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2009-02-05 20:03:37 stanford2008の投稿

桜井淳所長の最近の講演内容-日本の原子力開発の中枢機関はどこか 3-

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【講演要旨】1970-1990年頃の主要な比較要因((1)社会的影響力、(2)予算規模、(3)施設規模(総合性)、(4)人員数、(5)独創的成果、(6)学位取得者、(7)各種褒章受賞数、(8)社会的貢献度等)を客観的に比較した場合、原研と動燃のどちらが原子力研究の中枢機関であっただろうか、特に、その総合性(物理、化学、材料、燃料、計算科学、コンピュータ技術、核融合研究、研究炉・試験炉、各種加速器、軽水炉安全性研究、RI製造・配布、放射線照射利用等)からして、原研であることは間違いありませんが、それでも、原子力界ではないものの、社会科学を研究している大学の先生の中には、動燃と位置付けている者もおり(たとえば、『原子力の社会史-その日本的展開-』(朝日選書、1999)の著者である九大大学院比較社会文化研究院の吉岡斉先生)、その判断根拠は、推察するに、原子力研究イコール核燃料サイクル技術(主に、ウラン濃縮遠心分離器、核燃料再処理施設、国産動力炉等の技術)と位置付けており、特に、国産動力炉開発の予算と開発組織の存在に高い評価点を与えているように解釈できますが、核燃料再処理施設は、仏サンゴバン社の技術であり、国産動力炉開発は、新型転換炉原型炉「ふげん」や高速増殖炉原型炉「もんじゅ」に見るように、決して成功例と位置付けることはできず、むしろ、どちらかと言えば、失敗例であるため(吉岡先生は失敗例の組織の存在をどのように正当化しているのでしょうか、不思議でなりません)、業務内容と組織力に疑問が残り、社会的な信用や影響力は、決して高いと言えず、むしろ、逆であったために、1997年に発生した核燃料再処理施設附属施設火災・爆発事故を契機に、自民党と科学技術庁により、それ以上の継続は、認められないと判断され、解体され、改組されて、核燃料サイクル開発機構に衣替えされたという経緯があり、それらの真実から、動燃が中枢機関であったとの評価と位置付けは、虚構に過ぎず、商業技術に結び付けられる技術開発が実施できなかった最大の組織的欠陥は、"業務委託"を重視する"参謀本部"方式(原産会議『原子力は、いま(上)』(原産会議、1986)のp.191)にあったと言われていますが、その方式は、一言で言えば、動燃が窓口になって、原子炉メーカーを中心とした原子力界、特に、原子力産業に開発予算を分配する"トンネル機関"です(続き、次回)。


2009-02-04 17:47:38 stanford2008の投稿

桜井淳所長の最近の講演内容-日本の原子力開発の中枢機関はどこか 2-

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【講演要旨】私(桜井淳所長)は、いくつかの座標系(東大、原研、原子力学会、安解所、原産)から物事を眺めてきたため、相対的には、比較的、客観的な視点を持っていると思いますので、原研と動燃の相互比較の前に、触れておかなければならないことがあり、ひとつは、東大の社会的影響力の大きさであり、もうひとつは、研究とは何か・技術開発とは何か・実証試験とは何かということで、まず前者の問題の東大の社会的影響力について説明すると、東大に原子力工学科があろうがなかろうか、その施設規模・予算・人員に関係なく、東大全体の先生方には、政府委員会・学会委員会等、あらゆる委員会で絶大な権力が与えられており、日本の原子力行政と方向を左右するほど大きな力を有し、施設規模・予算・人員で圧倒的に優る原研や動燃よりも、はるかに大きな権力を行使しており、つぎに後者の問題について、科学技術庁は、原研の組織名には、"研究"という表現を用いていますが、意識的に、動燃には研究と言う表現を絶対使わせないようにしており、さらに、動燃を解体して改組して創設した組織名についても、徹底的にこだわり、絶対に研究という表現を使わせず、"開発"という表現にこだわり、核燃料サイクル開発機構とし、さらに、当時の通産省は、研究や開発という表現すら使わせず、"実証試験"という表現にこだわり、科学技術庁との分担の相違を明確に世の中に示していましたが、これらの事実関係について、世の中の皆さんは、ご存知であろうか、この件は、傍目にはどうでもよいことのように映りますが、座標系を変えて、行政側の運用の視点から眺めれば、研究・開発・実証試験という分類・表現には、非常に本質的な問題になります(続き、次回)。

