考えてみれば、わたしが生まれて始めて読んだ哲学書,思想書というのは『荘子』である。その『荘子』の中でも極めて異彩を話すのが混沌寓話である。知らない人も多いと思うので、まずはその部分を引用しておこう。(ちなみにこの文章、『アスペルガー当事者が語る特別支援教育』第3章でも扱う予定だったですが、紙面の都合によりカットしておりました。) 「南海の帝を儵(しゅく)といい、北海の帝を忽(こつ)といい、中央の帝を混沌(こんとん)といった。儵と忽とはときどき混沌の土地で〖南海の帝を儵(しゅく)といい、北海の帝を忽(こつ)といい、中央の帝を混沌(こんとん)といった。儵と忽とはときどき混沌の土地で出会ったが、混沌はとても手厚く彼らをもてなした。儵と忽とはその混沌の恩に報いようと相談し、「人間にはだれでも〔目と耳と鼻と口との〕七つの穴があって、それで見たり聞いたり食べたり息をしたりしているが、この混沌だけがそれがない。ためしにその穴をあけてあげよう」ということになった。そこで一日に一つずつ穴をあけていったが、七日たつと混沌は死んでしまった。〗 まずは寓話の本来の意味から考えてみよう。混沌とは顔に7つの穴(目2つ,耳2つ,鼻の穴2つ,口1つ)がない人間から見ればのっぺらぼうのような帝王。しかし、顔の穴が「欠如」しているというのはあくまで人間目線から見た場合である。むしろ、『荘子』の観点からすれば、顔がまっさらな状態こそが自然なのであり、顔に目,耳,鼻,口がある状態の方が不自然(人為的)なのである。じっさい、混沌は中央の帝であり、南海の帝儵(しゅく)や北海の帝忽(こつ)よりももっと根源的な姿をしていると考えていいだろう。混沌はそのまま何事もなく生きていたのだが、既に人間にふさわしい姿に囚われてしまっている南海の帝や北海の帝には耐えられない。何かが欠けているようにも見えるし、不便なのではないかと心配にもなる。そこで、混沌を彼らが人間にふさわしい姿に改造しようとする。具体的には目,耳,鼻,口の穴がない混沌の顔に穴を空けようとする。しかし、混沌は死んでしまう。自然はそのままでもうまくできているのであり、人間が余計なおせっかいをして、変えようなどと考える必要はない。これが、本来の混沌寓話の要点である。 次に、これを換骨堕胎して、障害というテーマに引き寄せて解釈してみよう。南海の帝,北海の帝を障害のない人々,混沌を障害者として考察をしてみる。多くの人々は障害者を見ると、「何かが欠けている」「不幸だ」「不便だ」と認識する。そして、できるだけ自分たちと同じ生の様式を生きることができるように障害者を改造しようとする。ある者はリハビリテーションとハビリテーションによって、その障害者に理想の人間にできるだけ近い機能を備えさせようとするだろう。ある者は教育,トレーニング,心理療法によって人間社会に適合する立ち振る舞い,行動,生活スキル,認知の仕方を身につけさせようとするかもしれない。ある者は、薬物の力によって人間社会に許容される行動のコントロールができることを目指そうとするかもしれない。もちろん、これらの取り組みは時に障害者本人から「謙譲文化の押しつけだ」と厳しく非難されるかもしれない。障害者運動の違ったままでいる権利の主張などはその最たる例である。そうすると人間は今度は生活条件に目を向け始める。ノーマライゼーションやインクルージョンやユニヴァーサル社会のように差異を抱えたまま、人間社会においてふさわしいとされる生活条件を実現しようとするかもしれない。あるいは、人間の安全保障のように恐怖と欠乏だけは味あわせないようにしたいと考えるかもしれない。これらの取り組みは全て障害者の生を否定している訳ではなく、むしろ肯定している。その上で障害者を人間の生の様式に近づけようとするのだ。幸いなことに障害者も多くの場合は人間の生の様式に憧れ、人間らしい生活を目指そうとしている。わたしとしても、人間らしい機能,容姿,能力,社会適応,立ち振る舞いを求めるような支援については距離を置いて発言しているが、人間らしい生活を目指す当事者のための支援提言ならばいくらかしている。わたし自身がそれを望んでいるかどうかは別にしての話だが。 しかし、やはり前述の混沌寓話は気になる。人間たちが障害者を人間の生の様式に近づけようとする営みそのものが、障害者(混沌)の生を破壊し殺害してしまう行為であるとすれば。。。 荘子の寓話は結論としては自然の状態を大切にせよという結論に落ち着く。しかし、アブノーマライゼーションの場合はそれで一件落着になる場合もあるが、そうでない場合もありうる。むしろ、人間の生の様式から大幅に逸脱していく可能性も秘めているということを伝えておこう。自然を目指す場合も、逸脱を目指す場合も共通するのは、人間の生の様式を目指すことを至上の目標とはせず、むしろそこから別の方向にシフトしていこうという姿勢である。 (次回は「8日目」の生命、15日から26日まで実習のため、しばらくお休みします。) |
