(日本語訳文:東京裁判研究会『共同研究 パル判決書(下)』、英語原文:“Dissentient judgment of Justice Pal” Kokusho-kankokai )
インターネットの世界では、パル博士がその判決書の中で南京大虐殺を認定しているという風説が流布されています。
所謂「パル判決書」をきちんと読めば、それが都合のいい部分だけを抜き出した曲解であることは明らかなのですが、その部分だけを読めば確かに「南京大虐殺」を認定しているように読めるだけに厄介なプロパガンダです。
ここでは、戦時プロパガンダに関する博士の識見を判決書から引用しつつ、認定箇所とされる部分をその背景まで掘り下げて検証し、博士の真意を解き明かしたいと思います。
戦時プロパガンダに関する識見
〔引用1〕
『・・・・・・・
世界は、憎悪心を喚起するために、事実無根の残虐な話の例を、いままでまったく聞いたことがないわけでもない。米国アイオワ州大学のアーノルド・アンダーソン教授は、「敵国指導者、その裁判および処罰の実例」と題する最近の論文で、米国南北戦争における「獄中の虐待の話」――これは後日にいたってほとんど全面的に否定されたものである――が憎悪心(敵愾心)を喚起するために企図された、宣伝の重大要素であったことを指摘している。教授は、右のような残虐行為の種々な話を相当詳細に取り上げているW・B・ヘッセルタインの「南北戦争における牢獄――戦争心理の研究」と題する著書に言及している。そこに書かれてある獄中残虐物語が、現にわれわれのまえにある残虐物語と、驚くほど類似している点は注目に価するものである。それによると、南軍は「俘虜の咽喉を、耳から耳へかけて斬り裂いたり、俘虜の首を切り落してフット・ボールのように蹴り飛ばしてみたり、また負傷者を木によりかけて射撃の標的としたり、また負傷者に銃剣を突き刺して苦しめたりした」と世間の人は告げられた。一週刊画報は、叛軍兵士が負傷兵の身体に銃剣を突刺しているぺージ大の写真を載せて出した。また俘虜が締切った部屋に押し込められ、「その有毒な空気が時々刻々かれらの力を弱めつつある」などとも語られた。悪い食糧、残忍な取扱い、窮乏の極を物語る話は多々あった。アイオワ州連隊に属していた経理科の一脱出士官はかれの州知事に、かれの経験を報告してつぎのように語った。かれとともに監禁されていた二百五十名の士官は、米軍(北軍)兵卒の食糧の四分の一しか給与されず「およそ悪辣な叛逆者(南軍)が、かれらに加えることのできた有りとあらゆる困苦と侮辱とにさらされた」。「また俘虜は汚い害虫だらけの、棉花物置に監禁された」。「下痢が蔓延していたときでも、そのすし詰めの部屋から出て便所にいくことは許されなかった。」「俘虜は衣類に困窮していた」。「病院にたいしては薬品を支給してくれなかった」。「俘虜に給与されたコーン・ブレッド(とうもろこしパン)は、ふるいにかけられていない粉のものであり、肉は腐っていた」。「窓から外を見たために殺された俘虜があった。自分を育くんでくれた大地に目をやるというわずかな特典さえ許されなかった」。ある医者は「多数の俘虜の傷には、ぶどう酒のコップに一杯になるほど蛆がわいていた」と語った。
この牢獄から帰って来た者の健康状態を調査し、これにもとづいて作成された公報も出た。この報告に添付するために、これら帰還俘虜の写真も撮られ、そしてその報告書は、そのときまでの伴虜の待遇について語られた虐待行為の話をすべて記載した。一報告書は「風雨をさける場所が全然与えられなかった。あら粉でつくられたコーン・ブレッドや、蛆や虫がはいっているスープや、騾馬の肉などをそこに集った人々はまるで豚にでも与えられるような形式で食わされた」。「飢えて鼠を食べた者がいた。一度は犬を食った者もいた。俘虜は衛兵の支給品の残りものや余りものを投げ与えられるのさえありがたかった。病人は、回復の見込がなくなるまで、病院に送られず、軍医には虐待され、そして死んでいった」。リッチモンドの荒れはてた葉タバコ倉庫の筆舌にもつくしえない状態が詳細にわたって描写されていた。家具は全然なく窓の破れた火の気のない部屋、各部屋に俘虜たちがぎっしりと詰め込まれた状態などが詳述された。「俘虜は窓際で銃殺され、人々は食べるものがなく、いく多の者は発狂した。……些細な科のかどで残忍な刑に処せられ、死骸は裸体のまま山と積まれて埋葬を待つ間に豚や犬や鼠の餌食となった……」。
ようするに残虐行為の全貌は「戦場で正式に降服した敵の将兵を撲滅し、無力にする目的のもとに、叛軍参謀部のいずれかで発案された既定計画の存在に帰することができるものとされたのである」。
しかしながらこの戦争の終るまえに、敵の宣伝にたいする防禦として、南軍はおなじ宣伝戦において一矢を放つ機会をとらえた。南部連邦議会の上院で採択された決議において、双方の俘虜取扱いを調査する合同委員会を指名した。三月上旬同委員会は予備的報告を提出した。その報告はまず、北部側の初期の報告書や出版物において主張されているいわゆる南部側による不当行為に関する調査によって始まり、結論としてこれら報告書や出版物の精神および意図は、北部に潜在するところの南軍にたいする悪意的感情を煽り立てることにあると断じた。右の悪意の精神の証拠として写真が採用された。同委員会は、右のような例は北部側のどの痛院にも、また家庭内においても見受けられるものであると信ずると報告している。
