- 岩田
- 東映動画に入社した小田部さんは、
どのような仕事からはじめられたんですか?
- 小田部
- 最初から動きを描けるわけじゃないんですね。
まず、動きの大きなポイントをつくる原画の人がいて、
その次の段階をつくる人がいて、
我々のような入り立ては
そこからあがってきた絵をきれいな線に
一生懸命にクリーンナップして間の絵を作りながら、
動画の仕事を覚えていきました。
- 岩田
- それはどのくらい続いたのですか?
- 小田部
- だいたい3年ぐらいしますと
動きがわかってくるようになって、
動きをつくる人になれるんですね。
- 岩田
- つまり原画の人になれるんですね。
- 小田部
- そうです。
そのあともいろんな作品に関わったんですけど、
夢中に過ごしているうちに、10年くらいたったのかな。
最初のうちは会社に勢いがあってよかったのが、
次第に作品に経済性を求めるようになってきたんです。
自分たちでオリジナルな作品をつくるよりも、
マンガ雑誌の話題作とかに題材を求めていくようになり、
自分としても、創作に対する意欲が、
だんだんなくなっていったんです。
- 岩田
- 少しずつやらされ仕事になっていったと。
- 小田部
- そう。ところが1963年の作品だったかな、
「太陽の王子 ホルスの大冒険」(※3)。
同期の高畑氏が監督しているんですけど、
そのときにアニメーションに対する根性と言いますか。
- 岩田
- 根性?
- 小田部
- それまではけっこう気楽に
アニメーションをつくってきたんです。
ところが「ホルスの大冒険」は
高畑氏の初めての監督作品でしたから、
彼自身、一生懸命だったんです。
作品に何が求められているのか、
何を表現しなきゃいけないかとか、
心理描写もしっかりやって、とか、
スタッフにも強く求めてきたんですよ。
自分もその要求に何とか応えようとしているうちに、
いつの間にか根性が・・・。
- 岩田
- 備わったんですね。
※3. 「太陽の王子 ホルスの大冒険」=1968年公開の劇場用アニメーション映画。
- 小田部
- だから、「ホルス」の仕事が終わったあとは、
どんな仕事も恐くなくなりました。
- 岩田
- 修羅場を乗り越えて自信がついたと。
- 小田部
- 自分たちとしても、よく頑張ったと、
そんな気持ちになれる作品でした。
そのあとは、どんなものでも、
ぶち当たって行けるような度胸がついたんですね。
後に、東映動画を飛び出すことになりましたが、
入社して12年くらいたった頃だったと思います。
- 岩田
- ちなみに、この話題に触れないわけにはいかないんですけど、
「アルプスの少女ハイジ」(※4)と
小田部さんとの出会いは?
- 小田部
- それがまさに東映動画を飛び出た結果、
「ハイジ」に出会うことになったんです。
さっきも言ったように、東映動画では
創造性の高い作品はもうつくれないという
失望感がつのったときに、
あるプロダクションから、高畑氏と僕、
それに宮さんに対して、
ある児童文学の名作をつくらないか
という話がきたんです。
※4. 「アルプスの少女ハイジ」=1974年に放送されたテレビアニメーション作品。全52話。ズイヨー映像制作。
- 岩田
- その話を聞いて、すぐに飛び出したんですか?
