「貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」
■1.「旧敵との和解」■
1998(平成10)年4月、英国では翌月に予定されている天
皇の英国訪問への反対運動が起きていた。その中心となってい
たのは、かつて日本軍の捕虜となった退役軍人たちで、捕虜と
して受けた処遇への恨みが原因であった。
その最中、元海軍中尉サムエル・フォール卿がタイムズ紙に
一文を投稿した。「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和
解することに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前
置きして、自身の体験を語った。
大東亜戦争が始まってまもなくの1942(昭和17)年2月27
日、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合部隊
の海戦が始まった。連合部隊の15隻中11隻は撃沈され、4
隻は逃走した。3月1日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡
洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員4百
数十名は漂流を続けていたが、翌2日、生存の限界に達した所
を日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に発見された。
「エンカウンター」の砲術士官だったフォール卿は、「日本人
は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けて最
期を迎えるものと覚悟した。
ところが、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号
旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長・工
藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で健闘
を称え、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストであ
る」とスピーチしたのだった。そして兵員も含め、全員に友軍
以上の丁重な処遇を施した。
このフォール卿の投稿によって、以後の日本批判の投書はこ
とごとく精彩を欠くことになった。
■2.「オラが艦長は」■
工藤が駆逐艦「雷」の艦長として着任したのは、昭和15
(1940)年11月1日だった。身長185センチ、体重95キロ
と大きな体に、丸眼鏡をかけた柔和で愛嬌のある細い目をして
いた。「工藤大仏」というあだ名を持つ温厚な艦長に、乗組員
たちはたちまち魅了されていった。
着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。と
くに鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。士官たちには
「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」
と口癖のように命じた。見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望
鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派
だ」と誉めた。
酒豪で何かにつけて宴会を催し、士官と兵の区別なく酒を酌
み交わす。兵員の食事によく出るサンマやイワシが好きで、士
官室でのエビや肉の皿を兵員食堂まで持って行って「誰か交換
せんか」と言ったりもした。
2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは「オラが艦長は」と
自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔
いはない」とまで公言するようになった。艦内の士気は日に日
に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。
■3.海軍兵学校・鈴木貫太郎校長の教育■
工藤艦長は、海軍兵学校51期だったが、入学時に校長をし
ていた鈴木貫太郎中将の影響を強く受けた。鈴木はその後、連
合艦隊司令長官を務めた後、昭和4年から8年間も侍従長とし
て昭和天皇にお仕えした。その御親任の厚さから、終戦時の内
閣総理大臣に任命されて、我が国を滅亡の淵から救う役割を果
たす。[a,b]
工藤ら51期が入学した時に校長に着任した鈴木は、従来の
教育方針を以下のように大転換した。
・鉄拳制裁の禁止
・歴史および哲学教育強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)
日本古来の武士道には鉄拳制裁はない、というのが、その禁
止の理由だった。工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、
最上級生になっても、下級生を決してどなりつけず、自分の行
動で無言のうちに指導していた。
歴史および哲学教育の強化の一貫としては、鈴木自身が明治
天皇御製についての訓話を行い、
四方の海皆はらからと思ふよになど波風に立ちさわぐらん
の御製から、明治天皇の「四海同胞」の精神を称えている。工
藤の敵兵救助も、この精神の表れであろう。
■4.日本海軍の武士道■