・・・・・・・・』
〔引用2〕
『・・・・・・・・
ヘッセルタイン博士がかつて指摘したように、「武力戦争に避けがたいつきものは、その闘争のため当事者間の心中に醸しだされる憎しみの感情である。国難にたいしてその国家のために矛をとって立つ人々の心を励し立てる愛国の精神は、またこれらの人々の心中にその国家の敵にたいする極度に烈しい敵意を起こさせるのである。こういう敵意が自然に表現されるのは、ただに戦場における戦闘の興奮裡ばかりでなく、また兵士らの日常生活中、およびこれら兵士の出身地である社会の感情のうちにも表現されるのである。けだしこの兵士らの生活も、かれらの出身地である社会も、ともに戦争の勃発のため、平和時代に従い慣れた日常の軌道から脱離しているのである。理想、主義あるいは国家にたいする愛情というものは、それが安全と生命との犠牲を必要とする場合には、その愛情を感ずるものをかつて自己の主義、理想と相容れない主義、理想もしくは他の国家に存在するどのような美徳にたいしても盲目にしてしまうのである。一主義の信奉者としては、自分とその奉ずる主義とを同一視し、自分に反対する人々を自分の主義に反する主義と同一視し、そして自分たちの主義にたいする愛着心に反比例する嫌悪をもって、敵方の主義の信奉者たちを憎悪することが必要となるらしい」。「一つの主義にたいするこういう愛着心によってその行為を動機づけられている国民にとっては、敵方は、自己側の信奉する理想主義のすべてを敵側で欠いているように見えるのは必然的である。敵は憎むべき者となる。敵は自分たちと共通の美徳を享有していない。そして敵の言語、人種または文化上の特異点は重要な相違点となり、否むしろ、より重い罪を意味するものとなってくる。平和時代にはあるていど存在する批判力は、国家的危機が近づくにしたがって萎縮していく」。「戦争がもたらした社会秩序の混乱の当然の結果として生ずるこういう心的状態においては、戦争当事国の一方または他方の犯した残虐行為の物語が、だんだん真実性をおびてくるものと考えられるのは当然であった」。
ときとしては、戦闘の敗北による士気の沮喪を回復するために、敵方の野蛮性の例をもって補うことを可とする場合がある。
そうして本件にはこういう性質の宣伝をもたらすべき要素は全部存在していたのである。
・・・・・・・・』
〔引用3〕
『・・・・・・・・
戦争犯罪の話は激怒または復讐心を産みだすものである。われわれは無念の感に左右されることを避けなければならない。われわれは感情的要素のあらゆる妨害を避け、ここにおいては戦闘中に起こった事件について考慮を払っていることを想起しなければならない。そこには、当時起こった事件は昂奮した、あるいは偏見の眼をもった観測者だけによって目撃されたであろうという特別の困難がある。
さらに戦争中勝利をえ、戦時俘虜を捕獲するに成功した交戦国は、本件の起訴状に訴追されている性質の残虐を犯したとみなされる可能性があり、究極において敗戦した場合には敗戦そのものによって、そのもっとも邪悪な、残忍な性質が確立されるのである。もし刑罰がここに適用されるものでなければ、どこにも適用されるものではないとわれわれはいい聞かされている。われわれはかような感情は避けなければならない。
当時の新聞報道あるいはそれに類似したものの価値を判断するにあたって、われわれは戦時において企図された宣伝の役割を見逃してはならない。本官がすでに指摘したように、敵を激怒させ、味方の銃後の者の血を湧かし、中立国民をして憎悪と恐怖を抱かしめる方法として、想像力を発揮するための一種の愚劣な競争が行われるのである。本官はすでに戦争の残虐談についていくつかの例を述べた。
それに加えて第一次大戦中、ドイツ人による死体の使用に関し、流布された記事について述べてみよう。それは戦時宣伝の典型的な嘘言として歴史に残るであろう。英国において有力であって、広く読まれている日刊紙『ニュース・クロニクル』の当時の政治部長であったA・J・カミング氏は、一九三六年に発行された『ザ・プレス』(新聞)と題する氏の著書のなかで、この宣伝記事が嘘言であったことを暴露し、それがどのように利用されたかを述べている。氏はいわく「四月三十日議会において、故ロナルド・マックニール氏は首相にたいして、『エジプト、インドおよび東洋方面全般にたいし、ドイツ人はその兵隊の死体を豚の飼料として煮ている事実をなるべく広く――』知らせる手段をとるかどうかについて質問した」。ジョン・ディロン氏が口をはさみ、政府がそれを信ずるたしかな根拠をもっているかを質したときに、封鎖大臣ロバート・セシル卿は、新聞に現れた抜萃以外に、情報をもっていないが、「ドイツ軍当局のとった他の行動に鑑みて、かれらにたいするこの非難には、信じえられないところはなんらない」と答弁した。
