通州事件・南京事件・尼港(ニコウ)事件その他 |
水間政憲 ジャーナリスト 正論6月号 平成18年 1927(昭和2)年の南京事件に続いて、1928(昭和3)年5月、済南事件が発生した。 以下は、同事件に立ち会った佐々木到一誌の手記である。 「・・・・邦人に対して残虐の手を加え、その老荘男女16人が惨死体となってあらわれたのである。予は病院において偶然その死体を実見したのであるが、酸鼻の極みだった。手足を縛り、手斧様のもので頭部、面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。焼け残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である」 |
宮崎正弘 評論家 正論11月号 平成16年 ≪最初から謀られて通州の悲劇≫ 盧溝橋事件から僅か三週間のち、即ち昭和12(1937)年7月29日に「通州事件」は起きた。通州は明朝時代に城壁が築かれ、天津から集荷の拠点として栄えた。交通の要衝、運河の街でもある。北京の郊外、東へおよそ18キロ。事件直前まで日本人にとっては「治安の良い」場所とされた。なぜなら親日派の「冀東防共自治政府」が通州、天津などを治めており、日本人を妻とする「殷汝耕」が長官だったからだ。 この自治政府は付近から雑兵を掻き集めて、一応、9千人の「保安隊」を組織していた。お人好し日本は自治政府が親日であることを信じて疑わず、保安隊の軍事訓練まで施していた。たまたま事件前夜まで、南宛に向かう萱島連隊が通州を兵站基地をして、盧溝橋事件十日後から駐屯していた。だから居留日本人は二重に安心していたのだ。 しかし通州には反日派の頭目「張慶餘」が率いる第一総隊と「張硯田」が率いる第二教導総隊、合計で三千の軍が野砲で武装して駐屯していた。ひとつは城内に、もう一つの部隊は城外(といっても南門のすぐ脇)に。しかも張らは親日政府=キ東防共自治政府保安隊のなかに密かに潜り込ませた反日分子と接触を絶やさず、また親日派のはずの保安隊のなかに共産党の細胞まであった。彼らは反日では団結する。反日分子たちは日本軍が通州で空になる機会をじっと窺っていた。 一方、南京の国民党政府は通州に「冀察政務委員会」を設置していた。事実上の影の政府だが、委員長は中国第二十九軍の「宋哲元」だった。冀は河北省、察はチチハルを意味する。かれらは極秘裏に居留日本人の住所、家族構成を調べ上げ、リストを作成していた。 絶好のチャンスがきた。盧溝橋事件から二十日後の7月27日、無敵を誇る萱島連隊は作戦のため多数のトラックに弾薬を積んで出発した。ただし萱島連隊は南門城外に不気味に居座った第二十九部隊が武装解除、撤退に応じないため、先に攻撃してからの通州出発だったが。残留の日本軍守備隊は自動車中隊、憲兵などを含め僅か百十人だった。駐屯するはずの藤尾小隊は大部分が天津に出張中だった。 二十九日午前三時、冀東防共自治政府の保安隊は突如、日本軍を襲撃した。不意をつかれた日本兵は獅子奮迅の防戦をするも、死者三十人あまり。この戦闘の最中に保安隊は自分達のボスだった殷汝耕を拘束し、同時に日本人民間人の虐殺を開始した。居留日本人四百人のうち、二百六十人あまりが惨殺されるのだ。 大局的戦況はといえば、日本軍が蒋介石軍を大破し、南宛を占領した。「北京を死守する」と豪語していた宋哲元は遥か南方の保定まで逃げ込んだ。それを知らない張慶餘と張硯田ら中国軍と保安隊は日本人の非武装民間人を虐殺し続け、夕方に萱島部隊がもどったと聞いて逃亡、北京へ向かった。