スマイス報告の検証

ルイス・S・C・スマイス『南京地区における戦争被害』(洞富雄編『日中戦争南京大虐殺事件資料集』より引用)


[註]テーブル右列及び青字[数字]は私のコメントです。

1 実地調査の手続き

 南京の市部調査においては、家族調査員は入居中の家屋50戸に1戸の全家族を家族調査表に記入するように指示をうけた。
「家屋」は、若干の場合には一番号に数軒のアパートや建物があったけれども、「家屋番号」に従うものと定められた。三月には多くの出入口が封鎖され、どの家に人が住んでいるのか知るのは少しばかり困難であった。その結果、若干の家を見過してしまったかも知れない。脱落した地域を点検するのに対照地図[1]が役に立った。各人は地図上で特定の地区を割当てられ、各自50戸ずつ人の住んでいる家を抽出して[2]住宅番号を数えてはそれに記入して[3]うめてゆく。・・・・







[1] A control map 「管理用の地図」の意味か
[2]
in selecting his 50th inhabited house 
「人の住んでいる家から50戸に1戸を抽出して」
[3]
to record the count of house numbers 「家族の人数を数えて記録する」。ここの“house”は「家族」と訳すべき
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 農業調査においては、三つの団体の通行証をもった二人の調査員が、六つの県へそれぞれ派遣された。調査員は主要道路にそって進み、それから8の字を描きながらその道路をジグザグに横断して戻り、道路の後背地にある地域をカバーするように指示された。この一巡のさいに道筋にある村三つから一つをえらんで村落調査表を作製し、それらの村で帰村している農家のうち10家族に1家族を選んで農家調査表に記入することにした。市場町の物価表については、通過する市場町すべてで質問の回答を記入することになった。
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2 調査期間

 農業調査の実地の作業は三月八日から二十三日までおこなわれた。都市調査については、家族調査は三月九日から四月二日にわたっておこなわれ、四月十九日から二十三日まで補足作業がおこなわれた。建物調査は三月十五日から六月十五日までおこなわれた。建物調査は長期にわたるものであるが、その間、損失の内容にはほとんど変化はなかった。しかし、若干の場合には建材の一部が盗まれることもあった[4]。この期間中の再建は事実上、皆無であった。・・・・







[4] partial taking away of building materials 
 ここの“take away”は「盗む」ではなく「片付ける」ともとれる。
 実態は「片付けが始まっていた」ではないか
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 バック教授が著書『中国における土地利用』でおこなっているように、農業調査においては、農家一戸当り平均を県単位で算出し、それを各県の農家の総数に乗じてある。総数は県総数の集計によってえられ[5]、総平均はこうした総計から計算したもので、各県における農家数の比率に応じて算定されている。村落調査簿が全体の状況を広くつかむために使用されてはいたが、計算はすべて農家調査表にもとづくものである。(附録Bを見よ)

[5]各県の農家の総数はどうやって得たのか。
予め調査時点の総数が分かっているなら、流出数のサンプル調査は最初から必要ない。(=流出率をサンプルから推定する必要はない)
サンプル調査から総数を統計的に推定しているなら、サンプルを抽出した地域(幹線道路沿いの地域及び8の字を描いて通過した地域)の総数しか推定できない。
 市部調査のなかでも家族調査における総計は、入居中の家50戸につき1戸の割合で調査してえられた各戸平均の結果を50倍して算定した。また建物調査における損害計算は10棟に1棟の割合で調査したものの総計を10倍して算定した。・・・・
 
一 市部調査
1 人 口

 南京市の戦前の人口ほちょうど100万であったが、爆撃がくり返され、後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。市の陥落当時(十二月十二〜十三日)の人口は20万から25万であった。われわれが三月におこなった抽出調査で報告された人員を50倍すれば、すぐさま市部調査で表示されている22万1150人という人口数がえられる。この数は当時の住民総数のおそらく80ないし90パーセントを表わしたものであろうし、住民のなかには調査員の手のとどかぬところに暮していたものもあった。(人口についてさらにつっこんで問題にするには、第一表の注を見よ。)・・・・
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 2万7500名は国際委員会の維持していた難民収容所に住んでいたもので、調査人員の12パーセントに当る。収容所には入らなかったが安全区内に住んでいたものは6万8000人で、全体の31パーセントを占めている。調査の記述によれは建物総数のわずか4パーセントがあるだけであり、また城内総面積のおよそ八分の一にすぎなかった地域に、市の陥落以後、14週もたった後でも、住民の43パーセントが住んでいたのである。こうした事実は、ある種の群集心理と、多少でも安全性があれは喜んで代償を払うという気持を示している。安全区内では事実上焼失が一軒もなかったことはさらに有利なことで、安全区は、日本軍当局によって公認されなかったとしても、外部の破壊と暴行に比べれば、全体として優遇処置がとられていたことを示して
いる。・・・・
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(脚注2)
 城南のふつうは密集地区となっていた地区(城西・門西・門東)は、危機の時期には実際に完全に無人地帯となったものの、かなりの回復を見せた最初の地区であった。[6]・・・・・・・・