同氏はさらにつぎのように述べた。「英国政府は通常の筋から出た事実としてその流布を容認した」。「この事件はいまや民衆の記憶からほとんど消えてしまっている。英国当局者らは卑劣な働きをするとただちにそれを忘れようとした。しかし英国の新聞において否定記事を読まなかった多くの人々は、これを事実としていまだに薄ぽんやりと信じており、かれらはロバート・セシル卿のようにその『善意』をいまなお正直に信用している責任ある新聞のなした非難に『信じられないところはない』とみなした」。
常設国際司法裁判所の前判事ジョン・バセット・ムーア氏は、一九三三年に書いたもののなかで、つぎのように述べている。「余は国際関係に関連し、宣伝に使用された程度を認識している者がいくらかあると確信する……今年のことであったが、有力な英国雑誌は、戦時中非常に有能な英国の宣伝機関は、米国人をしていまだ創作されたことのないもっとも奇怪な物語を信ぜしめたと述べ、さらに今日にいたるまで民衆の大部分は、当時鵜呑みしたいわゆる情報からいまだ回復していないと述べている」。
われわれは今日の文明世界の国々は、それらが国家のためと考えた場合の行動と私生活においてとる行動とに関し、異なった標準を採用するについて、かならずしも危惧の念をあまり示すものではないという事実を無視することはできない。かれらは「奇怪な物語」を創作するについて、危惧の念を感ずるものでなく、民衆をして「その全部を鵜呑み」させることに関して、なんら苦を惜しむものではない。
これに加えて第一次世界大戦以来敗北した軍閥を裁判し、処刑する要求が非常にあったために、これらのものが処罰されることについて、関心と能力をそそいでいたすべてのものの心のなかには、一種の無意識的な作用が働いていたのである。これらの作用は多くの場合において、人間意識から見逃がされ、たんに間接的に遠くからその影響を受けるだけである。その結果は現実の一部をゆがめることになるかもしれない。無意識的な希望として存在しているなに物をも、現実として認めるある熱望が絶えずありうるのである。
宣伝の過去の歴史は、本件においてきわめて重要な関連を有するものである。すくなくともどの被告の場合においても、そのいわゆる不作為の法律的影響を考慮するときに重要なのである。もしわれわれがいま審理している戦争において、これらの要素の作用が全然なかったことが確証されていたとしても、戦時宣伝の過去の経験が被告の考え方に影響を及ぼして、敵側から出たいくつかの虐待事件に関する戦時宣伝を是認するか、拒絶するかのどちらかの方向に向けさせうるものであるか否かということは、依然として適当な考慮を要することである。
』
パル判決所の中で論じられている、戦時プロパガンダに関する一般的な考察です。
このように博士は歴史的な実例と識者の見解を引用しつつ、戦時においては残虐な「体験談」が容易に捏造されることを示しています。
ではこのような傾向が東京裁判においてどの様に作用したか、特に「南京大虐殺」においてどのように作用したと論じられているのでしょうか。
「南京大虐殺」に言及された箇所
〔引用4〕
『・・・・・・・・
右のような話をさらに数多くあげて検討する必要はない。かような話の真否はすこしも本件には助けとはならない。われわれのまえには証拠が提出されており、そしてわれわれとしてはその提出されている証拠にもとづいて独自の決定をくださなければならないのである。ただ本官がここに強調しておきたいことは、この点に関しての証拠の取捨選択には、ある程度の警戒が必要であるということである。証言がある程度まで一致している各個人の体験談でさえ、たんにそのような証言が数多くあるということだけをもって起訴事実の真実性の保証とはかならずしもならない。俘虜がいたるところで残忍な番兵や兇悪な看守に遭遇したした点に、また詳細に描写された種々の残虐行為に類似したところがあるというのならば、われわれは同時に脱出に関する話の中にも、多分に一致したところがある点を見逃してはならない。ほとんど全部の殺戮事件において、つねに一人の人間が不思議なほど類似した状況のもとに脱出している。これには興味深い心理上の問題がふくまれているかもしれない。「あることが起こるのを」見たもののいい分を、たとえかれらがその両の眼でたしかに見たと主張する場合でも、かならずしも信じられないことは、われわれのよく承知しているところである。かれらになにかを暗示し、かれらの思考作用を一定の線に沿って働かせ、ちょっと驚かし、ちょっと惑わしてみよ、何事でも起こりうるのである。
この段階において、われわれのまえに提出された証拠が全部右のような疑いのないものであるとはいいがたい。
・・・・・・・』
〔引用5〕
『・・・・・・・・
これに関連して申し述べておきたいことは、南京暴行事件に関する発表された記事でさえ、世界は誇張されているものであるというある疑念をもたないでは受け取りえないということである。一九三八年十一月十日において、すでにスチュワード大佐(司会者)はチャムタムハウスで、この事件に言及し、南京で起こったような事件は遺憾であると認めたが、大佐は一九〇〇年まで記憶を戻し、「現在起こっているようなことを見れば、日本人はそれを他国から学んだのであろう」と述べた。
