佐々木到一(『ある軍人の自伝』普通社 1963)
佐々木到一(1886〜1955)
松山出身。広島県立一中卒。陸士18期、陸大。1937年12月、第16師団の一部「佐々木支隊」を率いて、南京城外下関に突入した。このとき2万人の国府軍将兵を「解決」したという。1941年、中将で予備役編入。戦後BC級戦犯に問われ、撫順に収容され、非転向のためか、拷問死した。江藤淳は「佐々木が中国に裏切られたというのは、中国が『他者』であるという認識に欠けていたからだ」と評した(戸部良一『日本陸軍と中国』講談社1999)。佐々木が、敗戦後も蒋介石を信頼し続けたことにたいする感想であろう。中国人は中国と交渉する外国人は、完全に中国に味方する人間でなければ承服しないのである。
ところがこの日になって重大事件が惹起されていることが明かにされた。これより先、居留民は総領事館の命令を以て老幼婦女は青島に、残留する者は限定せる警備線内引揚げを命じてあったが、それを聞かずして居残った邦人に対して残虐の手を加え、その老壮男女十六人が惨死体となってあらわれたのである。
予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。焼残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である。わが軍の激昂はその極に達した。
これではもはや容赦はならないのである。もっとも、右の遭難者は、わが方から言えぱ引揚げの勧告を無視して現場に止まったものであって、その多くがモヒ、ヘロインの密売者であり、惨殺は土民@の手で行われたものと思われる節が多かったのである。
右の惨死体は直に写真に撮られ、予はこれを携えて東上することになったのである。
衝突の事情については次第に分明して来た。蒋介石は、袞州行営において、外人の生命財産の保護を命じ、また指定する部隊のほか、済南城内及び商埠地に進入することを禁ずる旨の制令を発したことは事実であったが、命令が徹底するか否かも、責任は彼れ蒋介石にあることはむろんである。
五月一日、済南落城の当日、制令にもかかわらず、各高等司令部その他の首脳部が先を争って商埠地になだれこんだA。
彼等は一斉に一カ月間の戦塵を洗い流さんことを欲したのである。日本軍の警備区域と接して開放していた商埠地には一時に支那兵が充満した観がある。
これでは蒋介石の制令も何にもならぬわけだ。そして前に述べるが如き政治部員の宣伝演舌が行われ、またある支那兵はことさらわが歩哨の前において腹を出して突けと言って揶揄し、これは小気味よくわが歩哨から突き殺されているような事件が生じているのである。
五月三日、普利門前通りの山東日報社に何故か支那兵が乱入したのをきっかけに、付近のわが警備兵が駆けつけて銃剣突撃の結果多数の支那兵を武装解除したC。
それが直に全部に波及し、商埠地に入りこんだ支郡兵が進退に迷って、無統一の射撃を始めたものである。これでは停戦命令が伝えられるはずはないのであるから、畢竟蒋介石の言い分はたんに机上の空論だけであって、彼の統帥が下級部隊まで少しも徹底しないDことを暴露するだけの話だったのである。
後でわかったことであるが、蒋介石はこの衝突事件を利用して、巧みに各部隊を撤去して黄河を渡河し、北伐を継続Bしているのであって、日本軍が打っ付けた期限付きの最後通牒も蒋はいなかったのである。城内には第九師だけが残っていた。後に南京で熊式輝にあった時、「済南事件のお蔭で北伐が完成したではないか」と言ったら、彼は二言なくそれを肯定した。
支那軍が都会に入ったら、膠着してなかなかそれを駆り立てることはむずかしいのであるE。
