私は昨年、 ニューヨークの日系新聞OCS紙上で「杉原千畝領事とリトアニア」、「杉原千畝元リトアニア領事のことで鈴木外務次官にお会いした」、「杉原千畝未亡人、幸子さんを訪問して」と題して第2次世界大戦中、政府の命令に背いて日本通過ビザを発行し、6千余人のユダヤ人を救 った杉原千畝領事について書いたが、その後自分も助けられた一人だったという方にお電話をいただいた。知り合いの日本人の方に私の記事を訳してもらったとのことだった。同じ内容の記事をこちらの地方新聞に発表した時も両親に連れられて日本へいったという方から領事への感謝を込めた丁寧なお手紙をいただいた。領事のビザで日本を通過したユダヤ人のその後については私も出来れば当人たちの話を直接伺いたいと思っていたので、先方から連絡をいただいたことを機会にまずそのうちの一人でクィーンズにお住まいのランチャートさんをお訪ねすることにした。ユダヤ教のラビであり、日本に関する著書も多いマービン トケイヤー師は、「FuguPlan」という本(PADDINGTON PRESS LTD, 1978)の中で日本政府が杉原領事にビザの発行を禁じながら、実際にはそのビザで入国を許可したいきさつや、日本滞在中に第3国へ逃れることが出来なかった人達がその後上海へおくられることになった事情、などについて詳しく述べておられるので、歴史的な背景はこの本を参考にさせていただきながら、領事のビザを入手したランチャートさんがヨーロッパからアメリカへ逃れるまでに辿った道程を追って見たいと思う。
ヨーローパ脱出
ポーランド系ユダヤ人としてドイツで暮らしていたランチャート一家がドイツの反ユダヤ運動の高まりでポーランドのスポシーンという所へ移住したのは1938年、レオン少年が12才のことだった。しかしドイツとの境界にあったこの町がユダヤ人にとって安住の地でなくなるのにたいした時間はかからず、両親は翌年その安全を祈って、ポーランド北部にあるビアリストック近郊でユダヤ団体が運営していたキブツに子供たちをポーランド系ユダヤ人としてドイツで暮らしていたランチャート一家がドイツの反ユダヤ運動の高まりでポーランドのスポシーンという所へ移住したのは1938年、レオン少年が12才のことだった。しかしドイツとの境界にあったこの町がユダヤ人にとって安住の地でなくなるのにたいした時間はかからず、両親は翌年その安全を祈って、ポーランド北部にあるビアリストック近郊でユダヤ団体が運営していたキブツに子供たちを預け、自分たちは親類を頼って南の故郷に帰っていった。それがお互いにとって今生の別れになろうとはもちろんその時点では誰に知るよしもなかった。ポーランドはその後まもなくドイツに占領され、ユダヤ人であることの危険はキブツにもおしよせてくる。両親との連絡の術もないまま、レオン少年は兄と共にキブツをあとにリトアニア向かい、ウィルノという町でイギリスやアメリカ、スエーデンなどへのビザの申請を続ける。しかしどこからも返事を得られないでいるうちにまもなくリトアニア自体がソ連に併合され、各国領事館の事務所は閉鎖されてしまう。失意にくれる兄弟がキュラソーなどのオランダ植民地への入国を許可するという旨をうたったオランダ領事館発行のスタンプを提示すれば、日本領事館で日本通過のビザが取得出来るというニュースを耳にしたのはその頃のことだった。兄弟は藁をもつかむ思いでカウナスの日本領事館を訪れる。彼らは日本がどこにあるかもしらなかったし、日本に関する知識も皆無だった。日本へ行くことなどその時まで一度として考えたことはなかったのだが、通過だけであろうと入国が許可されるのであればどの国にせよ、とにかくそこへ行くことが彼らにとって生きびるための唯一の手段なのだった。長い順番待ちのあと、彼らは杉原領事から14日だけの日本滞在を認めるビザを発行される。その足で兄弟はモスクワに向かい、ソ連からの出国ビザを得たのち、ウラジオストックからソビエト船で日本に向けて出発した。出国ビザをもっていても、いつソ連に強制的に留め置かれることになるかもしれず、船が確実に港を離れるまでは、本当に生きたここちがしなかったと今は66才になっている当時のレオン少年は当時を回顧する。
神戸で
「