チャールス・アディス卿はそのさい同事件に言及してつぎのように述べた。
「戦争を交えている二国間においては、その戦闘員のいずれかが宣伝に訴えることによって、輿論を自己に有利に仕向けようとする危険がかならず存在している。その宣伝においては種々の事件――悲しいかなこれはすべての戦争から分離することはできない――は偏見と感情を激昂させ、戦いの真の係争点を曖昧にしてしまう特別の目的のために拡大され、曲解されるのである」。
以上のような目的がこの場合においても働いていたことは、全然無視することはできない。本官はすでに曲説とか誇張とかに関するある程度の疑惑を避けることのできないある実例について述べた。もしわれわれが、南京暴行事件に関する証拠を厳密に取り調べるならば、同様の疑惑はこの場合においても、避けられないのである。
南京暴行事件に関する二名の主な証人は許伝音とジョン・ギレスピー・マギーとである。許氏はイリノイ大学の哲学博士である。法廷外でとられた同氏の陳述は本件において証拠として提出されようとした。これは検察側文書一七三四号であった。われわれはこれを却下し、同氏は裁判所において尋問を受けなければならないと決定した。したがって同氏はそのとおり尋問をされたのである。氏は南京に居住、一九三七年十二月紅卍会に関係している。
マギー氏は一九一二年から一九四〇年まで南京の聖公会の牧師であって、一九三七年十二月および一九三八年一月および二月をつうじて南京にいたのである。
右の証人はいずれもわれわれにたいして、南京において犯された残虐行為の恐ろしい陳述をしたのである。しかしその証拠を曲説とか、誇張とかを感ずることなく読むことは困難である。本官は両証人の申し立てたすべてのことを容認することは、あまり賢明でないことを示すために、いくつかの実例を指摘するに止めよう。
許博士はつぎのような話をわれわれにした。氏自身の言葉によってそれを述べてみよう。氏いわく、
一、「私は自分の眼で、日本兵が浴室で婦人を強姦したのを見ました。着物が外にかけてあり、そうしてその後われわれは浴室のドアーを見つけたところ、そこには裸の女が泣いて非常に悄然としていました」。
二、「……われわれはキャンプにゆき、そこに住んでいると伝えられていた二人の日本人を捕えようとしました。そこに着いたとき、一人の日本人がそこに腰を下しており、隅に女が泣いておるのを見ました。私は福田にたいしこの日本兵が強姦したのですと言いました」。
三、「……あるときわれわれは強姦している日本人を捕えました。そして彼は裸でした。彼は寝ていたのです。だからわれわれは彼を縛り、警察署に連れていきました」。
四、「私は、他の事件を知っております。それは船頭で、かれは紅卍会の一人であって、私にこんなことをいいました。彼はそれを自分の船のうえで見、それが自分の船のうえで起こったのであります。尊敬すべき一家族がその船に乗って河を横切ろうとしたのです。ところが河の真中に二人の日本兵がやってきました。かれらは船を検査しようとしたのですが、そこに若い女を見たとき、それは若い婦人と娘でしたが、その両親と一人の夫の眼のまえで二人は強姦しはじめました」。
「強姦してから日本兵は、その家族の老人にたいして『よかったろう』と言いました。そこでかれの息子であり、一人の若い婦人の夫であったのが非常に憤慨し、日本兵を殴りはじめました。老人はこのようなことに我慢できず、また皆のためにむずかしいことになることを恐れて、河の中に飛び込みました。そうしますとかれの年をとった妻、それは若い夫の母親ですが、彼女も泣きはじめ、夫についで河のなかに飛込みました。私はちょっと申すことを忘れましたが、日本兵が老人にたいしてよかったかどうかを聞いたとき、その日本兵は、その老人に若い女を強姦することを勧めたので、若い女たちは皆河のなかに飛び込みました。私はこれを見たのです。ですから一家全部が河に飛び込み、溺死してしまったのです。これはなにもまた聞きの話ではありません。これは真実のほんとうの話であります。この話はわれわれが、長いこと知っておる船頭から聞いたのであります。」
つぎにマギー氏の証拠からいくつかの事例をとってみよう。
一、「十二月十八日に私は私どもの委員会の委員であったスパーリング氏と一緒に南京の住宅街に行きました。すべての家に日本の兵隊がおり、女を求めていたように見えました。私どもは一軒の家にはいりました。その家の一階で一人の女が泣いており、そこにおった中国人が、彼女は強姦されたのだとわれわれに告げました。その家の三階にはもうー人日本兵がおるということでした。私はそこにゆき、指摘された部屋にはいろうとしました。ドアーは鍵がかかっていました。私はドアーを叩き、怒鳴ったところ、スパーリングはただちに私のところにやってきました。十分ほどたった後一人の日本兵がなかには女を残して出てきました」。
