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大正7年、共産ソ連の誕生に対し、各地への共産化防止のため各国軍は共同でシベリアに出兵しました。
黒龍江河口から20キロの地点にある尼港(ニコライエフスク)には当時、日本居留民が約700名、白系ロシア人が約1万5000名、その他朝鮮人などが住んでいました。
シベリア出兵以来、日本軍の2個歩兵中隊(第14師団隷下)が駐屯し現地の居留民保護にあたっており、付近の共産主義武装組織は一時鳴りを潜めました。
ところが大正9年になって勢いを盛り返した武装組織が尼港市街を包囲、守備隊は衆寡敵せず、停戦に応じることとなりました。
2月、尼港に入った武装組織員はまず、白系ロシア人を武装解除し、資本家階級の家族ともども惨殺します(約2400名)。在尼港の石田副領事はこの暴虐に抗議しましたが武装組織は受け入れず、逆に日本側に対し武装解除を要求してきたのです。
武装解除後何をされるかは明らかであったことから、現地の部隊および義勇隊(あわせて110名)は武装組織の本拠を急襲しましたが、衆寡敵せず駐留部隊指揮官石川少佐以下多数が戦死しました。
居留民の多くは領事館に退避しましたが、集まったのはわずか250名で、逃げ遅れて武装組織の手にかかった人も多かったそうです。武装組織は子供を見つけると2人で手足を持って石壁に叩きつけて殺し、女と見れば老若問わず強姦し両足を2頭の馬に結びつけて股を引き裂いて殺したりと、それは残虐な方法で命を奪ったということです。
一昼夜戦闘が続き、領事館のなかでの生存者も28名となり、弾薬も尽きたため、一同はまず子供を殺し石田副領事、三宅海軍少佐以下全員が自決しました。
尼港に残る日本人は河本中尉率いる別働隊と領事館に避難しなかった民間人140名となりましたが、彼らは武装組織と交渉した上位部隊指揮官からの命で武装組織に降伏し、監獄に入ることとなりました。
春になって、第7師団(旭川)の多門支隊が同地の救援にようやく赴きましたが(武装組織侵攻以後は海面凍結のために派遣できなかった)、そこで見たものは地獄絵図でした。
焼け野原と化した尼港には死臭が漂い、「いったん撤退するが再び来て日本人を征服し尽くす。覚悟せよ」との武装組織の声明書が残されていました。
「救援部隊来着近し」の報を受けた武装組織は、中国人の妻妾となっていた14名以外全員を虐殺したのです。
唯一生き残った彼女らの話では、犠牲者たちは、両目を抉り取る、5本の指をバラバラに切り落とされて刺殺される、金歯があるものはあごから顔面を裂かれて抜き取られる、女は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られるなどの方法で殺されました。
獄舎の壁には血痕、毛のついた皮膚などがこびりついており、被害者の手によると思われる鉛筆書きで「大正9年5月24日午後12時を忘れるな」と書かれていました。
以上が尼港事件の概略です。
当時の日本人の「黙って殺されるよりは戦い抜く」という考えから、無謀ともいえる攻撃を仕掛けたことに対し、非難する声もあります。
自国民の生命財産を保護するためにはどんな屈辱にも耐えろ、という声です。
しかし、数千人のロシア人が虐殺されるのを目の当たりにし、内地からの救援部隊が結氷のため来ることができない、という絶望的状況のもと石田副領事、石川少佐が下した決心について、私は非難する気になれません。
その後の経過を見ても、武装組織がはじめから日本人の殺害を目的としていたことは明らかで、「どうせやられるのなら一矢報いてやる」との気概に基づいた行動は、血気の勇ではあるでしょうが、私は敬意を払いたいと思います。
さて、軍が派遣できた当時ですらこのような悲劇的事件が起こったことを思いますと、「世界中にいる国民をいかに保護するのか?はたして今の日本政府には外地で危難に陥った自国民を本気で救出する気構えがあるのか」について危惧を感じざるを得ませんでした。
現在、外地で危難にさらされた邦人がいる場合、自衛隊は武装した部隊をかの地に送り救出することが、憲法上できないのです。
小泉内閣では憲法改正について積極的な議論が展開されると思いますが、どうか国民保護のために自衛隊が有効に活動できるよう環境を整えてほしいものです。
犠牲になられた先輩方に心より哀悼の意を表します。
5月24日の先輩方の犠牲を絶対に忘れてはいけません。
(010411述)
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