Fugu Plan」によれば、ドイツとの間に日独防共協定を結んでいた日本政府があえてユダヤ人に好意的な態度をとったのはナチスの反ユダヤ感情の激しさが日本人指導層にどうしても全面的には受け入れられなかったからだった。キリスト教の布教の結果とか、ロシア帝政がユダヤ人の虐殺を糊塗するために書かせた悪質な宣伝文書、『シオンの議定書』が日本で広く読まれていたこと、ドイツとの関係が一方で非常に重要視されていたことなどで指導層の中にも反ユダヤ思想を持つ人達は決して少なくなかったが、ナチスの憎悪は彼らの理解をもはるかに越えるものがあったようだ。「ユダヤ人はどうしてそんなにナチスに嫌われるのか」と質問した日本の将校にあるユダヤ教のラビは、「それは、我々がアジア人であるからだ。」と応え、それに対して将校は言葉を詰まらせたという部分が本文中にあるが、自らも有色人種である日本人にとって、ナチスの対ユダヤ政策は同盟国とはいえ決して無条件に協力できるようなものではなかったのだった。日露戦争の勝利がシフというユダヤ人投資家の資金を得た結果であったこと、そのためシフは日本の恩人として天皇の謁見を賜ったことなどを政府関係者がよく覚えていたこともユダヤ人に幸いした。この時期の日本政府がユダヤ人に比較的友好的だった背景にはこの他に政府の一部で秘密裡に行われていた「河豚計画」の影響もあったようだ。かわりに「その優秀な頭脳、莫大な資産、国際的つながり」で日本のアジア制覇を助け、日本が大国として世界の尊敬を受けるよう協力するというものである。ヨーロッパのユダヤ人を助けることでアメリカ人のユダヤ人に日本のロビイストとしてワシントンに圧力をかけさせ、日米関係を有利にするというもくろみもあったという。計画が「河豚」と名ずけられたのは、魚の河豚がその美味しさにかかわらず、一歩料理法をしくじれば命とりになりかねない猛毒をもっているところから、ユダヤ人に日本の占領地に国を作らせることで、まかり間違えば日本自身が「ユダヤ勢力」に制覇されかねないという危険性をともなったものと考えられたからだった。計画は1934年にはじまり、まず5万人のドイツ系ユダヤ人を満州国に招聘するとして実践への動きが秘密裡におしすすめられた。しかし、日本側が「ユダヤ勢力」を過大評価しすぎていたこと、ユダヤ人コミュニティの実態をよく理解していなかったこと、ドイツとの関係、などの様々な理由から計画は実行にはほど遠く、日の目をみないまま日米開戦を期に消滅した。さて、日本のそうした事情などもちろん知らないランチャートさんたちユダヤ人難民は、敦賀で関税手続きを済ませた後も不安な思いのまま汽車で神戸に向かったのだった。神戸では以前から日本に住んでいるユダヤ人コミュニティが用意した宿舎で旅の荷をとくことになった。ランチャートさんは、神戸でのその後について、「あそこで過ごした9ヶ月間が私の一生で一番静かな心休まる時だった」と言う。「日本人は優しくて親切だった。近くの八百屋さんでは毎日自分たちのために卵を用意していてくれたし、気候は温暖で町は清潔、ユダヤ人であることで日本人の偏見を感じたことは一度もなかった、日本は本当にすばらしい国だった」と彼は当時を回顧する。滞在予定の14日はたちまちにして過ぎてしまったが、何回かの延長が許可されることになり、第三国へのビザの申請を続けながらランチャート兄弟はカナダ ・アカデミィという学校に通学し、主には英語を、日本語も少し勉強する。この間、運よくビザを手にいれた者は次々に神戸を離れていったが、兄弟にはその運が回ってこないまま、間もなくアメリカ領事館がアメリカと戦争をしている国及びその占領国に親類がいる者にはビザ発行を当分保留するという規則を制定する。これは実質的にはユダヤ難民のアメリカ入国を拒むものだった。それからまもなくドイツとソ連が戦争に突入する。このことは神戸のユダヤ人にとってウラジオストックからの船がもう日本にはやってこなくなったこと、ヨーロッパとの連絡が完全に閉ざされてしまったことを意味した。ランチャート兄弟は、昨年杉原教育基金を設立して話題になったブロックリンのミラーイエシバの人達同様、祖国に見捨てられ、受け入れてくれる国もないまま、一時滞在を条件に入国した神戸で身動きできない状態におかれてしまったのだった。日本政府とっては千人以上のこうした行き場のない難民を無期限に神戸にとどめることは国家保安上にも問題があり、ここにおいてその対処を迫られた政府はユダヤ人コミュニティの要請もあって難民を上海におくり出すことを決定する。
上海へ