二、「私は他の一軒の家に呼ばれ、その二階の婦人部屋から三名の日本人を追出しました。そこでそこにいた中国人が一つの部屋を指さしました。私はその部屋に飛び込み、ドアーを押し開けたところそこに兵隊を見ました。それは日本兵で強姦していたところでした。私は部屋からかれらを追出しました。……」。
三、「私はほとんど三十年来知っておりました一婦人――われわれの信者の一人ですが、彼女は部屋の中に一人の少女とおったところ、日本兵がはいってき、彼女はかれの前に膝をつき、少女に手をつけないよう願ったと私に告げました。日本兵は銃剣の平ったい方で彼女の顔を殴り、少女を強姦したのであります」。
これらの証人はいい聞かされたすべての話をそのまま受入れ、どの事件も強姦事件とみなしていたようである。船頭の話を受入れることは実際容易にできることであろうか。その場にいたのはほんの二名の日本兵だけであった。他方、強姦された娘たち、彼女らの父親およびその一人娘の夫もいた。そこには船頭自身ももちろんいたのである。その一家全体は生命より名誉を重んじていた。その一家全体はいずれも河のなかに飛び込み溺死してしまった。こんな家族であった以上、「両親および一人の夫の眼のまえで」娘たちを二名の兵隊が強姦しえたであろうか。いかにして許博士はこの話の中に真実らしくないものを認めなかったであろうか。かれは船頭が長い間紅卍字会に関係していたから、この話を「真実のほんとうの」ものとしてわれわれに与えることができるというわけになる、というのであろうか。
他のいろいろの説はたしかに日本兵の中国婦人にたいする不当な行動の実例として認めることができる。しかし証人らは躊躇することなくそれを強姦事件と主張している。ある部屋の中に一人の兵隊と一人の中国の娘がおり、その兵隊が眠っているところを発見したという場合においても、証人はそれを強姦した後寝たのであると、われわれにたいしいえるということになるのである。また証人はこの話をするにつれて、自分の語っていることには疑いはないと、ほとんどその気特になっていたのである。
われわれはここにおいて昂奮した、あるいは偏見の眼をもった者によって目撃された事件の話を与えられているのではないか、本官はこの点についてたしかではない。
もしわれわれが証拠を注意深く判断すれば、でき事を見る機会は多くの場合においてもっともはかないものであったに違いないということを、われわれは発見するであろう。しかも証人の断言的態度は、ある場合には知識をうる機会に反比例しているのである。多くの場合にはかれらの信念は、かれらをして軽信させることに、あるいは役立った昂奮だけによって導かれ、その信念はかれらをして蓋然性と可能性の積極的解説者たらしめる作用をしたのである。風説とか器用な推測とか、すべての関連のないものは、おそらく被害者にとってはありがちの感情によってつくられた最悪事を信ずる傾向によって、包まれてしまったのである。
・・・・・・・・』
〔引用6〕
『・・・・・・・・
本官としては、まず第一に南京において行われたと主張されている残虐事件を取りあげてみる。検察側証拠によれば、一九三七年十二月十三日南京陥落のさい、城内における中国軍隊の抵抗はすべて終熄したのである。日本の兵隊は城内に侵入して、街上の非戦闘員を無差別に射撃した。そして日本の兵隊が同市を完全に掌握してしまうと強姦、殺害、拷問および劫掠の狂宴が始まり、六週間続いたというのである。
最初の数日間、二万名以上の者が日本人によって処刑された。最初の六週間以内に、南京城内およびその周辺において殺害された者の数の見積りは二十六万ないし三十万人の間を上下し、これらの者はすべて実際には裁判に付されることなく、殺戮されたのである。第三紅卍字会および崇善堂の記録によって、この二団体の埋葬した死体が十五万五千以上であった事実が、これらの見積りの正確性を示している。このおなじ六週間の間に二万人をくだらない婦女子が日本の兵隊によって強姦された。
以上が検察側の南京残虐事件の顛末である。すでに本官が指摘したように、この物語の全部を受け容れることはいささか困難である。そこにはある程度の誇張とたぶんある程度の歪曲があったのである。本官はすでにかような若干の例をあげた。その証言には慎重な検討を要するところのあまりに熱心すぎた証人が、明らかに若干いたのである。
ここに陳福宝と名乗る一人の証人について触れてみよう。この証人の陳述は法廷証第二〇八号である。この陳述において、かれは、十二月十四日三十九人の民間人が避難民地域から連行され、小さな池の岸に連れていかれて機関銃で射殺されるのを目撃したとあえていっている。証人によれば、これは米国大使館の付近で、朝白日のもとに行われたのである。十六日にかれは、日本軍に捕われたいく多の壮健な若者が銃剣で殺されていたのをふたたび目撃した。そのおなじ日の午後、かれは大平路に連れていかれ、三人の日本兵が二軒の建物に放火するのを見た。かれはこの日本兵の名前をもあげることができたのである。
