笠原教授による市民虐殺
『南京事件』P133 笠原十九司著作 岩波新書 「日本の大軍が城内に侵入、南から攻めてくる」という恐怖の情報が、まだ居 住区に残留していた市民を震撼させた。当時、十数万の市民がまだ自宅にい たといわれる。市民のまえを前線の中国軍がパニックをおこして逃げていく。中 国軍がいなくなり、自分たちが日本軍の襲撃に直接さらされることになった市民 にパニックが走った。(中略)
日暮れとともに、膨大な数の退却・壊走兵と、軍隊といっしょに南京を脱出し ようとする避難民の群れが、ゆう江門に向かって洪水のように殺到した。 (中略)
これにたいして第三十六師の城門守備兵が発砲して阻止しようとしたため、戦 車隊はこれを強行突破した。戦車につづいて、それまで武力で通過を阻止され ていた兵士と避難民の大群が、水門を開かれた奔流のようにどっとゆう江門か ら脱出した。
(注 ゆう江門は原著では漢字で表記されている。「ゆう」は手ヘンに邑) |
『南京事件』P144 笠原十九司著作 岩波新書 (南京陥落時) その城内には難民区をのぞいて、まだ五万人以上の市民が住宅地域に残っていたといわれる。 |
『南京事件』P157 笠原十九司著作 岩波新書 日本軍の追撃を逃れて、南京城北壁を越えあるいはゆう江門脱出して、長江南岸を埋め尽くすように集まった何万と言う群衆は、今度は城壁と長江に両側を挟まれた状態で、長江の上流と下流の両方向から日本軍が殲滅戦を展開してくるという絶望的な状況に追いこめられた。 |
そして避難民は揚子江沿い、もしくは揚子江を渡河中に日本軍に掃蕩された、というのが虐殺派の創作した物語です。
市民虐殺を生み出す手口
安全区からパニックになった数万市民が揚子江に向かったという事件はありません。ですから揚子江に向かった何万人という市民がいたとしたならば、それは安全区以外の場所にいたことになります。つまり、安全区以外の場所に(殺害された)数万規模の市民が存在していたというのが虐殺派の主張となります。
しかしながら史料によれば、ほとんどの市民は安全区におり、安全区以外の場所にはさほど多くの住民が存在していなかったことが示されています。これでは市民大虐殺があったことにできません。そこで虐殺あった派は都合の悪い史料は見なかった事にして、準拠史料を提示せずに「○○と言われる」という手法でごまかしをはかっているのです。
史料提示の問題点
一般的に広く知られている説を提示する場合や、情報源の提示が必要とされないほど広く知れ渡っている時には、情報源を提示を省略して「○○と言われる」という使い方をする場合もあります。この場合「○○と言っているのは誰か(情報源はどこか?)」というと、「一般的に知られている情報では」ということになります。つまり、一般的な見解を提示する場合には「○○と言われる」を使用しても構わないのですが、特殊な見解を提示する場合にその手法は許されないのです。
例えば「織田信長は女だったと言われる」として、準拠史料の提示なしに信長女性説を既定のものとして論じた論文があるとしましょう。ではこの論文をもって「信長女性説」が証明されたと考えていいのでしょうか?。この論法が通用するならば、雪男もネッシーもゴジラでもウルトラマンでもおおよそどんなものでも「実在するといわれる」として存在が認められることになってしまいますし、どんな事件でも捏造可能になってしまいますね。
既存史料に反する特殊な見解を提示するときに「○○と言われる」という使い方は学術的には認められないのです。これは歴史検証の基本的なルールです。
南京陥落時の人口を例に考えてみましょう。一般的な史料によれば「南京陥落時の人口は20万から25万と言われており、ほとんどが安全区に収容されていたと言われる」という使い方はアリです。複数の史料があるからです。言い換えると「安全区以外の場所(市街地)にはさほど多くの住民はいなかった」という状況が一般的な史料から導き出されるわけです。
ですから虐殺説が「安全区以外の市街地に5万人(あるいはそれ以上)住民がいた」と主張するのであれば、これは既存史料と矛盾する特殊な見解ですから準拠史料を提示しなければお話になりません。準拠史料・資料が提示できない場合、その言説はなんら根拠がないものとして学術的な価値は認められないのです。
こういった基本的な史料提示のルールも守れない虐殺説は、言い換えると最も基本的な史料提示の方法を無視しなければ成り立たない説ということになり、学術的には問題にならないレベルと言うことができるのです。
敗走する軍隊と共に市民が避難するという虚構
仮定の話になりますが、安全区以外の場所に多くの住民が存在していたとしても、これらの住民が陥落目前に敗走する軍隊とともに南京から脱出を図る可能性はかなり低いと言えます。
南京市民の脱出は爆撃が始まった8月から始まっています。11月20日に蒋介石は南京が防衛できないと考え遷都の発表をしています。この時点で南京市長の書簡によれば調査の結果として南京市の人口は約50万と記されています。
蒋介石の布告により南京陥落は避けられないことを市民は知っていましたし、安全区の設定も南京陥落を前提としたものでした。南京城の攻防戦は12月10日頃から始まっています。これらの事から12月12日深夜、あるいは13日早朝になって、突然市民がパニックに陥って揚子江に殺到することは非常に考え難いといえます。敗走している軍隊と共に揚子江を目指しても保護を受けられないばかりでなく戦闘に巻き込まれる可能性が高くなり危険だからです。
