スティールの記事

(『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』 南京事件調査研究会編訳)


スティールの記事の検証に当たっては、シカゴデイリーニューズ編集部が2月3日の記事につけているコメント、
編集部注:南京の包囲と略奪の物語を外界に完全な形で伝えた最初の報道人である<デイリー・ニューズ>紙特派員は、その後あの恐ろしい日々に中国人と日本人が行ったことに関する以下の文章を書いた。スティール氏の未検閲の記事は二回に 分けて発表され、これはその上篇にあたる。
より、2月3日と2月4日の記事が最終的な見解であると判断して、この2本の記事を全文引用により検証します。

[註]テーブル右列及び青字[数字]は私のコメントです。

二月三日<シカゴ・デイリー・ニューズ>
<シカゴ・デイリー・ニューズ>紙外信部特別通信
<シカゴ・デイリー・ニューズ>社版権所有、一九三八年
 南京発。パニックに陥った人間は信じられないようなことをする。南京で日本軍の猛烈な砲撃下に中国軍の抵抗が突然崩壊したとき、私は中国で打ち続く六年間の戦争で目撃したよりもより野蛮な混乱を日にした。
 館員の退去したアメリカ大使館でAPのC・Y・マクダニエルと座っているときに、中国軍の崩壊はやってきた。砲弾と榴散弾はこの三日間ずっとそうであったように、単調な規則性をもって首都付近の地点で炸裂していた。私たちの知るかぎり、日本軍は市の南門である中華門で城壁を破壊しようと努めていた。
 大使館中庭の騒ぎが、なにか事が起こったのを告げた。中国市民――男も女も子供も――が門を抜けて大使館敷地内になだれこんで来るところであった。いずれも寝具や包みの重たい荷を背負って、あたかも驚いた地ネズミの大群のように館の防空壕に急ぎ入るところであった。
 
噂が本当に
 「あの連中は何だ。いったい彼らはどうしたんだ」と、中国人の用務員に聞いた。
 恐怖で目を丸くした用務員は震えていた。
 「あれは大使館使用貞の親類縁者、三百人ほどです。」彼は言った。「日本軍が迫ってきた、ここが知っているなかでいちばん安全なところなので避難しにきた、とのことです」。
 私たちは笑って、用務貞に、「親戚に、穴から出てきて家に帰るよう言いなさい。また中国人の噂にだまされたのだね」と言った。
 だが、こわがる避難民は、それはデマだという言葉を決して信用しなかった。少しでも動こうとしなかった。それが正解であったのだ。というのも、中国では不可思議な巷の噂が、新聞よりもずっと早く虚実取り混ぜて情報を伝えるのであるが、今回は実際、事実に基づいたものであったからだ。三〇分後、中国軍まる一個師団が大使館の横を駆けて逃げていくのを見たとき、私たちはそのことを悟った。
 
将校が退却を阻止する
 数人の青年将校が、退却する大群の進路に立ちはだかって、食い止めようとしていた。激しい言葉が交わされ、ピストルが鳴った。兵士たちはいやいや向きを変え、前線に向かってのろのろと戻り始めた。だが盛り返したのは束の間であった。三〇分以内に中国軍の士気は瓦壊し、全軍が潰走することになった。
 もはや、彼らを押しとどめるすべもなかった。何万という兵士が下関門(●(手偏に邑)江門)に向かって群れなして街路を通り抜けていった。この市の西北隅の門が彼らに開かれた唯一の退却路で、門の半マイル向こうに長江が流れ、そこに一群の艦船が先に着いた者を待っているのだった。
 午後四時半頃、崩壊がやってきた。初めは比較的秩序だった退却であったものが、日暮れ時には潰走と化した。逃走する軍隊は、日本軍が急追撃をしていると考え、余計な装備を投げ捨てだした。まもなく街路には捨てられた背嚢、弾薬ベルト、手榴弾や軍服が散乱した。
 兵士らが、退却の主要幹線道路である中山路からわずか数ヤードしか離れていない交通部の百万ドルの庁舎に放火したとき、地獄は激しく解き放たれた。そこは弾薬庫として使用されてきており、火が砲弾・爆弾倉庫に達したとき、恐ろしい爆音が夜空を貫いた。
 銃弾と砲弾の破片が高くあらゆる方向に甲高い音を出して散り、河岸に至る道路をうろうろする群集のパニックと混乱をいっそう高めた。燃え盛る庁舎は高々と巨大な炎を上げ、恐ろしい熱を放った[1]。パニックに陥った群集の行列はためらって足を止め、交通は渋滞した。トラック、大砲、オートバイと馬の引く荷車がぶつかりあってもつれ絡まり、一方、後ろからは前へ前へと押してくるのであった。 [1]この記述から推測するに、類焼しなかったはずはない。
 兵士たちは行路を切り開こうと望みなき努力をしたが、むだであった。路上の集積物に火が燃え移り、公路を横切る炎の障壁をつくった。退却する軍隊に残っていたわずかばかりの秩序は、完全に崩壊した。いまや各人がばらばらとなった。燃える障害を迂回して何とか下関門に達することのできたものは、ただ門が残骸や死体で塞がれているのを見いだすのだった。
 それからは、この巨大な城壁を越えようとする野蛮な突撃だった。脱いだ衣類を結んでロープが作られた。恐怖に駆られた兵士らは胸壁から小銃や機関銃を投げ捨て、続いて這い降りた。だが、彼らはもうーつの袋小路に陥ったことを見いだすのだった。あらゆる舟は、運良く最初にそこに到達した人々を乗せてもう行ってしまっていた。
 
