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  必読日替わりメモ

特設メモ  呉市海事歴史科学館への公開質問状  CDへ収録済み 日替わりメモ545番参照

ヒコーキ雲に対するご意見、必読日替わりメモのご感想や質問回答をメール( sa@axisz.jp 冒頭にkをつける)でお寄せください。

勝手なお願い : インターネット航空雑誌ヒコーキ雲の更新作業は早朝半眠状態の時に行うことが多くミス多発です。気付いての修正がありますので数時間後にもう一度見ていただくようお願いします。 佐伯邦昭
 
日替わりメモ090207

本日のページ更新は日替わりメモのみです

○  自衛隊の対応について
 
インターネット航空雑誌ヒコーキ雲開設以来自衛隊へ航空関係の質問を多々行ってきましたが、お相手の対応は3段階レベルに分類できます。
 3=正面から真面目に回答 
 2=肩透かし、逃げ、認識不足の回答 
 1=無視
 さて、今回の新田原基地渉外室と美保基地広報班は、残念ながら下記のとおりランク2マイナスとせざるを得ない結果になりました。下記を公表するにあたっては全文を両基地へ送りましたが、事実に反するとか公表は困るとかの応答は7日朝現在届いておりません。

 

 航空自衛隊からの答え この程度のものでしょうか

 先月以来この欄で問題にしてきた新田原基地でF-15Jの方向舵が左右反対に向いていた謎と「間違いだらけの説明板Z15」で取り上げたYS-11P(輸送機型)の説明板が美保と新田原で数値が違う問題などについて、一度目の回答では納得できなかったので、再度質問し、催促を重ねてやっと最終の答えをもらいました。しかし、両基地広報の答えは、とてもここに全文を披露できるようなものではありません。失礼ながら、この程度のレベルでしか国民に説明できないのかと情けなく思います。

@ F-15Jの方向舵が左右反対に向いている謎について
 新田原基地の最終回答は、油圧を落とした後に、何らかの原因でそうなったのであろうが、風で動いたとしても機体には何らの影響もないので心配無用、詳しく調査する必要はありませんと切り捨てられました。

A YS-11Pの前に置いた説明板が美保と新田原で数値が異なることについて
 新田原からは回答なし。美保からは、あれは新田原で作ったものだからあっちへ聞いってくれとのこと。美保の方の説明板で総重量14.6t(23.5tが正しい)という間違やその他の数値の大きな違いについては説明なしです。

B YS-11P(輸送機型)の乗員の数と職名について
 美保からは、任務によって仕様や従事する乗員は変化することもあり、国防上、任務上、内容は答えられないとのことです。

C 日本航空機製造(日航製造)を日本航空機と書いていることについて
 両基地とも回答なしです。

D 説明板全体について
 美保においては、航空自衛隊ホームページや自衛隊装備年鑑等によって説明板の内容を検討させるということです。


 ちょっと開いた口がふさがりませんね。@については、風でふらふら動くようなら、ストッパーを挟むとか何とかしないとヒンジの疲労が進むのではないかと素人の心配が余計につのりますが、心配無用と切り捨てられたら、素人の立場ではもう質問する気が萎えてしまいます。

 A、Bについては、去年の美保と新田原に同じ#158が展示され、その前に置かれた説明板の数値が両基地で違うというのは結果として国民を愚弄した行為なのに、指摘を受けてもまだ気がついていないようです。説明板1枚でも国民の税金で作るのだという意識が欠けている証拠だとみます。

 YS-11P(輸送機型)の乗員の数や職名に関しては「操縦士、副操縦士、航法士、通信士、空中輸送員で5人」とこれは当方の推定ですが、この程度のことが国防上答えられないのでしょうか。別に作戦上の秘密バリエーションを答えて貰う必要はないのです。

 C、Dについても常識の範囲の問題ですが、装備年鑑のデータを根拠にするというのも奇妙な話です。航空自衛隊が航空自衛隊航空機の説明板に部外の図書からデータを求めるなんてねえ。
 朝雲新聞社が防衛庁から直接資料を得ているから正確と思うのは自由ですよ。しかし自衛隊が「朝雲新聞社へ聞け」とタライ回しするようなものだと思いませんか?

 もっとも航空自衛隊ホームページのYS-11の主要スペックにエンジンの「離昇馬力3,60ehp/1基」なんていうミスもあって、本家が信頼できないですから、各基地がおかしくなるのも無理はありませんけど。

 

なお、1月28日に佐伯が両基地司令に発したメールは、下記のとおりです。

○  言いたくはありませんが‥
  誇るべき国産機であるYS-11の前に立てられた説明板の「幼稚」な記述のことです。佐伯は5年前の新田原航空祭へ行った時に気付いていたのですが、去年の航空祭でもやはり同じものが立てられているのを知りました。美保基地も同じ。小さなことでもいつまでも放置されていると我慢ができなくなります。
 幼稚かどうかは見る人によって違うので決めつけはしませんが、YS-11の要員或いは説明板を管理する隊員が1人として気付かない、或いは気付いても改めないという怠慢についてです。 
 言いたくはありませんが、敢えて両基地の司令官に申し上げておきます。民間機総退役の頃から国民的人気となったYS-11ですから、ゲゲゲの鬼太郎で人々を喜ばすだけでなく、機体本来の説明にも十分に気を遣って頂きたいと。
 そう言えば、新田原の広報は、F-15の停止時のラダーについての質問に、何度催促しても返事をくれませんね。市民相手にせずの思想でしょうか。
 新田原基地 米沢空将補のインターネットご挨拶から
 この基地、地域が我々に何をしてくれるかではなくて、我々がこの基地、地域のために何ができるかを常に、考えながら行動してまいります。
 
地域とは必ずしも基地周辺だけではなく日本国民すべてをさすものと考えますが違いますか?


 この件に関して、閲覧諸氏の感想やご意見をお寄せください。これからの対応の参考にさせていただきます。匿名で結構です。

 

日替わりメモ090206

本日のページ更新

HOME  [表紙絵009] のんびり感あふれるの米海軍SNJ着陸進入 1967年頃大阪国際空港にて
N597 ニュースフラッシュ597 フォッカー50のさよならフライトとエンブラエル170の就航記念フライトを掛け持ち

○ 表紙絵 のんびり感あふれるの米海軍SNJ着陸進入 1967年頃大阪国際空港にて

 新明和への連絡で飛来したのでしょうか、脚を降ろし、独特のフラップを一杯に下げて進入しています。機内ではパイロットが一番緊張する場面ですから「のんびり感あふれる」などと言ってはいけないのですが、やはりレシプロエンジン機のノスタルジアを感じさせる写真です。NAVYのノースアメリカンSNJ(T-6)というのも日本国内では珍しいように思います。


○  終わりと初めの掛け持ち

 土曜日、日曜日とうまい巡りあわせになった定期路線のF-50のさよならフライトとE-170の初フライトの切符は早々と完売でした。しかし、エアーセントラルの場合は、運よく搭乗できた人も、乗れないでせめてセントレアでの到着便を写そうと待っていた人も悪天候に泣きましたね。でも、翌朝には一日遅れの最終便が無事飛びまして何とか格好だけはついたようです。

 その最終便を投げうって仙台から新幹線乗り継ぎで名古屋空港へ駆け付け、J-Airの就航記念式典を取材して松山行きに乗り込んだというツワモノには恐れ入りました。時刻表を調べて決断する時間的余裕は10分ほどだったといいますから、ハロースクエアさんは、欠航などを何度も経験している常習犯(失礼)に違いないですね。年に1〜2回しか飛行機に乗らない田舎者ではこうはいきませんよ。

 ところで、一日遅れの最終便(臨時便)まで待たされたお客さんは、ホテル代を出してもらったのでしょうか。田舎者には大変気になることで‥。


○ 陸上自衛隊表記の間違い  T.T.さんからメール

 初めまして、元陸上自衛隊航空隊員です。いつも興味深く拝見しています。記載内容に2点間違いがあると思われるのでお知らせします。 

@ ニュースフラッシュ559 平成20年度 防衛庁航空観閲式   
  防衛庁ではなく防衛省です。

A 調査研究コーナー R95 陸上自衛隊のセスナL-19 11001号機N(北部方面航空隊本部付)について
  撮影の1980年当時は北部方面航空隊本部付隊は編成されていません。北部方面航空隊本部付隊に改変されたのは1994年ですので北部方面航空隊隷下の北部方面飛行隊が正しいです。

佐伯から : T.T.さん ありがとうございました。早速修正しました。これからもお気付きをどしどし知らせてください。

 

日替わりメモ090205

本日のページ更新

A5501 航空史探検博物館 大阪府豊中市 思い出 1957年頃の新明和興業伊丹工場

○  新明和興業株式会社伊丹工場

  オールドファンには懐かしい写真を頂きました。新明和興業の伊丹工場が操業開始して3年目くらいの工場エプロンにいる飛行機です。ロッキードPV-2ハープーン(次期対潜哨戒機P2V-7ネプチューンの訓練用に供与されたと言われている)、グラマングースの海軍型であるJRF-5、海自に3機しかいなかったシコルスキーS-51それにUS ARMYのバイアセッキ(バートル)H-21など‥。