大東亜戦争開戦の2日後、昭和16(1941)年12月10日、
日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈
艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈し
た。
駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員
たちの救助を始めたが、日本の航空隊は一切妨害せず、それど
ころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、と
いう仕草を送った。さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガ
ポールに帰投するさいにも、日本機は上空から視認していたが、
一切、攻撃を差し控えていた。
こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させた。
工藤の敵兵救助とは、こうした武士道の表れであり、決して、
例外的な行為だったわけではない。
昭和17(1942)年2月15日、シンガポールが陥落すると、
英国重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は、
ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで、アメリカ、オランダ、オ
ーストラリアの艦船と合同して、巡洋艦5隻、駆逐艦9隻から
なる連合部隊を結成した。
この連合部隊に、日本海軍の重巡「那智」「羽黒」以下、軽
巡2隻、駆逐艦14隻の東部ジャワ攻略部隊が決戦を挑んだ。
日本海海戦以来、37年ぶりの艦隊決戦である。
2月27日午後5時、海戦が始まった。当初、「雷」は開戦
以来、敵潜水艦2隻、哨戒艇1隻撃沈という戦闘力の高さを買
われて、艦隊後方で指揮をとる主隊の護衛任務についていた。
そこに「敵巡洋艦ヨリナル有力部隊発見、我交戦中」との信号
を受けて、主力は戦場に向かった。しかし、到着した時には、
敵艦隊はスラバヤに逃げ込んで、肩すかしを食らった。
2月28日、「エクゼター」は被弾箇所の応急修理を終え、
「エンカウンター」と米駆逐艦「ポープ」を護衛につけて、イ
ンド洋のコロンボへと逃亡を図った。しかし、3月1日に「雷」
の僚艦「電(いなづま)」を含む日本の駆逐艦隊に取り囲まれ、
攻撃を受けた。
■5.「沈みゆく敵艦に敬礼」■
午後12時35分、「電」は指揮官旗を翻す「エクゼター」
に砲撃を開始した。「エクゼター」はボイラー室に被弾して、
航行不能に陥った。午後1時10分、「撃ち方止め!」の号令
が下され、敵艦に降伏を勧告する信号が発せられた。
しかし、艦長オリバー・ゴードン大佐は降伏せず、マストに
「我艦を放棄す、各艦適宜行動せよ」の旗流信号を掲げた。
ここで「エクゼター」の乗組員たちは、次々と海中に飛び込み、
日本艦隊に向かって、泳ぎ始めたのである。「エクゼター」で
は、士官が兵に対し、「万一の時は、日本艦の近くに泳いでい
け、必ず救助してくれる」といつも話していた。「プリンス・
オブ・ウェールズ」沈没の際の日本海軍の行動が記憶にあった
のだろう。
「電」は、傾いた「エクゼター」に魚雷を発射して、とどめを
刺した。「電」艦内に、「沈みゆく敵艦に敬礼」との放送が流
れ、甲板上の乗組員達は、一斉に挙手の敬礼をした。その敬礼
に見送られて、「エクゼター」は船尾から沈んでいった。
まもなく「海上ニ浮遊スル敵兵ヲ救助スベシ」の命令が出さ
れた。救命ボートに乗っている者、救命用具をつけて海面に浮
かんでいる者に対して、「電」の乗組員は、縄ばしごやロープ、
救命浮標などで、救助にあたった。蒼白な顔に救出された喜び
の笑みをたたえ、「サンキュウ」と敬礼して甲板にあがってく
る者、激しい戦闘によって大怪我をしている者などが、次々と
助け出された。
甲板上に収容された将兵には、乾パンとミルクが支給された。
「電」によって救助された「エクゼター」乗組員は376名に
上った。
■6.重油の海での漂流■
駆逐艦「エンカウンター」は、旗艦「エクゼター」が停止し
た時、その「各艦適宜行動せよ」という命令に従い、単独での
航行を続けた。艦長モーガン少佐は「エクゼター」の乗組員を
救助すべきかと、一瞬迷ったが、「プリンス・オブ・ウェール
ズ」と「レパルス」沈没の際の日本海軍の行動を覚えていたの
で、こう決断したのである。
しかし、その「エンカウンター」も日本艦隊の追撃を受け、
8千メートル東方の海域で、30分後に撃沈された。この時、
20歳の砲術士官だったフォール卿は、こう証言している。
艦長とモーターボートに乗って脱出しました。その直後、
小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。・・・この直
後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。
間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けま
した。固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っ
ていきました。[1,p251]
この時は、米蘭の潜水艦がジャワ海で行動しており、敵の攻
撃をいつ受けるか分からない状況では、国際法上は、海上遭難
者を放置しても違法ではない。
「エンカウンター」の乗組員たちは、自艦から流出した重油の
海につかり、多くの者が一時的に目が見えなくなった。その状
