Print this Post Article Lists Back

【萬物相】ソニーらしさを失ったソニー

 井深大と盛田昭夫がソニーを創業した翌年の1947年、米ベル研究所がトランジスタを開発した。シリコン半導体を三層に重ね、電流を調節、増幅するこの電子回路スイッチは兵器開発をはじめとする軍事用だった。ラジオ修理業者出身の井深は驚いた。すぐに米国に飛び、ベル研究所の経営陣を説得し、トランジスタを商業用に使用できるライセンスを獲得した。

 ソニーはその技術で1955年に日本初のトランジスタラジオ「TR‐55」を発売した。5年後には世界初のトランジスタテレビ、3年後には日本発のトリニトロン方式のカラーテレビを発表し、ヒット商品となった。トランジスタラジオは発売翌年だけで10万台が売れ、60年代末には500万台を売り上げた。技術は米国が開発し、カネはソニーが稼ぎ出した格好だ。

 相次ぐ大ヒットの原動力となったのは、研究段階の技術を商品化する量産技術力と生き生きとした創意性だった。アイデアマンと呼ばれた盛田は、トランジスタラジオを発売する際、マーケティングのポイントを「ポケットの中のラジオ」に定めた。もはや重くて大きい真空管ラジオの時代は終わった、というメッセージだった。しかし、トランジスタラジオの初期モデルはワイシャツのポケットに入れるには少々大きかった。そこで盛田はラジオが入る大きさのポケットを付けたワイシャツを営業社員に着せ、販促活動を繰り広げた。まさに「創意的な手段」だった。

 ソニーの元の社名は「東京通信工業」だった。1958年に東京証券取引所に上場した際、誰でも発音しやすい「ソニー」へと社名を変更した。しかし、誰もが漢字の会社名を使っていた当時は異様に感じられた。メーンバンクの三井銀行の総裁までもが「会社が滅ぶ」と社名変更を思いとどまらせた。しかし、トランジスタ技術を得ようと米国に渡った際に世界化の重要性を見抜いた二人の創業者は、「ソニー」という社名を押し通した。

 電子産業にとどまらず、ビデオ、通信、ゲーム産業で世界をリードしてきたソニーが昨年、2600億円に達する過去最高の営業損失を計上した。2000年以降、売上高の70%を占めていた電子部門の業績不振が続いたためだ。トランジスタラジオやウォークマンのように独創的な「世界初」「日本初」の商品が誕生しなくなって久しい。ソニーをトップ企業に押し上げたのは、井深・森田世代が植え付けた創意と革新の精神だった。その初期のソニーらしさを失いつつあるソニーの前途は決して平坦とは言えない。

李濬(イ・ジュン) 論説委員

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

このページのトップに戻る