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淮河河畔進出の経緯 南京攻略戦の末期において、揚子江北岸に作戦した天谷支隊は、十二月十四日揚州付近を、第十三師団は同月二十日●(さんずいに除)県付近を占領し、じ後面兵団は東溝鎮、肝(正しくは月が目)胎(正しくは月が目)を連ねる線を作戦地境として占拠地域の安定確保に任じていた。・・・・
・・・・しかし第十三師団方面の中国軍は、その主力を蚌埠、臨淮関、鳳陽、定遠付近に、第一線を池河の線において陣地を増強し、逐次兵力を増加して、一月下旬には一四コ師の五万に達し、日本軍に対ししばしば逆襲してきた。第十三師団は、占拠区域内の粛正討伐に努めたが、淮陽平地における敵軍主力を撃滅しなければ治安確保は困難な状態であった。よって軍は、同師団警備地域の安定確保のため、一月二十六日、第十三師団に対し鳳陽、蚌埠付近の敵撃滅を命ずるとともに方面軍に報告した。・・・・
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(戦史叢書『支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』)