「マジっすか?」という大阪の番組のロケ。
朝9時にMBSの玄関集合。
梶原が来なかった。
スタッフさんは最初「寝坊だろう」と話をしていたが、昼になっても連絡がとれず、ロケチームは解散。夕方には舞台も控えていたが、夕方になっても連絡がとれず・・・しだいにただ事ではない雰囲気になっていた。
心あたりがあった。
前日・・東京での文化放送ラジオの生放送が夜中の1時に終り、そこから4時くらいまで大ゲンカをした。
始発で大阪に帰らないといけないので、一度ホテルに荷物を取りに戻る為、タクシーを拾う。
タクシーに乗り込む僕に、乗り込まない梶原。
「俺、歩いて帰るわ」
梶原を見たのはそれが最後。
ここ2年くらい、お互いに疲れていた。
デビューしてすぐに漫才の賞をたくさん頂いて、まもなくTVの仕事が入った。2年目には真ん中に立つ番組が何本かあった。
傍から見れば順風満帆。ただ本人達は違った。
舞台もロクに立った事もない人間、そんな人間がいきなりTVで喋れと言われても話の引き出しもなければ、トークをまわすノウハウも知らない。比べられるのは10年以上先輩の芸人、エリートという入りで結果が出せずに終わる。
そんな日が2年くらい続いた。
ネタ合わせ以外で会話する事もなくなり、ただただ疲れていた。
その最悪の状況で、ついに相方の線が切れた。
小さかった「黒い点」は、気づけば取り返しのつかない大きな「黒い点」になっていた。
次の日、梶原がいわゆる精神病という事がわかった。
一日中、街をフラついていたらしい。
何日か経っても回復のメドがたたないので、会社と話しあって2003年3月10日、キングコングの活動休止を発表した。
心底、梶原に腹が立った。
家にこもっているのならば、引きずり出してドツキまわしてやろうと思った。
コンビのネタは全て僕が書いていた。どんなに忙しい時でも週一本の新ネタと番組で作らないといけない月20本のショートコント、それに加えて2ヶ月に一回の単独ライブ用にネタを6本・・梶原が女といる間や、寝ている間、パチンコに行ってる間に作った。ツラかったけど作らないといけなかった。
それだけに先に梶原の方が「しんどい」と言って仕事を投げ出した行為は許せなかった。「しんどいのは俺の方や」そう思った。
結局ラジオ一本を残して、仕事は全部なくなった。
キングコングが出演する予定だった営業先に謝りに行く日々、その頃の僕は梶原の悪口を毎日言っていた。
それは真っ暗で恐い、僕の人生の「黒い点」の始まり。