[6]城内南部は無人だったとここでも認識されている。夏淑琴の家族は何時何処で被害に遭ったというのか?
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 家族員数平均は全地区をつうじて4.7人であった。城外では、平均4.0人で、このことは家族をもたない男たちあるいは破壊された家族の多いことを示すものであろう。南京の同一地区における一九三二年の2027家族という数字と比較されたい。このなかから現在の住民の多くはでてきているのである。一九三二年の数字によれば、家族員数平均は4.34人であった。おそらく平時には雇用上の理由でもっと多くの人が家族から離れるであろう[7]・・・・

[7]平時に家族と離れて暮らす人数が多いのであれば、人数が少ないことを理由に「このことは家族をもたない男たちあるいは破壊された家族の多いことを示すものであろう」と結論するのはロジックとしておかしい。
「平時には雇用上の理由でもっと多くの人が家族から離れる」のであれば、1932年より1938年の調査時点の方が平均人数が少ないのは、より平時の状態に近いということを意味しているはずである。
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性別・年齢別人口分布

 南京市の三月現在の人口はあきらかに戦時人口の特徴を示していた。この調査の報告によれば、全年齢にわたる市内各地域の性別の人口比率は男子103.4人(女子100人にたいし)であった。一九三二年の調査では全年齢にわたって男子114.5人の割合であった。戦前の全人口のうち、男子の人口比率はきわめて高く、ある時には150人の割合であった。一九三二年以来、性別人口比率が9ポイント下ったことは、一部には南京で以前働いていたが南京出身のものでなかった男子の疎開によるものであり、一部には危機の時期における男子の死亡によるものである。もっとも重大なことは15歳ないし49歳の年齢層中の男子比率の激減であるが、これは大まかにいって、人口中生殖をおこないうる人びとを代表している。この層では124人が111人に、すなわち11パーセント減少している。この変化によって多数の婦女子が家庭を支える男子を失ったという事実がわかる。[8]・・・・・・・・












[8]比率が下がったといっても男性人口が女性人口より多いのだから、この結論は論理的におかしい。人数比から見て、出稼ぎ労働者が逃げ出した為に男性人口と女性人口の差が縮まったと推論される。
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 性別人口比率の地区別分類もかなり重要である。全地域の比率は103であるのに、収容所内についていえはわずか80である。収容所は安全をもとめる婦人で超満員となっているからである。他方、安全度の低い各地区でほ、男子の数は相対的に多い。例えば城北の121、城内農村部の150、城外の144などである。もし安全をもっとも必要とする年齢すなわち15歳ないし39歳を考慮するとすれば、収容所内の性別比率はきわめて低くなり、5歳ずつの各年齢層に区分して、40から67となる。安全地区ではおよそ90である。城西では150以上、城外では200余となる[9]このように男子がまっさきに危険地区へ戻り、それに続いて老女・子供が帰宅する。しかし、若い婦人の多くは比較的安全な場所にとどまっていた[10]
 第二表に性別および年齢別人口分布を示す。・・・・・・・・
 









[9]
well over 200 「200を超えている」

[10]一家族が安全区内の仮住まいと安全区外の自宅に別れて暮らしている実態が示されている。
家族構成

 南京市内にとどまっている家族は「正常」のもの、すなわち夫婦、あるいは夫婦と子供が一緒に暮らしているものと、「破壊された家族」、すなわち夫か妻か一方が子供と暮らしているものと、「家族をなさないもの」すなわち男か女の一人暮らしの三種に大別される。それからこれらの三つのうちそれぞれについて、「親類と暮らしているもの」という形で細分される。
 一九三二年の安定期に南京市民のあいだでおこなった調査に比べると、「正常な」家族の割合はかなり少なかった。[11]・・・・・・・





