- 岩田
- ケンカができるような
素晴らしい仲間に恵まれた小田部さんが
どうして、アニメーションの世界から
離れることになったんですか?
- 小田部
- アニメーションというのは、
同じところでいつまでもつくり続けていると、
水がよどむような感じになってくるんです。
それに、気の合う仲間とずっといっしょに
つくり続けられるわけでもありませんので、
会社を離れることにして、
フリーの立場で仕事を受けるようにしたんですね。
ところが、フリーと言うから
それは自由なのかもしれませんけど、
つくるところが作品の核じゃないわけですよ。
ある部分だけの仕事とか。
- 岩田
- 断片の仕事を請け負うようになったんですね。
- 小田部
- 気が楽なんだけど、おもしろみがない。
- 岩田
- しんどいけどおもしろいか、
気は楽だけどおもしろくないかになっちゃうんですね。
- 小田部
- そんなときに、池ちゃん・・・
池田(宏)さんですね。彼から話があって・・・。
- 岩田
- 池田さんは、すでに任天堂を退職されましたけど、
昔、宮本さんの上司だった方ですね。
- 小田部
- 池ちゃんも東映動画の同期なんです。
- 岩田
- えっ、そうだったんですか!?
- 小田部
- だから、池ちゃんと呼んでいるんです。
彼のほうが年が上なんですけど、
池ちゃんともよくケンカをしましてね。
彼が監督、僕が作画監督をやった
「空飛ぶゆうれい船」(※8)をつくったときとか。
※8. 「空飛ぶゆうれい船」=1969年公開の劇場用アニメーション作品。東映動画制作。
- 岩田
- そうだったんですね。
それでは宮本さん、お待たせしました。
- 宮本
- はい。
- 岩田
- 池田さんは、宮本さんが
入社何年目のときの上司だったんですか?
- 宮本
- 確か7〜8年目でしょうか。
『スーパーマリオブラザーズ』(※9)を
つくっていた前後の頃ですね。
池田さんは僕にとって
すごく大らかに泳がせてくれた上司で
初代の情報開発部長でした。
※9. 『スーパーマリオブラザーズ』=1985年発売のファミコンソフト。アクションゲーム。
- 岩田
- 小田部さんは
池田さんからどのように誘われて
任天堂に入ることになったんですか?
- 小田部
- 先ほども言いましたけど、
僕がフリーで、おもしろくない時代だったんですね。
そんなときに池田さんと喫茶店で会って、
任天堂に来ないかと誘われたんです。
これからのゲームというのは、
どんどんアニメーションのノウハウが
必要になってくるからと。
- 岩田
- 事実そうだったんですよね。
アニメーションのことをちゃんとわかっている人は、
あの当時、ゲーム業界にはほとんどいませんでしたし。
- 宮本
- そもそも僕自身、
アーケードゲームの『ポパイ』(※10)をつくるとき
アニメを1コマ、1コマ止めながら、
それを見て、自分で描いていましたし。
- 小田部
- そんなこともやってたんですね。
※10. 『ポパイ』=1982年に登場した任天堂のアーケードゲーム。ファミコン版は1983年に発売。
- 宮本
- 犬や人が走っている映像をコマ撮りした、
すごく有名なアニメーションの写真の本がありましたよね。
僕は美大にいたにも関わらず、
その本をあまり使ったことがなかったんですけど。
- 小田部
- How to Draw本ですね。
- 宮本
- そうです。
僕もパラパラマンガからずっと好きだったんですけど、
自分でアニメーションを動かせるようになるとは
思ってなかったので、そこからにわかにはじめて。
- 小田部
- アニメーションの世界でも
そういった本を見て、一生懸命勉強するわけです。
なめらかな動きとかね。ですけども、
だんだんそれが必要とされなくなってきちゃって。
枚数を落としますから。
- 岩田
- なるほど。商業ベースのTVアニメは、
1秒あたり数コマしか使えない世界で。
- 宮本
- 動かないコマもありますしね。
- 小田部
- そういうこともあって欲求不満になったんです。
そんなときに、池ちゃんから、
任天堂に入って、アニメーションで
何かアドバイスをしてほしいと言われたんです。
でも、僕はゲームなんて見たこともないし、
唯一知ってたのがインベーダーゲームで(笑)。
- 岩田
- インベーダーゲームは、やっておられたんですよね。
- 小田部
- いや、人がやっているのを見ただけ(笑)。
だから、なぜゲームにアニメーションが必要なのか、
わからなかったんですよ。
- 宮本
- それはそうですよね。
- 小田部
- だけど、アニメーションが
役に立つんだったらいいですよと。
でも、任天堂にいるのは、
1年か2年のつもりだったんです。
それが、21年ですよ(笑)。
- 一同
- (笑)
- 宮本
- でも1年や2年じゃやっぱり無理でしたね。
当時はまだ、小田部さんに動かしてもらえる環境が
ゲームの世界にありませんでしたし。
- 岩田
- 小田部さんが来られることになったとき、
宮本さんはどう思ったんですか?
- 宮本
- 「それはありえないでしょう」という感じでした。
僕はもともとマンガが好きで、
アニメーションもよく見ていたんですけど、
小田部さんのお名前を知っているほど
詳しくはなかったんです。
ところが、現役のアニメーションおたくが1人いましてね。
彼が小田部さんの名前を聞いただけでふるえたんですよ。
- 小田部
- ウソでしょう(笑)。
- 宮本
- いや、いっしょに会ったときも、
緊張のあまりふるえていました(笑)。
小田部さんにお会いする前に、
「魔法使いサリー」とか「新・巨人の星」などを
描いておられた香西(隆男)さんを
池田さんから紹介されたことがあるんです。
- 小田部
- 香西さんも東映動画出身ですね。
- 岩田
- そうなんですか。
つくづく任天堂は、東映動画OBの方々の
お世話になっているんですね(笑)。
- 宮本
- 『パンチアウト』(※11)の絵を
香西さんに描いていただいたり、
外部のプロの方に協力いただくような機会が、
少しずつ増えていたんですけど、
小田部さんの場合は任天堂に入って働かれるというので
「本当にいいんですか」と(笑)。
※11. 『パンチアウト!!』=1983年に登場した任天堂のアーケードゲーム。
- 岩田
- 突然、本物の人がやってきて、
受け入れる準備もできてないんですからね(笑)。
- 宮本
- で、僕らの絵を最初に見たとき、
どう思われたんですか?
- 小田部
- 絵じゃなくって、
ゲームを見せてくれたんです。
『スーパーマリオブラザーズ』を。
- 宮本
- ああ、そうでしたね。
- 小田部
- 僕は『スーパーマリオブラザーズ』で
マリオがいろんな動きをしているのを初めて見て、
本業のアニメーションが忘れ去っていくものを
ゲームがやっているんだと思ったんです。
- 岩田
- あの当時でも、動きも含めて
いろんなことができていましたからね。
- 小田部
- まだそこには表現されていないかもしれないけど、
これからやろうとしていることは
すごく理解できたんです。
ところが、入社してからしばらくは、
アニメーションの仕事は何にもしなかったんですよね。
- 宮本
- そうでした(笑)。
- 小田部
- 毎日会社に来ては、自由に発想して
ラクガキばかり描いていました(笑)。