佐々木は、蒋介石の顧問であった。徐州では蒋介石と直接、北伐の作戦について意見をきかれている。5月1日に鉄道で済南にきて、ドイツ人の経営するアジアホテルに投宿した。ここまで1カ月間、革命軍(佐々木は国府軍をこう呼ぶ)と行動をともにしていた。
その日の午後、第6師団司令部を訪問、蒋介石の使者として「警備施設の撤去」を要請し、師団長は受け入れた。5月2日警備線を巡回。その日夕は料亭で会食。そのあと蒋介石の本営にいき、「警備施設の撤去」がなされたことを復命したと思われる。ここで城内の蒋介石本営に泊まった。
ーこの間は『自伝』では隠されている。後記ー
3日午後、衝突が発生したと知らされるや、蒋介石の依頼で商阜地に戻り、「停戦」を第6師団司令部に伝えた。第6師団は「日本軍はとっくに停戦している」(佐々木は日本軍が攻撃される一方であることがわからなかった)といった。佐々木は天津特務機関の車を借り、城内に戻り蒋介石に伝えた。
蒋介石は「当方も総司令部から人を出してあるから、日本軍側の希望通りになっていると考える、よってこの旨日本軍の司令部に復命してください」といった。
そのまま車でとって返すと、城内で国府軍将兵(佐々木は楊虎城の兵であるという)より暴行をうけ、また蒋介石本営に戻った。すると蒋介石や黄郛(親日派と目されていた)が見舞いにきた。ついでがあるということで、佐々木は再度、日本軍警備地区に戻され、第6師団参謀の手で済南病院に入院した。
5月6日、済南をたち青島に向かった。そのあと上海に戻ったが帰朝命令が出、陸軍省に呼び出され、白川陸相から邦人虐殺を防止できず、第6師団の作戦行動を阻害したかどで厳しく叱責された(ただし本人は前からオレは陸相に嫌われていたとケロッとしている)。
佐々木到一が厳しい任務を課せられたのは事実であるが、佐々木の回想には明らかな誤りがある。
@で被害者が麻薬密売者と書いている。実際の死亡者12名は以下の通りである(( )内年齢)。
- 西条八太郎(28)本籍大阪府
- 西条キン(24)八太郎の妻
- 大里重次郎(28)沖縄県
- 多平真市(34)長崎県
- 井上邦太郎(30)長崎県
- 藤井大次郎(40)愛知県
- 宮木猶八(55)熊本県
- 高隈むめ(50)長崎県
- 山下孫衛門(46)岐阜県
- 馬場信一(34)
- 安田勘三(60)大阪府
- 内田伊三郎(45)佐賀県
このように馬場信一以外は本籍が知られている。これは取りも直さず、領事館に滞在届けを出していたためであって、普通、「麻薬密売者」は届けは出さない。また女性は2名であり、プロレタリア作家のいう「外人梅毒で鼻が欠け落ちた」淫売という表現は被害者への冒涜であろう。
危うく逃れた民間人の談によると、急遽避難命令が出たこと、および警備施設撤去がなされ安全と思ったことの2点から、3日午前中に多数が家財を取りに戻り被害にあったのではないかとのことである。居住者は2200人と多く、守備線範囲外に出ることを完全に防止することは難しかったのであろう。
佐々木の誤解は、自らの邦人保護への意識欠如を被害者を蔑むことで代償行為としたということではないか。
そのうえ、邦人殺害が土民の犯行というが、それまで済南ではこのような集団的殺害事件は起きておらず、またAで制令を無視して国府軍将兵がなだれこんだことを認めている以上、自己撞着といわざるをえない。
本事件は第3次南京事件同様、蒋介石の命令または容認に基づいたものであろう。佐々木到一への暴行ですら、あとの時宜を得た「見舞い」を考慮すれば、蒋介石の命令である公算が強い。
蒋介石は、他の中国政治家同様、外国人の前では絶対に本音を明かさない上、日本人にたいしては平然と相反することをいうのを常としていた。佐々木到一のような陸大出の成り上がりエリートをいきなり交渉任務につけることに無理があった。