ランチャート兄弟が日本政府によって神戸から上海へおくられたのは1941年の夏も終わりの頃のことだった。上海では温暖な神戸の気候とは異なり、夏はその高い湿気に冬はその厳しい寒さに悩まされた。人々もその苛酷な気候や生活難から外国人に優しくする余裕がなかったためか国際都市で外国人が珍しくなかったためか、日本人によって示された好意をこの地で感じることはなかった。ここでもついてすぐ先住のユダヤ人コミュニティの救済活動ですぐ宿舎を提供されたので夜露は何とかしのげたが失業者のあふれる中で生活の糧をさがさのは決して楽な事ではなく、米の配達などをしながらどうやら口に糊すると言った毎日が続いた。それでも若かったし、自由に動き回って命に危険を感じないで生きていけるという生活はすばらしかった。そんなある日突然日本政府からユダヤ人難民は全員即刻ハンキューという地区に移住するようにとの指令が出される。この指令が出された原因については当時ランチャートさんたち には知らされていなかったが「Fugu Plan」ではその背景が次のように説明されている。
1941の夏、ちょうどランチャートさんたちが上海に渡った頃、ドイツではヒムラーによって計画された「ファイナル・ソリューション」(全ユダヤ人の抹殺)がナチスの政策として実施されることになった。大量殺戮の為の設備がヨーロッパの至る所に設置され、政策は着々と実行にうつされていったが、ナチスにとって問題はアジアだった。同盟国である日本政府がユダヤ人に対して自分たちと同じ行動を取らないからである。しびれを切らしたヒムラーは、1942年6月、東京にいたゲシュタポのチーフ、メイシンガーをアジアの中でもっともユダヤ人が集中していた上海に送る。メイシンガーはワルシャワでは約10万人のユダヤ人を殺したといわれ、『ワルシャワの肉屋』と呼ばれていた男だった。 メイシンガーは、日本のユダヤ人難民問題担当官に対して、「ファイナル ソリューション」の必要性を力説したあと、ユダヤ人を一網打尽にするにはユダヤ教の新年であるロシャ ー・ハショナー(その年は9月1日の日没からはじまることになっていた)の日にシナゴーグを外から取り巻くことだと提案する。捕らえた後は、ぼろ屑のように殺してしまうか、服をはいでぼろ船に乗せ、大洋の上で死ぬまで漂よわせる、あるいは塩掘りなどの強制労働にかりたてるか、強制収容所でモルモットにするなどの方法もあるとドイツでの経験をもとにアジアにおける「ユダヤ人問題の最終解決案」を提唱したのだった。しかしこの提案はその場に同席した若い日本の副領事が日本人に絶対にそんなことをさせてはならないと、ユダヤ人コミュニティのリーダーにその内容を打ち明けたことから,(彼はそのため上海から追放された)日本政府の知るところとなりただちに却下された。その代わりに政府はアジアで最初のゲットーを上海に作ることで同盟国であるナチスへの義理を果たそうとしたのだった。
ゲーットーでは出入りのたびに許可証の提示が必要とされた。毎日の生活は狭い所に折り重なって寝起きするようなみじめさだったことに加え、真珠湾攻撃後の日米開戦以降はアメリカのユダヤ救済機関からの援助がとだえたため、仕事にありつけない日はほとんど食べ物を口に出来ない日というも少なくなかった。ここまで生きのびながら明日に希望を失って自殺する人もいた。
アメリカへ
ランチャートさんは、そうした上海での生活は決して楽とはいえなかったが、ヨーローパに残されたユダヤ人の大半がナチスによって殺されてしまったことを思えばそれでも感謝に値するものだったという。兄弟は戦後2年たった1947年、ついにアメリカへの入国を認められる。ドイツを追われて以来9年の歳月が流れていた。それでも生きてアメリカの地が踏めたことは本当にすばらしいことだった、この喜びを与えてくれた日本には今でも感謝していると、ランチャートさんは私の手を強くにぎりしめながらその長い話を終えたのだった。
ランチャートさんの話を聞いたり、「Fugu Plan」を読みながら、私はユダヤ人であるというだけの理由でこれほどに苛酷な人生をおくらねばならなかった人々の運命をあらためて思い返し、その運命に深くかかわった杉原領事をはじめとする多くの日本人の人道的行動に深い感動を覚えた。日本では5、6年前から一部の著者たちによってかっての「 シオンの議定書」をもとに、ユダヤ人に対する憎悪をかきたてるような本が相次いで出版されているが、こうした虚欺で固められた本の生み出す危険さが懸念されるにつけ、他者を救うために自らの命をかけた日本人のありかたやその行動がもたらした結果について今こそ広く語られるべきではないのかと思わずにはいられない。
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