態で、約21時間も漂流した。
■7.「これは夢ではないか」■
そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。見張
りが「漂流者400以上」と報告した。工藤艦長は敵潜水艦が
近くにいない事を確認した後、「救助!」と命じた。
「雷」の手の空いていた乗組員全員がロープや縄ばしご、竹竿
を差し出した。漂流者たちは、われ先にとパニック状態になっ
たが、青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然と
順番を守るようになった。
重傷者から救う事になったが、彼らは最期の力を振り絞って、
「雷」の舷側に泳ぎ着いて、竹竿に触れるや、安堵したのか、
ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。甲板
上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」
と呼びかける。この光景を見かねて、何人かの乗組員は、自ら
海に飛び込み、立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻
き付けた。
こうなると、敵も味方もなかった。まして同じ海軍軍人であ
る。甲板上で「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者も
いた。無事、救出された英兵は、体についた重油を乗組員が布
とアルコールで拭き取ってやった。新しいシャツと半ズボン、
靴が支給され、熱いミルクやビール、ビスケットが配られた。
フォールズ卿はこう回想している。
私は、まさに「奇跡」が起こったと思い、これは夢では
ないかと、自分の手を何度もつねったのです。
■8.「今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである」■
間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられ
た。
すると、キャプテン(艦長)・シュンサク・クドウが、
艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしまし
た。われわれも遅ればせながら答礼しました。
キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチさ
れたのです。
諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あ
るゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、
今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなこと
である。[1,p258]
「雷」はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、た
とえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止
し、乗組員総出で救助した。水没したり、甲板上で死亡した者
を除いて、午前中だけで404人、午後は18人を救助した。
乗組員約150名の3倍近い人数である。
翌日、救助された英兵たちは、オランダの病院船に引き渡さ
れた。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されてい
る旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、またウィングに立つ工藤に
敬礼した。工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をした。兵のほ
うは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感
謝の意を表していた。
■9.「サイレント・ネービー」の伝統■
フォール卿は、戦後、外交官として活躍し、定年退職後、
1996(平成8)年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、
その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。
平成15(2003)年10月、フォール卿は日本の土を踏んだ。
84歳を迎える自身の「人生の締めくくり」として、すでに他
界していた工藤艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したい
と願ったのである。しかし、あいにく墓も遺族も所在が分から
ず、フォール卿の願いは叶えられなかった。
フォール卿から依頼を受けて、[1]の著者・恵隆之介氏は3
ヶ月後に、遺族を見つけ出した。工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は
「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のこと
は口外しなかった」と落涙した。サイレント・ネービーの伝統
を忠実に守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての
職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである。
(文責:伊勢雅臣)