佐々木はさらにBで、衝突事件を利用して北伐を続行したというがたわ言であろう。蒋介石は済南事件以降、日記を「雪恥【恥をそそぐ】日記」と命名しているくらいで、この事件を大敗北と認識していた。
国府軍のスローガンは「帝国主義打倒」であって、日本こそが第一の敵なのである。日本人は自らが嫌われていることから目をそむけ、機嫌をとるような擬態をとる傾向がある。佐々木は一生懸命、中国人の面子がたつ理屈をいい、中国要人の歓心を買っているのである。
5、6万人の大軍が、1個連隊3500人に大敗北すれば「恥」と感じるのは万国共通である。佐々木の中国人は(大いに頭がよく)「敗北を利用してうまくやった」と感じたことは、まさしく支那通(チャイナ・スクール)メンタリティであろう。
さてCである。佐々木は隠しているが、3日朝、次のようなやりとりがあった。『昭和3年支那事変史』は、「是ヨリ先午前八時頃南京駐在武官(佐々木のこと)ハ師団長ヲ宿舎ニ訪問シ南軍総司令官(蒋介石のこと)申出ノ要旨ヲ警備司令官ニ伝達セシ旨報告セシカ師団長ハ巡視ノ時刻迫レル為懇談シ得サリシモ該申出ニ就キ自己ノ意図ヲ之ニ示シ南軍総司令ノ反省ヲ促シメタリ」と書く。福田師団長は蒋介石の面会申し出を断った。
福田は蒋介石に拉致されることを怖れたのだろう。
西田済南総領事代理と思われる筆者は次のように書いている(『済南事件を中心として』)。会談の内容は『昭和3年支那事変史』に書かれているが、直後銃撃をうけたことに触れられていない。
西田済南総領事代理は、事件発生の當日(5月3日)午前九時半、佐々木中尉の案内によつて、小泉中佐、酒井少佐、河野参謀等と共に、督辮公署に蒋介石を訪問した、
席上には外交部黄郛、主席参謀熊式輝、朱培徳などの幹部も控える、
西田領事は我出兵の趣意を説明し、且濟南に於ける我派遣軍警戒の実情を詳述し、日支双方ともに克く了解し、今日まで何等の暴行又は掠奪等の不祥事の無かつた事を告げて、亙に無事を喜び合つた、
蒋介石もいと打解けた態度を以て、種々の談話を交換したが、結局司法行政は政治委員に処理をさぜ、其の委員長には蒋作賓を任命し、衛戍司令には方振武を任命すぺく内定してゐるが、軍事部は時を移さす、北伐を継続する筈であるから、日支關係の今後益々親密の度を増さん事を切望する旨を述ぺた、
政務委員蒋作賓も同席にあり、最近の機會に福田師団長と會見したき旨を述ぺ、極めて隔意なき會談を終つて、一打は帰途に就いた、
城門附近に差しかゝると、突然銃聲が各処に起つた、掠奪も亦始まつた模様である、うなりを切って飛び來る銃弾は、領事等の自動車を掠めて、危険言うばかりなき市街戦が起つたのだ、
事の意外に驚きつゝ、一行は忽皇として総領事館へ引き返すと、ソコには福田師団長の一行もゐた、
亙に鼎座、當面の対策を講じたか、兎も角事件を拡大せしめぬ方針から、総司令部、熊式輝、及商埠地内にある黄郛外交部長等に対し、双方停戦の必要を述ぺた、
『蒋介石秘録』8〜国民政府の公式見解とみられる
五月三日(一九二八年"昭和三年")、済南(山東省)の朝は、さしせまった空気の中に明けた。
五月三日午前八時、済南駐在の日本の総領事(代理・西田畔一)が日本軍の憲兵司令をともない、総司令部にくると、私(蒋介石)に面会を求めた。
彼らはこういった。
「済南に進駐した国民革命軍は、軍規や風紀が非常によく、しかも秩序がきびしく守られている。そこで日本の済南派遣軍は、きょう撤退させることにした」
日本の憲兵司令は、つづけてこういった。
「きょうはとくにお別れのごあいさつにうかがいました」
日本の総領事は能弁であった。革命軍はいかに秀れた軍隊であり、これにくらべると、軍閥、張宗昌軍はお話にならない、とさんざんわが軍をほめそやしたあげく、日本人はどれほど革命を援助しようとしているかなどと、三十分問も話していった。しかし、彼らの話は、まったく心にもないことばかりだったのである。
