○市民虐殺説の崩壊
冷静に歴史を研究する場合、南京に残留した外国人の記録や、陥落三ヶ月後に行われたスマイス博士による戦争被害調査に大規模な市民虐殺が記されていない以上、そういった市民大虐殺は発生しなかったという結論になります。中間説〜まぼろし説はこの立場をとっています。否定説は一次史料に基づく極当たり前の解釈を行っているのです。
対する虐殺あった派は、数の議論、即ち規模の検証を行うと大規模な市民殺害説が崩壊してしまうので「数の問題ではない」と言うしかないのです。
○自虐史観の押し付けが目的 「数の問題ではない」とするのは、「数の問題には反論できない」という意思の表れという事になります。つまり大規模な市民虐殺は証明できないという虐殺派の敗北宣言とも言えるわけです。 学術的にはすでに決着がついている問題なのですが、虐殺あった派の目的は客観的な歴史研究ではなく、日本人に贖罪の意識を植え付けるものなので、このようなレトリックを使います。(1)「数の問題ではない」として、(2)数の問題は関係ないから残虐行為をした「日本人は反省するべきだ」という論法です。歴史的事実関係の研究で敗北したので、論点を「過去の反省・歴史の解釈問題」にすり替えたい意図があるのでしょう。この実証的ではない歴史解釈が自虐史観と呼ばれるものです。
○自虐史観と虐殺説
自虐史観では「数の問題ではない」として、「規模の検証を避ける」ことによって、数は不明ながら数万規模の市民殺害があったように装いたい。ようするに誤魔化したいわけです。
というのは中間説〜まぼろし説でも、中国兵の処刑があったことは異論なく認知されていますから、本当に数が問題ではないならば史料の整合性が高い中間説でもなんら問題はないはずなのです。しかしながら、自虐史観・虐殺あった派は中間説を支持することもなく、大規模な市民虐殺はあったはずだと主張します。つまり中間説4万−6万よりも数は多いはずだと主張しているわけです。 (1)「数の問題ではない」と言いながら、(2)「実は数を問題にしている」のが虐殺説であり、(3)しかし数の議論はしない、というのが虐殺あった派の態度と言えます。
○贖罪意識と市民虐殺 なぜ、虐殺あった派が市民大虐殺説にこだわるのかというと、日本人に贖罪意識を植えつけるには、中国兵に対する処刑だけでは不十分であるという思いがあるからだと思われます。 言うまでもなく中国側も日本軍捕虜を殺害していますし、第二次大戦における捕虜虐待は多くの国で問題になっています。「数の問題」ではないとすれば日本人だけが凶悪だったということにはならず、贖罪意識を植え付けるには不十分と言えるでしょう。 一方で、軍事的に意味のない市民虐殺はそれが5万でも10万でも30万でも本質的な意味は変わりませんから、日本人に贖罪の意識を植えつけるのが目的の自虐史観においては市民虐殺説を譲ることはできないのでしょう。 客観的な歴史研究というものは、歴史的事実関係の研究です。○○だから反省するべきというような「史観」を押し付けるのは思想教育であって歴史研究ではありません。数々の史料と矛盾しながらも「虐殺があったとする研究」は思想教育であって、まっとうな歴史研究とは言えないのです。
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