敵兵を救助せよ!―英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長

2006年07月10日 | Books
「海の武士道」 産経新聞 平成17年9月11日

八月中旬、横須賀から、海上自衛隊の護衛艦「いかづち」が、テロと戦う英海軍などの支援のため、インド洋に到着した。日本海軍の同名の駆逐艦「雷」が、第二次大戦中、英海軍艦艇の乗員四百二十六人を救助したことを知る人は少ない。

元海自二尉で、日英の関係者に取材した惠隆之介(51)によると、救助はこうして始まった。

昭和十七年三月、英駆逐艦「エンカウンター」など二隻は「ジャワ沖海戦」から離脱して航海中、日本海軍に撃沈され、乗員約四百六十人は二十四時間、漂流を続けていた。

多数の救命筏(いかだ)を発見した「雷」は救難活動中の国際信号旗をマストに掲げ、艦長の工藤俊作少佐=当時(41)=は艦を停止するため「後進いっぱい」を下令する。

前日には同じ海域で日本の輸送船が潜水艦の攻撃で沈没していた。
停船さえ危険な状況で、工藤はさらに号令をかけた。

「(周辺警戒用の)一番砲だけ残し、総員、敵溺者(できしゃ)救助用意」

「雷」に泳ぎ着いた漂流将兵に艦上から竹ざおを差し出すと、相当数がつかんだはずの手を離し、沈んでいった。
日本側水兵は「波の輪が静かに広がっていった。白い軍服の色が目にしみた。ほっとして、力尽きたのだろう」と振り返る。

惨状を見かねた水兵が独断で飛び込み、英将兵の体にロープを巻いた。下士官が「命令違反だ。飛び込むな」と叫んだが、さらに二人が飛び込んだ。
工藤は「重傷者は起重機を使い、網でつり上げろ」と命じた。

 「エンカウンター」の中尉だったサムエル・フォール(86)=後に駐スウェーデン大使=は「日本人は野蛮と聞いていたので、機銃掃射を受けるのではないかと恐怖を覚えた」と、惠に語った。

二百二十人乗りの「雷」は、その倍の敵将兵を収容した。
重油で真っ黒になった捕虜の体を貴重な真水でふき、服や食料を支給した。
甲板に日よけの天幕を張ったため、周辺警戒用の一番砲も使えなくなった。

戦時国際法の専門家で日本赤十字社の井上忠男参事(53)は
「大戦中の戦闘海域で、これだけの偉業を完遂したのは世界の海軍史上、稀有(けう)な人道行為」
と言い切る。

「奇跡。夢ではないかと何度も手をつねった」
というフォールら英軍士官に、工藤は流暢(りゅうちょう)な英語でこう話したという。

「諸官は勇敢に戦われた。今や日本海軍のゲストである」

工藤は明治三十四年一月、山形県屋代村(現高畠町)で生まれ、大正九年八月、海軍兵学校に入校した(海兵五十一期)。当時の海軍兵学校は英国人教師による英語や紳士としての教育が徹底された。工藤自身、在学中に英国人女性と文通したこともある。

一方、当時海軍兵学校の校長だった鈴木貫太郎中将(終戦時の首相)は「武士道」にこだわり、日露戦争で敗軍の将ステッセルの扱いに際し、「武人の名誉を保たせよ」と言われた明治天皇の故事を生徒に語り継いでいた。

惠は「精神的に豊かな良き時代に、良き教育を受け、良き軍人に育った結果、奇跡の救助劇が生まれた」と語る。

おおらかで温厚、一八五センチの偉丈夫だった工藤のあだ名は「大仏」。
工藤を慈父のように慕い、「艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」と公言する乗員らの存在も奇跡を助けた。

しかし、工藤は戦後、この事実を語らなかった。
惠はその理由を「職務を忠実に果たし、己を語ることを潔しとしないサイレント・ネービー(沈黙の海軍)精神の発露」とみる。
工藤の親族や「雷」乗務士官の遺族は惠の取材に「そんな立派なことをしたのか」と、一様に涙し、工藤の夫人ですら救助劇を知らずに亡くなっていた。