http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/107583154.html
news archives:敵兵を救助せよ!?英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長
戦場のラストサムライ
http://wwwz.fujitv.co.jp/unb/contents/366/p366_3.html
アンボン終戦秘話
昨日はインドネシア関係の勉強会に出席した。出席者の殆どが、大戦経験者の80歳代である。御元気なことは嬉しい限りだが、貴重な経験とアジア各地に築かれた〈資産〉が、このまま消えてしまうのかと思うと残念である。同席した高山帝京大教授が「貴重な体験をされた皆さん方が、もっと若者達に体験談を語り継がなければいけないのだが、日本のご老人はしゃべらない。是非とももっと青少年に語りかけて欲しい」と言ったが、同感である。そのせいか、今日は質疑応答が終わったとき、元海軍大尉の坂部康正氏が、終戦時の思い出をしゃべった。現在のインドネシアの政治・経済情勢、石油開発、治安など、重要な内容の話は省略し、坂部氏の終戦秘話を書いておきたい。概要はこうである。
戦況が不利であることは知っていたが、8月15日の陛下の放送は意外だった。誰もが虚脱状態だったが、在アンボンの海軍25根拠地隊司令官・一瀬中将より、陸軍の第5師団長の方が先任だから、降伏に伴う一切の指揮を取ってもらおうとのんきに構えていたところ、師団長と参謀長が敗戦を聞いて自決してしまった。そこで一瀬司令官以下、在アンボンの2万5千人の日本人を無事に内地に復員させる責任は、海軍が負うことになった。
進駐してきた豪州軍の司令官はスティールという准将で、補給参謀はアーノット少佐だったが、日章旗を下し、ユニオンジャックを掲げた波止場で降伏式が終わると、豪州軍司令部スタッフをオランダ総督邸であった司令部庁舎に案内した。豪州軍のために綺麗に掃き清められ、長官室には日本人形や生け花まで飾られていて、負けっぷりを良くしようという我々のせめてもの配慮だった。
スティール准将が〈先任者〉である一瀬司令官に「アドミラル」の敬称で先に敬礼し、それぞれ紹介しあったが、アーノット少佐は、日本軍の幕僚が余りに若いので驚いていた。
スティール准将が「私は第1次大戦のとき、少尉で地中海に派遣されダーダネルス作戦に参加したが、独逸のUボートに撃沈され海上を漂流した。そのとき日本の駆逐艦に救助された思い出がある。今回、占領軍指揮官としてやってきたが、日本海軍の軍規は立派だ。アドミラル一瀬以下、各スタッフの協力を得て、戦後処理復員業務を速やかに終了させたい」と話したが、一瀬司令官も「私も当時地中海で日本駆逐艦の甲板士官をしていた。かっての戦友がこのような状況下でお会い出来たことは感慨無量である。貴軍の命令を着実に実行し、2万5千人の日本人を速やかに無事帰国させたい」と述べた。
当時インドネシア独立運動が巻き起こり、アンボンでも武装蜂起があって治安は悪かったので、豪州軍は日本軍から「軍刀」だけを取り上げたものの、武器類はそのまま携行保管させていた。収容?された日本軍は、森林を伐採して芋を植え、食料を自給自足しつつ帰国を待つことになったが、携行食糧は約1ヶ月、芋が実るのは4ヶ月。どうしても食料不足は避けられない。そこでアーノット少佐にその補給をお願いし、昭和20年末ごろ入ることになっていたが、十月ごろに連合軍の上級司令部から米軍の参謀長がアンボンを視察に来た。ところが日本海軍が兵器を携行して歩哨に立ったり、町を巡察している。これに驚いた参謀長はスティール准将以下、豪州軍スタッフを怒鳴りつけたらしい。しかしスティール司令官以下も負けてはいなかった。占領軍政も日本軍の協力でうまくいっている、と反論、そして辞表を提出して帰国することになったという。
帰国を前にしたスティール司令官とアーノット少佐は、連絡将校の川崎中尉に「米軍参謀長と意見があわないので帰国するが、約束した食料はたとえ米軍が補給しなくとも豪州政府が必ず送る。帰国すれば私は〈国会議員〉だし、アーノットは豪州ナンバーワンの〈ビスケット会社の社長さん〉だ。ところで君を密かに呼んだのは、御土産に別室に集めてある日本刀を一振りずつ持って帰りたい。出来るだけ古くてよいものを選んでくれ。これはアドミラル一瀬にも、うちの参謀のコステロ中佐にも内緒だ」とウインクしたという。
その後占領軍は豪州軍からオランダ軍に交代したが、その支配下では仕事もなくのんびりしたものだったが、食糧事情は困窮した。
昭和21年4月のある日、英国国旗を掲げた貨物船が2隻入港した。豪州からの食料だった。バター、チーズ、コンビーフ、小麦粉、ビスケットなど、25000人の一ヶ月分であった。スティール准将とアーノット少佐が約束を果たしてくれたのである。坂部大尉は目頭が熱くなったという。「受領に行った船長室で出された紅茶とビスケットのうまかったこと!ふと、そのビスケットのブランドを見たら〈アーノットカンパニー〉とあった。復員船が入ったのはその日から約一ヶ月後であった。食料不足の日本に帰る復員兵のリュックサックには、このコンビーフやビスケットが大事に詰め込まれていた」という。
昨日の友は今日の敵、今日の敵は明日の友。二十一世紀の太平洋・アジア地区の安定は、日米豪の3カ国が中心になって動くと言われている。
この話を聞いて、私には、何となく明るい予感がしたのであったが、高山教授が言った様に、貴重な〈秘話〉が埋もれたまま消滅することは残念でならない。
軍事評論家=佐藤守のブログ日記 - アンボン終戦秘話
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20060409
