支那事変 概説4
 The China Incident


===== 昭和13年秋季以降 対支処理方策 =====

武漢・広東作戦後陸軍は、支那事変遂行の基本観念として「昭和13年秋季以降対支処理方策」を決定した。
当時陸軍は内地に近衛師団を有するのみで、支那に24個師団、満州・朝鮮に9個師団を配置し、全く攻勢続行の弾力を失っていた。即ち対支作戦は、支那軍の主力を撃滅するに至らずして攻勢の終末点に到着したもので、この態勢をもって長期持久戦に入り、一方では対ソ作戦準備を急速に促進せねばならず、この対支持久戦争の指導は戦略上きわめて困難なものであった。したがって謀略及び政略の運営、とくに親日政権の育成強化に大きな期待を寄せたのであるが、これが蒋介石政権との和平をふさぐ結果となりしかも傀儡政権とみなされ、その育成は、不慣れな異民族統治と併せ容易ではなかった。

一方蒋介石総統は、日本軍の攻勢点が終末に達したことを知り、本格的対日戦は今から始まると判断し、攻勢移転を決意、着々その準備を進めると共に小出撃と後方擾乱とによって日本軍の消耗を図った。退避戦から総反攻に転移の機を狙い爾後の戦勢挽回に期待したのであった。

===== 南寧作戦 =====

大本営は北部仏領インドシナから重慶を通ずる広西ルートを直接遮断し、さらにビルマルートに対する海軍航空隊の爆撃基地を推進することが議論となった。 陸軍側は武漢作戦後、対ソ戦備優先とノモンハン事件勃発(昭和14年5月)で実行を渋ったが、ノモンハン事件後の統帥部首脳の更迭もあって、昭和14年10月14日 本作戦の実行を命令した。

満州から転用された第5師団と台湾混成旅団が、11月15日から16日にかけ欽州湾に上陸、24日第5師団は南寧を占領した。さらに1個聯隊を南寧の東北東35Kmに、1個聯隊を南寧の北20Km、別の1個聯隊が仏印国境の龍州に派遣し、大量の援蒋物資を押収させた。 12月上旬、蒋介石直系軍約10万が前進してくるとの情報があったが第5師団長・今村均中将はこれを軽視した。部隊を分散させたままの態勢のところに12月17日から約25個師からなる支那軍の大軍の攻撃を受け、包囲され24000名の日本軍は苦境に陥った。翌昭和15年1月13日、第18師団、近衛師団の1個旅団約3万の増援が欽州に上陸、25日までに難南寧付近に集結、28日から賓陽付近の支那軍に対する反撃作戦(賓陽会戦)が行われ、これを退却させた。

===== 海南島作戦 =====

海南島攻略は広東作戦が検討されていた頃から海軍より提案されていたが、陸軍側は海軍が青島や厦門のように政治経済の全面にわたり権益を設定して、日中和平解決の障害になることを恐れて躊躇していた。しかし陸海軍協同の関係を考慮し、その目的を限定し、将来政治経済に関連しないという協定を決めて本作戦に合意した。作戦は昭和15年2月10日 第21軍麾下の台湾混成旅団と第5艦隊の協同で実施され、大した抵抗もなく終了した。
しかしこの占領で英仏蘭諸国に、「日本の南進」と多大の疑惑を抱かせることとなり、日本政府は、南シナ海沿岸封鎖という軍事目的であることを弁明した。のちに同島に専門家が派遣され地下資源を調査した結果、鉄鉱山が発見され開発に着手した。なお本作戦直後、日本政府は南シナ海の新南群島(南沙群島)を昭和14年3月31日付で日本領と宣言した。

===== 事変の長期化と高宗武(汪兆銘)工作 =====

昭和13年における徐州作戦、武漢作戦、広東作戦で、日本政府としては和平のいとぐちが開かれることを期待した。日本は領土的野心などは全くなかったが、蒋介石を交渉の場に引き出すことはできなかった。一方、蒋介石国民政府側も、和平を主張する勢力も一部にはあったものの、戦争継続の間の中共の著しい進出に脅威を感じており、さらに日本側が蒋介石の下野を先決とする態度では交渉にならなかった。

漢口陥落直後蒋介石は、前述のように日本軍の短期決戦失敗と泥沼化を指摘し全面的抵抗を支那全土に訴えた。 近衛政府は11月30日「日支新関係調整方針」として「互恵平等、日満支一体提携、善隣友好、防共協同防衛、経済提携」を決定・発表したが、支那側の反応に見るべきものはなかった。12月18日に副総裁・汪兆銘は重慶から脱出し、この声明に呼応する活動を開始した。しかし人望・指導力の面では蒋介石に及ばず、汪兆銘自身の日支和平の理想と熱意とは裏腹に、全面和平に貢献できる存在にはならなかった。

