディスカッションがブレイクスルーにつながる場合があるのか?」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 01:50 | コメント(0) | 言及した情報へのリンク (0) | デザイン | はてなブックマークに追加 | このエントリーをdel.icio.usにブックマーク

2009年01月24日

物そのものを使ったKJ法

ある程度まとまった数の物を一時に集中して見るというのは、普段見えていない物の構造を理解するためには、なかなか良い方法だと思います。

蒐集された100個の物を目の前にして、それぞれの特徴を感じながら分類を行っていく。そうするといくつかの特徴の類似が見えてきて、さらに類似する特徴を有した物同士の使われ方や使う人のことに目を向けると、なぜそういった類似が必要なのかが見えてきたりします。少数の物だけを見たのでは見えない特徴が100個の物を並べてみることで見えてきて、さらにそれが利用者の行動などに結び付いた合理的な形態だったりすることがわかってくる。そういう物の見方も時にはする必要があるなと思います。

「物そのものを使ったKJ法」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 23:27 | コメント(0) | 言及した情報へのリンク (0) | デザイン | はてなブックマークに追加 | このエントリーをdel.icio.usにブックマーク

2009年01月23日

視野は広くを意識して

僕もそれが「楽しい」と思います。

私は「面白い」と感じたら何でも顔を突っ込み、手を出してしまう。いつの間にか熱中している。「面白い」と感じる、「興味を持つ」という行為のハードルがとても低いのだろう。こうやって好奇心旺盛で生きていくのは、時に体力気力がついていかなくて疲れると感じることもあるが、やっぱり楽しい。

前にも書いたけど「疲れる」よりも「憑かれる」がいいよね。何かに取り憑かれたように好奇心を揺さぶられる感じがいい。

そもそも「疲れる」は「憑かれる」が語源だそうです。
「憑く」も「着く」も「付く」も「就く」も、みんな「ツキ」のファミリーだそうです。ツキがあるとかないかという「ツキ」。そして「ツキ」は「月」です。

月に憑かれてツキを自分の側に手繰り寄せたいじゃないですか。そのためには好奇心旺盛のほうがいいと思う。楽しいと思います。

「視野は広くを意識して」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 02:55 | コメント(2) | 言及した情報へのリンク (0) | ライフハックス | はてなブックマークに追加 | このエントリーをdel.icio.usにブックマーク


・認知科学、情報デザインに関する本なら、Books::DESIGN IT! w/LOVE
・iPodやiPod関連商品なら、iPod Store from DESIGN IT! w/LOVE