 1957(昭和32)年頃は、まだ米軍管理下の伊丹基地ですが、写真を見ますとなんとなくのんびりした空気が漂っているみたいです。カメラをかまえても咎められることはなかったのでしょう。
 また、新聞社の小型機などは八尾飛行場をベースとしており、八尾もある程度自由に入れましたので、そういう撮影機会に恵まれた両飛行場の環境の中で多くのマニアが育ち、KAPC(関西航空機写真クラブ)や彩雲会などがいきいきと活動できたわけです。A5504にほぼ同じ頃の八尾飛行場風景を載せていますので、比較してみてください。

 なお、新明和工業の「工業」は、当時は「興業」でしたのでお間違いのないように。

 伊丹は、米軍がITAMI AIR BASEと呼称したため、今でも愛称は伊丹空港ですが、1958年日本へ返還されてからは大阪空港、翌1959年に大阪国際空港と改称され、羽田と並ぶ国際空港として発展します。
 近々、1960年代の華々しい頃にKAPCの会員が写した民間機や新明和の軍用機などを発表したいと思っています。

 

日替わりメモ090204

本日のページ更新

A6519 航空史探検博物館 山口県下関市長府 功山寺 航空界 洋装界 佐村福槌君夫妻乃碑

○  航空界 洋装界 佐村福槌君夫妻乃碑

 高杉晋作が長州藩の俗論派打倒を掲げて、京都からの5落卿がひそむ功山寺に挙兵したその境内に立つ2.4メートルの石碑をみて、他県人の佐伯は違和感をもちました。訪れた日は休日で、144年前の和洋折衷の軍服姿の人々が、馬上の高杉晋作像の前で実演や紙芝居で高杉のクーデターを見せておりました。それはまあ的を得ているように感じましたが、佐村福槌君夫妻乃碑がなぜ同じところにあるのかという疑念は、今でも抜けていません。

 奇兵隊わずか84人で下関の藩役所を襲撃占拠し、防府で軍艦3隻を奪い、以後続々と入隊者が増えて遂には藩論を倒幕に変えさせて明治維新の幕を開けた高杉晋作と、アメリカ帰りで万国飛行免状をもつとはいえさしたる活躍の記録が残っていない佐村福槌との比較においてです。

 その疑問は、碑の上部に並べて彫ってある航空界・洋装界という文字で解けるのかもしれません。つまり、よね夫人とともに設立した関門高等洋裁学院での活動が、下関市において洋行帰りの名士に列せられ、友人知己の尊敬を受けたのではないかと。

 碑の建立9年後に、民間航空功労者として運輸大臣表彰を受けているのも不思議です。
 時の運輸大臣は山口県出身の徳永政利参議院議員でした。また佐藤栄作氏はその前年に首相の座を降りたばかり、岸信介氏は統一教会と組んで日韓政治連盟をつくるなど、山口閥の隠然たる力が見え隠れします。そんなバックグラウンドも見渡しておく必要があるでしょうね。


○ OKUBOさんにお礼 
 オランダ製(ルフトハンザのA321)プラモデルとJALやJASの機内配布模型キット、それに船の科学館の二式大型飛行艇ガイドブックの小包を、昨日ありがたく受領しました。
 その中に思いがけずウイスキーのヴィンテージ陶製ボトル! 皆さん、どこの航空会社が配ったものかわかりますね。
 OKUBOさんは「飲むも良し 見るも良し 随意に処分せよ」とのご沙汰ですが、飲み助の吾輩に我慢できる訳もなく、底の蓋を開けて、まろやかなる味を試飲いたしました。午前6時前の今も少しなめております。例の全身にアルコールが回ってだるくなる気配がきております。
 ありがとうございました。メールを扱っておられないので、この場を借りて到着のお知らせと御礼まで。

 

日替わりメモ090203

本日のページ更新

A1001  航空史探検博物館 北海道 航空自衛隊千歳基地 常設展示機のT-33Aの1982年の写真を追加

○  子ども天国

 1982年度千歳基地航空祭のT-33Aの写真を頂きましたので、ここでは角度を変えて観察してみましょう。F-104Jの方は既出です。1001-2 

 人気絶頂のドラえもんの歓迎(注意書き併用)看板と飛行機に群れ遊ぶ子どもたち。二つのロッキードは、この程度ではびくともしませんが、果して喜んでいるのか、悲しんでいるのか。マルヨンのそばの隊員らしき人物はもはやあきらめのポーズですが、ドラえもんの看板にはお願いとして機体の上にはのぼらないことと書いてあります。
 
 もし、このなかの子どもたちに自衛隊航空を目指す潜在意識を生成する者がいたとすれば、この黙認は大成功でありました。
 逆に
、胴体から滑り落ちたり、特にF-104J主翼の縁には何の防護も施されていませんので当たりでもしたら、ただでは済みませんね。嗚呼、天国と地獄は紙一重の差!

 今では見られない風景になりました。代わりに隊員の介護で操縦席へ入れてやるとか、花電車(汽車)を運行するとか、子ども用の制服を着せたり、制服の看板の顔をくりぬいて撮影させたりとか‥。まあ、花電車を除いては殆どの子どもは迷惑顔で、親や祖父母が喜んでいるだけというのが多いですよね。

 さすれば、このように子どもが自分の意志で機体によじのぼったりする方が、いい意味での潜在意識の生成に余程効果があると思いますが、如何でしょうか。セーフティーネットなどの防護をきちんとした上で冒険させてやる勇気ある基地司令や参謀はいませんかね。

 

日替わりメモ090202

本日のページ更新

N596 ニュースフラッシュ596 三沢航空科学館大空のひろばにF-4EJ改を搬入
N589 ニュースフラッシュ589 さよならフォッカー50  最終の路線飛行とチャーターフライト

○  三沢市大空ひろばにF-4EJ改を展示

 お待たせしました。三沢のファントムの搬入風景と仮置き後雪を冠った姿を発表しました。
 三沢航空科学館は三沢基地とつながっているから、牽引車でストレートに引っ張ってこれるのですね。三沢ヘリコプター空輸隊と科学館敷地の間の門扉の幅を見ますと、なるほど翼端を折り畳んで運んだ理由がわかりました。
 翼端を拡げる時に下から人間が支えているように見えます。空母上でもそのようにしていたでしょうか。まさかとは思いますが。

  
 朝日を浴びている雪化粧のファントムもいいですね。モックアップに戻ったみたいだ、と、雪のない地方の者は呑気なことですが、写しに行った和山さんが住む八戸は、青森県で最も雪が少ないと言われているのに、今年は三沢よりも多く降っているみたいで、雪掻きでもうへとへとだと!申し訳ありません。


○  
さよならフォッカー50

 愛知県は強風、宮城県は雪に見舞われ、フォッカー50のお別れセレモニーを準備した人も、その風景を写しに行ったマニアもお気の毒でした。セレモニーフライトのJA10NVは、結局、翌日の朝、ANA1302臨時便(通常の1802便はQ400で運航)としてセントレア中部国際空港へ帰ってきました。寒い中、横断幕をもって待っていたエアセントラルの皆さん、フォッカー50ともどもご苦労さま。

 

日替わりメモ090201

本日のページ更新は日替わりメモのみです
090131では、全日空機の帯の色と三沢の安田さんの名前などを間違えていて、午後に訂正はしましたが、反省の要があるため、今朝は日替わりメモの更新だけで自粛します。


○  続 三沢市大空ひろばにF-4EJ改を展示

 三沢 市大空ひろばのF-4EJ改のシリアルナンバーは57-8375、マークはもちろん黒豹の第8飛行隊です。連絡によると、29日には大空ひろばのMU-2の隣にべニア板を敷いて仮置きされた状態であり、本格的な基礎土木工事などは暖かくなってからのようです。また、きのう翼端を折りたたんでと書きましたが、それは基地から運んでくる時だけで、仮置き後に展張されました。(ちょっとがっかりです。)

 それらの模様は、明日のニュースフラッシュで発表します。なお、安田孝治さんの職名は、青森県立科学博物館大空ひろば担当解説員でした。


○  続々 早朝のダッシュ   機内の電子機器について Buuさんからメール  
 
 
090131の日替わりメモですが、航空機の電子機器というものは、外部からの電磁波にそれほども弱いのでしょうか?
 たしかに、マイコンのクロックやラジオの周波数変換で電磁波(電波)を作ってはいますが、漏れる電磁波(電波)は微弱です、携帯電話は、数ワットでしたか・・・。
 逆に、航空機からの各種の通信用機器は数十から数百ワット、レーダーは数十キロワットの電波を出してますよね。ちょっと調べましたら、漁船のレーダーは5キロワット以下は免許が要らないので結構装備されてるみたいです。短波帯を使うOTHレーダーは数メガワット、中波の放送局でも500キロワット出してます。