===== 持久戦での作戦方針 =====

大本営は、漢口、広東占領後、作戦的に一段落を画したとし、今後は特に重大な必要のない限り作戦地域を拡大せず、かつ華北、揚子江沿岸などの治安維持の地域と、武漢三鎮及び九江を拠点とし抗日勢力の壊滅に努める作戦地域とに分けて施策する方針を決定した。当時日本軍の占拠地域は約136万平方キロメートル、その地域の全人口約1億7千万人、対する日本軍総兵力約75万。日本軍は主用都市、交通路を確保し、その他は機動によって勢力圏を維持していたので広大な支那大陸全般からみれば「点」と「線」を維持しているに過ぎなかった。

昭和14年で戦面拡大としての作戦は、海南島攻略、南昌攻略作戦であり、既述のように「支那事変最後の進攻作戦」として南寧作戦が実施された。支那軍の反抗に際しては機先を制し、各個撃破につとめ、第11軍などの一部を除いては治安粛清戦として不断に各地で実施された。特に華北では討伐行動、治安工作を併行させ、部隊は逐次分散配置し、「点と線」の治安地域を「面」に拡大しようとした。
昭和14年12月から支那軍は、全土で一斉に出撃してきた。この冬期攻勢の規模と戦意は日本軍の予想を上回り、日本側としては支那事変解決の前途はいよいよ厳しいことを痛感させられることとなった。日本の国力は作戦の負担から衰弱窮迫し、「対第三国戦備(対ソ等)」の補強も進まなかった。また一般世論はこの国力の実状にも拘わらず、戦果とその犠牲、大陸に築いた経済的政治的権益保持の希望などから、講和条件は高調子を加え事変解決の目途はまったく立たず、事変はいよいよ泥沼化していった。

軍事力の行動限界を超えたこの見通しの立たない閉塞状況から脱出、自主的に事変を縮小、終結させようと、中央部は昭和15年度陸軍予算で、在支兵力を約85万から50万に削減し、これで軍備充実を図ろうとしていたが、そのうちに欧州大戦で英仏蘭各国が敗退し、日本国内に好機南進の空気が沸騰した。

===== 中共の戦略 =====

国共合作によって停戦状態となった両党は、依然として互いに相手に対する不信感を抱き、警戒を怠らず、自分たちの利益を拡大しようと計画していた。1937年8月に中共が決定した「抗日救国十大綱領」は、表面的には全国の人民を組織し抗日戦争に勝つための方策として出されたが、裏面ではこの大衆組織によって蒋介石の反動に反対するという両面政策の指針として打ち出されたものであった。つまり中共は抗日戦を利用して民衆を組織し、党勢を拡大しようとするもので、抗日戦に勝つことは中共の利益、国家的利益を追求することと一致するという有利さがあった。

昭和14年になると国府と中共との間にひびが入り、両者の争いは次第に激化し武力衝突も生じた。即ち日本軍、国府軍、中共軍の三者が、それぞれニ者を敵としてあい争う事態となった。ただし中共は巧妙に国府との衝突を避け、日本軍と国府軍を戦わせ、日本軍の占領した地域に勢力の浸透を図った。 そのやり方は、我が占領地域に根拠地をつくり、党・軍・政・民一体の結合組織を作り、諸施策を統合して実施し次第に勢力圏を拡大する。その努力の配分を政治七分、軍事三分におく。遊撃戦以外の戦いの主体は政治戦とくに民心の獲得であった。 支那の対日抗戦はことごとく失敗し、国民党軍は大きな打撃を受け行政組織は破壊された。しかし日本軍が進出した背後の空白地帯は中共の匪賊(俗にいうパーロのゲリラ)地区となり、解放区が発展する形となっていった。 これらはすべて秘密組織による地下活動であるので、日本軍が実態を掴むことは困難であった。

中共には最初から日本と蒋介石を全面的に戦わせ、漁夫の利を得るという確固たる戦略目標があった。蘆溝橋事件が局地的に解決されそうになると郎坊事件、広安門事件、通州事件のような現地日本人虐殺事件を連続して引き起こし、解決させぬよう事件を複雑にしていった。そして日本は、現地居留民保護のために軍を派遣し、戦線を拡大していった。中共の狙いの中に見事にはまり込んでいったのである。この中共の大戦略は次の3段階に纏めることができる。

 @ 支那事変を拡大して日本と蒋介石を戦わせ、蒋介石の反共路線を抗日目標に転換させる。
 A 日本と蒋介石軍の全面戦争をテコにして自己の勢力を拡大し、日・蒋両者を疲弊させる。
 B 両者が困憊した最後の段階で一挙に登場して政権を奪取する。

この戦略を授けたソビエト・コミンテルンの指令は、第2次大戦を日独対米英の戦争即ち「資本主義国家間相互の闘争」に持っていこうとした、スターリンの世界戦略に通じるものであるといえよう。