[11]これは直前のセクションに示されたように、一家族が安全区内の仮住まいと安全区外の自宅に別れて暮らしている為と考えられる。
 避難生活終息の過渡期に調査が行われた為に生じた数字のミスリーディングではないか。
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 正常な家族の減少は主として破壊された家族の増加によるものであり、この型は一九三二年にはわずか12.9パーセントであったものが21.4パーセントにふえている。これは四種類の破壊された家族が8.5パーセント増加したことを示す。この増加分のうち6.9パーセントは生計を支える男手を持たない家族、すなわち婦人と子供のみで構成される家族についてのものである。このことは破壊された家族の数がほとんど倍増しているということである。南京に残留している家族の構成員のうち14.3パーセントが他所へ移っているのに、妻のうちわずか2.2パーセントがこの移動によって夫を失ったにすぎないことを考えれば、破壊された家族の増加をいっそうよく知ることができる[12]。これに加えて4400人の妻、つまり妻全体の8.9パーセントは、夫が殺されたか、負傷を負ったか、あるいは拉致されたものである。これらの夫のうち3分の2、すなわち6.5パーセントが殺されたか拉致されたものである[13]。またさらに痛ましいことに、3250人の子供(子供全体の5パーセント)は、彼らの父が殺されたり、負傷をうけたり、拉致されたりしたものである[14]。これらの破壊された家族のうちごくわずかのものが市内に住むものとして分類されている[15]。そのような報告は3パーセントしかなかったのである[16]。移動、殺害あるいは拉致されたもの、別かれ別かれになった家族といった三つの要因によって、5500家族、つまり南京に残留している家族の11.7パーセントが破壊された[17]。・・・・
[12]子供を疎開させた家族は「破壊された家族」に分類されないから、14.3パーセントのかなりの割合を子供の疎開が占めると考えられる。
[13]8.9%の「破壊された家族」には、怪我で入院中のケースである3分の1相当部分もカウントされている。ここには通常の戦闘行為による負傷者も含まれているはずだから、これは数字の水増しと言うべきだろう。
[14]この3250人と前の4400人は論理的にいってリンクするから、子供が全て一人っ子だったと仮定しても、1150人、4分の1以上の妻が子供と一緒に暮らしていないということになる。兄弟の数は今より多く、子供を作らない夫婦は稀な例外だったと考えられるから、この数字から見ても、子供だけを疎開させたケースが多かったと推測される。
[15]
families being divided within the city 
「市内で別かれ別かれになっている」だが、拉致には“taken away”を使っているから、ここでは「市内で別居している
と訳すべきだろう。
[16]市内で別々に暮らすという居住形態が避難生活開始前にあったとは考え難いから、これは安全区内の仮住まいと安全区外の自宅に分かれて住むケースであり、「破壊された家族」の増加分に全て含まれると考えるべきである。増加分8.5パーセントの内の3パーセントは決して小さな比率ではない
[17]南京残留家族総数4万7千世帯との認識。
「破壊された家族」の増加分が全体の8.5パーセントなのに、戦争によって夫と妻が引き離された家族が11.7パーセントというのは辻褄が合わないのではないか。


[この節の総括]
「破壊された家族」の増加分8.5%の内、夫が市外に移住したケースが2.2%、市内で別れて暮らしているケースが3%、それ以外の本当に戦争被害と呼べるケースは3.3%に過ぎない。しかもこの3.3%には、妻を疎開させたケースが含まれる。
 夫と引き離された妻4400人の3分の1は夫が負傷により別居しているだけだと考えられるので、夫の死亡又は拉致で夫婦が離散した家族は約3千家族。夫の死亡には、通常の戦争被害(戦闘行為に巻き込まれたもの)が含まれ、また別の脚注に示されているように、拉致には日本軍の労役に雇用されているに過ぎないケースを含むと考えられるから、実際の戦争被害は更に少ないものとなる。首都攻防戦としては、被害が少ないと言っていいのではないか。

 
2 戦争行為による死傷

死傷者数および原因

 ここに報告されている数字は一般市民についてのもので、敗残兵がまぎれこんでいる可能性はほとんどないといってよい。調査によってえた報告によれば、死者3250人は、情況のあきらかな軍事行為によって死亡したものである。これらの死者のうち2400人(74パーセント)(1) は軍事行動とは別に(日本軍)兵士の暴行によって殺されたものである。占領軍の報復を恐れて日本軍による死傷の報告が実際より少ないと考えられる理由がある。(1) 実際に、報告された数が少ないことは、暴行による幼児の死亡の例が少なからずあったことが知られているのに、それが一例も記録されていないことによっても強調される。[18](1)ここで「軍事行動」による死者というのは、戦闘中、砲弾・爆弾あるいは銃弾をうけて死亡したものをいう。・・・・
[18]先入観を排して判断するならば、幼児の死亡事例の流言があったが、調査した結果、そのような事例は発見されなかったという結論になる。
 また、実際に抽出した暴行による死亡者サンプル数は
 2400/50=48人
であり、「南京安全地帯の記録」の殺人被害者数とほぼ一致する。
 これは偶然だろうか?


APPENDIX Cによれば、市部調査の調査票には脚部に
“Accident” was used as a code word to record effect of military operations; “warfare” as a code word for violence by Japanese soldiers apart from military operations.
 という注意書きがされていた。
 つまり、
軍事行動以外の死傷者は全て日本軍兵士の暴行によるものという決めつけが調査計画段階で為されており、市部調査はこの決めつけに基づいて行われたものと言える。
 最初から客観的・中立的な調査ではなかったのである。