 機内持ち込みの微弱電磁波で操縦に影響が出るなら、民間や軍用空港それに監視や気象サイトからのレーダー波航空機や船舶からも電波を発してます、それから見れば・・・携帯機器なんてねぇ

 そのような強い電磁波からは影響が出ないのでしょうかね? 以前、どこかの空港で出発管制とコンタクトが取れなくて機内のお客さんの携帯を疑った事がありましたね。結局、通話マイクのコネクタの不良か断線とのお粗末な話でした。

 30年ほど前に、カセットデンスケを担いで自衛隊航空基地で録音し、帰って再生してみると、レーダーのパルス音がしっかりノイズとして入ってました。もっとも、音楽機器はHiFi(古い言葉です)を求めてますので、電波には弱いですけど・・・ 汎用の音響機器やテレビが、アマチュア無線の電波を拾われて、苦労した経験が多いです航空機に限らず、何でも電子機器や外部のサポートに頼りすぎではないでしょうかねぇ。

佐伯から : その方面のことは私はさっぱり分かりませんが、一人二人のデジカメやノートパソコンなら影響はないのでしょうが、電子機器の塊りみたいな旅客機の中で無規制で多くの乗客が使い出したら困るという問題もあるような気がします。明確な安全性が立証されるまでは、やはり航空会社が定めた規制に従うべきと思います。それを機長が破ってしまったのでは、その会社全体がたるんでいるとしか言えません。
 勤務中に(かどうかは知りませんが)VIPスポットへ個人写真を撮りに行く怪しからん人物も同系列の社員だそうです。この会社を立派に育て上げてきた先輩諸氏が泣いていますよ。
 

 

日替わりメモ090131

本日のページ更新

HOME [表紙絵008]  1957年12月に極東航空から全日本空輸にかわったダグラスDC-3 JA5024 
         名前・胴体ライン・プロペラに注目
JA5024 日本におけるダグラスDC-3研究  合併後に極東航空大和を消した跡の写真

○ 航空史の一コマ 極東から全日空へ

 1957年12月に日ぺリと極東航空が合併して全日空となり、航空機の社名は全日空本空輸に書き改められました。その過渡期を示す写真を頂きました。

 極東航空の大和号として活躍していたダグラスDC-3 JA5024も胴体の帯を変えるなど新しい装いになりますが、合併後3か月目に戸田さんが東京国際空港の整備地区で写した写真では、胴体帯と社名は新しくなっていますが、全日空様式のノーズナンバー24がまだ書きいれられていません。そのため大和の文字をを塗り消したらしい跡が確認できます。

 そして、極東時代とのもう一つの変化は、プロペラブレードです。同じハミルトンスタンダードのプロペラでも極東時代は米陸軍C-47Aが付けていたブレードであり、全日空になってからは旅客機仕様のブレードに取り換えられていることがこの写真でわかります。小さなことかもしれませんが、マニアックな注目点として取り上げました。

 イカロス出版が日航と全日空の初期の本を出す準備をしているらしいですが、このような点までチェックをした上で、それを書くか書かないか別にして、正しい航空史が語られるように期待しておきましょう。


小林(祝之助)君の碑 A5414

  小林は、コバヤシではなくオバヤシと読むと日本航空協会から連絡があり、碑の説明板(京都新聞のコピー)も送られてきましたので掲載しておきました。さすが新聞記者です。簡潔にオバヤシ君の生涯がまとめてあります。

 なお、小林祝之助に関する記述が見当たらないと書きましたが、「イカロス達の夜明け」に書かれており、その記事は昭和52年にNHKが徹底的に調査して放映した番組の資料をそっくり拝借したものと平木氏が断っているそうです。この人の著作でもそれなら信用できる記述かもしれません。一応報告しておきます。


○  三沢大空ひろばにF-4EJ改を展示

 30日付の東奥日報とデイリー東北が、29日に三沢大空ひろばにF-4EJ改を据え付けたと報じました。那覇、新田原に続いて3番目の展示になりますが、翼端を折り曲げているようで、マニア的にはもともと艦載機であったことを示すものとして興味があります。明日、日曜日は晴れマークですからあさってにはいい写真を披露できそうです。お知らせいただいた皆さんありがとうございました。

 広場の安田孝冶さん、また忙しくなりましたね。


○  続 早朝のダッシュ
 
 昨日の冒頭の4行ほどは、別に意識して書いたわけではありませんが、同じ日に、事もあろうに「操縦機器に影響があるので電子機器の電源を切れ」とアナウンスしながら、機長が操縦室で撮影していた事件が発覚しました。論外中の論外と言わなければなりませんね。

 昨日引用したサイトの掲示板には、社用車で乗りつけてVIPスポットの航空機にカメラを向けている怪しからん人間の写真が載りました。離着陸時にデジカメを使う機長よりはましというものの、こういう人が横行すると当局が対策を講じるような問題に発展する可能性大でしょう。

 働いている時にポケットに忍ばせているカメラでそっと写すとか、休憩中に記念写真を撮ってもらうとかが限界ではないですかね。ハロースクエアさんのように出勤時間に遅れないようにダッシュするとか、わざわざ休暇をとって撮りに行く人までが制限を受けることが起こらないように強くつよく自制を促します。

 

日替わりメモ090130

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N595 ニュースフラッシュ595 2009/01/29ブルガリア大統領専用機 ツポレフTu-154M
A5414 航空史探検博物館 京都市左京区 真正極楽寺 小林(祝之助)君の碑

○ 早朝のダッシュ

 特に「空港職員、航空会社職員でVIPスポットを中撮りされた方の掲示は、固くお断りします。(ご自分だけでお楽しみ下さい。)」と断っているサイトがあります。いやしくも勤務中にマニアとしてカメラを構えるのは職場規律に違反する行為であり、また危険でもあります。そんなものを特ダネよろしく公表するのは願い下げにして貰いたいという訳です。そのとおりですね。

 ハロースクエアさんは、羽田から西北8キロメートルほどの雪谷にお住まいです。昨日の早朝に東京国際空港へブルガリア大統領専用機を写しにいった涙の物語を紹介しておきます。

 日の出の時間がすこしずつ早くなってきましたが、私が遅刻せずに出勤するには羽田を7時前には出なければいけないのですが、スポット撮影の邪魔になる51番は決まって6時40分発のSNA機が駐機中で、スポットアウトを待って撮影し2FからB2Fの京浜急行の駅まで猛ダッシュが必要です。朝からとても疲れます。

 それはともかく今朝の東京は曇っていたせいもあり、この時間まだまだ撮影には厳しい状況でした。

 いえいえ、露光不足であろうとなんであろうと、インターネット航空雑誌ヒコーキ雲のニュースフラッシュは写真記録ができていれば、映りの良し悪しは問いません。何の得があるのよーと家族などに笑われながら、思い立ったら矢も楯もたまらず駆け付け厳しい条件下でシャッターチャンスを待つマニア心理に座布団10枚です。


小林(祝之助)君の碑

 転載元の航空と文化では、小林祝之助顕彰碑とされていますが、石の上部に彫られた文字は小林君乃碑と読めますのでそれに従いました。友人たちが建立したことがわかる碑名です。

 第一次世界大戦中にフランス軍パイロットとして戦死した小林(おばやしと読む)祝之助は、当時日本でも大きな話題になったそうですが、意外にその名を書籍やインターネットで見ることがありません。
 仁村俊著「航空五十年史」でも「滋野清武、磯部鈇吉、馬詰駿太郎、石橋勝浪、茂呂伍六等の鳥人が義勇兵として参戦した」とあるだけです。昭和18年発行ですから、ドイツに遠慮して仏軍で名誉の戦死なんて書けなかったのかもしれませんね。
 航空協会の日本航空史年表では、1916年12月に磯部鈇吉と石橋勝浪がフランス航空隊に入隊し従軍という一行があるだけ、その他の名前は出てきません。

 第一次世界大戦の航空機と独仏英の騎士貴族飛行士については、日本でもたくさんの人が取り上げていますが、我が日本人がどのように活躍したかの足元を掘り下げるライターは居りますか? その意味でも航空と文化98での小林の紹介は高く評価されるべきす。

 

日替わりメモ090129

本日のページ更新

A8816 航空史探検博物館 沖縄県島尻郡南大東村 日本の風景 南大東空港 廃止された旧空港の現状を追加

○  酒造会社になった旧南大東飛行場

 旧南大東空港は、沖縄復帰後に航空法の基準に合わないというので廃港になりましたが、空港ビルも滑走路もラム酒製造会社がちゃんと利用しているそうです。滑走路端には住宅が建てられており、ローラースケートでもあれば家の前から滑走路跡を思う存分滑っていけるような、楽しい空想が生まれます。


 ○ 続 言いたくはありませんが‥    Fさんからメール

 090128番の意見と、間違いだらけの説明板を正す対症療法Z15に同感です。
 確かにデータについて私も何度か疑問を持ったことがあります。隊員の方、と言っても、およそ飛行機のことに詳しいとは思えぬ方に聞いてはみましたが、やはりまともな応えは無理でした。ひどい時など、これは一応機密事項ですから・・・ なんて言われたことがあります。