この証人は本官の目にはいささか変わった証人に見える。日本人はかれを各所に連れてその種々の悪業を見せながらも、かれを傷つけずに赦すほどかれを特別に好んでいたようである。この証人は、本官がすでに述べたように、日本軍が南京にはいったその二日目に難民地区から三十九名の者を連れだしたといっている。証人は、これが起こった日付はたしかに十二月十四日であるとしている。この一団の人のうち、その日に三十七名の者が殺された。許伝音博士でさえ、かようなことが十二月十四日に起こったとはいえなかったのである。かれは難民収容所に関する十二月十四日の日本兵の行動に関して述べているのであるが、その日に収容所から何者も連れ出されたとはいっていない。
・・・・・・・・』
「南京大虐殺」に関する検察側証言に対する博士の見解は、「そこにはある程度の誇張とたぶんある程度の歪曲があった」というものです。
では、この様に、戦時プロパガンダの一般的傾向に従い、昂奮と軽信と偏見と復讐心により作り出された戦争犯罪が証言されているという認識がありながら、何故博士は「残虐行為が深刻であったのは疑いない」と述べているのでしょうか。
博士が「南京大虐殺」を認定しているとされている箇所を引用してみます。
〔引用7〕
『・・・・・・・・
これに関し、本件において提出された証拠にたいしいいうるすべてのことを念頭において、宣伝と誇張をできるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた、戦時俘虜にたいし犯したものであるという証拠は、圧倒的である。
・・・・・・・・』
この一文は〔引用5〕の直後に置かれています。
ここで問題になるのは「圧倒的である」というフレーズです。
原文はこうなっています。
“ Keeping in view everything that can be said against the evidence adduced in this case in this respect and making every possible allowance for propaganda and exaggeration, the evidence is still overwhelming that atrocities were perpetrated by the members of the Japanese armed forces against the civilian population of some of the territories occupied by them as also against the prisoners of war. ”
「圧倒的である」は overwhelming の訳語として一般的なものですが、言葉のニュアンスを伝え切れていないきらいがあります。
LONGMAN現代英英辞典によれば、
overwhelming
1. having such a great effect on you that you feel confused and do not know how to react
2. very large or greater, more important etc than any other
関連語として overwhelm の意味も見てみると
overwhelm
1. EMOTION
if someone is overwhelmed by an emotion, they feel that they cannot think
clearly
研究社 リーダーズ英和辞典では
overwhelming
圧倒的な、抗しがたい
overwhelm
圧倒する、くじく、閉口させる、当惑させる、感極まらせる
つまり overwhelming には、分量に圧倒されて冷静な判断ができなくなる、というニュアンスがあるのです。
「残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた、戦時俘虜にたいし犯したものであるという証拠は、圧倒的である」
は
「残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた、戦時俘虜にたいし犯したものであるという証拠は、余りにも大量に提出されていて圧倒されてしまう」
という意味合いで書かれたものだと解釈できます。
〔引用8〕
『・・・・・・・・
いずれにしても、本官がすでに考察したように、証拠にたいして悪くいうことのできることがらをすべて考慮に入れても、南京における日本兵の行動は凶暴であり、かつベイツ博士が証言したように、残虐はほとんど三週間にわたって惨烈なものであり、合計六週間にわたって、続いて深刻であったことは疑いない。事態に顕著な改善が見えたのは、ようやく二月六日あるいは七日すぎてからである。
・・・・・・・・』
これは〔引用6〕の直後に置かれたパラグラフです。
この部分だけに限定すれば、博士は「南京大虐殺」を疑いのない事実と認識しているかのように読めます。
しかし、この部分には以下の続きがあります。
〔引用9〕
『・・・・・・・・
弁護側は、南京において残虐行為が行われたとの事実を否定しなかった。かれらはたんに誇張されていることを愬えているのであり、かつ退却中の中国兵が、相当数残虐を犯したことを暗示したのである。