■1.「旧敵との和解」■
1998(平成10)年4月、英国では翌月に予定されている天
皇の英国訪問への反対運動が起きていた。その中心となってい
たのは、かつて日本軍の捕虜となった退役軍人たちで、捕虜と
して受けた処遇への恨みが原因であった。
その最中、元海軍中尉サムエル・フォール卿がタイムズ紙に
一文を投稿した。「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和
解することに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前
置きして、自身の体験を語った。
大東亜戦争が始まってまもなくの1942(昭和17)年2月27
日、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合部隊
の海戦が始まった。連合部隊の15隻中11隻は撃沈され、4
隻は逃走した。3月1日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡
洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員4百
数十名は漂流を続けていたが、翌2日、生存の限界に達した所
を日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に発見された。
「エンカウンター」の砲術士官だったフォール卿は、「日本人
は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けて最
期を迎えるものと覚悟した。
ところが、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号
旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長・工
藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で健闘
を称え、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストであ
る」とスピーチしたのだった。そして兵員も含め、全員に友軍
以上の丁重な処遇を施した。
このフォール卿の投稿によって、以後の日本批判の投書はこ
とごとく精彩を欠くことになった。
■2.「オラが艦長は」■
工藤が駆逐艦「雷」の艦長として着任したのは、昭和15
(1940)年11月1日だった。身長185センチ、体重95キロ
と大きな体に、丸眼鏡をかけた柔和で愛嬌のある細い目をして
いた。「工藤大仏」というあだ名を持つ温厚な艦長に、乗組員
たちはたちまち魅了されていった。
着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。と
くに鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。士官たちには
「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」
と口癖のように命じた。見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望
鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派
だ」と誉めた。
酒豪で何かにつけて宴会を催し、士官と兵の区別なく酒を酌
み交わす。兵員の食事によく出るサンマやイワシが好きで、士
官室でのエビや肉の皿を兵員食堂まで持って行って「誰か交換
せんか」と言ったりもした。
2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは「オラが艦長は」と
自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔
いはない」とまで公言するようになった。艦内の士気は日に日
に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。
■3.海軍兵学校・鈴木貫太郎校長の教育■
工藤艦長は、海軍兵学校51期だったが、入学時に校長をし
ていた鈴木貫太郎中将の影響を強く受けた。鈴木はその後、連
合艦隊司令長官を務めた後、昭和4年から8年間も侍従長とし
て昭和天皇にお仕えした。その御親任の厚さから、終戦時の内
閣総理大臣に任命されて、我が国を滅亡の淵から救う役割を果
たす。[a,b]
工藤ら51期が入学した時に校長に着任した鈴木は、従来の
教育方針を以下のように大転換した。
・鉄拳制裁の禁止
・歴史および哲学教育強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)
日本古来の武士道には鉄拳制裁はない、というのが、その禁
止の理由だった。工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、
最上級生になっても、下級生を決してどなりつけず、自分の行
動で無言のうちに指導していた。
歴史および哲学教育の強化の一貫としては、鈴木自身が明治
天皇御製についての訓話を行い、
四方の海皆はらからと思ふよになど波風に立ちさわぐらん
の御製から、明治天皇の「四海同胞」の精神を称えている。工
藤の敵兵救助も、この精神の表れであろう。
■4.日本海軍の武士道■
大東亜戦争開戦の2日後、昭和16(1941)年12月10日、