 
 負傷を受けた状況がはっきりしている3100人のうち、3050人(98パーセント)は、戦争以外に日本兵の暴行によって負傷したもので(1)ある[19]。負傷しても何らかの形で回復したものは、負傷を無視するという傾向がはっきりと見られる[20] [19]例えばエスピー報告には退却時の中国軍兵士の暴行による死傷者の発生が記されているが、スマイス調査には中国軍兵士の暴行による死傷事例が1件も無い。
[20]負傷の申告は国際委員会による治療を期待してのものであるということを示している。
 その中には当然、日本軍の手によるものではない負傷が含まれていると考えられる。
〔脚注〕
(1)当復興委員会に救済をもとめてやってきた13530家族が委員会に報告した負傷者のうち[21]、三月中の調査によれば、強姦による傷害は十六裁から五十歳に到る婦人の8パーセントを占めていた。この数はきわめて実際を下まわるものである。というのは、大ていの婦人はこのような扱いをうけても、進んで通報しようとはせず、男子の親近者も通報したがらないからである[22]。十二月・一月のように強姦がありふれたことになっていた間は、住民はその他の状況からも[23]、かなりそうした事実を遠慮なく認めたのである[24]。しかし、三月になると、家族たちは家族の中の婦人が強姦されても、その事実をもみ消そうとしていた[25]。ここでこのことに触れたのは、市の社会・経済生活がどれほどはげしく不安定なものであったかを説明するためである。

[21]スマイスの調査による集計ではない。

[22]何の根拠もない。何ら調査した結果によるものではない、憶測でしかない。
[23]
than under ordinary circumstances 「通常時に比べて」
[24]恥となることを恐れて通常時では口にしないような嘘も平気で吐いていた、とも考えられる。
[25]ラーベやベイツは売春目的で自分から日本兵について行った娘達のことを『ラーベ日記』や『南京安全地帯の記録』に残している。
 もみ消そうとしたのは強姦された事実ではなく、売春を働いていた事実ではないのか。
 日本兵の暴行による死者の89パーセントおよび負傷者の90パーセントが十二月十三日以後、すなわち市の占領の完了後におきている[26] [26]12/13には暴行事例が起きていなかったという複数の外国人証言がある。(ロイターのスミス記者の講演、ドイツ大使館第113号報告に添付されたあるドイツ人目撃者の報告)
 城壁内の占領が完了したのは12/14の午後であって12/13ではない。(日本軍の戦闘記録及び証言、ダーディンの記事等) また、12/13以後という期間は12/14〜12/16の便衣兵掃討期間を含んでいる。
 以上に報告された死傷者に加えて、4200人が日本軍に拉致された[27]臨時の荷役あるいはその他の日本軍の労役[28]のために徴発されたものについては、ほとんどその事実を報告していない。六月にいたるまでこのようにして拉致されたものについては、消息のあったものほほとんどない[29]。これらの人びとの運命については、大半がこの時期の初期に殺されたものと考えられる理由がある。(1) [27] taken away under military arrest 「逮捕連行された」
“arrest”には拘束のニュアンスもあるから、逮捕と徴用の両方を含むと考えられる。
[28]
temporary carrying or other military labor 「一時的な荷役その他軍用労役」。“temporary”は“carrying”と“other military labor”の双方にかかっていると考えるべき。
[29]都市部家族調査は4/23に終了している。従って、6月時点まで「拉致」被害者の状況をフォローできたはずは無い。この4200人には、調査時点で家族の許へ戻ってきていない労役従事者を含むと考えられる。
〔脚注〕
(1)「拉致」がいかに深刻なものであるかということは、拉致された者としてリストされた全員が、男子だったということからもはっきりしている。実際には、多くの婦人が短期または長期の給仕婦・洗濯婦・売春婦として連行された。しかし、彼女らのうちだれ一人としてリストされてはいない[30]



