短編 『忠犬ハク』
短編 『忠犬ハク』
『忠犬ハク』
雨が降っていた。
大陸中原に栄える覇皇の建てし国、フロレシア。
その永遠なる都ルーガ。
人口百万を優に超える大都市の片隅、そこは路地裏だった。
揺れる傘。傘の持ち主は、その場にしゃがみこんでいた。
黒を基調とする軍服。大陸最強と名高いフロレシア帝国正規軍の軍服である。
―――と、足音がした。
硬い軍靴の靴底が裏路地の汚れた水溜りに波紋を描く。
「こんな所に居たのかよ、レフィナ」
投げ掛けられたのは、耳朶を乱暴に振るわせる声。
だが、その何処かに優しさをも滲ませる声。
「はぐれて、迷子になったら大変だよ、レフィナ」
最初に声をかけてきた男の背後から、もう一人、男が声をかけてくる。
深い知性を感じさせる優しさに満ちた声。
二人とも、片手で傘を持ち、もう片手には買い物袋を携えていた。
黒を基調とする軍服に身を包んだ青年たちだ。
紫の髪と紅の瞳を持つ青年ギルギット=ルメイと青い髪と落ち着いた眼差しをしている青年オットー=セルバン。
「ギル、オットー、見て」
レフィナと呼ばれたのはまだ少女だった。
あどけなさの残る顔立ちを飾る豪奢な黄金の巻き毛が、ともすれば陰鬱になりそうな雨の中でも輝いている。
「んあ?」
「なにがあるんだい?」
二人して、レフィナがしゃがんで覗き込んでいた物を覗き込む。
「―――犬?」
「うん!」
瞳を輝かせて、レフィナが頷く。
レフィナ=フュークル。十代半ばの少女にして、第一軍第一騎兵師団長の要職にある。
階級も少将だ。ギルもオットーも彼女の部下で、連隊長を務めている大佐である。
そして、そんな彼女が雨の中、しゃがみこんで覗き込んでいたのは粗末な木箱だった。
木箱の底には何枚か、小汚い布が敷かれ、その布の上に小さな子犬が丸まって収まっていた。
雨に濡れ、すっかり寒さに震えている。
レフィナはそっと木箱から子犬を抱き上げて、懐から取り出したハンカチで、その濡れた小さな体を拭ってやる。どうやら白い毛並みをしているようだ。
しかし、薄汚れて、茶色くなっている。ハンカチで拭っても汚れが滲んだだけだった。
「捨て犬だね、こいつ」
木箱に貼り付けられた紙を指差して、オットーが言う。
彼の指摘どおり、木箱にはすっかり濡れて、文字も読めなくなりつつある紙が貼り付けてあり、その紙には小さな文字が並べられていた。
『―――です。可愛がってください』
肝心要の名前の部分は、雨に流されて、読めなくなっている。
「レフィナ?」
子犬を抱きしめ、その小さな頭を撫でながら沈黙してしまったレフィナに、オットーが声をかける。ギルはいつも元気が良いレフィナが放つ陰鬱たる雰囲気に、何も言えずに、居心地悪そうに身動ぎしている。
「私ね………昔、犬を飼ってたの」
ようやく口を開いたかと思えば、その声は、今までレフィナの口から聞いた事もない暗い声だった。オットーとギルは一瞬顔を見合わせて、オットーがレフィナに穏やかな声をかける。
「その犬の名前はなんと言うんだい?」
「………。ハク」
そして、彼女は語り始めた。
フュークル家は三百年以上続く名族だ。
一族は代々、武を以って皇帝に仕える軍人貴族として同じく多くの近衛騎士団長を一族の中から輩出している名門ホーン家と双璧を成す存在である。
その一族からは多くの師団長や軍団長、軍令部長などを輩出している。
他氏出身の軍人を圧倒する優秀な人材を世に輩出するため、フュークル家はその子がまだ幼い時より厳しい訓練を課す事で有名だった。
レフィナはそんなフュークル家の当主ルシウス=フュークルの二番目の娘としてこの世に生を受けた。彼女の訓練は二歳の時に始められた。
ひたすら叩かれ、殴られるだけの訓練。厳しく熾烈な訓練。
家族の愛情など受けた事もない。フュークル家の人間として相応しくないと判断されれば即座に殺されるしかない。最初はただ受けるしかなかった。やがて、少しでも急所をはずして、痛みを軽減しようとするようになる。さらには、避ける様に。最終的には反撃するまでに。
そうすると教官が代わり、より強い者に代えられる。
そして、反応も出来ない攻撃に叩きのめされる段階にまで戻る。
その繰り返しだ。
五歳からはその鍛錬に加え、軍学の勉強も始まり、同時に貴族としての礼儀作法の勉強も始まる。
地獄のような日々だった。
午前五時、旭日とともに起き出し、三時間の組み手。
朝食後、昼までまた三時間の組み手。
昼食後、夕食まで五時間の組み手。
