日本時代の台湾義勇軍

日本と中国の間に日支事変勃発した当初は、日本の外地であった朝鮮及び台湾では徴兵制が施行されていなかった。しかし戦争の長期化により日本は19382月に朝鮮人に対して陸軍特別志願兵令が施行され、朝鮮人日本兵が戦線に送られることとなった。

台湾人に対する陸軍特別志願兵制度は1942年に実施されたが、1937年には台湾総督府が部隊内で雑役に従事する軍夫の募集を開始している。また中国戦線の拡大により翻訳の必要から多くの軍属が募集され福建語、広東語、北京語の通訳に当たった。戦時中は台湾の軍夫及び通訳の人数は軍機とされ、一般史料の中では明らかにされていない。

タイヤル族屈尺群(現の台北県烏來)台湾高砂義勇軍

高砂薰空挺隊

http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/5410/tokko_episode/kaoru_kuteitai.html

高砂薰空挺隊

薫空挺隊とは台湾軍遊撃第1中隊の一部で、本来はジャングルでの遊撃戦専門の特殊部隊であった。台湾の高砂族がかなりの割合を占めており、第1、第2中隊に分かれた総員192名中には兵が152名いたが、これらの兵のうち通信、衛生の特技者を除いては高砂族出身者で構成されていた。当時の在フィリピン日本大使の日記によれば、爆弾を抱えて敵中に突入する訓練も行なっていた部隊だということである。194410月にレイテ作戦が始まると、日本軍は増援部隊や補給物資を載せた輸送船をレイテ島に送ろうとしたが、アメリカ軍が築いた飛行場から発進する航空機に次と沈められてしまっていた。そこで、この航空兵力を一時的にでも封殺すべく、レイテ島にあった5つの飛行場のうちブラウエン北、南の2つの基地に対して強行着陸攻撃を行なうこととなり、遊撃第1中隊の投入が決まった。第4航空軍飛行第208戦隊の零式輸送機4機に中重夫中尉以下四十数名が搭乗して、19441126日夜間に決行された。

日本側記録では、4機のうち1機は日本軍勢力下のバレンシア飛行場に着陸し、搭乗員は第26師団とともに行動したということのみが確認されている。残りの3機のうち2機については、米軍戦史によればドラッグ海岸付近に着陸し、乗組員はいずこへともなく消えていったという。残る1機は完全に消息不明である。薫空挺隊の生き残りがいるのかどうかも明らかになっていない。この作戦が成功したのか、失敗したのか、はたまた敢行すら出来なかったのかさえ未だもって不明である。米軍戦史の記述を信用すれば、戦いすら起きなかったと見るのが妥当かもしれない。この戦いで戦死したと認定された高砂族の兵士は靖国神社に合祀されている。

"義号作戦"は義烈空挺隊が有名であるが、先にこの名称が使われたのはこの戦いが最初である。

なお、この作戦に続いて10日後の126日には、高千穂空挺部隊によるレイテ島5基地への一斉強行降下作戦である「テ号作戦」が行われている。こちらも、ブラウエン飛行場に降下した100人以上が第16師団に合流したことまでは判明しているが、第16師団も後に壊滅しており、合流者の最後は明らかでない。

http://www.horae.dti.ne.jp/~fuwe1a/newpage427.html

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異鄕に戦死した日本軍と台湾義勇軍

戦死の台湾高砂義勇軍

高砂義勇隊(たかさごぎゆうたい)は大東亜戦争末期、台湾原住民をフィリピンなど、南方の戦場に投入するために創設された部隊。 隊員は軍属であり軍人ではないが、戦闘にも参加した。もともと台湾原住民等は狩猟採集を得意としたため、南方戦線にあって高い戦闘力、食料収集能力を発揮し、崩壊寸前の大日本帝国陸軍を助けた7度にわたって編成され、合計1,800名が参加した。

1938年昭和13年「台湾農業軍伕隊」成立

1941年昭和16年「台湾陸軍志願兵制度」成立。

血書

陸軍特別志願兵制度が施行されると多くの台湾人志願者が殺到し、1942年の第1回の応募には1,000名の定員に対し425,921名(当時の台湾青年の14%に相当)の志願者が応募し、第2回には同じく1,000名の定員に対し601,147名が応募している。海軍特別志願兵制度は1943年に朝鮮と同時に実施された。第1回は3,000名の訓練生定員に対し316,097人が応募している。その後徴兵制の施行に伴い海軍志願兵制度は1944年に、陸軍志願兵制度は1945年に廃止されたが、それまでに陸軍志願兵約5,500人,海軍志願兵約11,000人が日本軍に従軍している。その後戦局の悪化により19449月から開始された徴兵制度は、1945年に全面実施となっている。

出征する前に神社を参拜している高砂義勇軍

  

                                  神社を参拜している竹東郡海一会のメンバ

平埔族巴宰海青年達

祝出征

神社前に宣誓する入伍新兵

高山原住民青年達

日本時代台湾自願隊

新竹州海一会――1942年昭和17年「台湾海軍志願兵制度」成立。

1945年昭和20年「台湾徴兵制度」成立。

体格検査

   

新兵訓練

新兵訓練

新兵訓練

第二次世界戰爭に20萬台湾の人が参戦したそうだ。

    

                               比島に戦死した張福仁義勇軍

     

返鄕義勇軍

台湾人日本兵(たいわんじんにほんへい)は日本が台湾を領有していた時代に、日本軍の軍務に服した台湾人。台湾籍日本兵とも称される。19444月以降に志願兵として軍務に従事した者は特に台湾特別志願兵とも称される。太平洋戦争の激化により19449月には台湾でも徴兵制度が施行されている。

1973年に厚生省が発表した統計によれば、1937年から1945年までに台湾総督府が徴用した軍属は126,750名、1942年から1945年までに従軍した軍人は80,433名の合計207,083名が日本軍人協力し、その内15%にあたる30,304名が戦死または戦病死している。3万人余りの台湾人戦死者のうち、26,000人は東京の靖国神社に合祀されている。

の情報はクマさんから提供した情報で、どうもありかとうございます。

大東亜戦争において高砂兵が大活躍した戦いとしては、薫空挺隊、そして高千穂空挺隊の作戦が有名ですよね。
高千穂空挺隊は、非常な大部隊を投入した挺身作戦だったのですが、その主隊である第二挺身団の兵は、殆ど高砂兵でした。
第二挺身団の規模は約1000名でしたので、その殆どが、高砂の志願兵で編成されてたのです。
レイテ島の米軍根拠地に対して行われたこの必死必殺の攻撃は、華しい落下傘降下と、剛勇無双、輸送機の胴体着陸による強行侵入の二種類で実施されました。
まさに皇軍の掉尾を飾る忠勇義烈の悲壮な大戦果は、言うまでもありません。
台湾の盟友よ、高砂の子等よ、かつて名誉ある皇軍に在りし諸君の父祖の如く、よく台湾国を護り給え・・・!