[30]先入観を排して判断するならば、そのような流言があったが、調査した結果、未帰還の婦人拉致被害事例は発見されなかったという結論になる。
 拉致された者の数字が不完全なものであることは疑いない。実際に、最初の調査表には、これらの人びとは死傷者のうちの一項目「事情により」というところに書きこまれており[31]、調査の計画過程では必要とされもせず、予想もされなかったのである[32]。こうして、これらの人びとは並なみならぬ重要性をもつものとなり、単にその数字が示す以上に重要なものとなっている。こうして、拉致された4200人は、日本兵によって殺された者の数をかなり増加させるに違いないのである。(1)[33] [31]死傷者であり、拉致=殺害ではない。
[32]調査方法が定義されていない調査結果であり、ここでの
“incomplete”はデータとして不十分という意味ではなく、データとして不完全であると解釈すべきである。不備なデータを元にした推計は、不備な推計でしかない。
[33]死体の無い殺人被害者を主張している。これは『南京安全地帯の記録』にも共通して見られる「南京大虐殺」の一般的傾向と言える。
〔脚注〕
(1)市内および城壁附近の地域における埋葬者の入念な集計によれば[34]、12000人の一般市民が暴行によって死亡した。これらのなかには、武器をもたないか武装解除された何万人もの中国兵は含まれていない[35]。三月中に国際委員会の復興委員会によって調査をうけた13530家族のうち、拉致[36]された男子は、十六歳から五十歳にいたる男子全部の20パーセントにも達するものであった。これは全市人口からすれば10860人となる。救済をもとめてやってきた家族の言によるのであるから、誇張されているところもあろう。しかし、この数字と当調査で報告された4200人という数字の差の大部分は、おそらく男子が拉致されても、拘留あるいは強制労働をさせられて、生存した場合を含むことによるものであろう[37]
[34] A careful estimate 「慎重な見積り」
 スマイスの調査による集計ではなく、集計ですらない。
[35]
not considered in these lists
 「含まれていないと思われる」
 服装以外に判別根拠があったはずはなく、便衣兵を除外することは不可能だったと考えられる。
[36]“
taken away”は元々“taken away under military arrest”の意味で使われているのであるから、「拉致」(abduction)ではなく「連行」と訳すべきである。
[37]
which the men are known to have survived
 「生存が確認されている人々」
 3月〜4月の調査時点で徴用中の市民の内6千人が所在を確認されているということであり、図らずも、誇張された申立の中でも徴用=殺害という図式は成立しないということが示されている。
 多くの些細な事件を無視すれば、軍事行動による死傷者、日本兵の暴行による死傷者、および拉致された者は、23人につき1人、つまり5家族につき1人である。
 このような死亡の重大な社会的・経済的結果は、われわれの調査記録から直接計算しても、その一部を示すことができる。夫が殺害・負傷、または拉致された婦人の数は4400人である。(1) 父親が殺害・負傷、あるいは拉致された子供の数は3250人である。
〔脚注〕
(1)救済を希望した一万三五〇〇家族[38]を当復興委員会が三月中に調査した結果によれば、十六歳以上の婦人全体の14パーセントが未亡人であった。
[38] The 13,530 applicant families 
「(救済を)申し立てた13530家族」
 積極的に救済を求めているグループであるから、損失率は平均よりかなり高いと見るべきである。
 暴行によって死傷した6750人のうち、わずか900人(すなわち13パーセント)が直接、軍事行動で不幸に見舞われたものである。
 死傷者数にかんする数字を第四表にあげてある。
 
性別・年齢別による分布
 暴行と拉致[39]にあった者の性別と年齢を分析すれば、死傷者のうち男子の割合は、全年齢を通じて64パーセントで、三十歳ないし四十四歳の者では76パーセントという高い数字に達した。身体強健な男子は元兵士という疑いをかけられた。多くのものが手のひらにタコがあったのを銃をかついでいた証拠だとして殺された[40]。女性の傷害のうち、65パーセントが十五歳から二十九歳の者であった。しかし、この傷害についての調査の質問には、強姦そのものによる傷害は除外してある。

[39]ここでは“abduction”が使われている。いつの間にか“taken away under military arrest”(戦時犯罪容疑による逮捕及び徴用目的の連行)が“abduction”(拉致)にすり替わっている。

[40]これが事実であるとしても、中国軍兵士が市民に偽装して潜伏したりしなければ避けられた事態である。
 悲劇の現状をまざまざと示すものは、六十歳以上の人のかなり多くが日本兵に殺されたということである。こうして六十歳以上の男子の28パーセントと女子の39パーセントが殺されている。年輩の人びとは、家が危険にさらされても、しばしば家を去るのをもっとも渋ったのであって、前には、こうした人びとは残忍な攻撃から安全であると考えられていたのである。[41]


[41]家族が避難した後、家に残っていて殺されたという意味であり、それが日本兵の仕業だと誰も確認していない。
 拉致された男子は少なくとも形式的に元中国兵であったという罪状をきせられた[42]。さもなければ、彼らは荷役と労務に使われた。そういうわけで、拉致された者のうち55パーセントが十五歳から二十九歳の者であったことを知っても驚くに当らない。その他の36パーセントは三十歳から四十四歳の者であった。
 性別および年齢別死傷者の数字を第五表にあげた。・・・・・・・・