ところが北京付近で翌三十日に日本軍と遭遇、忽ち粉砕され、張慶餘も張硯田もさっと「便衣服」に着替え、一目散に逃げた。部下らは置き去りにされた。こういう卑劣な戦闘指揮をとるのは中国特有であり、日本軍人に殆んど例をみない「規律」である。 道時刻、惨状を聞いた日本軍の第二連隊はおっとり刀で通州の現場に到着、あまりのむごたらしい惨殺死体に驚嘆、愕然、唖然となった。 浜田巡査宅では長女が手榴弾で吹き飛び、長男は銃剣で刺され、夫人は凌辱された後女子師範学校まで引き立てられたが、途中で逃げ出した。 付近の日本食堂では男の子が壁に打ち付けられて頭蓋骨陥没の即死、五人の女店員は射殺されていた。食堂・旭軒の女店員八人も強姦のあと裸体にされ、陰部には銃剣がさし込まれていた。他の場所には女の全裸死体が放置され、全員の陰部が刃物で抉られ、或いは男は眼を抉られ、カフェでも女店員が絞殺され、全裸のまま死体を放置してあった。或る店では女店員全員が強姦され、陰部に箸が突っ込まれていたり、口の中に砂を入れられたりして殺されていた。なかには死体から内臓がはみ出し、蝿がたかった現場もあった。 通州の高級割烹旅館だった「近水楼」では女中四人が射殺後に凌辱され、天井裏に隠れていた宿泊客十一人は北門付近まで数珠繋ぎにされて連行されたあと虐殺された。ことき同盟通信の安東利男記者が城外に転がり落ちて一命を取りとめ、北京まで這云の体で逃げた。 こうして保安隊は事前にリストアップしていた日本人の民家を次々と襲撃し、財産を横領強奪、片っ端から日本人を殺戮し、凌辱を重ねた。逃げ遅れた日本人は手足を縛られ鼻や喉を針金で突き通され、ひきずられ、二ヶ所に集められたうえで射殺された。 日本軍守備隊に運良く逃げ込むことができた百二十人だけが助かった。 ≪通州住民はまるで知らない≫ 殷汝耕は、その後、日本軍の手に戻され裁判で無罪となり、犠牲者追悼の義捐金を集めたり供養搭を建てたりの活躍をしたものの、日本の降伏後、蒋介石により「親日分子」の烙印をおされて処刑、悲運を辿った。 虐殺の指揮をとった張慶餘と張硯田は、その後も戦争中を生き延び、とくに張慶餘は中将にまで出世、1986年にはしゃあしゃあと回想録まで出版、デタラメなことを書いている。 だが、「通州の虐殺が中国側の謀略だった証明ははからずも最近中国で出版された『盧溝橋事変風雲編』という書物にあり、そのなかには、張慶餘と張硯田と宋哲元との間に盧溝橋事件以前から密約が存在していた事実が書かれている。しかも張慶餘と宋哲元とを結びつけたのは哥老会であった」(岡野篤夫「通州事件の真相」より抜粋、『正論』平成二年六月号)。 ≪反日ムードの裏側≫ ・孫子以来、中国政府の要諦とは謀略が第一であり、中央集権の統一メカニズムを維持するためにさかんに情報操作、政治宣伝、悪質な謀略を用いる。本気で武器を用いた殺し合いをするのは愚か、と孫子は説いた。 ・江沢民は各地に反日記念館をつくり「愛国心教育基地」とした。だが民衆レベルにおいては、たまたま所属する国、王朝が何処かと戦争を始めようが、それは自分とは関係ないのだ。李鴻章が日本と戦争をしたことも、つい最近まで中国では「あれは北洋艦隊と日本の戦争」であり、国家レベルではない、と解釈されている。⇒負けを認めたくないのだ。 |