- 小田部
- いや、もちろん動揺しましたよ。
いっしょにやってきた仲間もいましたから。
でも、どうしてもそのアニメーションをつくりたかったので、
そういったしがらみを振り切って、飛び出したんです。
ところが飛び出したのはいいけれど、
原作者のOKをもらえなかったんですね。
- 岩田
- それはショックだったでしょうね。
- 小田部
- しっかり準備をしていましたからね。
- 岩田
- それがそのときにできていたら、
どんな作品になっていたんでしょうね。
見たかったなあ・・・。
- 小田部
- それで、途方にくれてしまったんです、
高畑氏、僕、それに宮さんの3人で。
大挫折ですよね。それを目当てに会社を出たのに、
できなくなってしまった。
ところが、その企画がなくなったことで
東京ムービーの「パンダコパンダ」(※5)が
生まれることになったんです。
- 岩田
- へえ、そうだったんですね。
※5. 「パンダコパンダ」=1972年公開の劇場用中編アニメーション映画。東京ムービー制作。
- 小田部
- で、その「パンダコパンダ」をつくったあと、
別の会社から「ハイジ」の話が来たんです。
そこでまた、さあどうすると悩むわけです。
東映動画をやめて、またここもやめてと、
3つめの会社になりますからね。
だけど、高畑氏に作品が作れるという確信があるなら、
宮さんと僕はついていきます、と言ったんです。
そうして「ハイジ」につながっていったんですね。
- 岩田
- なるほど。
- 小田部
- でも、「ハイジ」も当時は
あんなのは当たるわけがないと言われていましたね。
- 岩田
- そうだったんですか?
- 小田部
- だって「巨人の星」とか、
スポーツ根性ものが全盛の時代でしょう。
- 岩田
- 確かに異彩を放っていましたよね、「ハイジ」は。
だけど、圧倒的に心に残るような強さがあったと思います。
- 小田部
- それに、当時のテレビアニメーションには、
経済性が求められるというか、
枚数制限があるわけですよ。
僕らは、たくさんのコマ数で
豊かな表現をしたいと思っているのに、
それができないと。
- 岩田
- 予算の関係で、企画段階から
制約が見えていたんですね。
- 小田部
- 枚数が制限はされるのはわかってはいたんですけど、
そもそも「ハイジ」の物語は短いお話なんですね。
でも、高畑氏はそれを堀り下げていって、
山の上の日常とか、人間関係を描こうと。
そこで制作に突っこんでいったのですが、
制作現場は、本当に大変でしたね。
徹夜徹夜の連続で、死ぬような思いもしましたし、
本当にひどい生活でした。
- 岩田
- どっかで聞いたような(笑)。
あともうひとつ聞きたいことがあるんです。
「風の谷のナウシカ」(※6)では
とても重要なシーンに関わられたそうですね。
※6. 「風の谷のナウシカ」=数々の賞を受賞した、1984年公開の劇場用長編アニメーション映画。
- 小田部
- ええ、原画で参加しました。
- 岩田
- ラストのシーンで、
オウムにはねられて死んでしまったナウシカが
再生する重要なシーンがありますけど、
その部分を小田部さんが手がけられたとか。
- 小田部
- 突然、宮さんから
「手伝ってくれない?」と声をかけられて、
「うんいいよ」なんて気楽に引き受けたんです。
それで打ち合わせをして、ささっと描きました。
触手が伸びてくるシーンがあったでしょ。
もともとは宮さんが描いたレイアウトがあって、
それを僕がなぞって原画にすると
固い線になって壊れちゃうんですよ。
だから、触手の原画の1枚目はレイアウトの絵を
そのまま使ってもらったりしました。
出来上がった映画を見たら、
重要なシーンなので
僕はもうビックリしちゃって。
- 一同
- (笑)
- 岩田
- 宮崎さんが
「小田部さんに怒られちゃった」と
おっしゃってたそうですね(笑)。
- 小田部
- 怒るのは当然でしょう。
だって、そんな大事なシーンなのに
絵コンテを全部見せてくれなかったんだもん(笑)。
- 岩田
- 宮崎さんもあのシーンは
小田部さんに描いてほしかったんでしょうね。
- 小田部
- でもねえ、宮さんとはよくケンカしたんですよ。
「母をたずねて三千里」(※7)をつくったときとかね。
それに高畑氏ともケンカをしましたね。
きちんとした演出的な構想があるのに、
僕が勝手に自分の感性で描いたりしてね。
思えばケンカばっかりしていたみたいですね(笑)。
※7. 「母をたずねて三千里」=1976年放送のテレビアニメーション作品。全52話。