February
05
2009
インターネットや携帯電話の弊害の一つに「思い込み」と言うのがあるそうです。ネットの発達とともに、掲示板やブログのように対人関係の新しいコミュニケーション方法が出てきました。最近ではブログやSNSなども急激に増加していて、それ自体は問題はないと思いますが、たとえばいつもネットをやっていると現実の対人関係が希薄化してきて、会話も極端に減ってくる場合が多らしいです。若年層の携帯電話もその傾向が非常に強いらしく、たとえば昔なら友達に用事がある場合、時間を気にしながら自宅へ電話をして、友達を呼び出してもらって話をする、という手続きを踏んだと思うけれど、今はいつでも携帯メールを出せばよいと言うことになってます。パソコンでも昔は、チャットとかがブームになって、これにはまった人も多かったのでは?僕なんか、一行ずつキーボードを打って会話すると言うのは、なんとも情報量が心もとなくて嫌な感じがしますが、相手が見ず知らずだったりすると希薄な情報量が返って余計なことを知られないですむからいいと言う場合もあるみたいです。ましてや携帯メールじゃ、極端に情報量は限られるから、本当に必要な情報の交換は、無理だと思うのだが・・・。しかし、こういうコミュニケーションに慣れてくると、「対人関係の煩わしさ」から開放されるから、精神的に楽なのだそうで・・・・。こういうのは何か、どこかが違うと思ったりもします。
そのことと最近多い自閉症や躁鬱という症状には因果関係が少なからずあると言うことです。そういった精神的、病的な症状というのは、正常との間に境界線があるわけではなく、さらには進行性の症状であると言うことで、日々の生活習慣などの影響が少なからず認められるのだそう。でも、そういう症状を意識していなければ、気が付かないわけですし、何が原因なのかは(本人には)特定のしようもないわけですが、そういう精神的疾病が進行する前段階に、必ず現れるのが「思い込み」という傾向だそうで、特に日頃、対人関係の薄い環境で生活している人や、特定の限られた友達関係しか持たない人に多いと言うことです。この「思い込み」というのは、とにかく「物事の解釈において自己の解釈、または同じコミュニティで共有する解釈を最優先し、他の解釈を受け付けなくなる」ということです。そして「一度物事の解釈を思い込むと、自然に排斥作用を伴うため、他人の異なった意見を受け入れなくなり、そういう外圧が加わることでさらに強固になってしまう」という副作用付きなのだそうです。僕はその方面はあまり勉強したことはないので、諸説を受け入れる一方なのですが、今日のYAHOOニュースにあった、「男性タレントのブログに悪意の書き込みをした女性が書類送検された」という記事で、「タレントの飯島愛さんのホームページをみて、その男性タレントと飯島さんが殺人事件に関与したと誤解」して、書き込みをしたと供述しているのです。これなどは、「思い込み」以外の何者でもないと思います。ネットの情報を様々に解釈することはあっても、通常であれば「真偽を疑う」見方をします。ネットの情報というのは、書かれていることにきちんと証拠または相当するものがあって、なお伝わる情報量が極端に限られるということを事前に理解したうえで受け取ると思うのです。その意識があるから、例えばWiNDy製品を紹介する際には出来るだけ詳細に文章や画像を掲載するわけです。(現状だって、決して十分とはいえないと思いますし、できるならもっともっと情報量を増やさないといけないと思っています。)このブログにしてもそうで、時々僕の不注意でご迷惑をおかけしたりしていますが、気持ちとしては出来るだけ伝えたいというか、取り方によって様々な解釈が出来るというのではなくて、なるべく同じようなご理解を得られるように書いて行きたいと思いながらやっています。
「思い込み」の怖さは、外的な刺激によって増長されることだと書きました。排他的な意識というのは、大なり小なりそういう部分があります。バリアが周囲に張り巡らされて、外的な刺激を跳ね返すのかもしれません。その場合、バリアを壊すだけの強い刺激が必要らしいですが、一歩間違えると逆効果になるという諸刃の剣なのだそうです。やはり大切なのは、適度に人と相対でコミュニケーションできる環境なのかも知れないですね。適度に緊張感を持って、あれこれ気を使いながら人と接することで、他人の意見を受け入れる柔軟性を維持できるのかも知れません。
Posted by 有海啓介 | この記事のURL |