[42]拉致ではなく、摘出連行であることが分かる。
・・・・・・・・
〔農村部調査〕
3 戦争と農民
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暴行事件による死亡
 調査で回答のあったこの100日中の死亡者総数は31000人、すなわち住民1000人につき29人で、年間にすれば106人の割合となる。中国における死亡者の年間平均数27人と比較されたい[43]。(1) 死亡者の87パーセントは暴行事件による死亡で、大半は兵士の故意の行為によるものである。七家族に一人は殺されており、アメリカ合衆国の農家に同じ死亡率をあてはめてみれば、総計およそ170万人が殺されたことになる[44]。また全中国の農家数にあてはめてみれは800万人が殺されたことになる[45]。おそらく日本本土についてあてはめてみても正確にいって80万人ということになろう[46]。この地方の状況と調査の方法からみて、警察や警備員として働いていた二、三の地元民を含むことはあるにしても、実際上いかなる種類の兵士もこの調査からは除外されていた[47]。殺人の割合は江浦県で最も高く、100日間に1000人当り45人であった[48]。句容県[49]では37人、江寧県では21人、その他では15人および12人、4.5県全体では25人である。
(1)「中国における土地利用」三三八頁。
[43]調査の対象となった時期は冬であり、平常時でも年間で最も死亡者数が増えると考えられる季節であるから、季節要因を無視した年間平均と比較するのは死亡者数を過大に見せることになる。
[44]これは国土の全部が戦場となった場合の計算であり、比較の元になる数字は中国全土で何パーセントの農民が殺されたか、でなければならない。これもまた、被害状況を過大に見せる為のトリックである。
[45]戦場となった他の地域では他の死亡率を記録しているはずであり、これもまた悪質なトリックである。
[46]少しも正確ではない。悪質なトリックである。
[47]兵士に徴用された農民をどうやって除外したのか。
[48]江浦県は地図で見るとおり揚子江西岸〜北西岸。
 12月は国崎支隊が退路遮断の為に江岸に沿って進軍したのみであり、内陸部には日本軍の部隊が展開していない。
 占領後に日本軍が北進したのは北部鉄道沿いで、中国軍はこの地域に5万の兵員を投入して抗戦を続けていた
 国崎支隊は大量の捕虜を釈放しており、江浦県南部内陸部で暴行が発生したとすれば中国軍敗残兵によるものと考えるべきであり、北部鉄道沿いの地域の被害は戦闘行為によるものと考えるべきである。(比較地図を参照されたい)
[49]句容県は中国軍による焼払いが深刻だった地域。
 殺された人のうち男子の比率はきわめて高く、とくに四十五歳までのものが多く、全年齢層の殺害者数の84パーセントにのぼっていた。殺された男子22490人のうち十五歳から六十歳までのものは80パーセントにおよび、これは生産人口の枯渇を意味する。殺された女子4380人のうち83パーセントが四十五歳以上のものである。若い婦人の多くは、安全をもとめて避難したか、危険が明白な場合には安全なところへ移されていた。若い婦人や身体強健な男子よりは危害を加えられることが少ないと思われたために、老婦人が留守番役以上の目にあったのである。
 
病気による死亡

 病死者の数は回答のなかできわめて少なく、全部で4080人、すなわち百日間で1000人当り3.8人になる。これは報告数がきわめて少ないように見える[50]。たとえば、五歳以下のものについては一人も病死者として回答されていない[51]同様な傾向が平時においても認められ、しかも、以前には冬になれば必ず多数の変死者が出ることが目立っていた[52]。また、当初の質問では病死と殺書されたものの二者択一であったけれども、病死者のうち若干のものが殺されたものと混同されたこともありうる。そして、この混同による限界は、平時の死亡率と比較して検べてみれば、殺害されたものとして回答のあった数にいちじるしく影響するほど大きくはありえない。この100日間は二年続きの豊作に続く例になく温和で天候のよい季節[53]であった。疫病や変った病気が全然なかったことは明らかである。
[50] apparently a serious under-reporting
 「一見、かなり過少に報告されているように思われる」
[51]第24表によれば五歳以下の死亡事例は全体の2%。元々報告数が少ないので、統計上の偏りが出ても不思議はない。
[52]これは、病死が変死と報告されていた為に、病死者数が過少報告される傾向が平時においても見られた、という意味。
 報告数は少なくとも、実際には大勢が病死していたということになる。
[53]
unusually mild and fair weather 
「例になく温和で晴天続き」
 雨が不足すれば水が循環せず、生活用水の汚染が進む。戦場跡で死体が放置されていれば、水の汚染は加速する。また、気温が高ければ死体の腐敗も早い。
『南京安全地帯の記録』第三十六号文書(1938年1月10日付)において、第三十七号文書の第一八五件事例、クレーガー、ハッツが池の中で処刑される「市民の服装をした哀れな男」を目撃した事例に関連して
・・・・それにもまして我々が懸念することは、その地帯、特に池の中に死体が放置され、住民の健康の脅威となっていることです。大変幸いにも今までのところ市内で重大な病気の発生はありませんでした。しかし、もし今のような不衛生なやり方が続き、特に市内の飲料水が頼れないということになれば、我々は皆恐ろしい伝染病の危険と隣り合わせの生活をすることになります。・・・・
と、死体が放置されている状況で水不足になれば、伝染病発生の危険性が高まるという認識が示されている。この様に、温和で好天が続けば疫病が発生しないというロジックは、戦争直後の状況では成り立たない。
 城内であれば日本軍や自治委員会が防疫措置をとるだろうが、行政システムが崩壊した農村部ではそれも望めない。
 ちなみに、第三十六号文書の文責者はスマイスである。

