ポーランド孤児救済 |
ポーランド孤児の発生 1795年の第3次ポーランド分割によって、ポーランド人は祖国をロシア帝国によって併合されてしまい、ロシア帝国政府はポーランド人政治犯などを多数シベリアに流刑したため、ロシア革命当時のシベリアには相当数のポーランド人がいた。その後、ロシア革命の混乱と1918年11月のポーランドの独立によって、多数のポーランド孤児がシベリアに取り残されてしまったが、その保護のために力を貸す国はなかった。特に親や家族からはぐれた子供たちは、寒風の吹きすさぶシベリアの荒野を飢餓と戦いながら放浪を余儀なくされていた。ポーランド孤児たちの悲惨な現状を打開しようと、シベリア在住のポーランド人たちが、アンナ・レリーバ・ビェルキェビッチ女史を会長に救済委員会を組織し、必死の救済活動を行いました。ア女史は現状を詳細に説明した嘆願書をもって日本政府に救済を求めた。 |
孤児の救済 その惨状を知った日本(日本赤十字社が主体となった)はシベリア出兵中にポーランド孤児を救出し、彼等を祖国に帰還させた。1920年(大正9年)7月に第1次ポーランド孤児救済が、1922年(大正11年)8月に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われた。貞明皇后も孤児たちを訪問している。この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国への帰還を果たした。シベリア出兵に従事し孤児を救った51名の日本軍将校に対し、ポーランド政府は1925年にVirtuti Militari勲章を授与して、その功績に報いた。 1910年ごろのウラル山中の鉄道、バシキール人の転轍手。こプロクジン=ゴルスキーよる 『Wikipedia』より |
各国のシベリア出兵 ウラジオストク Wikipediaより |
ポーランド孤児日本上陸 大正9年(1920)6月18日にア女史が日本政府に救済を求めた翌月の7月20日、日本陸軍の輸送船「筑前丸」によって第一陣の56名(他に付き添い5名)がウラジオを敦賀に向けて出港した。このときの孤児たちは殆どが裸足で、ボロを身にまとい痩せこけており、見るに忍びなかったと伝えられている。 第一次の輸送は5回に分かれ375名の孤児たち(他に付き添い33名)が敦賀港に上陸し、東京の福祉施設「福田会」を宿舎として休養・体力回復とともに情緒の安定に務め、大正10年7月8日には特別な事情がある5名を除く370名が、在米ポ−ランド居留民組織に引き取られ渡米した。第二次3回にわたって388名の児童と付添人39人を敦賀港に上陸させた。 |
ユダヤ人難民の救済 | ||
ドイツ侵攻とユダヤ人 1939年(昭和14)9月1日の早朝、ドイツ軍機動部隊はポーランドに対する侵攻が行われた。これを受けてイギリスとフランスはドイツに宣戦布告し、ここに第二次世界大戦が勃発した。ソビエト連邦軍も独ソ不可侵条約を結んでおり、この際の密約に基づいて9月17日、ポーランドを東方から侵攻した。ドイツとソ連で二分する形で占領された。また、ドイツ軍の電撃的なヨーロッパ侵攻は翌年1940年にはフランスその他の国を占領した。ポーランド在住のユダヤ人はナチの迫害から逃れるルートの一つ大西洋航路からアメリカに逃れるルートが閉ざされた。シベリア鉄道で日本を経由して太平洋を越えるコースしか残っていなかった。 |
日本のシンドラー 1900年(明治33年)岐阜県八百津町に生まれる。1918年(大正7年)4月に早稲田大学高等師範部英語科(現・教育学部)予科に入学。外務省入省、1939年(昭和14年)にはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となる。 千畝は八百津町の山懐深い集落で生まれる |
命のビザ発給 1940年(昭和15年)夏、ナチス占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人が各国の領事館・大使館からビザを取得しようとし、最後まで閉鎖しなかった日本領事館に殺到した。領事代理の杉原千畝は人道的なビザ発給の許可要請を政府に行うも、7月23日、松岡外相直々にヨーロッパ各国の大使館・領事館に「難民へのビザ発給は許可できない」という通告が発せられた。それは千畝にとっては事実上の最後通告であった。 杉原千畝の決断 なぜ私がこんなことをしたのか知りたいのでしょう? そうですね、実際に難民が目に大粒の涙をうかべて懇願してくるのを実際に見れば、誰でも憐れみを感じるでしょう。それは同情せずにはおれないようなものです。かれら難民の中には、お年寄りや女の人もいるんです。彼らは必死のあまり、私の靴にキスさえしていました。(中略)人々の命を救うのに悪い事は何もないはずですからね…。それは人間愛、慈愛、そして隣人愛といったようなものです。(英文より和訳) 死の前年 (1985年)、千畝は自宅を訪れた人に語った『Wikipedia』より 発行作業はベルリンへ旅立つ9月5日までビザを書き続けたとされる。駅のプラットホーム、汽車が発車間際まで発給し続けた。ビザの枚数は番号が付され記録されているものだけでも2139枚だが、記録されていなかったもの、一家族に一枚でよかったこともあって、延べ6000人のユダヤ人に発給された。 |
杉原千畝の発行された「命のビザ」を握りしめてユダヤ難民は遠い日本へシベリア鉄道で向かった。しかし、シベリア鉄道での逃避行は彼らを地獄の底に突き落とした。停車のたびにソ連の秘密警察が乗り込み、金品、貴金属を奪い、若者はシベリアの強制労働に拉致されて行った。終着のウラジオストクに着いた時には着のみ着のまま、トランクの中は空になっていた。 |
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千畝の生誕地八百津町の「人道の丘」 |
「人道の丘」展示館 |
人道の港 敦賀 |
救済され着のみ着のままで敦賀に着いたポーランド孤児やユダヤ人難民に対して敦賀の人々は好奇心と憐憫の情を持って迎えた。ある子供はポーランド孤児にそっとリンゴを届けた。銭湯を営んでいた人は無料で開放した。空腹のユダヤ人難民に手持ちのものを買い取ってあげた人もいた。迫害の旅を続けて来た彼らは日本に、敦賀の地で天国を見た、と語った。 | |||
「人道の港」展示館プレート |
展示館 |
展示館内部 |
展示館内部 |