地上の脱出路なし
 日本軍は全方向から包囲侵攻してきていたので、陸路で脱出できる見込みはなかった。川が唯一の出口であった。何百という人々が長江に飛び込み、死んでいったと言われる[2]。もっと冷静な人々は手間をかけて筏を作り、うまく川を越えて逃げのびて行った。さらに江岸の建物内に隠れて、のちに日本軍に捜し出され殺される者もあった[3]



[2]溺死であって虐殺ではない。

[3]通常の敗残兵掃討。
 一方、何千という人々が城外に脱出できなかった。彼らはまったくの混乱状態で、夜通し街路を当てもなくさまようのだった。日本軍は南門を突破した後、夜明けまでに拠点を確保し、掃討作戦に取りかかった。それまでにすでにすべての抵抗が瓦壊しており、日本軍はほとんど一発も銃火を発せずにも全市を占領できたであろう[4]

[4]実際には市内でも14日午前まで抵抗が続いていたし、潜伏を続ける中国兵がいた以上、掃討を止める理由にはならない。
 中国軍――その何とか残った部分――は、すでに怯え混乱した群集と化しており、いくらかでも憐憫の情をたれれば、喜んで降伏したであろう。しかし日本軍は虐殺を決心していた。彼らは手を下しうるすべての将兵を殺戮するまでは、満足しないつもりだった[5] [5]戦闘行為である敗残兵の掃討に虐殺と言い掛かりをつけているだけに過ぎない。
 降伏した者にも容赦はなかった。彼らもまた同じように処刑場まで行進して行かされた。軍法会議も裁判もなしだった。予想されるとおり、何百という無実の市民がこの恐怖の支配の間に逮捕され、虐殺された[6] [6]誤認摘出数百という認識しかない。

二月四日<シカゴ・デイリー・二ュ−ズ>
<シカゴ・デイリー・二ュ−ズ>紙外信部特別通信
<シカゴ・デイリー・二ュ−ズ>社版権所有、一九三八年
 南京発。西部でジャックラビット(プレーリーに棲む耳の長い大ウサギ――訳者)狩りを見たことがある。それは、ハンターのなす警戒線が無力なウサギに向かってせばめられ、囲いに追い立てられ、そこで殴り殺されるか、撃ち殺されるかするのだった。南京での光景はまったく同じで、そこでは人間が餌食なのだ。逃げ場を失った人々はウサギのように無力で、戦意を失っていた。その多くは武器をすでに放棄していた。
 日本軍が街路をゆっくり巡回して、走ったり疑わしい動きをするものなら誰でも、機関銃と小銃で射殺するようになると[1]敗退し闘志を失った軍隊はいわゆる安全区になだれこんだ[2]。そこは掃討を受けていない最後の地域の一つであったが、一方、街路は地獄であった。 [1]不審者を撃っているだけに過ぎない。

[2]不審者=敗残兵であることが仄めかされている。
 まだ軍服を着ている兵士はできるだけ早くそれを脱ぎ捨てていた。町のあちこちで兵士が軍服を投げ捨て、店から盗んだり銃口を突きつけて人から引き剥がしたりした平服を身につけているのを見た[3]。下着だけで歩き回る者もいた。中国の役人の家から盗んだらしい山高帽に下着だけの格好で、ある兵士が得意げに町を散策しているのも見かけた。
 