工藤が艦長を退任した後の昭和十九年四月、「雷」は西太平洋で米潜水艦の攻撃で沈没、乗っていた約二百六十人全員が戦死した。この悲劇が「奇跡の救助劇」を封印したのかもしれない。

終戦を故郷で迎えた工藤は三十年、埼玉県川口市に移り、夫人のめいが開業した小さな病院で事務の仕事をしていた。自衛隊や大企業の招きにも応じず、兵学校のクラス会にも出席しなかった。

五十四年一月、最期を迎えつつあるとき、見舞いに駆けつけた兵学校同期の二人に工藤は、こう言って静かに目を閉じた。
「貴様たちは大いにやっている(社会で活躍している)ようだが、おれはウドの大木だったなあ」

工藤はなぜ沈黙を守ったのか。平和な時代を前に散華した戦友らに対する「けじめ」だったとする見方もある。
艦橋で工藤が、ほおを伝う涙を拳でぬぐう姿を目撃した部下がいる。
兵学校同期の戦死の報に接した直後のことだった。



サミュエル・フォール卿 

フォール卿は昭和62年、工藤の功績について米海軍機関紙に寄稿した。
平成4年、ジャカルタで行われたジャワ沖海戦50周年記念式典でも工藤の功績を「日本武士道の実践」とたたえ、8年には自分史の巻頭に「帝国海軍中佐工藤俊作にささげる」と書いた。
10年には英タイムズ紙に工藤の実名をあげて投書し、この間、工藤の消息を探し続けたが、所在不明のままだった。
フォール卿は「人生の締めくくりに」と15年に来日し、海自観艦式で護衛艦「いかづち」に乗艦した。

http://tech.heteml.jp/2006/07/post_611.html#more





Amazon.co.jp: 敵兵を救助せよ!―英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長: 本: 惠 隆之介
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敵兵を多数救助− 高畠出身の旧海軍艦長追った本を出版

英国兵を救助した駆逐艦「雷」の工藤俊作艦長の行動を追った「敵兵を救助せよ!」
 高畠町出身で、第2次世界大戦中に多数の英海軍将兵を救助した旧日本海軍の駆逐艦長、工藤俊作さん(故人)の行動を追った「敵兵を救助せよ!」が出版された。著者の恵隆之介さん(52)は「日本の軍人の人道的行動を、ぜひ後世に伝えたい」と話している。

 1942(昭和17)年3月、工藤さんが艦長の駆逐艦「雷(いかずち)」が、ジャワ海で漂流していた英国艦の乗組員多数を発見。敵潜水艦の脅威があったにもかかわらず、生存者422人全員を救出した。

 「敵兵を」は、工藤さんの生い立ち、雷の記録などを克明に掲載。第6章の「スラバヤ沖海戦」では、雷に救助された元英海軍中尉のサムエル・フォールさんの回想などから当時の救助活動を再現した。英兵らは思いがけず助けられた上に、甲板で重油などの汚れを洗い流してもらい、衣類、食料の提供を受けた。日本の「武士道」に感銘を受けたフォールさんの心情がつづられている。

工藤俊作さんについて語る著者の恵隆之介さん
 恵さんは沖縄県在住。海上自衛隊幹部候補生学校を卒業し、旧海軍兵学校卒の工藤さんの後輩に当たる。2003年9月、フォールさんの話をラジオで聞き、雷の美談を知ったという。

 その後、来日したフォールさんに、工藤さんの墓参への協力を依頼され調査を開始。工藤さんは屋代村(現高畠町)生まれと分かり、高畠町内の親類宅では英国兵を救助した際の貴重な写真も見つけた。04年6月にはイギリスに渡り、フォールさんに報告した。

 フォールさんは自伝を出版し、工藤さんと日本海軍をたたえている。恵さんは「明治の軍人などに比べ昭和の軍人はモラル低下が指摘されるが、誇り高い武士道があったことを国民に知ってもらいたい」と話している。「敵兵を」は334ページの単行本。発行元は草思社。税別1700円。

山形新聞ニュース
http://yamagata-np.jp/kiji/200607/05/news05343.html
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