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タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
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内 容 | ニックネーム/日時 |
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ぶじこれきにん 2009/01/13 11:53 |
▼ぶじこれきにんさん |
こうもり 2009/01/13 23:19 |
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ぶじこれきにん 2009/01/14 13:14 |
▼ぶじこれきにんさん |
こうもり 2009/01/14 21:09 |
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ぶじこれきにん 2009/01/15 13:13 |
こうもり、ただいま実習中。26日以降まで待たれよ。 |
こうもり 2009/01/20 08:31 |
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ぶじこれきにん 2009/01/22 13:54 |
グリーン・ニューディールについて調べてみましたが、まだ内容がはっきりしませぬの。ひとまず、オバマ政権がブッシュ政権に比べると、環境政策にかなり力を入れようとしているらしいということだけは分かりました。 |
こうもり 2009/01/27 23:09 |
アメリカの故ルーズベルト大統領のニューディール政策ならば、仕事の全体量を4000に増やしてそれを100人で分配して40ずつ仕事をすればいいと考えます。それに対して、ヨーロッパの緑の政党はそれは環境に悪影響を及ぼすと考え、合計3600の仕事を100人で36づつ分担することを主張する場合があります。そうすることで、過剰労働もある程度は防ぐこともできる、と。 |
こうもり 2009/01/27 23:14 |
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ぶじこれきにん 2009/01/28 05:45 |
ネオ・リベラリズムは明らかに嫌いなのは確かです。ただ、政治や経済体制についての立場は微妙なんですよね。貧困のようなテーマを扱う時の分類としては |
こうもり 2009/01/28 19:39 |
ちなみに、緑の政党の労働配分の考え方を最初に提案したのは、このスレッドでもたびたび登場している『スモール イズ ビューティフル』のシューマッハーです。ニューディール政策に影響を与えたケインズの弟子で、労働集約型の産業構想を提案しています。要するに、産業が発展して生活に困らない程度になったら、それ以上産業の規模を拡大しようとはせず、仕事をどんどん分割していき、誰もが生活していける産業社会を目指そうとした訳です。 |
こうもり 2009/01/28 19:46 |
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ぶじこれきにん 2009/01/29 17:15 |
OKです。 |
こうもり 2009/01/29 19:06 |
悪い魔女でございます。 |
悪い魔女 2009/01/29 23:55 |
▼師匠 |
こうもり 2009/01/30 23:25 |
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ぶじこれきにん 2009/02/02 12:36 |
▼ぶじこれきにんさん |
こうもり 2009/02/02 19:39 |
はじめまして、カリタです。 |
カリタ 2009/02/05 21:57 |
ここは自動改行だったのですね。読みづらい文章を書いたことをお詫びします。 |
カリタ 2009/02/05 21:58 |
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