[3]中国兵による略奪の目撃事例。
銃砲の散乱する街路
 小銃は壊され、山と積まれて燃やされた。街路には遺棄された軍服や武器、弾薬、装備等が散乱した。平時であれば、一般住民――まだ約一〇万人が市内にいた――はかかる逸品を得んと奪い合うのだが、いまや軍服や銃を持っているところが見つかれば殺されることを誰もが知っていた。
 だが数人の老婆がうろつき、軍服を切って中の綿を抜き取り、喜色満々とボロ家に運んでいった。そのとき、軍が米でいっぱいの倉庫を放棄したという話が広まり、安全区中の小屋という小屋、壕という壕から人々が飛び出してきて、怒涛のように倉庫に押し寄せ、中身を数時間で奪い尽くした[4]

[4]市民による略奪行為も珍しく無かったということか。
 日本側の捜索網がせばめられるにつれて、恐怖のあまりほとんど発狂状態になる兵士もいた。突然、ある兵士が自転車をつかむと、わずか数百ヤードの距離にいた日本軍の方向に向かって狂ったように突進した。道行く人が、「危ないぞ」と警告すると、彼は急に向きを変え、反対方向に突っ走った。突如、彼は自転車から飛び降りるなりある市民に体当たりし、最後に見たときには、自分の軍服を投げ捨てながらその男の服を引き剥がそうとするところであった[5]
 




[5]中国兵による略奪の目撃事例。
ドイツ人が兵士を殴る
 ある兵士は騎馬して当てもなく路上を走り、理由もなくただ拳銃を空に向けて放っていた。市内に残った少数の外国人の一人である屈強な一ドイツ人は、なんとかせねばならんと決めた。彼は、兵士を馬から引きずり下ろすと、銃をもぎとり、横っつらを殴った。兵士は坤き声も出さずにこれを受けた。
 パニックになった兵士たちは、走行中の私の車の上に飛び乗り、どこか安全な場所に連れていってくれと哀願した。銃と金を差し出し、見返りとして保護を求める者もいた。怯えた一群の兵士たちが、少数のアメリカ宣教師とドイツ商人によって設立された安全区国際委員会本部の周りに群がった。彼らは、構内に翻るドイツ国旗が一種の災難除けのお守りにでもなると信じて、入れてくれるよう懇願した。
 とうとう、その一部が銃を捨てながら門に押し入り、外にいた残りの兵士も銃器を塀を越えて投げ入れだした。拳銃、小銃と機関銃が中庭に落ち、宣教師によって慎重に拾い集められ、日本軍に差し出させるためにしまい込まれるのだった[6]
 
[6]国際委員会が主張するように彼らが中国兵を武装解除した訳ではなく、彼らは単に遺棄兵器を日本軍に引渡しただけだということになる。
なんらなす手はなし
 武装解除した兵士たちについては、外国人にできることはほとんどない。もっとも、おそらく彼らの進入が、中国軍の突然の退却後南京に取り残された何千という負傷者の生命を救ったのであるが。
 日本軍は兵士と便衣兵を捕らえるため市内をくまなく捜索した。何百人もが難民キャンプから引き出され、処刑された[7]。男たちは二、三百人ずつのグループで適当な処刑場に集められ、小銃と機関銃で殺された。あるときは、捕らえられた数百人の集団を片付けるため戦車が繰り出された。 [7]潜伏中の敗残兵と便衣兵が摘出され、処刑されたという認識しかない。
 私は集団処刑を一つ目撃した。数百人の男たちの一隊が大きな日本国旗を抱えて、街路を行進してきた。これに二、三人の日本兵が付き添い、空き地へ引き連れて行く。そこで彼らは小人数ずつ、残虐に銃殺された[8]。一人の日本兵が小銃を手に、膨れ上がる死体の山を監視しており、少しでも動きを見せる人体があれば、弾丸を浴びせた。
 日本軍にとってはこれが戦争なのかもしれないが、私には単なる殺戮のように見える[9]


[8]銃殺は処刑方法としては人道的と分類される。

[9]便衣兵処断を目撃しただけであり、戦闘行為以外の何者でもない。この後日の詳細記事には、便衣兵と誤認された犠牲者以外に市民の犠牲は出て来ない。

 このようにスティールがある程度の日数が経過した後に、自分の体験を整理して書いた最終的なレポートである1938年2月3日、2月4日の記事には、敗残兵掃討以外の日本兵による殺害行為は書かれていません。
 日本兵による略奪も、強姦も、放火もありません。
 寧ろ中国兵による一般市民に対する強盗行為、中国兵による放火が印象に残った出来事として書かれています。
 スティールにとっての「南京大虐殺」とは敗残兵掃討のことであり、敗者に対する同情が日本軍に対する非難につながっているという図式しか見えません。

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