若者に日本の未来を託す
若者の雄叫びこそが日本を救う
わが国の政治・経済・社会全てに渡って混迷の度を深めているようにしか見えない。そしてこの混迷状態から脱すべき確かな道が示されていないことが、より一層国民の苛立ちになって現れ始めた。
あらゆる面における低迷した状態を打破する道が、おとなしい話し合い路線であると信じている人も中にはいるでしょう。しかし、若い世代においては、もうそのような話し合いの時代は既に過ぎ去ったと考えているのではないか?
最近、特にもっとも若い世代の10代の高校生からのメールなどでそれを感じています。若い世代から見たら現在の日本など唾棄すべき存在以外の何者でもないのかも知れません。
私は「2020年プログラム」というものをかなり前から訴えてきました。このブログにおいても書いています。2020年と言えばもう残りは11年であり、現在中学生くらいの若者が、そのときには20代の前半となります。
現在の中学生から高校生が日本の現状をどのように考えているのか?そのことを考えてみたときに、現在の社会に対する極度なまでの不信感と未来への大きな不安に取り付かれているのではないか。
そのような不安を払拭させられるだけの、確かな指針を示すものが何一つ提示されていない。そこが問題なのではないでしょうか。
我々は戦前派世代とか戦中派世代と読んできましたが、戦後派世代もまた後からの世代によって、愛想をつかされてしまうのでしょう。
先の大東亜戦争を一つの境目とした戦後体制なる言葉もまた何の意味も持たないものとなりつつあるのかも知れません。我々が呼び続けてきた戦後体制なるものもやがては終焉となるかも知れません。
しかし、残念ながらそれは我々の努力や戦いの結果ではなく、時代の変遷という荒波にもまれて消え去るという意味でしかないのです。
さて、今日は短くまとめたいと思います。
退かなければならない運命に立った我々が、若い世代に何を示していけるのかです?
いかなる歴史を紐解いて見たときも、大変革・革命(維新)は、その国に住む民族の特性を担い、そのときの周辺の情勢に敏感に反応してきたことは自明の理です。
変革者の立場に立つのか、或いは反変革者の立場に立つのかを別にしても、そこには大きな歴史の潮流には絶対に逆らえぬ運命的な必然の中にあることも事実なのです。
日本国という長い歴史の中で見れば、いくら60数年というものであっても、それはほんの一瞬に過ぎなかった。大東亜戦争に敗れて、その結果出来上がった国家体制など所詮は虚妄に過ぎなかったと知る日はそう遠くはない。
反戦を唱えていれば平和な社会体制を護持できるという考えが、やがて周辺国の状況変化によって、単なる戯言にしか過ぎなかったと知らされることになる。
我々はこの日本を大変革すべき、その主体となるべきものを創出する作業を怠り、或いは回避してきた。故に我々が主体となることなど出来ない。
しかし、「御用済みを宣言」を下されたも同然の我々だが、大変革を前にして自らを未来へのつなぎの世代であることを、ここであらためて再認識し踏ん張って行くことで残りの人生の責任を果たしたい。
若者に伝えたいのは現在の我々の姿ではない。我々のために戦った世代の“魂”です。
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↑をコメント欄に紹介してくれた人、ありがとう。
昨夜は5回も見ました。この若者の魂こそ未来につなげたい。
私の思いはそれだけです。
〜新風連ブログ〜