= 義和団の乱 =
アロー号戦争後結ばれた天津条約に、清朝内陸への布教を認める条項が挿入されており、以後多くの外国人宣教師が内地へと入っていきます。
1. 外国人宣教師たちの宗教的信念と戦勝国に属しているという傲慢な態度
2. 外国人宣教師たちは、慣行を無視し、しばしば地域の官僚・郷紳と衝突
3. ライス・クリスチャン(キリスト教会の飯を食う者)の存在
4. 当時中国の内部対立の結果社会的弱者となった人々も庇護を求めて入信
5. 白蓮教徒も、官憲の弾圧から逃れるために、その一部がキリスト教に入信
そうやってキリスト教は膨張し、一般の住民・官僚ともめ事が起こります。
それが、教会と一般民衆の争いに発展。
当時清朝政府は、教会(外国人)側に立ち民衆をさらに押さえつけて行きます。
特に山東省では、ドイツの布教活動が活溌であったようで、上述の問題が多発。
元々山東省にあった自衛団大刀会という武術組織が、教会を襲撃。
また、山東省に有った梅花拳という拳法の流派も教会を襲撃。
梅花拳は、清朝政府の弾圧をおそれ義和拳と改名。
義和拳は、他の組織を吸収しながら、膨張し義和団へと変貌して行きます。
1899年末袁世凱が赴任、義和団を弾圧。
この弾圧で、義和団は山東省から直隷省(現在の河北省と北京)へと展開。
もともと、失業者や天災難民が多くいたので、さらに義和団は膨張を加速します。
義和団は、スローガンを
=== 「扶清滅洋」(清を扶け、西洋を滅す) ===
=== 「興清滅洋」(清を興し、西洋を滅す) ===
という清朝寄りのスローガンに変えていきます。
清朝政府も同情を示す者が多く、徹底した弾圧には至らなかったようです。
北京、天津に入った義和団は、外国公使館を攻撃、京津鉄道(北京-天津間)の破壊などを行ったようです。
八カ国連合が、鎮圧に動き出すと、今度は清朝政府が宣戦布告を行い、義和団、清朝政府連合軍との戦いに変わります。
中国側と八カ国連合の戦いは、兵数では圧倒的に中国側が多かったようですが、中国側の武器は、刀や槍をもっている者がほとんどですぐに決着がついたようです。
by ana5
餃子事件、覚えてますか?