日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈
艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈し
た。
駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員
たちの救助を始めたが、日本の航空隊は一切妨害せず、それど
ころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、と
いう仕草を送った。さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガ
ポールに帰投するさいにも、日本機は上空から視認していたが、
一切、攻撃を差し控えていた。
こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させた。
工藤の敵兵救助とは、こうした武士道の表れであり、決して、
例外的な行為だったわけではない。
昭和17(1942)年2月15日、シンガポールが陥落すると、
英国重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は、
ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで、アメリカ、オランダ、オ
ーストラリアの艦船と合同して、巡洋艦5隻、駆逐艦9隻から
なる連合部隊を結成した。
この連合部隊に、日本海軍の重巡「那智」「羽黒」以下、軽
巡2隻、駆逐艦14隻の東部ジャワ攻略部隊が決戦を挑んだ。
日本海海戦以来、37年ぶりの艦隊決戦である。
2月27日午後5時、海戦が始まった。当初、「雷」は開戦
以来、敵潜水艦2隻、哨戒艇1隻撃沈という戦闘力の高さを買
われて、艦隊後方で指揮をとる主隊の護衛任務についていた。
そこに「敵巡洋艦ヨリナル有力部隊発見、我交戦中」との信号
を受けて、主力は戦場に向かった。しかし、到着した時には、
敵艦隊はスラバヤに逃げ込んで、肩すかしを食らった。
2月28日、「エクゼター」は被弾箇所の応急修理を終え、
「エンカウンター」と米駆逐艦「ポープ」を護衛につけて、イ
ンド洋のコロンボへと逃亡を図った。しかし、3月1日に「雷」
の僚艦「電(いなづま)」を含む日本の駆逐艦隊に取り囲まれ、
攻撃を受けた。
■5.「沈みゆく敵艦に敬礼」■
午後12時35分、「電」は指揮官旗を翻す「エクゼター」
に砲撃を開始した。「エクゼター」はボイラー室に被弾して、
航行不能に陥った。午後1時10分、「撃ち方止め!」の号令
が下され、敵艦に降伏を勧告する信号が発せられた。
しかし、艦長オリバー・ゴードン大佐は降伏せず、マストに
「我艦を放棄す、各艦適宜行動せよ」の旗流信号を掲げた。
ここで「エクゼター」の乗組員たちは、次々と海中に飛び込み、
日本艦隊に向かって、泳ぎ始めたのである。「エクゼター」で
は、士官が兵に対し、「万一の時は、日本艦の近くに泳いでい
け、必ず救助してくれる」といつも話していた。「プリンス・
オブ・ウェールズ」沈没の際の日本海軍の行動が記憶にあった
のだろう。
「電」は、傾いた「エクゼター」に魚雷を発射して、とどめを
刺した。「電」艦内に、「沈みゆく敵艦に敬礼」との放送が流
れ、甲板上の乗組員達は、一斉に挙手の敬礼をした。その敬礼
に見送られて、「エクゼター」は船尾から沈んでいった。
まもなく「海上ニ浮遊スル敵兵ヲ救助スベシ」の命令が出さ
れた。救命ボートに乗っている者、救命用具をつけて海面に浮
かんでいる者に対して、「電」の乗組員は、縄ばしごやロープ、
救命浮標などで、救助にあたった。蒼白な顔に救出された喜び
の笑みをたたえ、「サンキュウ」と敬礼して甲板にあがってく
る者、激しい戦闘によって大怪我をしている者などが、次々と
助け出された。
甲板上に収容された将兵には、乾パンとミルクが支給された。
「電」によって救助された「エクゼター」乗組員は376名に
上った。
■6.重油の海での漂流■
駆逐艦「エンカウンター」は、旗艦「エクゼター」が停止し
た時、その「各艦適宜行動せよ」という命令に従い、単独での
航行を続けた。艦長モーガン少佐は「エクゼター」の乗組員を
救助すべきかと、一瞬迷ったが、「プリンス・オブ・ウェール
ズ」と「レパルス」沈没の際の日本海軍の行動を覚えていたの
で、こう決断したのである。
しかし、その「エンカウンター」も日本艦隊の追撃を受け、
8千メートル東方の海域で、30分後に撃沈された。この時、
20歳の砲術士官だったフォール卿は、こう証言している。
艦長とモーターボートに乗って脱出しました。その直後、
小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。・・・この直
後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。
間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けま
した。固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っ
ていきました。[1,p251]
この時は、米蘭の潜水艦がジャワ海で行動しており、敵の攻
撃をいつ受けるか分からない状況では、国際法上は、海上遭難
者を放置しても違法ではない。
「エンカウンター」の乗組員たちは、自艦から流出した重油の
海につかり、多くの者が一時的に目が見えなくなった。その状
態で、約21時間も漂流した。