 この節は前半部分と後半部分が論理的につながっていない。
 前半部分は病死者が少ないのは例年の事情から見ても過少報告であり、実際には病死者がもっと多かったというニュアンスだが、後半部分は温和で晴天続きだったから病死者が少なかったとしても不思議はないという主張になっている。
 一九三一年の大水害では、ほぼ同じ時期に1000人当り22人の死亡者が出たという報告があり、死亡者については、病死者と限定されたものは70パーセント、24パーセントが溺死者であった。(1) 現在の調査の示すところでは、わずか12パーセントが病死者であるが、完全な報告では多くてもこの二倍であろう[54]。このことは殺された者の多いことを示すのに役立つだけである。
(1)「中国における一九三一年の水害」九七頁。
[54]多くても二倍とは、何を根拠にしているのだろうか。
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4 戦争の影響=市部と農村の比較
 戦前には、調査した4.5県の農業人口は南京の人口よりも大して多くはなかったけれども、三月の調査期間には四倍以上も多くなっていた。残留した農家の場合、移動によりおよそ11パーセントだけ人口を減じており、30パーセントほどのものは一家ぐるみ離村して遠くに行っていた。市部では移動によって残留家族の人口の14パーセントが減じ、当初の全居住家族のおよそ75パーセントであった[55]。調査によれば、南京の人口は22万1000人で、農村では107万8000人であった。
 農家では7家族に1人が殺された。市部では5家族に1人が殺害・傷害・連行の憂き目にあっている。これによってほぼ同程度
の社会悪と苦難がもたらされている。・・・・








[55]75%の家族が一家ぐるみ市部から移住した、の意味。
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付録A

調査の機構と方法にかんする覚書再記

1 実地調査の手順

 J・L・バック教授がその調査のなかで行なっているように、「平均的な村」を設定する代りに、任意抽出のやり方に従って調査が進められた。現状のもとでの諸困難によって、調査員が現地に二度行くことが不可能となっていたからである[56]。その上、一九三二年の上海周辺の農村地区で戦時調査をおこなった時のように、訓練された観察者の大集団を実地調査に向けることもできなかった[57]。こうした機会もなく、一九三二年の戦争の被害がいかに部分的なものであったかを知っていたために、一定の間隔をおいて選ばれた任意抽出の方が、「平均的な村」をあわてて選定するよりも、誤りが少なくなると考えられた。さらに、このように一定の間隔ごとに間をおいて任意抽出を行なうことほ、「代表的な事例」を選ぼうとするよりも、原則としては通常、より客観的なものであるといわるべき点がある。この方法でうまくゆかなかったように思われる一例は、江浦県の耕地調査の場合で、農家平均耕地面積と、それによる耕地面積の総計が多すぎるという結果になった。(第十七表を見よ)











[56] made it improbable that investigators could
 「できそうになかった」。“impossible”ではない。

[57]農村部調査の人員が不足していたことを暗に認めている。
 この手続きは当初の予想以上に成功をおさめた。しかしながら、六合県では調査員が県の北部を掌握している中国人当局に身元を疑われ、委員会が手紙を出すまでスパイとして留置された。同じ困難が現地調査のはじまったときに高淳県でも起った。それでこの県は結果から落さなければならないことになった。六合県の方は甫半部だけが報告に含まれている。●(さんずいに栗)水県では、中国側管理当局者は調査員に護衛をつけた。護衛は調査員に、彼らがえらんだ村へ、また村長がえらんだ村の家族のところへ行くように強制した。結果として、彼らのサンプルは悪い地域から出る傾向があった[58]。江寧県の西部では、調査員は10家族に1家族をえらぶうえで、地元の御都合主義の干渉にまかせた[59]。サンプルとなった村を一つ一つ注意ぶかく点検すると、両方の誤りが明らかとなった。それにまた、それらがあまりでたらめなので、比較考量して誤りを正そうとしても、それを少なくするよりはむしろ増大させることになりそうである。それで、訂正はこころみられなかった[60]。句容・江浦・六合の人々は抽出のさいの注意に非常に整然と従った。





[58]客観的な調査が行えなかったということであり、本来ならば集計対象から外すべきである。

[59]客観的な調査が行えなかったということであり、これも本来ならば集計対象から外すべきである。



[60]統計調査としては不正確なものと知りながら採用したということであり、余りにも杜撰。
 農村部調査は到底学術的な調査と言えない。
 市部調査における建物調査をはじめるにあたっては、ただメイン・ストリートだけを網羅するつもりであった。しかし、それでは家族調査と建物調査をつき合わせることが難しいということがわかった。それは、市内に残留していた家族が当初の人口の四分の一にすぎず、しかも貧困層の人々だからである。その結果、損害の全体を推定するために建物調査は市内の各建物におよんだ。もしこれが最初から予想されたならば、建物10ごとに1をえらぶよりもより少ないサンプルによって損害価格の推定が行なわれ、したがって、結果を出すには手っとり早かったであろうが、これでは正確さは失われたと思う。
2 集計上の手続き
 206家族につき1家族という農業調査の抽出サンプル[61]、一九三一年の水害調査の359家族当り1家族の抽出と、上海事変(一九三二年)の影響を受けた周辺農村の調査の79家族に1家族という抽出の中間になる。しかし、江寧県では抽出度はもっと低く(398対1)、●(さんずいに栗)水県では相対的に高い(140対1)。(第十七表を見よ)