 へぇー、航空雑誌にはゴマンと書いてあるのに。航空自衛隊員と言ってもパイロットや整備士ばかりではないので、無理もないのですが、一般的な解説くらい出来る人を配置して欲しいですね。
 米軍の場合、あっけらかんとしたもので、つたない英語で聞いても即座に答えてくれたという経験が多いです。もっとも彼らは皆パイロットか航空要員でしたが。

 マニアの活用法、各自衛隊の、そのような部署、航空協会などの活用方法は、まさに佐伯さんのおっしゃるとおりです。日本の航空文化を高める必要がありますね。


佐伯から : 
説明板は間違いだらけ、見張りの隊員に聞いてもトンチンカンな答えでは、国民に自衛隊の姿を見せようという基地開放の精神が基本からおかしくなってきます。
 以前、海上自衛隊岩国航空基地についてそのことを指摘したら、翌年からパイロットが機体の前に立つように改められました。(防府航空祭では未だに航空学生だけを立たしている) 各隊が資金稼ぎの出店でご多忙なのも結構ですが、肝心のところを粗末にしたのでは単なるお祭り騒ぎになりはしませんかね。

 なお、090128番に関しては新田原と美保の広報室から返事を頂きました。その対応には感謝ですが、ピシッとした答えではございませんでした。

 美保基地に対してはYS-11Pの乗員の正規の数及び職名を再度尋ねました。それは「空中輸送員(ロード・マスター)及び通信員を含んで5人ではないか」という指摘があったためです。私は信頼する文林堂三井さんの手になる自衛隊航空機ALL CATALOG等のリストから乗員3人としていますが、美保から違う答えがくれば訂正します。

 また、12月に疑問を発した新田原のF-15のラダー観音開きについても、やっとメールで返事をもらいました。しかし下記のようなことで、肝心の「何故 観音開きに?」という疑問は解けていません。

エンジンを停止している状態では、油圧がかかっていないためと停止時にロック機構などもありませんからあのようになります。手で押しても動きます。油圧がなくなっても、シリンダー内には油が残っていてますから、ゆらゆらゆれることはありません。手で押しても、ぐ〜っと力をいれないと動きません。フラップも同じです。垂れ下がるのも、じわーっとゆっくりと下がっていきます。風でばたばた動くことはありません。

(では、誰かが力で押してこのようにしたのですか? 手を広げて歓迎の意を表したのですか? 佐伯)

 実際にF-15の整備を行っている人にお願いします。ラダーがなぜこのように別々の向きに開いているのか、明解な説明を聞かせてください。


○  HORNETS'80Webが終了 

H'80Webは2009/01月末をもちまして終了いたします。
1997年以来の長年のご支援、本当にありがとうございました。
これからもヒコーキの魅力で楽しんでいきましょう!
2009/01/06 H'80代表 Tack

 ここしばらく更新がないので心配していたHORNETS'80がやはり終了宣言を出しました。ヒコーキサイトの老舗でもあり、そのユニークで幅広い紹介に定評がありましたので残念です。事情は代表者の多忙等のようです。 (インターネット航空雑誌ヒコーキ雲も他人事ではありません。)
 機会があれば、想を新たにして再開することもあるとのことなので、「航空今日は何の日!?」や「ヒコーキ映画投票!」など 興味あるコーナーを是非とも復活して貰いたいものです。

 では、再開を願って、ヒコーキ映画投票の最終結果で第16位に入 っている「頭上の敵機」に私めが投票した時の一文を転記させて頂いておきます。

★★★★★(注 5点満点) グレゴリイペックの演技とB-17、死ぬまで忘れられない。【2000/09/10・ニッポンのダグラス】

 因みにヒコーキ映画ベストテンを列記しておきま しょう。
ライトスタッフ、トップガン、空軍大戦略、トラ トラ トラ、ファイナル カウントダウン、紅の豚、ダーク ブルー、
メンフイス ベル、今日もわれ大空にあり、次点ブルーエンゼル 

 

日替わりメモ090128

本日のページ更新

Z15 佐伯邦昭のヒコーキマニア人生録 その15 《 もの申します》 間違いだらけの説明板を正す対症療法
                           新 いつまでも改められない新田原と美保のYS-11説明板

○  言いたくはありませんが‥

  誇るべき国産機であるYS-11の前に立てられた説明板の「幼稚」な記述のことです。佐伯は5年前の新田原航空祭へ行った時に気付いていたのですが、去年の航空祭でもやはり同じものが立てられているのを知りました。美保基地も同じ。小さなことでもいつまでも放置されていると我慢ができなくなります。

 幼稚かどうかは見る人によって違うので決めつけはしませんが、YS-11の要員或いは説明板を管理する隊員が1人として気付かない、或いは気付いても改めないという怠慢についてです。

 言いたくはありませんが、敢えて両基地の司令官に申し上げておきます。民間機総退役の頃から国民的人気となったYS-11ですから、ゲゲゲの鬼太郎で人々を喜ばすだけでなく、機体本来の説明にも十分に気を遣って頂きたいと。

 そう言えば、新田原の広報は、F-15の停止時のラダーについての質問に、何度催促しても返事をくれませんね。市民相手にせずの思想でしょうか。

新田原基地 米沢空将補のインターネットご挨拶から
 この基地、地域が我々に何をしてくれるかではなくて、我々がこの基地、地域のために何ができるかを常に、考えながら行動してまいります。

 地域とは必ずしも基地周辺だけではなく日本国民すべてをさすものと考えますが違いますか?

 

日替わりメモ090127

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A5209 航空史探検博物館 滋賀県東近江市八日市駅前 延命公園 荻田常三郎顕彰碑

○  荻田常三郎顕彰碑

 荻田常三郎顕彰碑は、桜と紅葉の名所延命公園に建立されています。びっしりと彫られた銅版がかなり読みづらくなっていますが、その文章は帝国飛行協会創立者の長岡外史陸軍中将が起草し、元帥奥保鞏(おくやすかた)陸軍大将伯爵が揮毫しています。(奥元帥は、薩長が独占していた陸軍幹部にあって、幕府方小倉藩出身ながら奥だけは外されまいというので陸軍参謀長を務めたほどの高い人格識見の軍人でした)

 短命な民間飛行士の碑に対して、陸軍が破格の扱いをしているように思います。それは、碑文に「長兄が国難に殉じて戦死したため、自ら志願して歩兵少尉となり云々」とありますし、フランスから帰国後は予備役少尉の資格で練兵場を飛行訓練に使っていたということ、あるいは碑の前面に陸軍爆撃隊飛行場があるというような事情から、陸軍が敬意を表したものと推察します。


○  ヒ式はイスパノスイザ式   古谷さんからメール

 090126番 に書かれているハンザ ブランデンブルグ水上偵察機は私が調べた宇部航空輸送研究所(図書室34 山口県の航空史あれこれ参照)にも在籍した機体であったのに、イスパノスイザ エンジンが、なぜ海軍では「ヒ式」と呼ばれていたか、疑問さえ持ちませんでした。

 調べてみればこの会社、もともとスペイン生まれなのですね。スペイン語では Hは発音しませんから、Hispano-Suiza は、ヒスパノスイザではなくてイスパノスイザ。時の海軍軍人もさすがにスペイン語には疎かったのでしょう。単にローマ字読みしたとしか思えません。もはやスペイン無敵艦隊の時代ではなく日の没せぬ大英帝国の時代だったわけですね。

 それにしても、この会社、1898年に電気自動車開発の為に設立したと言いますから、その心意気やよし、です。時代の最先端というよりも、時代の先を見通していたというべきでしょうか。それが今、エンジンコントロールシステムのメーカーというのはちょっと寂しいですが・・・。

 

日替わりメモ090126

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N594 ニュースフラッシュ594 浜松広報館エアーパーク  入館者300万人記念イベント 現役機展示
       300万人目の入館者に記念品 25日は31SQの迷彩T-4を展示
A3003 航空史探検博物館 茨城県土浦市 霞ヶ浦駐屯地広報センター4翔のプロペラの表示変更
 (特に紹介するほどの大きな事案ではありませんが‥ 下記をお読みください)

○  続 入館者300万人突破 浜松広報館エアパーク

 イチゴ狩りのついでにたまたま寄ったら「おめでとうございます 貴方が参百万人目の入館者です」と言われた男性は喜んだでしょうね。記念品は定評ある教材整備隊が製作したケース入りF−2の模型だそうで、うらやましいなあ、欲しいなあ!

  写したRENATさんは、もう300回以上も通っているのに、CH47体験搭乗のクジもはずれで本当にお気の毒でした。300回というと月に2.5回のペースで広報館へ! T-4の模型でも進呈してあげて下さいな、館長さん!

