妄想近未来がんセンター(後編)
「それもいつも言われることですが,それに対する回答はパンフレットには書いていません。私のいつも通りのお答えを言いましょう。私の友人には医者が多くいます。医者以外の友人のほうが少ないくらいです。私や私の家族が癌になったら,その癌の専門家である友人にこう頼みます。『一生で一度のお願いを聞いてくれ。何とかすぐに手術をしてくれ』と。そう,一生一度の願いとして頭を下げます」
「先生の友人が胃癌になってそのように頼まれたら,この病院ではいつ手術するんです?」
「そうですね。平日の夜か,土日にします。一般患者の手術枠に割り込ませることはしません。友人の一大事のため,時間外に一肌脱ぐだけです。看護師も手伝ってくれます。お互い様なので」
「癌なんか誰にとっても一大事。仲間内でできることをなぜ一般患者にもしてくれないんです」
「ここはがんセンターなので各地から癌患者が集まってきます。今日の外来の待ち時間からでも想像つくでしょう? その人たち全員のために私の『一生一度のお願い』を使うことはできません」
「仲間内での手術はあんたらの自宅でやればいい。病院の施設や器具を使うのは公私混同じゃないか」
「別にタダで手術するわけではないです。ちゃんと保険請求し,医療費の自己負担分は各自払います。病院も収益になります」
「しかし,夜間や土日に手術室を使えばその間は緊急手術ができなくなる。救急車から搬送要請があったら,その手術のせいで受け入れを拒否することになる」
「救急搬送に関しては本を書かれるぐらいですからお詳しいですね。しかし当院では救急対応はしていません。このがんセンターは慢性疾患のための病院です。それに,当直医に手術を手伝って貰うことはありません。手術室も一部屋を使うだけで,他は空いています」
「あーいえばこういう,言い訳ばっかり。まさか,俺があの本を書いたからいやがらせを…。本のタイトル通り見殺しにしてやろうと…」
「そんなことはありません。個人情報保護法に反するので待機リストをお見せするわけにはいきませんが,魚群さんの前に約250人の患者さんが登録されています。しかし他の病院へ移ったり進行癌で亡くなったりする方がいるので,実質は200番目くらい,運が良ければ150番前後になるかもしれません」
「進行癌で亡くなる? 待たされるのは早期癌だけじゃないのか? それとも最初は早期癌で,手術を待っているうちに進行癌になるのか? 進行癌ならただちに手術するべきじゃないのか」
「いろんな考え方があります。診断の時点で進行癌なら順番を早めてやるべきだというのは自然な考え方かもしれませんが,高い確率で完治が期待できる早期癌こそ早く手術してやるべきという意見もあります。また,若い患者を優先するべきと主張する医師もいます。しかし,年齢の線引きが難しくなります。40歳代と70歳代の比較なら簡単ですが,50歳代と60歳代はどうでしょう。今の世の中,60歳代などまだまだ現役です。そこで当院では手術の予約を入れた時点での順番に手を加えないことにしました。癌の進行度や患者さんの年齢を一切考慮せず,予約順を守ることが一番公正だという結論に達したのです」
「なんてことだ。どこの病院も同じなのか?」
「ええ,日本全国どこの病院も似たようなものでしょう」
「海外で手術を受けるというのは…」
「その点に関してもパンフレットに書いています。ここ,65ページ,『海外で手術を受けられる方へ』。うまくゆけば一か月以内に手術を受けられるかもしれません。しかしアメリカだと医療費だけで一財産を失うでしょうし,インドだと手術のついでに腎臓を盗まれることがあります。海外で手術を受ける場合は自己責任でお願いします。あ,そうそう,パンフレットにも書いていますが,診療情報を英語に翻訳するサービスは当院では扱っておりません」
「胃癌の手術は日本が世界一と聞いていたのに…わざわざ言葉の通じない海外,しかもボラれたり危険だったりのところへ行かねばならんとは。何でこんなことに…」
「魚群さんならよくご存じだと思ってましたが」
「癌難民のことはある程度知っていたが,まさかこれほどとは。まさに見殺しじゃねえか」
「我々だって好きで見殺しにしているわけではありません」
「だったら,昼夜を問わずもっと働いて癌難民を減らす努力をしろよ。土日は休息だと,ふざけるな! こっちは命が危ないというのに,自分たちは仲間内でこっそり手術しやがって。自分さえ良ければそれでいいのか」
「落ち着いてください。わかります。患者さんの5人に4人は同じようなことを言われます」
「どうせその回答もこのパンフに書いてあるんだろう」
「いえ,書いてません。おっしゃることはごもっともです。弁明のしようもありません。我々の不徳といたすところです。ですが,他の患者さんもまだ待っておられます。ここはどうでしょう,今後のことはご家族とよく相談され,次回の受診日に方針を決めると言うことで…」
「頭を冷やせってか。医者に暴力をふるいたくなるヤツの気持ちがよくわかる。あの防犯カメラは正解だな」
「癌を告知されれば誰だってうろたえます。皆さんそうです。でも,次回の受診では皆さん冷静になっておられます。とりあえず,次回の受診日を決めましょう。来週でも再来週でも。金曜日は初診が少ないので今日ほどお待たせすることはないでしょう」
「じゃ,来週の金曜日で」
「わかりました。では端末で予約を入れます。あ,そうそう,この文書に署名をお願いします。たいしたことは書いていません。パンフレットを受け取りましたとか,防犯カメラの録画に同意しましたとかを確認するだけのものです」
「医者が好きな,アリバイ作りというやつか」
「ええ,本音をいうとそうです。ただし,ご存じのように免罪符にはなりません」
「そうだよな。パンフレットは受け取ったけど,すべてのページをくまなく説明して貰ったわけではないしな」
「全90ページの小冊子をすべて説明することはできません。家でじっくり読んでいただくためのものです。抗癌剤や手術などのインフォームド・コンセントはその都度行います。パンフレットの内容で不明な点,わかりにくい点のみ次回の受診時に説明させていただくというのはどうでしょう?」
「ああ,そうさせてもらう。次までに付箋を山ほど付けてきて,じっくり質問させていただこう」
「他の患者さんを長く待たせることになるかも知れませんが,仕方ありません。よく申し送っておきます」
「申し送る?」
「ええ。あ,言ってませんでした? 私は今週いっぱいでこの病院を辞めるんです。来週金曜日の外来担当は医者になって7年目の若い外科医ですが,あまりいじめないでくださいね。彼も外科医を辞めたがっていますので,背中を押すような言動はどうか謹んでください。そうそう,私の代わりの外科医がここに派遣される予定はありません。外科医がひとり減るので手術実施数は確実に減ります。当然手術の待機期間も延びます。残った外科医たちがあなたの言うように『昼夜を問わず』働かない限り…」
おわり
TrackBack
TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/71276/43949774
Listed below are links to weblogs that reference 妄想近未来がんセンター(後編):
Comments