夕食後、三時間の軍学勉強、三時間の礼儀作法勉強を経て、午前一時に就寝。
そして、そんな日々は慣れることはない。慣れる頃には教官はより強くなり、少しでも気を抜けば死ぬしかない。死なないためには少しでも早く、相手の動きに反応できるようにならなければならないのだ。
そして、十二歳になり、彼女の実力は既にフュークル家の人間でなければ抗し得ない程になっていた。
その頃の教官は姉であるソフィア=フュークルだった。
「良い、レフィナ。あなたの動きはとても直線的過ぎるわ。そのような動きでは相手にすぐに動きを見破られてしまう。もっと複雑に動きなさい」
そう言い放つや否や、ソフィアは地を蹴ってレフィナに襲い掛かってきた。
竹刀がしなりながら、レフィナの肩を打とうとする。
レフィナは身を反らして、この一撃を回避した。
そのまま後ろに倒れ込みながら、姉の脇腹を狙って足を跳ね上げる。
「だから、貴方の動きは単純すぎるわ」
姉はあっさりと妹の蹴りを受け止め、地面に倒れた妹に容赦なく竹刀を振るった。
首筋を打たれ、妹の意識は一瞬にして闇に落ちた。
目が覚めたとき、既に辺りは薄暗くなっていた。
「…………」
身を起こして、体の各所を確かめる。
首に疼痛を感じたのをはじめ、全身がぼろぼろだったが、動かない場所はない。
普段ならば気絶しても水を浴びせかけられて強制的に覚醒させられ、訓練は続くのに。
どうして、そうされなかったのか。
それどころか、どうして自室に運び込まれているのか。
普段は道場や庭に置き捨てられたままになっているのに。
気配を感じて、レフィナは薄暗い自室に目を凝らした。
かすかな息遣いが聞こえる。
「ハク。おいで」
「わん!」
飼い主の言葉に、彼女が飼っている犬が元気良くベッドに飛び乗ってきた。
ぼろぼろの体が激痛を伝えてくるが押さえ込む。
痛みを感じ、動きを鈍らせればあっという間に殺される。
打たれても動きを鈍くさせないために、自然と身につけた技能だ。
痛みを感じる場所を認識し、意識の外に押し出す。
それだけの事で、痛みは感じなくなる。
ベッドに飛び乗ってきた愛犬は真っ白な毛並みをした犬だった。
だが、貴族が飼う様な血統書付きの、一匹で家が何軒も買えるような犬ではない。
レフィナが拾ってきた雑種に過ぎない。
「ハク。どうして姉様は鍛錬を途中で止めたんだろう?」
「戦が起こったからだ」
「っ………」
突如として掛けられた声に、レフィナもハクも揃って身を強張らせた。
常人よりも遥かに気配を読む術に長けている筈のレフィナはおろか、そのレフィナをも遥かに上回る鋭敏な感覚を有するハクですら、その男が部屋に入って来るのに気づかなかった。
痩せた紳士。男を形容するならば、その程度の言葉で足りるだろう。
言葉を足すならば優男。金髪をオールバックに撫で付けた優男だ。
しかし、男はフュークル家当主ルシウス=フュークルであった。
軍人貴族、その一族の頭領である。
驚愕から一瞬で我に返り、レフィナはベッドから飛び降りて姿勢を正した。
途端、意識から押し出したはずの激痛が全身を駆け抜けるが、表情には出さない。
「お、お父様………」
ルシウスはその全身から不気味なほどの穏やかさを放散している。
だから、彼の性格を誤解している者も多い。
だが、彼は戦場ではその全身を返り血で染める修羅となる。
既に現役は退いているものの、彼を凌ぐ力を持つ軍人は数少ない。
「な、なぜここに?お父様」
「戦が起こった」
「戦?」
別に珍しいことではない。
フロレシア帝国は西方の強国スタルナス帝国、南方の蛮族砂の民と何度も干戈を交えているのだ。
そして今上帝スレイマン三世陛下は何度も帝国の精鋭を率いて遠征を行っている。
しかし、お父様がどうしてそのようなことをわざわざ自分に言いに来たのか、レフィナにはそれがわからなかったのだ。
「それで姉は………」
「ソフィアは師団長だからな。既に出陣した。陛下の勅令により私も兵を率いることとなった」
一族の長の声は淡々としている。
穏やかだが、だからと言って安心するのは大きな間違いだ。
この穏やかさのまま、彼は平気で人を殺すのだから。
「お前も連れて行く。用意をしなさい」
父の言葉に、娘の全身を衝撃が雷鳴のように駆け抜けた。
初陣。
彼女は戦場に出た事はなかったのだ。
「わ、私も、ですか?」
娘の言葉に、ルシウスの目が極々かすかに細くなった。
ただそれだけの事なのに、レフィナは呼吸もできないほどの圧力を感じた。
何度か口をパクパクと動かして、息を吸おうともがくが、まったく吸えない。
