知る カルチャー創作現場などを訪れ歴史を学ぶ
<ぶんか探訪>文豪育てた「物語」の町──河内厚郎さんと行く大阪・空堀2009/01/15配信
地下鉄松屋町駅から狭い道を縫いながら歩くと、お屋敷風の建物が見えてきた。大正期に神戸の舞子から移築されたといわれる旧有栖川宮別邸。現在は改修され、カフェや雑貨店が入居する複合施設「練」に生まれ変わった。「最後の将軍、徳川慶喜がカメラ好きで、彼が撮った写真にこの建物が写っているんですよ」。2階の和風カフェで河内さんが説明してくれた。 河内さんは、魅力的な町には想像をかき立てるような「物語」が欠かせないという。「旧市街をうまくリニューアルして、付加価値を生み出しているのがこの空堀だと思います」。ゼロから価値を作り出すような「町おこし」ではなく、「町生かし」が重要だと説く。「練」の正面の前にある坂道を指さしながら、「古代にはその坂の下の西側から、海だったんです」と言うように、地理からも町の「物語」を感じ取れる場所だ。 カフェを出た後、河内さんと周辺を歩いた。戦災を免れた空堀ではこぢんまりとした長屋や近代建築、稲荷神社が目につく。町家を改装した服飾雑貨の店など、歴史ある町の景色と現代の感性が溶け合っていて、心地よい時間が流れる。
館内には幕末の薩摩藩を描いた時代小説「南国太平記」など直木の著作や書簡、写真パネルが並ぶ。一面の黒い壁は、直木の自宅を参考にしたものらしい。 直木は31歳のときに「直木三十一」を筆名とし、年を重ねるごとに「三十二」、「三十三」に変え、最後に「三十五」にしたという、ちゃめっ気たっぷりの人物。「大阪弁で言ういちびり(調子者)タイプかな」(河内さん) 直木の活動は小説だけにとどまらなかった。落語を書き、文士のゴシップを書き、雑誌の編集も手掛けている。河内さんがケースに並べられた書物を見ながら、言った。 「直木三十五、織田作之助、武田麟太郎。近代大阪が輩出した文人には、早死にの人が多いんです。サービス精神と好奇心が旺盛過ぎて、いろんなことに積極的だったからでしょうか? その体質を表す代表が直木三十五だと思います」 直木は早稲田大学進学を機に上京するが、関東大震災の後で一時大阪に戻った。その際に地元の空堀にあった出版社・プラトン社で文芸誌の編集に携わった。「当時としてはぜいたくな装丁で、谷崎潤一郎や芥川龍之介も寄稿した超一流の雑誌です」というだけあって、展示された雑誌の表紙には優美な女性をあしらわれていて、洗練された気品に満ちている。 華やかなモダニズムから漫画まで、いわば出版文化をはぐくんだ町でもあった。はるか古代から現代まで、時代を超えて広がる河内さんの話を聞いていると、幾層にも重なった豊かな「物語」の名残を実感できた。 (大阪・文化担当 関優子) かわうち・あつろう 1952年兵庫県西宮市生まれ。一橋大法学部卒。評論家・文化プロデューサーとして、演劇評論などの執筆活動のほか、上方芸能や歴史などについて情報発信も手掛ける。現在、夙川学院短期大学教授、追手門学院大学客員教授。近著に「わたしの風姿花伝」「淀川ものがたり」など。
|
|