最初の銃声は、彼らが帰ってから、十五分もしないうちにおきた。
こうまで、両者の言い分が異なっているのは苦笑を誘う。だが、ウソをついているのは中国=蒋介石側である。「日本の済南派遣軍は、きょう撤退させることにした」と西田総領事代理がいったとは、日本軍の統帥からは考えられない。それをいえるのは、参謀本部、野戦軍司令官、参謀長に限定されるのが明治憲法規定である。もし、西田がいったとすれば、日本には戻れない。
外交官が軍の統帥を左右できれば、満州事変は起きない。日本における師団長(陸軍中将)と総領事代理の地位の差がどうのようなものか、中国側にはわからなかった。
また、日本側と時間が1時間半食い違っているが、これも銃撃開始時間を誤魔化したい小細工である。中国側発表は「9時すぎに一人の中国兵が、日本軍守備区域で射殺されたことが発端になった」というものである。「最初の銃声」というのがみそであるが、衝突は相当規模で起きており、銃撃は散発的なものではなかった。
さらに、午前8時に佐々木が福田師団長と話したことは、日本側相当数が確認している。佐々木は中国側に会談を約束した手前、無理やり西田総領事代理をおしたてて督辮公署に「9時半」にいったのである。
督辮公署の会議中に城壁外の銃撃音が聞こえないはずがないので、中国側は、督辮公署における会談を8時に誤魔化したのである。いったいなぜ、銃撃開始時間を繰り上げたのか?
この事件の謎解きは簡単である。蒋介石は、佐々木のいうように、彼の統帥が下級部隊まで少レも徹底しないD、というほど無能ではない。国府中央軍の軍紀は峻厳であった。ただ、日本軍とは軍紀の内容が違っていた。
国府軍はこれまでにも南昌や鄭州で、軍命令による略奪を繰り返してきた。佐々木も控えめに支那軍が都会に入ったら、膠着してなかなかそれを駆り立てることはむずかしいのであるEと書いており、国府中央軍による都市の略奪が常態化していたことを知っていた。蒋介石は敵対都市を攻略すると麾下の将兵に「自由行動3日間」と度々命令した。ソ共赤軍が赤白内戦のさいウクライナでこれをしばしばやったので、蒋介石はソ連視察時に知ったのであろう。
蒋介石は督辮公署会談を、自己が命令したのではない、というアリバイに使ったのである。
佐々木は略奪があっても、どうしてもそれが統帥者、すなわち蒋介石からの命令であることが信じられなかった。この点では、西田済南総領事代理も同じであった。公刊戦史である『昭和3年支那事変史』ですら、蒋介石の命令ではないという基調で書かれている。
蒋介石は日中友好を説くニコニコ顔の裏で、夜叉のような顔をして交渉団の殺害を命じてたのである。さもなくば、城門を出た途端、銃撃されるわけはない。また、国府軍はこれまでも略奪を常態とし、平然と次の都市に向かっており、どうして済南のみ違った態度をとるのであろうか?
この事件の翌々年の1935年の中原大戦でも、閻錫山軍と国府中央軍の間で3回ローラーがかかる激戦が済南をめぐって起きた。日本軍はいなかったが、済南において略奪は発生しなかった。両軍の司令官は済南事件の再演を怖れ、略奪禁止を厳命した結果であった。すなわち司令官が命令さえしなければ、軍隊が集団で略奪行為に走ることはまずない。
中国人のこういった複雑・残忍な交渉術に中国で長く仕事をしている人間ほど幻惑されてしまう。
参謀本部次長(総長は出張中)は、午後6時30分事件の内容を知るや、「(第3次)南京事件の行き掛かりもあり、この際、国軍の威信を傷つけざる如く考慮を望む」と福田に打電し、午後9時45分、首相と交渉したうえで、さらに「事態の発展に伴い内地より徹底的に増兵せらるべきにより、この際断乎たる処置に出るを要す」と激励した。
このときの参謀本部は事態をよく掌握していたのである。
統帥権の独立