・・・・・・・』
ここで忘れてならないのは、パル判決書はあくまでも、東京裁判の判事として多数判決に対する反対意見を書いたものだということです。
〔菅原裕『東京裁判の正体』より引用〕
『・・・・・・・・
たとえばアメリカ人弁護人はオブゼクション(異議)を盛んにいう。しかもその十中八、九は却下される。それでも執拗にまた出す、また却下される。あまりの醜態に、まず音をあげたのは被告たちであった。そうして「アメリカ人は仕方がないが、日本人弁護人は自重して下さい、いやしくも異議をいうなら、採用される見込みのあるものを堂々とやって下さい」と希望した。
もちろん、われわれも同感だった。ところが暫くたつうちに、この法廷では、アメリカ人弁護人の英法流のやり方が適当であることがわかってきた。それは裁判所や検事側の不当な発言に対して、もしこちらが沈黙していると法廷は「弁護側は満足している」と解釈する。これに反して異議をいっておけば、たとえ却下されても、弁護側は満足していない、ということが明瞭になり、さらにそれが記録にとどめられるから、後日再審に際しても、批判される資料を残すことになる。これがわかってから、私は被告たちと語り合って笑った。「これが日本人が外交で失敗した機微だろう。日本人は語学が下手なためもあろうが、いやしくも発言する以上は、堂々たることをいってやろうと、自重しているうちに、日本代表は満足しているとみなされて、会議は済んでしまったであろう」と。現にアメリカ人の弁護人中には「日本人がハワイの襲撃をやる位なら、なぜもっと、外交で強く出られなかったであろうか」と不思議がっていた者もあった。
・・・・・・・・』
荒木大将の弁護人であった菅原裕氏が幾分の自嘲を込めて書いているように、日本人が不慣れだった英法流の裁判においては、異議を申し立てなければそれを認めたことになってしまうのです。
このことが分かっていれば、パル博士が「疑いない」と述べている理由が解ります。
「弁護側は、南京において残虐行為が行われたとの事実を否定しなかった」、
だから証拠には色々と疑わしい点があるにしても
「南京における日本兵の行動は凶暴であり……残虐はほとんど三週間にわたって惨烈なものであり、合計六週間にわたって、続いて深刻であったことは疑いない」
という英法流の判事としての判断が下されているのです。
パル判決書は勝者による一方的な軍事裁判という名の復讐劇を、国際法の観点から綿密に検証し批判したものです。その主旨は事実の認定ではなく、国際法の解釈にあります。
同時にそれは「判決書」ですから、東京裁判に訴追された被告が有罪か無罪かが論点になっています。
〔引用10〕
『・・・・・・・・
検察側で被告らが行ったと主張されている行為中の残りの分については、それらの行為を行うことを「命令シ、授権シカツ許可セリ」というかどで被告らはその責任を問われているのである。
本裁判の被告にたいする訴追はかれらが左の人々に違反行為を行うことを「命令シ、授権シカツ許可セリ」というにある。すなわち、
(一)日本ガ当時従事セル諸作戦地ノオノオノニオケル日本陸海軍ノ最高司令官。
(二)日本陸軍省職員。
(三)日本領土マタハソノ占領地域内ノ俘虜オヨビ抑留下ノ一般人ノ収容所オヨビ抑留下ノ一般人ノ収容オヨビ労働班ノ管理当事者。
(四)日本ノ憲兵隊ナラビ二警察ナラビニ
(五)ソノソレゾレノ部下。
法廷がここで注意しなければならないのは、以下の問題である。すなわち、
一、提出された証拠は、はたして上記の行為を立証するか。
二、提出された証拠は、被告と上記の行為との間にあると検察側が主張する関連性を、はたして立証するか。
三、上記の行為もしくはそのうちのどれかは、はたして国際法における犯罪を構成するか。
四、国際法において、はたして被告らまたは、かれらのうちのだれかは、かような犯罪行為の責任を問われるべきものであるか。
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〔引用11〕
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問題は被告に、かかる行為に関し、どの程度まで刑事的責任を負わせるかにある。以上述べたように、被告にたいする訴追はつぎのとおりである。
(一)かれらは特定の者をしてその行為を犯すことを命令し、授権し、かつ許可し、それらの者は実際にその行為を犯したこと(訴因第五十四)。あるいは、
(二)かれらは故意にまた不注意に、かような犯罪的行為を犯すことを防止する適当な手段をとるべき法律上の義務を無視したこと(訴因第五十五)。
想起しなければならないことは、多くの場合において、これら残虐行為を実際に犯したかどで訴追されたものは、その直接上官とともに戦勝国によってすでに「厳重なる裁判」を受けたということである。われわれは検察側からこの犯罪人の長い名簿をもらっている。証拠として提出されたこれらの名簿の長さは、主張されている残虐行為の邪悪性と残忍性とはなんら比較しうるものではない。これら非道な行為を犯したとみなされたすべてのものにたいし、戦勝国が誤った寛大な態度を示したと非難しうるものは一人もいないと本官は思う。この処刑によって憤怨のどのようなものも十分に鎮圧せられたものとみなしえられ、かような憤怨から起こる報復の激情と希望は、満足されたものと考えられる。「道徳的再建の行為」または「世界の良心が人類の威厳を新たに主張する方法」としても、かような裁判および処刑は、その数において不十分ではなかった。