■7.「これは夢ではないか」■
そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。見張
りが「漂流者400以上」と報告した。工藤艦長は敵潜水艦が
近くにいない事を確認した後、「救助!」と命じた。
「雷」の手の空いていた乗組員全員がロープや縄ばしご、竹竿
を差し出した。漂流者たちは、われ先にとパニック状態になっ
たが、青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然と
順番を守るようになった。
重傷者から救う事になったが、彼らは最期の力を振り絞って、
「雷」の舷側に泳ぎ着いて、竹竿に触れるや、安堵したのか、
ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。甲板
上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」
と呼びかける。この光景を見かねて、何人かの乗組員は、自ら
海に飛び込み、立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻
き付けた。
こうなると、敵も味方もなかった。まして同じ海軍軍人であ
る。甲板上で「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者も
いた。無事、救出された英兵は、体についた重油を乗組員が布
とアルコールで拭き取ってやった。新しいシャツと半ズボン、
靴が支給され、熱いミルクやビール、ビスケットが配られた。
フォールズ卿はこう回想している。
私は、まさに「奇跡」が起こったと思い、これは夢では
ないかと、自分の手を何度もつねったのです。
■8.「今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである」■
間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられ
た。
すると、キャプテン(艦長)・シュンサク・クドウが、
艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしまし
た。われわれも遅ればせながら答礼しました。
キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチさ
れたのです。
諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あ
るゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、
今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなこと
である。[1,p258]
「雷」はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、た
とえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止
し、乗組員総出で救助した。水没したり、甲板上で死亡した者
を除いて、午前中だけで404人、午後は18人を救助した。
乗組員約150名の3倍近い人数である。
翌日、救助された英兵たちは、オランダの病院船に引き渡さ
れた。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されてい
る旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、またウィングに立つ工藤に
敬礼した。工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をした。兵のほ
うは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感
謝の意を表していた。
■9.「サイレント・ネービー」の伝統■
フォール卿は、戦後、外交官として活躍し、定年退職後、
1996(平成8)年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、
その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。
平成15(2003)年10月、フォール卿は日本の土を踏んだ。
84歳を迎える自身の「人生の締めくくり」として、すでに他
界していた工藤艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したい
と願ったのである。しかし、あいにく墓も遺族も所在が分から
ず、フォール卿の願いは叶えられなかった。
フォール卿から依頼を受けて、[1]の著者・恵隆之介氏は3
ヶ月後に、遺族を見つけ出した。工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は
「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のこと
は口外しなかった」と落涙した。サイレント・ネービーの伝統
を忠実に守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての
職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである。
(文責:伊勢雅臣)
http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/107583154.html