[61]農業調査は3村に1村、10家族に1家族の調査だから、30家族につき1家族の抽出でしかない。
 第17表の脚注***
「同上(J・L・バック『中国における土地利用』)、統計、417ページ。バックの数字は入手しうる最上のものとして用いられる。この調査の時期においては、家族ぐるみ不在となって、農業の調査にまったくあらわれてこないものがあるために、この数字から30パーセントを引いてもよいであろう
Statistics p.417. Buck's figure is employed as the best availble. At the time of this survey, the figure might be reduced by as much as 30 per cent through the absense of whole families who leave no trace in the survey of farm families.
[農村部調査の総括]
 第17表によれば、実際に調査した農家数は905
 農村部調査の「4 戦争の影響=市部と農村の比較」には、「農家では7家族に1人が殺された」とあるから、実際に調査した死亡者数は905/7=129人
 抽出率1/30より、
 推定死亡者数=(905/7)*30=3,879人
となり、農村部調査によってカバーされた地域の統計的推定死亡者数は4千人弱でしかない
 第17表の脚注から分かるように、206家族につき1家族という抽出率はバックの統計値に(1−不在率)を掛けて母集団家族数を推計し、これで調査サンプル数を除したもの

 母集団家族数
  =バックの統計値*(1−不在率30%)
  =186千家族
 抽出率
  =調査サンプル家族数905/母集団家族数186千
  =1/206

 しかし、不在率30%は3村に1村、10家族に1家族の調査により得た数字でしかない
 バックの統計値を元にしたこの推計が成立するためには、調査されなかった地域の不在率が調査した地域(幹線道路沿いの村落及び8の字を描いた軌跡上に位置していた村落)の不在率に等しいという仮定が成立しなければならない。
 これは、幹線道路に沿った地域とそれ以外の地域の人口比率が、バックの調査時点から変化していないということを意味する。戦争被害を避ける為に大規模な人口移動が起っている状況下でこのような仮定が成立するはずのないことは、都市部と農村部の流出率が大きく異なることからも自明であろう。農村部といっても、幹線道路沿いとそうでない地域とでは、避難においても帰還においても条件が全く異なってくる。少し論理的に考えれば分かるはずのことである。
 農村部調査による推定被殺害者数は「調査された範囲内で4千人弱」としか結論できない。しかもそれが日本兵による不法行為の結果であるという証拠は皆無である
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3 正確度の点検
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・・・・さらに市部調査における独自の点検は、調査をおこなうグループがその状況を体験し、かつどの点でも、調査の結果が既知の状況にそれぞれに符合するかどうかをきびしく検証することができるということであった。(しかし、調査の結果に変更を加えたところは一つもなかった。)もっとも驚くべき符合は軍事行動によってひきおこされた損害の程度の低さであって、この事実は容易に多くの人々によって十二月十四日に観察されたことである。逆に放火と略奪の規模と方法は目撃者によってしか理解されなかった[62]。調査は実際の損害価格の額をもっと正確に計算している。・・・・










[62]放火と略奪は多くの人々に観察されたのではなく、一部の目撃者のみ認識していたということを意味する。

 このように、スマイスの調査報告には日本軍による被害を水増しする為のトリックが各所に盛り込まれており、中国軍による被害と考えられるものも日本軍の非行によるものとされています。
 北村稔『「南京事件」の探求』の中で紹介されている興亜院政務部昭和15年7月調査報告会速記録内、吉田三郎「支那に於ける第三国人の文化施設」が指摘するように

「これはその時にもらった資料でありまして、南京地方に於ける戦争によるフィールド・リサーチ以下各種の統計的研究であります。こういうものを世界中に配って基金を集めているのです。その中には南京地方に於ける農産物の調査、南京地方の人口調査等、所謂科学的調査を標榜しつつ、そのことによって日本が飛んでもないひどいことをやっているような印象を世界中に統計を通して与えている、しかしよく見ると科学的な研究という面を被った排日宣伝文書であります

「たとえばこういうことをやっている。南京地方に於ける損害の統計を作る場合に、戦争の直接の被害、火災によるもの、日本の軍隊の略奪によるものというような項目が挙がっており、火災の場合についていえば、支那軍が逃げるときに放火したために焼けたものまで皆その中に一緒に入れてある。数字としては極めて確かだけども、これで見ると皆日本軍がやったことのように見えるのです。斯様に巧妙なる科学戦争というものが世界中に、この機関を通してまかれている事実を見たのであります。ベーツ教授は私がミリカンの友達というので直ぐこういうものを出して呉れたわけであります」

ということなのです。(もっとも、数字の中には決して正確とは言えないものも多々含まれていますが)
 但し、プロパガンダに真実性を持たせる為か、あるいは彼ら自身の救済事業に支障がある為か、都市部の人口については正確に調査されているようであり、他の資料とも整合が取れています。


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