===== 米・英・ソによる支那援助 =====

支那事変以来米英両国は、中立国の国際法上の義務に違反するように公然と蒋介石政権に対し、経済的・軍事的に多大な援助を与えた。これは明らかに日本に対する挑発行為であった。支那大陸をめぐる日米の対立は、日露戦争以来宿命的なものがあり、米国は大陸進出の機会を常に覗うと同時に満州国の成長ぶりに脅威を感じていた。その米国は排他的勢力圏を有する「モンロー主義」を標榜しながら、支那では「門戸開放・機会均等」が剥奪されている、として日本を厳しく非難した。しかし日本は「極東のモンロー主義」を要求しているのであって、米国の主張が「自分のことを棚にあげた手前勝手な論理」であることは明白だった。

一方英国は、事変当初は欧州と極東での緊張拡大を避けるため、表面上は親日的ではあった。しかし揚子江・珠江流域で活動していた英国資本を中心に、阿片戦争以来反英感情が濃厚だった支那民衆を抱きこんで、反英感情を抗日感情へすりかえることに成功していた。また租界や海関制度に象徴される権益や既得権は日本の事変遂行に大きな支障を与えていた。やがて日本が南進の姿勢を明確にすると、もはや日本との衝突は避けられないと判断するに至り、これ以上の南進を阻止するには支那との抗戦により事変の泥沼にはまり込んで弱体化させることが英国には望ましかった。そして支那の抗戦を支えるため、日本との正面衝突に至らない範囲での対支那援助が必要であった。

ソ連は、日本の軍事力の矛先が自国に向けられるのを避けるため支那の抗戦を望み、支那からの軍事援助要請には積極的に応じていた。ソ連の支那援助は昭和12年8月の中ソ不可侵条約を契機として開始されており、武器・軍需品の供給に留まらず、飛行機の供給にはしばしばロシア人パイロットや整備員が同行し実戦に参加することもあった。昭和12年末にはその数450人にも達したと言われ、昭和13年には帰国したドイツ軍事顧問団に代わってソ連軍事顧問団が組織された。これらの背後には中共とコミンテルンの関係があったことは言うまでもない。 ソ連の対支那軍事援助は昭和16年6月の独ソ開戦まで続いた。

なお航空隊支援については、クレア・シェンノート将軍を指揮官とする米軍義勇兵「フライング・タイガース」が有名である。武器貸与法で供与されたP40戦闘機100機を使い、約300名から構成されていた。

===== 援蒋ルートと日米・日英関係の緊張 =====

米英両国は、従来極東政策では互いに不信感が強く、不一致の行動をとっていた、だが、「東亜新秩序」声明に接してからは急速に歩調を整え共同行動をとり始めていた。日本・満州・支那で東亜の主体勢力を構成しようという東亜新秩序構想が、第三国とくに英米を主とする西欧列強勢力にとって在支権益が圧迫され東亜から排除されるのであれば、この政策に共同して反発するのは当然であった。
日本の大陸政策と日米・日英・日ソ関係の緊迫化は関連していた。米英の対支援助は対日圧迫政策の手段となり、日本と米英との対決は必然的に米英と支那との連携合作を強めていくこととなった。

面積が広く人口と潜在的な資源は多いが、近代工業をほとんど有しない支那が、強国の一つである日本に対し長期抗戦を継続し得たのは、米英ソ仏などによる以下の「援蒋ルート」からの強力な援助があったからである。

 @ ベトナムのハイフォンからの<仏印ルート>
 A ラングーンから昆明に向う<ビルマルート>
 B 寧波、香港、広州などを経由する<南支ルート>
 C ソ連から新彊を経て入る<西北ルート>

日本は南京をはじめとする主要貿易都市、工業都市のすべてを押さえたが、これらの援蒋ルートから運ばれる武器や資材があるので蒋介石軍は抗戦が可能であった。日本軍は、輸送拠点の広東や南寧を攻略し、輸送ルートを爆撃して戦時禁制品物資の対支輸出を阻止しようとしたが、宣戦を布告しなかったため、交戦国としての権利を行使することはできず、大した効果はなかった。このため好機南進の空気と援蒋ルート遮断を目的として、全輸送量の半分以上を占める仏印ルートに着目、フランス政府と協定を結び昭和15年9月 北部仏印に進駐した。だがこれは米国の対日経済圧迫を産み出し、いわゆるABCD包囲網を固めることとなった。そして日独伊三国同盟条約締結によって日本は決定的に米英蘭の敵側に立ち、大東亜戦争へと繋がるのである。

日本と中国は、互いに相携えてアジア共同の敵、欧米に当たるべきものであった。日本の多くの指導者は孫文を理解し、援助してきたのだが、国民党での蒋介石の実力を見誤り、台頭してきた民衆のナショナリズムと中共のコミュニズムとを分離できず、排日という方向に向けさせてしまったことは愚策以外の何物でもなかった。
日本は満州の建設と発展に全力を注ぎ、中国の理解と提携につとめ、中共の殲滅に向っていたとしたら・・・。 戦後多くの人が指摘している悲劇が支那事変であった。