news archives:敵兵を救助せよ!?英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長
戦場のラストサムライ
http://wwwz.fujitv.co.jp/unb/contents/366/p366_3.html
アンボン終戦秘話
昨日はインドネシア関係の勉強会に出席した。出席者の殆どが、大戦経験者の80歳代である。御元気なことは嬉しい限りだが、貴重な経験とアジア各地に築かれた〈資産〉が、このまま消えてしまうのかと思うと残念である。同席した高山帝京大教授が「貴重な体験をされた皆さん方が、もっと若者達に体験談を語り継がなければいけないのだが、日本のご老人はしゃべらない。是非とももっと青少年に語りかけて欲しい」と言ったが、同感である。そのせいか、今日は質疑応答が終わったとき、元海軍大尉の坂部康正氏が、終戦時の思い出をしゃべった。現在のインドネシアの政治・経済情勢、石油開発、治安など、重要な内容の話は省略し、坂部氏の終戦秘話を書いておきたい。概要はこうである。
戦況が不利であることは知っていたが、8月15日の陛下の放送は意外だった。誰もが虚脱状態だったが、在アンボンの海軍25根拠地隊司令官・一瀬中将より、陸軍の第5師団長の方が先任だから、降伏に伴う一切の指揮を取ってもらおうとのんきに構えていたところ、師団長と参謀長が敗戦を聞いて自決してしまった。そこで一瀬司令官以下、在アンボンの2万5千人の日本人を無事に内地に復員させる責任は、海軍が負うことになった。
進駐してきた豪州軍の司令官はスティールという准将で、補給参謀はアーノット少佐だったが、日章旗を下し、ユニオンジャックを掲げた波止場で降伏式が終わると、豪州軍司令部スタッフをオランダ総督邸であった司令部庁舎に案内した。豪州軍のために綺麗に掃き清められ、長官室には日本人形や生け花まで飾られていて、負けっぷりを良くしようという我々のせめてもの配慮だった。
スティール准将が〈先任者〉である一瀬司令官に「アドミラル」の敬称で先に敬礼し、それぞれ紹介しあったが、アーノット少佐は、日本軍の幕僚が余りに若いので驚いていた。
スティール准将が「私は第1次大戦のとき、少尉で地中海に派遣されダーダネルス作戦に参加したが、独逸のUボートに撃沈され海上を漂流した。そのとき日本の駆逐艦に救助された思い出がある。今回、占領軍指揮官としてやってきたが、日本海軍の軍規は立派だ。アドミラル一瀬以下、各スタッフの協力を得て、戦後処理復員業務を速やかに終了させたい」と話したが、一瀬司令官も「私も当時地中海で日本駆逐艦の甲板士官をしていた。かっての戦友がこのような状況下でお会い出来たことは感慨無量である。貴軍の命令を着実に実行し、2万5千人の日本人を速やかに無事帰国させたい」と述べた。
当時インドネシア独立運動が巻き起こり、アンボンでも武装蜂起があって治安は悪かったので、豪州軍は日本軍から「軍刀」だけを取り上げたものの、武器類はそのまま携行保管させていた。収容?された日本軍は、森林を伐採して芋を植え、食料を自給自足しつつ帰国を待つことになったが、携行食糧は約1ヶ月、芋が実るのは4ヶ月。どうしても食料不足は避けられない。そこでアーノット少佐にその補給をお願いし、昭和20年末ごろ入ることになっていたが、十月ごろに連合軍の上級司令部から米軍の参謀長がアンボンを視察に来た。ところが日本海軍が兵器を携行して歩哨に立ったり、町を巡察している。これに驚いた参謀長はスティール准将以下、豪州軍スタッフを怒鳴りつけたらしい。しかしスティール司令官以下も負けてはいなかった。占領軍政も日本軍の協力でうまくいっている、と反論、そして辞表を提出して帰国することになったという。
帰国を前にしたスティール司令官とアーノット少佐は、連絡将校の川崎中尉に「米軍参謀長と意見があわないので帰国するが、約束した食料はたとえ米軍が補給しなくとも豪州政府が必ず送る。帰国すれば私は〈国会議員〉だし、アーノットは豪州ナンバーワンの〈ビスケット会社の社長さん〉だ。ところで君を密かに呼んだのは、御土産に別室に集めてある日本刀を一振りずつ持って帰りたい。出来るだけ古くてよいものを選んでくれ。これはアドミラル一瀬にも、うちの参謀のコステロ中佐にも内緒だ」とウインクしたという。
その後占領軍は豪州軍からオランダ軍に交代したが、その支配下では仕事もなくのんびりしたものだったが、食糧事情は困窮した。
昭和21年4月のある日、英国国旗を掲げた貨物船が2隻入港した。豪州からの食料だった。バター、チーズ、コンビーフ、小麦粉、ビスケットなど、25000人の一ヶ月分であった。スティール准将とアーノット少佐が約束を果たしてくれたのである。坂部大尉は目頭が熱くなったという。「受領に行った船長室で出された紅茶とビスケットのうまかったこと!ふと、そのビスケットのブランドを見たら〈アーノットカンパニー〉とあった。復員船が入ったのはその日から約一ヶ月後であった。食料不足の日本に帰る復員兵のリュックサックには、このコンビーフやビスケットが大事に詰め込まれていた」という。
昨日の友は今日の敵、今日の敵は明日の友。二十一世紀の太平洋・アジア地区の安定は、日米豪の3カ国が中心になって動くと言われている。
この話を聞いて、私には、何となく明るい予感がしたのであったが、高山教授が言った様に、貴重な〈秘話〉が埋もれたまま消滅することは残念でならない。
軍事評論家=佐藤守のブログ日記 - アンボン終戦秘話
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20060409