2009-02-03 20:22:45 stanford2008の投稿

桜井淳所長の最近の講演内容-日本の原子力開発の中枢機関はどこか 1-

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【講演要旨】この問題を考察する上で欠かせない視点は、どのような評価項目に着目して中枢機関と位置づけるかということで、それによって、評価結果は、評価者の数ほど存在するかもしれませんが、評価項目としては、(1)社会的影響力、(2)予算規模、(3)施設規模(総合性)、(4)人員数、(5)独創的成果、(6)学位取得者、(7)各種褒章受賞数、(8)社会的貢献度等が考えられ、対象となる組織名は、1970-1990年を検討対象期間に設定すれば、(a)東大、(b)原研、(c)動燃、(d)京大原子炉、(e)放医研、(f)原工試が挙げられますが、これらのうち、東大は、原子力に限らず、学問の全分野において、大きな社会的影響力を有しているため、特別な存在と位置づけられますが、それでも、原子力というごく狭い分野に限定すれば、原子力の予算・人員・施設規模とも、原研や動燃に優るわけではなく、同様に、京大原子炉、放医研、原工試も、やはり、評価項目から判断すれば、原研や動燃に優るわけではなく、最終的には、原研と動燃の比較になります(続き、次回)。

2009-02-03 17:26:37 stanford2008の投稿

桜井淳所長の市川裕『ユダヤ教の精神構造』(東大出版会、2004)の特に研究方法についての感想 2

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私が神学について考えるようになったのは数年前からのことです。それまでは、単なる教養として、新約聖書の英語版や日本語版、それらの解説書を通読する程度でした(本欄バックナンバー参照)。特に、強い関心があったわけではなく、また、強い違和感や拒否感があったわけでもなく、ただ、仕事との関係で、他の専門分野を優先しただけです。しかし、いまになって、やっと、時間に余裕ができてきたため、必然的に、やり残した分野に目を向けただけです。作家の五木寛之先生は、一時期、執筆活動を中断し、龍谷大学に入学して、仏教の勉強をしましたが、執筆再開後から今日まで、特に、最近、寺院や仏教について、深く考察した内容の対談や著書を発表してきました。それらは、一般読者を相手にしている啓蒙書であるため、特に、難解な理論や哲学を展開しているわけではありません。しかし、それは、意識してのことであり、対談『神の発見』(本欄バックナンバー参照)を読むと、深い考察の中で得たいくつかの本質的な結論について、実に、ていねいに、分かりやすく、諭しています。それを読んで批判的に検討することは、誰にでもできますが、認識を著書としてまとめ、世の中に公表することは、なかなか、勇気がいり、困難に遭遇するものです。五木先生について言えることは、作品にもその精神が流れていますが、大変誠実で、真面目て、思慮深く、他人への思いやりが深く、社会への関心が高く、まさに、道徳や倫理の教科書のような人間のように思えます。私もやがて神学で著書がまとめられるように研究に励みたいと考えています。歴史を考察してみて、それは、現代社会に限ってもよいのですが、社会の構造や現象をどのような"座標軸"で整理できるかと言えば、その項目として、政治、経済、理学、工学、社会科学、哲学、神学(仏教も含む)・・・・・・等が考えられますが、神学をとおして社会を見ると、これまでの"光景"(社会認識と解してください)と異なった"光景"を目にすることができるようになります。そのように考えると、内村鑑先生の「宗教とは人生に対するそのひと自身の解釈」という言葉は、実に、深い考察に基づくものであり、重く受け止めねばなりません。

2009-02-02 16:29:40 stanford2008の投稿

桜井淳所長の市川裕『ユダヤ教の精神構造』(東大出版会、2004)の特に研究方法についての感想

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神学研究というのは、史的研究、旧約聖書と新約聖書の一次資料に当たっての解釈、各々の検討対象の時代や社会の背景、他の宗教との比較等を科学史的・哲学的・社会科学的に研究する必要があり、私のこれまでの経験の範囲外の物が多くあるため、なかなか、大変な分野であると感じました。しかし、意外と分かる部分もあって、大きな魅力を感じています。
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