黄 文雄 「中国・韓国 反日歴史教育の暴走」 海竜社 盧溝橋事件から三週間たった昭和12(1937)年7月29日、北京の東方に位置する通州で、済南事件を上回る日本人居留民虐殺事件が発生した。これは通州事件と呼ばれている。 当時、通州には親日政権の「冀東防共自治政府」が設立され、一万余りの保安隊を擁していた。日本側はこの冀東保安隊を信頼していたため、自身の兵力はほとんど配置していなかった。 事件の原因は、盧溝橋事件の直後、国民党ラジオでデマ放送を流したことだった。「日本軍は敗走した。29軍は大挙して冀東を攻撃する。『偽都』通州の敵を屠り、『逆賊』殷汝耕主席を血祭りにあげよ」 この放送を鵜呑みにした通州保安隊千数百名は、すぐさま国民党に寝返り、突如日本軍を襲撃したのである。彼等は日本側の兵力が手薄なことを利用し、小銃や機関銃を乱射しながら日本人居留地に突入し、虐殺、凌辱、掠奪のかぎりを尽したのである。 これにより現地の日本人385名のうち、幼児12名を含む223名が虐殺された。多数の女性は強姦された後、陰部を銃剣で突かれえぐり取られた。首に縄をかけられ引き回しにされた上、目玉をえぐられた者もいた。牛のように鼻に針金を通したまま殺された子供や、生きたまま片腕を切断された老婆もいた。 これらは、すべて中国伝統の虐殺の「作法」である。通州事件は中国の抗日戦史のなかでは「反正」(親日政権に対する正義の反乱」や「義挙」などと評価されている。愚昧な保安隊による単なる虐殺事件にすぎないのにだ。 この事実は、東京裁判で弁護側から提出された証拠に記録されている。だが、この事件に関する証拠は却下された。なぜなら、中国人の暴挙の事実が明らかになると、連合国側の不利になると判断されたためである。 |
中西輝政 京大教授 諸君 平成18年2月号 1927年、蒋介石の北伐軍が南京に攻め込んだ時に起こった「南京事件」では、日本領事館を含む列国の領事館が中国兵に襲撃され、日本領事や婦女子が暴行を受け外国人が殺害されたために、英米は共同して砲艦でもって北伐軍を攻撃し日本にも共同出兵を求めてきたが、日本の幣原内閣は中国への内政不干渉を理由に応じなかった。幣原は邦人の被害をただ耐え忍ぶしかない、という態度をとったのである。この幣原のまさに常軌を逸した行為に、当然ながら日本国内では世論が昂まった。 |
尼港事件 別冊正論4 ・当時、日支両国は赤色ロシアがドイツと単独講和を結んだことから生ずる極東の混乱に共同して対処するため、日華共同軍事協定を結んでいたが、尼港事件が発生して、我軍と赤色パルチザンとの間に市街戦が起こると、尼港に停泊中の四隻の支那艦隊は何と我軍の兵舎領事館員を砲撃したのである。我守備隊の一部はこの背信に憤激して支那砲鑑に突撃したが、支那砲鑑より機関銃の乱射を浴びて氷上に全滅した。盟約を結んでおきながらこの通りの背信行為に出たのである。そしてこれも知られた事実だが、尼港在住七百数十名の日本人を陵辱、虐殺した赤色パルチザン四千名の中、千名は支那人、五百名は朝鮮人だったと伝えられる。 |
中村 粲 南京事件 1927年3月24日 ・国民革命軍が南京に入ったときに、一部の国民軍将兵が日本人を含む外国人に殺人、暴行、掠奪、陵辱を働いた。これは程潜の第六軍の共産系兵士が起こした事件で、同軍の政治部主任・林祖涵がソ連人顧問・ボロジンなどの指示で指導したものであることがはっきりしている。その結果、蒋介石は多くの中共党員を粛清し、英国は対ソ断交をした。 その後、下野した蒋が来日し、11月5日、田中義一首相と会見して「指揮官は別に怖るるに足らざるも軍隊内に共産主義者の侵入することは寒心に堪えざるなり」と述べて、軍隊下部の赤化についての憂慮を語っている。 |