ここにおいてわれわれは冷静に、はたして罪がわれわれの裁いている被告に及ぶものか、どうかを見ることである。
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〔引用12〕
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本件の当面の部分に関するかぎり、訴因第五十四において訴追されているような命令、授権または許可が与えられたという証拠は絶無である。訴因第五十三にあげられ、訴因第五十四に訴追されているような犯行を命じ、授権し、また許可したという主張を裏づける材料は、記録にはまったく載っていない。この点において、本裁判の対象である事件は、ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠によりて立証されたと判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っているのである。
本官がすでに指摘したように、ニュルンベルグ裁判では、あのような無謀にして無残な方法で戦争を遂行することが、かれらの政策であったということを示すような重大な戦争犯罪人から発せられた多くの命令、通牒および指令が証拠として提出されたのである。われわれは第一次欧州大戦中にも、またドイツ皇帝がかような指令を発したとの罪に問われていることを知っている。
ドイツ皇帝ウイルヘルム二世は、かの戦争の初期に、オーストリア皇帝フランツ・ジョゼフにあてて、つぎのようなむねを述べた書翰を送ったと称せられている。すなわち、
「予は断腸の思いである。しかしすべては火と剣の生贄とされなければならない。老若男女を問わず殺戮し、一本の木でも、一軒の家でも立っていることを許してはならない。フランス人のような堕落した国民に影響を及ぼしうるただ一つのかような暴虐をもってすれば、戦争は二ヵ月で終焉するであろう。ところが、もし予が人道を考慮することを容認すれば、戦争はいく年間も長びくであろう。したがって予は、みずからの嫌悪の念をも押しきって、前者の方法を選ぶことを余儀なくされたのである」。
これはかれの残虐な政策を示したものであり、戦争を短期に終わらせるためのこの無差別殺人の政策は、一つの犯罪であると考えられたのである。
われわれの考察のもとにある太平洋戦争においては、もし前述のドイツ皇帝の書翰に示されていることに近いものがあるとするならば、それは連合国によってなされた原子爆弾使用の決定である。この悲惨な決定にたいする判決は後世がくだすであろう。
かような新兵器使用にたいする世人の感情の激発というものが不合理であり、たんに感傷的であるかどうか、または国民全体の戦争遂行の意志を粉砕することをもって勝利をうるという、かような無差別鏖殺が、法に適ったものとなったかどうかを歴史が示すであろう。
「原子爆弾は戦争の性質および軍事目的遂行のための合法的手段にたいするさらに根本的な究明を強要するもの」となったか否かを、いまのところ、ここにおいて考慮する必要はない。
もし非戦闘員の生命財産の無差別破壊というものが、いまだに戦争において違法であるならば、太平洋戦争においては、この原子爆弾使用の決定が、第一次世界大戦中におけるドイツ皇帝の指令および第二次世界大戦中におけるナチス指導者たちの指令に近似した唯一のものであることを示すだけで、本官の現在の目的のためには十分である。このようなものを現在の被告の所為には見出しえないのである。
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〔引用10〕は〔引用3〕の直前部分です。
〔引用11〕は〔引用7〕の直後にあります。
この様にパル判決書の論点は「南京大虐殺が事実であったとして、それが被告を有罪とする理由になるかどうか」であり、その趣旨は「南京大虐殺が事実であったとしても、それが被告を有罪とする理由にはならない」というものです。
パル博士の判決書の中では、「南京大虐殺」が事実であったかどうかは副次的な問題でしかありません。博士がそれを事実であると検証した事例は全くありません。「南京大虐殺」が事実であったかどうかは、判決書の中でほとんど検証されていないと言ってもいいでしょう。
パル判決書のほんの一部分だけを取り出して、パル博士までもが「南京大虐殺」を事実と認めていると吹聴するのは、博士の名声を利用した卑劣なプロパガンダです。
偕行社の名前やパル博士の名前を利用して、日本を擁護するオーソリティも「南京大虐殺」のことは認めているんだ、と錯覚させる手法は、反日勢力の好む手口ですので注意が必要です。