○  霞ヶ浦駐屯地広報センター 特に紹介するほどの大きな事案ではありませんが‥ 

 MAVERICさんから送られてきたDVD画像の整理中に、2008年5月に撮影された霞ヶ浦駐屯地広報センター2階にある4翔プロペラを見て、おやっと思いました。ハブの所に貼ってある説明プレートです。

 実は、佐伯が2002年に訪れた時には、プロペラ(水上艇ヒ式200HP)とあり、案内の隊員に聞いてもどういうプロペラかよく分からなかったのですが、2006年に熊本県の大久保神社A8519にあるプロペラの調査から、ヒ式200HPというのはハンザ ブランデンブルグ水上偵察機のプロペラと判明したので、そ の事情も付記して当該ページを書き改めておきました。

 そうしたら、広報センターの現物もその表示に替えられました。陸上自衛隊が厳密に考証した結果でハンザ水偵のものと断定されたのか、航空史探検博物館を信用されたのかは存じません。いずれにしても当方にとって、ひいては正しい航空史という観点から喜ばしいことです。

 特に紹介するほどの大きな事案ではないとは思いましたが、こんな小さなことからも改めて航空史探検博物館の社会性を痛感 し、心をこめて編集しなければならないなと気持ちを新たにした次第です。

 

日替わりメモ090125

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HOME [表紙絵007]  2種類の迷彩T-4を展示 浜松広報館入館者300万人記念イベント 
N594 ニュースフラッシュ594 浜松広報館エアーパーク  入館者300万人記念イベント 現役機展示
R95 調査研究コーナー95 陸上自衛隊のセスナL-19 11001号機について
 (思い出コーナー70 から「昭和29年防府基地のセスナL-19」の項目を分離転記)

○  今日にも入館者300万人突破か 浜松広報館エアーパーク

  開館して10年の今年入館者が300万人に達する浜松広報館エアパーク。すごいですね。単純計算すれば1年に30万人、1日に830人です。1日に小学校の団体が10校も20校も来ているようなものです。

 その300万人目が今日25日に達成されるようだということです。さあ、インターネット航空雑誌ヒコーキ雲閲覧者の中からくす玉の花びらを浴びる方が出るように心から期待しています。残念ながら運の無かった人にも、記念のCH-47体験搭乗券にあたる可能性も残っていますよ。

○ 陸上自衛隊のセスナL-19 11001号機

 保安隊から陸上自衛隊に切り替わった1954年に防府飛行場に大挙飛来した日の丸L-19については、思い出コーナーで当時の部隊などを推理していただきましたが、その中のW-1001の退役間近と思われる霞ヶ浦駐屯地でのカラー写真を頂きましたので、およそ28年間の生涯の変遷を検討して、調査研究コーナーへ発表しました。

 防府の写真にも、まだ疑問点が残っていますが、更に、このW-1001機、つまり保安隊H-1001、自衛隊11001をつけたセスナL-19の供与1号機にも奇妙なナンバーの謎が残っています。果して同一の機体なのかという基本を覆えしかねない点もあります。皆さんの11001の写真をもっと提供して頂いて、この謎を解明していきたいです。

 

日替わりメモ090124

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A3028 航空史探検博物館 茨城県水戸市 水戸第一高等学校内 日本最初の飛行士の碑 武石浩玻銅像

○ 武石浩玻銅像 水戸っぽの象徴か

 水戸第一高等学校の事務室に断って木立の中にあるこの立像に接した日本航空協会文化情報室の川畑さんは、「少なくとも航空関連の人物像としては最上級の一つでしょう」と書いています。なるほど堂々たるものです。他県のものが「水戸っぽの象徴みたいな」などというと、茨城の人に叱られるかもしれませんが、そんな感じを受けます。 戦時中の金属献納を免れているのも水戸っぽ達が筋を通したのかもしれません。

 本邦きっての開国反対論者であった烈公徳川斉昭を生んだ土地柄ですが、その斉昭をして西洋の文物には非常に興味を持っていたといわれますので、武石が水戸一中の卒業式を棒にふってまで横浜へ走り、外国航路の船員になったのもうなずけるところです。思い立ったら一途にというのが水戸っぽなのでしょうか。

 カーチス単葉機をもって帰国し、兵庫県鳴尾で飛行した後に、日本特に関西の悪気流に触れ、「山と海からの渦のような気流に巻き込まれたため45度の角度をもって競馬場に降下云々」と、こういうことに挑戦する冒険的な意義を自ら記しています。よって、その最後も、目的の京都の練兵場まで達しながら、目撃談では何故か急降下し地面に激突したとありますので、水戸っぽが仇になったような気がしないでもありません。台座の基部に「日本最初の飛行士の碑」とあるそうですが、正しくは「日本最初の民間飛行犠牲者の碑」だと思うのですが、水戸っぽが犠牲という字を嫌ったのでしょうね。

 しかし、黎明期の飛行家たちは、すべてが冒険者であったわけですから、その気概こそが航空日本の夜明けを告げたのであり、武石浩玻もその中に列する一人ということであります。


○ 分屯基地について  kyouさんからメール

 ご存知のとおり航空自衛隊の基地等の名称は、一般的に大部隊が所在するところを「基地」と称し、小部隊の所在するところを 「分屯基地」と称しています。

 ここで、一つ気になったことですが、貴ホームページ中「付属 航空史探検博物館 都道府県別」の 「A-1101 空自 稚内分屯基地」(正しい)の項目 の内部を見ますと、表現が異なっております。分屯地  駐屯地と記載されておりますが、正しくは「稚内市恵比須 航空自衛隊稚内分屯基地(陸上自衛隊稚内分屯地)」です。(他の分屯基地の表現は全て正しく表示されておりましたので、陸上自衛隊と混同して表示されたものと思われます。   

 「分屯基地」「分屯地」には、必ず親基地(親駐屯地)があるわけでして、そこから種々の支援を受けています。因みに、航空自衛隊稚内分屯基地の親基地は千歳基地、陸上自衛隊稚内分屯地の親駐屯地は名寄駐屯地です。

 なお、稚内には海上自衛隊も同じ敷地内に在住しており、「海上自衛隊稚内派遣隊」 と称していますが、この呼称についての詳しい分別は不明です。

佐伯から : ありがとうございました。早速修正しておきました。航空史探検博物館の正確を期すために更にご協力をお願いします。

 

日替わりメモ090123

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HOME [表紙絵006]  かく座機収容機材の訓練 2004/03/21 小牧基地にて
RS-2 富士T-1A/B研究  5853の 吊り上げ写真

○ 備えあれば憂いなし

 小牧の航空祭では、T-1を使ったかく座(正しくは擱坐と書く)機の搬出訓練が公開されていますが、他では、30トンの吊り上げ能力のあるクレーンで飛行機を48本のタイヤで支える台の上に載せるシーンというのは、あまり見る機会もないと思いますので、表紙と富士T-1A/B研究へ出しておきました。

 2004年にT-1の25-5853機を吊り上げているのは、恐らく緊急時に滑走路などが使えなくなる事態に備えての訓練だと思います。(同機は、その後もALPS FINAL STAGE in ○○と書いて各地の航空祭で元気な姿を見せていました。現在はSUBARUビジターセンターに展示してあります。)

 飛行場における事故対応の定番は赤い消防車両がお馴染みですが、阿施光南さんのブログ「風の探検隊」によりますと、東京国際空港には滑走路に沿って200m間隔で防火水槽があり、60トンずつの水が蓄えられているということです。これまた、初耳でした。

 なるほど、かく座機収容機材にしろ、防火水槽にしろ、備えあれば憂いなしですね。

 
△ それで古い思い出をひとつ。

 広島市の基町高層住宅の上部の階で火災が起きた時に、勇気あるオジサン達が露出廊下の消火ホースを取り出して構えたが水が出なかった、初期消火ができなかったというので、マスコミにさんざん叩かれました。しかし、後になってこれはとんでもないことだと知るのです。

 ビルディング1階の道路に面したところを注意して見ると「連結送水管」というのに気付くでしょう。これは、消防車が到着してタンクからホースを連結して水を送る結節管なのです。消防隊員が火災現場へ駆けあがってOKサインを出すと水を送る仕掛けです。

 従って、勇気あるオジサン達がいくら構えていても消防隊員が来るまでは水が出ることはないのであります。万一水が出てきたら素人衆ははね飛ばされてしまうくらいの水勢になりますので危険この上ないのであります。高層建築物の皆さん絶対にやらないでくださいね。

 寝巻き姿で水の出ないホースを必死で抱えていたオジサン達を想像して、叩かれ役だった私は(たいへん失礼ながら)腹のうちで笑いが止まりませんでした。

 念のため似たような消火装置の「屋内消火栓」について書いておきます。
 これは、屋内火災の初期消火専用であり、消防隊員が来るまでに近くの人が扱うためのものです。廊下などに箱形のものがありますし、自衛消防隊の経験者はよくご存じです。5人ひと組で、火事だー 屋内消火栓開扉 ホース展長 筒先を火に向ける 送水開始とやります。一般向けとはいえ、相当に訓練を積んでいないとこれも危険を伴います。競技大会が各地で行われていて、確実な操作とともにキビキビした態度までも審査されていますものね。