そもそも城門が開いているかどうかも分からず、戦闘中ですから揚子江に民間船があるわけがありません。下関に出ても市民は揚子江を渡れない可能性が高いことになります。揚子江を渡れなければ避難する意味がありませんから、市民が下関門や揚子江に殺到する理由はないのです。
市民が戦火を避ける場所としては安全区がありますから、むしろ安全区に殺到する可能性のほうが高いと言えるでしょう。実際に数千人規模の中国兵が安全区に潜伏しています。しかしながら、陥落直前になって何万もの市民がパニック状態で安全区に殺到したという記録はないので、そもそも安全区以外の市街地にはそんなに住民がいなかったと考えるのが妥当ということになります。
ご都合主義の虐殺説 (4)下関門(ゆう江門)が開いていたという虚構 |
そもそも日本側の記録によれば、陥落時下関門(ゆう江門)は土嚢で封鎖されていました。外側から土嚢で封鎖された門を戦車が突破するのは無理ですから、虐殺派が主張するように中国軍の戦車隊が門を突破して『兵士と避難民の大群が、水門を開かれた奔流のようにどっとゆう江門から脱出した。』ということはまず考えられません。
『南京戦史』P160 (歩兵三十三連隊通信班長 平山秋雄証言) 十四日朝、獅子山砲台付近(城外)の宿営地出発、ゆう江門に到着。ゆう江門は外側に土嚢を積み上げ閉鎖され入城できない。約二時間の作業で漸く通過できるようになった。城門の右側には数本のロープが吊り下がっている。
(注 ゆう江門のゆうは手ヘンに邑) |
『証言による南京戦史(9)』 (歩兵三十三連隊 羽田武夫証言) 14日は連隊命令により、城内西北一帯の掃蕩を命ぜられ、ゆう江門および西北隅の獅子山砲台を掃蕩しました。 城内侵入はゆう江門の脇の門から入ったと思いますが。ゆう江門は土嚢でギッシリと固められており、城内の道路両側には点々と死体があったと記憶しています。城壁にはたしか十五、六本の色々の布切れの吊が垂れ下がっておりました。 |
『南京戦史』P165より、12月14日(陥落翌日)の 下関門(ゆう江門)の写真
ちょっと判別し難いのですが、三個の門のうち中央部と向かって左側の門には土嚢が積み上げられているのが見えると思います。向かって右側の門の白く見える部分は向こう側の景色です。この写真は平山、羽田証言裏付けるものと言えるでしょう。
ラーベ日記より
また、ラーベ宅に潜伏していた将校も、城門ではなく城壁を越えていますから、やはり城門は封鎖されていたと考えられます。
『南京の真実』P297 講談社(ラーベ日記) 二月二十二日 羅福祥は空軍将校だ。本名を汪漢萬といい、軍官道徳修養協会の汪上校とは兄弟だ。汪氏は韓の力ぞえで上海行きの旅券を手に入れることができたので、私の使用人だといってビー号に乗せるつもりだ。南京陥落以来、わが家に隠れていたが、これでやっと安泰だ。日本機を何機も撃ち落としたが、南京が占領されたときは具合を悪くしていた。もはや揚子江を渡ることができず、逃げられなかった。支流を泳いでいくとき、友人をひとり失い、やっとのことで城壁をよじのぼって安全区に入ることができたのだ。 |
以上のように揚子江を渡りきれずに、下関から城壁を越えて城内に戻ってきています。城門が開いていればわざわざ城壁を越える必要はありませんので、ラーベの記述からも城門が封鎖されていたことが伺えます。
外国人記者の回想
『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』P571 青木書店 南京事件調査研究会・編訳 F・T・ダーディンからの聞き書き(2)
この下関区域では、それこそ大勢の兵隊がゆう江門から脱出しようとして、お互いに衝突したり踏みつけあったりしたのです。前にもお話したような気がしますが、私たちが南京を出るときに、この門を通りましたが、車は死体の山の上を走らなければなりませんでした。この門から脱出しようとした中国兵の死骸です。中国兵はあちらこちらで城壁に攀じのぼり脱出を試みました。これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。この地域で戦闘はありませんでした。
(※1987年8月14日のインタビュー、質問者は笠原十九司、伊原陽子) |
『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』P583 青木書店 南京事件調査研究会・編訳 A・T・スティールからの聞き書き
<写真10>城壁からロープがさがっているでしょう、これは壁を乗り越えて逃げようとした命知らずの人たちの思案の跡です。彼らが脱出に成功したのかどうかは分かりません。彼らは絶望的でした。だれひとりとして助かる見込みはありませんでした。日本軍がゆっくりと、しかし確実に侵攻してきているこの無情な状況で、逃げ道が限られていたのです。雪崩のように人々が門に押し寄せてくる。そうなるとおのずから圧死以外にないのです。
(※1987年9月4日のインタビュー、質問者は笠原十九司、伊原陽子) |
以上のインタビューは笠原教授がおこなったものです。どこにも門が開いていたことを匂わす記述はありません。
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