 もう一つ、古い話しで、消防署に来てもらって区役所で消防訓練を実施したことがあります。テレビも取材に来ていました。無事済んで昼飯を食いながらローカルニュースを見ていたら、私の部下が非常持ち出しの書類を抱えているのはいいとしても、事もあろうにくわえ煙草でのろのろと廊下を歩いているのでした。これは、笑い話にもなんにもなりません。後刻、その職員がどうなったかはご想像にまかせます。はい。 

 なお、「連結送水管」も「屋内消火栓」も、佐伯のかなり昔の経験ですから、最新技術がどうなっているのかは詳らかでありません。その点誤解なきようにお願いします。できれば専門家のご教示をいただきたいです。

 備えあれば憂いなし

 

日替わりメモ090122

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A8816 航空史探検博物館 沖縄県島尻郡南大東村 日本の風景 南大東空港
A3661 航空史探検博物館 東京都豊島区 思い出 1980年池袋三越デパートの航空 博覧会 チケットを追加

○ 南大東島

 090120で触れた気象観測は、やはり南大東島で正しかったようです。ELINT人さんが島の飛行場と共に南大東島地方気象台の立派な石の表示を写してきてくれました。気象台と観測所は、気象予報官が居るかいないかの違いだそうですが、各サイトの訪問記を見ると、南大東島地方気象台は日本に重大な影響をもたらす太平洋高気圧を解明する研究ポイントになっているそうで、内地の例えば広島地方気象台などよりもはるかに高度な機器と研究員を揃えているのではないかと思います。

 砂糖きび畑の中やマングロープ海岸をバックの近代的な気象台や飛行場、南大東村の村是は「教育立村・人材を以って資源となす」とありますが、これらがあいまって大いに振興されるよう祈る次第です。

 さて、沖縄本島以外の離島にある12の空港のうち、久米島、北大東、南大東、下地島、波照間、与那国の6空港を収録しました。残る6空港、皆さんの楽しみにとっておきましょうかね。

○ 1980年航空博覧会のチケット

 ひとつの情報が次々に反響を呼ぶ好例です。
 山本晋介さんが、思い出して高校時代の日記帳を出してみたところ航空博覧会のチケットが貼り付けてありました。それで、この博覧会が、日本の航空70周年を記念する日本航空協会の大きな事業(7月29日から9月7日までの38日間)であったこと、入場料が大人も子供も300円であったことなどがわかりました。

 因みに、航空ジャーナルの1980年8月号の定価は750円でしたから、まあ適当な値段だとは思いますが、山本さんの日記には「F-104DJ 46-5020号機 小松の昔のマークをつけていた。計器板なし。エンジンなし。その他、飛燕、ベビーグレトレイク、FA-200-160、DC-7のコクピット、模型など。つまらんかった。」と書いているそうです。

 さて、日本の航空100周年がまもなくやってきます。航空協会さんは、高校生に「つまらんかった」という感想を持たれないようなイベントを企画しているのでしょうか。記念書籍(日本の航空100年)には、是非ともこのような裾野の広いアマチュアにもページを提供してほしいし、大型飛行場を借り切っての一大博覧会など如何でしょうかね。

 

日替わりメモ090121 

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T44 図書室 書評  航空黎明期 操縦留学熱伝染の跡 日本航空協会発行 航空と文化98新春号
A3013 航空史探検博物館 茨城県竜ケ崎市 思い出 竜ヶ崎飛行場に飛来したドルニエ機

○ 操縦留学熱伝染の跡

操縦留学熱伝染の跡」とは、大正時代に憑かれたように洋行して操縦訓練を受けた人を顕彰する碑が今に残るという意味です。わが航空史探検博物館も 、090118にも取り上げているように、各地の新旧の碑を記録してきていますが、航空と文化98新春号に書かれた3飛行士の碑については知りませんでした。以後、順次許可を得て転載するにあたり、書評を行っておきました。

 航空と文化は年に2回(WEB版を加えれば年4回)しか発行されませんが、これまでも何度か書いてきたように歴史の証言など、歴史派マニアにとって参考になるところが多く、一般航空雑誌のようにギンギラギンのカラーや広告か本文か区別のつかないページがないのがいいです。似たような雑誌は、発刊以来同じスタイルを続けている世界の艦船くらいのものです。

 世界の艦船といえば、読者交換室でハイレベルの意見が戦わされたりしています。それが購読を続けさせる魅力のひとつなのですね。航空と文化のWEB板も投稿を募っています。皆さん挑戦してみませんか。

○ 思い出 竜ヶ崎飛行場に飛来したドルニエ機

  愛娘が嫁ぎ、里帰りして一緒に残した荷物を整理していた時に出てきた一枚の写真、父親たる永島さんのその時のご心境が伝わってきます。平凡な写真といえばそれまでですが、阪急航空から北海道航空へ移籍して活動していたころの貴重な現役写真ということもあって、思い出として掲載しました。併せて家族の温もりも感じていただければと存じます。 


訂正 : ニュースフラッシュ593 ビーチ1900D岡南空港に飛来の説明で、旅行会社のチャーター云々と書いていましたが、それは岡山空港における別の機体のことでした。エアトランセの1900Dは岡南空港で整備中の写真ということです。 

 

日替わりメモ090120

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N593 ニュースフラッシュ593 エアトランセの現況 2009/01/18 ビーチ1900D岡南空港に飛来
A8816 航空史探検博物館 沖縄県島尻郡北大東島 日本の風景 北大東空港

○ 今朝も沖縄県関連で二題

・  エアトランセの現況     昨日の下地島空港について、やっぱり失敗したエアトランセの南進計画(那覇〜下地島線)と書こうかと思っていたのですが、ちょっと気の毒なので筆を止めていたら、何と岡山からエアトランセのビーチ1900Dの画像が届きました。不思議な縁です。それで、同社のホームページなどを調べましたら、北海道からも沖縄からも完全撤退で、今は旅客機のドライレンタルという日本での新しい分野に乗り出していました。

 弱音をはかない江村林香さん、私にお金があればビーチ1900D1時間30万円で一族遊覧飛行と行きますよ。それにパイロット代やグランドハンドリング代が加わるので、宝くじで50万円ほど当てられたら必ずやりますから。

・  北大東島      NHK第二放送では今でも気象通報をやっているのかな。
 南大東島 南南西の風、風力5、気圧1050ミリバールなんてね‥ 少年時代にラジオから流れる通報で天気図に等圧線や風向を書きいれ、ひとかどのお天気博士になっていた気分の人は多いと思います。大東島の文字を見て思わず南大東島を思い出しました。

 ひょっとして、南大東島ではなく南鳥島だったかもしれません。その辺の記憶はあいまいですが、南大東島には海軍が1934年に飛行場を設けているので気象観測ポイントであったことは間違いないでしょう。
 北大東空港は1971の緊急離着陸場設置が始まりです。いずれにしても、観光案内もなく、どんな島なのだろうかと想像をめぐらしながらラジオを聞いていた時代が、実に懐かしいロマンです。

 

日替わりメモ090119

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A8815 航空史探検博物館 沖縄県宮古島市 日本の風景 下地島空港 (足もとの悲しい現実)
A8809 航空史探検博物館  沖縄県糸満市 金城よろず屋 F-104最近の状況

○ 沖縄県から二題

・  下地島空港は、地元の観光案内にはパイロット訓練飛行場と出ています。数少ない3千メートル級の滑走路に民間旅客機がタッチアンドゴーなどを繰り返す風景は、ヒコーキマニアにとってはたまらない魅力でしょう。しかし、足もとを見ると、美しい風景とはとても言えない現実があります。今朝は怒りをこめてその現実も紹介しておきました。

 宮古島へ合併する前の伊良部町民憲章は次のように宣言しています。
 
わたしたち伊良部町民は、恵まれた美しい自然と伝統ある歴史、文化に誇りと責任をもち、海と空にひらかれた創造する町をつくるため 〜 美しい自然を愛し、きれいな町をつくります 〜

 また、合併後の宮古島市は、昨年3月にエコアイランド宣言を発しました。
 曰く 1.私たちは、美しい珊瑚礁の海を守ります 〜 と
 願わくは、その宣言を着実に実行する具体的な行動を起こして頂きたいものであります。

・  糸満市にあるF-104を残骸と表現し、場所も某所としていましたが、FALCONさんの写真に店の表示が写り、金城よろず屋と判明しました。同店のホームページにはF-104戦闘機売ります!としてシリアル13265(F104G?)の離陸写真がトップタイトル画で出ています。残骸に近い機体が売り物であったとは恐れ入りました。どうか良い買い手がついてくれるように祈ります。


○ 090117続 々 技術と運の見事な融合 ハドソン川へ不時着水

・ Kyouさんのメールから

 標記について、メディアによっては「墜落」「不時着」などと表現されているようですが、正しくは「不時着水」と表現すべきでしょう。

 一般的に「不時着」は陸上に「Forced Landing」した場合に使用する用語であり、「水上(海上、湖沼、河川を問わず)」に降りたの場合(「Ditch」若しくは「Ditching」)は「不時着水」です。 (ただし、陸上機に限りますが・・・。)

「水上機、水陸両用機(Amphibian)」の場合は、emergencyで降りた時で、かつ、通常以外の着水方法の場合はこの用語をつかったと想像されます。 ニュースで報道された「乗客」「目撃者」のコメントがどのような表現であったかは、聞き取れなかったので解りませんが、これが正しいと思います。

佐伯から : 公式用語=Ditching   US Coast GuardのホームページもDitchingとしています。

 

 

日替わりメモ090118

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HOME [表紙絵005]  教官と生徒たちのいしぶみ 
A8318 航空史探検博物館 長崎県諌早市 長崎航空機乗員養成所跡碑  諫早海軍航空隊顕彰碑

○ 諌早市のいしぶみ

 佐世保や大村だけが長崎県じゃないよ、とばかり諫早市から写真が届きました。太平洋戦争の最中に、有明海に面した干拓地に海軍系の逓信省長崎航空機乗員養成所が設けられ、その飛行場を大拡張して諫早海軍航空隊も新設されました。

 今、飛行場の面影はなく、2基のいしぶみが歴史を伝えるのみですが、碑文にはご多聞に洩れず特攻の悲しい結末が語られています。航空機乗員養成所は、子どもたちのあこがれであり、幼年学校よりも競争率が高かったといわれていますから、碑に彫られた生徒10名の姿がユーモラスであるだけに、涙を誘います。


○ 090117続 技術と運の見事な融合 ハドソン川へ不時着水

・ Aさんのメールから

 目撃者は「普通の着陸のように見えた」と話していましたが、素人想像では恐らく、フラップ・フルダウン、、車輪UPのまま機首上げ、胴体後半部から着水、次第に水煙が大きくなり、エンジン部着水で更に水煙が大きくなり同時にブレーキ効果、機体は次第に水平に戻り、造波抵抗で減速停止と。こんな状景ではなかったでしょうか。飛行艇の着水シーンを連想します。

・ Bさんのメールから

 Aさんの描写は実にリアルで、読みながら水しぶきをあげながらのA320が頭に浮かびますね。さすがにポイントをついてます。
 左右エンジンとも設計どうりに水圧を受けて主翼から脱落しました。陸上海上でも不時着時は抵抗衝撃によりエンジンを飛ばして、機体停止時にエンジン火災により逃げ場を少なくしないようにして、死傷者減を目的にしています。また機体浮揚時間も20分くらいの設計どうりだったようです。

・ Cさんのメールから

 報道表現の「墜落」か「不時着」かの話しですが、日本人的にはたしかに「不時着」と「墜落」では大いなるイメージの違いがあります。しかし、本場では、例えばニューヨークタイムスはcrash landingや単にcrashと書き、或いはcomes down, down, ditched, water landingなどさまざまな表現があるようです。 

辞書を引くと an emergency landing  a forced landing ‥

 

日替わりメモ090117

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N592 ニュースフラッシュ ロシア連邦院議長来日のイリューシンIl96-300 東京国際空港にて
A3301  航空史探検博物館 埼玉県 ジョンソン〜入間基地 空技廠特殊攻撃機櫻花の変遷
  ジョンソン基地略図 (1948年頃)  新 陸軍航空士官学校の略図を追加
日本返還直前の櫻花 ジョンソン夫妻歓迎文字  その解釈を追加
11 修武台記念館最後の撮影 2004年 (翌年から撮影禁止) 題名変更

○ 090116続 櫻花展示の変遷 

  昨日の呼びかけに対して、早速、長島さんから電話がありました。SAYONARA WELCOME MR. MRS.〜の文字は、一度だけのものではなく、いろいろな人が基地へ来たり去ったりする都度書かれるボードのようなものでした。ロバート ミケシュさんから直接聞いた話しだということですから間違いありません。

 敵方の特攻機を歓迎や送別のモニュメントにしてしまう感覚が、どうも理解できないし、日本人として釈然としないところがありますが、もう時効になった歴史のひとこまです。

 また、陸軍航空士官学校時代の地図を新たに載せました。修武台記念館となった学校本部庁舎、教授棟、大講堂のほかに実に多くの施設があり、ちゃんと将校集会所まで設けています。想像していたよりもはるかに金をかけたものであり、昭和10年代の日本陸軍が如何に航空を重要視していたかが分かります。しかし、座間の陸軍士官学校内に航空士官学校分校として初めて設けられたのが昭和12年(1937年)であり、入間に移転して士官学校となったのが昭和13年(1938年)ですから、戦後から見るとすこし時遅しの感を免れませんね。

 米軍が接収して第5空軍の司令部を置きましたが、この広大な施設では一部の建物占拠と南北に広い住宅群を設けたほかは遊ばせた建物も多かったらしく、同居するようになった初期航空自衛隊の隊員さんの話では、ストーブの薪とするために古い建物をだまって壊したりしていたそうです。笑えぬエピソードです。

 なお、11の題名を修武台記念館最後の公開としていましたが、公開は2005年も行われており、撮影が禁止になったものだとの指摘がありましたので、2004年は最後の撮影としておきました。あくまで一般入場サイドからの事柄です。


○ 技術と運の見事な融合 ハドソン川へ不時着水

 12日の高校サッカー選手権大会で、佐伯の母校広島皆実高校が優勝し、これまで皆実をカイジツと読まれていた情けなさを、堂々とミナミであるとイレブンが全国に宣言をしてくれました。(私の卒業証書は皆実高校工業部電気科でありますが、それを貰った1ヶ月後に工業部が分離して県立広島工業高校となったので、皆実と県工の混血みたいなものなのです)  

 それはともかくとして、サッカーフアンの9割までが大迫君のいる鹿児島城西高校を勝たしたかったのでしょうが、皆実高校の徹底したパス回しの反復練習の成果が見事に結実して、皆さんの期待を裏切りました。 皆実のパス回し(即ちボールコントロール)の技術はシュートにも生きていました。
 鹿児島城西高校が一人のエースに拘るサッカーをしてくれたという運にも恵まれました。終了時に見せた全員攻撃を初めからやっていたら皆実は大敗していたと思います。

 航空とは縁のない話しを続けましたが、ハドソン川へ見事な不時着水をやって乗員乗客全員を助けた機長さんも、基本的な技術を完璧にマスターしていて、それを冷静沈着にしかも瞬間的に高度な判断をするという、航空史上稀に見る人身事故回避をやってのけました。その技術と共にもしハドソン川がなかったらとか、橋があったら、船がいたらとかを考えると運というものを考えざるを得ません。技術と運の見事な融合、そのどっちが欠けてもだめなんですねえ!

・ TBSのニュース  Buuさんからメール

 今朝、ヤフーのニュースで各社の動画ニュースを見てましたら、TBSで、ニューヨークの記者が「墜落」との言葉を多用していました。乗客のインタビューにも「墜落の時はどうでしたか?」 乗客の方は「墜落ではありません、不時着水です」と返されていましたね。

 パイロットの技量を褒める言葉も聞こえたと思いますが、その部分はフェードアウトされてました、肝心な所だと思いますが‥。

 そんなやり取りをしても、まだ墜落の言葉を繰り返していました。事故機も見える状態で、乗客が全員救助されてるのに、不時着と墜落の判断も出来ないのでしょうかね?

  他社のニュースも見ましたが、他は不時着と流していました。報道機関であれば、言葉の表現で騒ぎが大きくなる事もありますので、TBSのホームページより、苦情を送っておきました。

 佐伯から : Buuさんの苦情メールが効いたのでしょう。その後は不時着水に統一していました。ヤツらは事故は大きいほどうれしいんです。不時着よりも墜落で大惨事にして、航空会社や当局の責任を追及したいという本能みたいなものが、初期報道を誤らせるのです。

 大昔、まだ下駄が通用していた時代に、私はM新聞社の広島支局でアルバイトをしていました。ある記者が取材から帰って来た時に4階でエレベーターを降りて、下駄の音も高く階段をかけあがり、息急き切って5階のデスクまで走り、私はこれだけ急いで報告に来たんだというポーズを取っていました。その記者が後で笑いながら話してくれたので嘘ではありません。

 まあ、マスコミの記者なんてこんなものと思っておけば腹はたちませんよ。

 

日替わりメモ090116

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A3301 航空史探検博物館 埼玉県 ジョンソン〜入間基地 空技廠特殊攻撃機櫻花の変遷
  ジョンソン基地略図 (1948年頃)
1948年の櫻花
1979年の櫻花
1950年の櫻花
日本返還前(撮影年不明)の櫻花
新 日本返還直前の櫻花 ジョンソン夫妻歓迎文字
1963年日本返還
建物(小屋)内に収容 1973年頃
新 修武台記念館の櫻花 1990年
修武台記念館の櫻花 2002年
10 修武台記念館の櫻花 2003年 
11 新 修武台記念館 最後の公開 2004年

○ 櫻花展示の変遷

 ogurenkoさんから、更に入間の写真を頂きました。その中で櫻花の胴体に書かれた
        SAYONARA WELCOME MR. MRS.JOHNSON
の文字について、はじめはジョンソン基地の名称のもとになったジョンソン氏が訪れたものと思いましたが、よく考えれば、東京湾で墜落死したB-29パイロットの名前ですから本人が来る訳もなく、ご子息夫妻だろうと見当をつけておきました。それにしても、WELCOMEとSAYONARAを併記する感覚がどうしても理解できません。既に日の丸が入っているので、櫻花を日本へ引き渡すからSAYONARAなのか、それとも米部隊そのものがジョンソン基地から撤収する別れの言葉なのか、どなたか解明していただけませんかね。

 修武台記念館内に展示されるようになってからの写真も、各年で少しずつ変化が見られます。例えば、桜花が櫻花になったり桜花に戻ったり、ばらした部品を公開したり、製作中のレプリカを加えたりしています。今後どうするのか、オリジナルはかなり失われているみたいですから、最終的にどうなるのかか、これも教えて貰いたいものです。
 参考
 三菱名古屋の秋水 オリジナル骨格をもとにして金属で完全復元
 大刀洗の九七式戦闘機 オリジナルの欠損部分をプラスティックで完全復元
 所沢の九一式戦闘機 オリジナルと分離させて、欠損部分を復元


連絡    MARVERICさん 大量の画像が詰まった2枚のDVDを昨日受け取りました。大変に貴重な資料ですので、有効に使います。ありがとうございました。不注意でアドレスが分からなくなったのでメールしてください。 

 

日替わりメモ090114

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N591 ニュースフラッシュ 2009/01/10 嘉手納基地にF-22Aラプター飛来
A3661 航空史探検博物館 東京都 思い出 1980年池袋三越デパートの航空 博覧会 モノクロ写真を追加

○ 090113続 思い出 1980年池袋三越デパートの航空博覧会

 昨日 「池袋三越が朝日新聞社主催で開いた航空博」と書きましたが、YS45さんのモノクロ写真に看板が写っていて、主催:財団法人日本航空協会 後援:朝日新聞社 協賛:富士重工業、日本航空、全日空、東亜国内航空、航空宇宙開発事業団と読めました。名称も航空博ではなくちゃんと「航空博覧会」でした。

 今日、追加した写真は、F-104DJの第205飛行隊のマーク、FA-200が初号機であることの証拠となり得る尾翼の富士重工マーク、飛燕の第244戦隊マークらしきもののクローズアップです。特に第205飛行隊は1981年に解散してこのマークを引き継いだ部隊はなく、この#020機も小牧基地に常設展示された際に第207飛行隊マークに付け替えられ、機体そのものも廃棄処分されているので、もう見ることができません。

 都心に於いてデパートの客寄せの意味もあって開かれたイベントでしょうが、一般への航空思想の普及と同時に映像として航空史探究への貴重な資料を残してくれている訳です。

 歴史派、記録派マニアの一人として撮影者の皆さんにお願いします。かかるイベントでは、必ず主催看板と展示物の説明板も写しておくこと、及びパンフレットを保存しておいてほしいということです。この二つを励行することで、何十年か後のマニア氏がどのくらい助かることか、20年前の三越の航空博覧会を振り返ってみてつくづく思うのであります。

 

日替わりメモ090113

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A3661 航空史探検博物館 東京都 思い出 1980年池袋三越デパートの航空博

○ 思い出 1980年池袋三越デパートの航空博

 戦後、航空再開の頃から1980年代中期にかけて、各地で航空機を展示する博覧会などのイベントが盛んに行われました。そのブームがぼつぼつ終りを告げる頃になると思うのですが、都心の池袋三越が朝日新聞社主催で開いた航空博は、いろいろな意味で興味深いものです。インプラントさんからカラー写真を頂き、平面駐車場と屋上に置かれた展示物をじっくりと拝見し、多少の考察を加えておきました。

 ブームがぼつぼつ終りを告げ始めた理由はいろいろ考えられると思いますが、例えば、成田の航空科学館構想が生まれたのが1978年(オープンは1989年)というように本格的な航空関係博物館が誕生したり、地方自治体が公園などに展示したり、各自衛隊が航空祭に力を入れ、また飛行機をただ置いてあるだけの常設展示場に手を加えて整備したりというような、外的環境の変化があると思われます。

 そういう意味では、各地で行われた航空機展示のイベントが航空思想の普及のつなぎ役(或いはそれ以上)に貢献してきた意義を検証してみる必要があります。同時に、飛燕、零戦、F-104DJ、F-86D、T-33Aなど全国を旅してまわってくれた役者一同にご苦労さんとねぎらいの言葉をかけてやりましょう。それらの多くが今や安住の地を得ているのもうれしいことです。古きを尋ねて新しきを知る、いずれは、旅回り一座の歴史を執筆してみたいものであります。

○  2009年版自衛隊カレンダーを差し上げます 090111
  まだ1と3があります。

 

日替わりメモ090112

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N590 ニュースフラッシュ 2009/01/11 陸上自衛隊第一空挺団の初降下訓練

 

日替わりメモ090111

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A3301 航空史探検博物館 埼玉県 ジョンソン〜入間基地 空技廠特殊攻撃機櫻花の変遷 (再編集)

○  ジョンソン〜入間基地 空技廠特殊攻撃機櫻花の変遷

 米軍からBAKAというコードネームを付けられた人間ロケット櫻花について書くときには、どうしても心の片隅に痛みが走りますが、それは、特攻機のすべてについて言えることであるし、昨日の大村市の戦争遺跡にも同様の感覚がありました。歴史記述という大義名分のもとで、そういうことは押し込めて今朝も櫻花のページを再編集した次第です。

 杉山さんが入手した1949年と1950年の櫻花の写真を新たに加え、種々検討した結果、展示位置が一度も変わっていなかったことがわかりました。場所の変遷はありませんが、機体そのものや花壇にはその時の状勢を物語る移り変わりがあり興味深いです。

 これで、架台上の展示についてはほぼ正確な歴史を航空史探検博物館に記録することができましたが、これを取り降ろしてからの歴史ははっきりしません。新修武台記念館構想では、櫻花を展示することになっているそうです。それが実機の櫻花なのか、隊員が作りはじめていたレプリカなのか、あるいはその混合なのか、展示の暁には経歴を明瞭に示してくれるようお願いします。

 

○  2009年版自衛隊カレンダーを差し上げます




いずれも新聞紙大の大きさで1と2は12か月1枚ずつ、3は2か月まとめ6ページです。
1はお馴染みの柴田三雄事務所発行で買えば定価2500円です。
2は航空自衛隊オリジナル、3は防衛庁オリジナルです。

希望番号と住所氏名を記してメールしてください。早いもの勝ちとします。届いた人は後で送料分の切手を送ってくだされば助かります。佐伯

 

日替わりメモ090110

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N588 ニュースフラッシュ588 広島市消防出初式を市民球場で実施  広島市消防ヘリコプターについてのやりとり
A8317 航空史探検博物館 長崎県大村市 大村市の戦争遺跡
                       1 下原口の掩体壕
                       2
 第21海軍航空廠本部防空壕
                       3 第21海軍航空廠慰霊塔公園 防空壕と慰霊塔

○  広島市消防ヘリコプターについてのやりとり

 広島市は早くから電子市役所の名乗りをあげていますが、肝心の公式ホームページにあまり関心が払われてなくて、去年も某公民館の開館日カレンダーを信用して訪れたら、カレンダーが前年のもので用が足せなかったということがありました。

 このたびは、出初式のドーファンのことを知りたくて市の消防車輛というページを開いたら2005年3月更新となっていて、古い消防車の写真が数台載っているだけでした。それで、なぜヘリコプターなど最新の機材を紹介しないのかと市長にメールしましたら、2日後には一新されていました。

 そして、昨日、あわせて質問をした用廃ヘリの展示問題を含めて非常に懇切な答えを頂戴しましたので、出初式のページに紹介しておきました。行政のこういう素早い対応には好感がもてます。

 

○  大村市の戦争遺跡
 
 昨日アップした掩体壕に続いて、防空壕や慰霊碑の写真が加わりました。大村の第21海軍航空廠のことがあまり知られていないように思う、と昨日の日替わりメモに書いているのですが、N.P.Cさんから「楠のある町から 第21海軍航空廠」というA4 79ページの立派な冊子を送って頂き、青年会議所や市役所などが「東洋一を誇った第21海軍航空廠の実像や悲劇を記録して残そう」という充実した活動があることを知りました。

 また、同市公式ホームページの大村観光ナビに戦争遺跡の場所などの紹介があります。それで、当方には一部の写真で紹介するに留めましたので、航空史、特に海軍航空廠の歴史に興味を持つ方はこの冊子やホームページを参考にして現地に行かれるようお勧めします。

「楠のある町から 第21海軍航空廠」  第2版 2005年3月20日発行 定価1000円
大村市東本町2-1 大村青年会議所内 活き活きおおむら推進会議 電話0957-52-6391
(大村海軍航空隊において米空軍マークを付けた紫電改4機の引渡前の写真や、零式水上観測機の詳しい資料など、航空関係者にとっても貴重な本です)

   

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