と、そこでルシウスが放っていた殺気を消した。
息を吸えるようになり、レフィナは慌てて息を吸う。
「い、いえ、お供させて頂きます、お父様」
「出発は一刻(二時間)後だ。準備をしなさい」
「はいっ!」
十二歳で初陣と言えば、世間的に言えばほぼ在り得ないほどに早い。
しかし、フュークル家においては別段早くもなかった。
いや、むしろ遅いとすら言える。
時代がより混迷を深めていた時期とは言え、ルシウスの初陣は九歳の時なのだ。
しかも、その初陣で、彼は敵の中隊長を二人も討ち取る功をあげている。
父が部屋を去り、しばらく呆然とベッドに腰を下ろした後、レフィナは膝の上に乗せたハクの頭を撫でてやりながら、ようやく湧き上がってきた実感を噛み締めていた。
「とうとう初陣だよ、ハク!」
「ワン!」
ハクもまた気負い立つように、吼えた。
ルシウス=フュークルが率いて出陣した部隊は帝国軍の正規部隊ではなかった。
私兵部隊である。貴族が私兵部隊を持つのは別段不思議な事ではない。
最多・最大の荘園領群を持つアリーニ=アウグウェルツ公爵の私兵部隊は一万を超える程なのだ。
軍人貴族として帝国の頂点に立つフュークル家はおよそ五百人の私兵部隊を養っていた。
ルシウスはその私兵部隊を率いて、スタルナス帝国東部国境に遠征する皇帝スレイマン三世の軍に参加したのである。
レフィナの姉のソフィア=フュークルはこの時、第一軍の歩兵師団長だったので、一万余の部隊を率いて既に前線に展開している。
レフィナにはどれほどの兵が動員され、どのような戦況で戦闘が推移しているのかもわからなかった。だが、噂を聞く事はできた。
その噂によれば、先鋒を務めて居るメンフィス=レイス率いる第六軍とスタルナス帝国の東部方面軍が激突し、第六軍が勝利を収め、スタルナス帝国軍は後退したらしい。
しかし、これは飽くまでも噂に過ぎず、噂は確認されねば情報にはならない。
そこで、果たして本当にスタルナス帝国軍は後退したのかどうかを確認するべく偵察隊が派遣される事になった。偵察隊は十隊程編成されたが、レフィナも五十人の私兵を率いて、捜索隊として出撃する事になった。
正規軍でもなく、しかも指揮官は初陣と言う事で、レフィナ隊はもっとも敵部隊との遭遇の危険性が少ないと思われる方面へと差し向けられた。
ダンツァと言う名の村を偵察すれば良いと言うだけの、簡単な作戦だ。
ダンツァ村はスタルナス帝国軍が退路として使用する可能性がもっとも低いと思われる街道筋にある。しかし、どれほど低くとも敵部隊が居る可能性が少しでもある限り、偵察する必要がある。とくにダンツァ村からは前線に展開している第一・第六の両軍団を迂回して直接皇帝スレイマン三世の大本営へと攻撃を仕掛ける事のできる迂回路を扼している。
それだけに、レフィナは責任を感じ、表情を硬くして任務遂行に邁進していたのだが、部下達の表情は和やかだった。歴戦の猛者である彼らにすればこのような任務など緊張するにも値しないのだろう。
後に騎兵将校の道に進むレフィナだったが、この頃はまだ徒歩で指揮を執っていた。
「そんなに肩に力を入れていると凝ってしまいますよ、御嬢様。もっと力を抜かないと」
首筋に刀傷を持つ古残の兵の助言に、レフィナは素直に頷いた。
彼女は貴族に珍しく、貴族だからと言う理由で傲慢な態度をとる事が無かったので、私兵達の間には人気があった。そのレフィナの足元にはまるで彼女を守る騎士であるかのように純白の毛並みを持つ雑種犬が付き従って居る。ハクだ。
ハクは軍用犬としての訓練を受けて居るのだ。もっとも、彼も初陣なのだが。
偵察隊は順調に行程を消化し、ダンツァ村まで後二キロ程の地点までやってきていた。
道中は至って平安。スタルナス帝国軍など影も形も無い。
「やっぱりキエフ=ロドリナスはメンフィス=レイス閣下に敗れてハウゼン・シュタットに篭ってるんだろう」
自然と私兵達の間にそのような楽観的な空気が拡がっていく。
と、そんな空気に水を差す者が居た。
「ウゥウッ………」
低い唸り声をハクがあげたのだ。四肢を突っ張り、全身の毛を逆立てて前方、三百m程先にある街道脇の林を睨みつけている。
「止まって」
レフィナは即座に隊を止め、地面に片膝付いてハクの背を撫でる。
「一体、なにが―――」
「敵よ。ハクが敵を見つけたのよ」
「お嬢さん、敵なんか何処にもいませんよ。キエフ=ロドリナスはハウゼン・シュタットに引きこもって今頃震えてるはずだ」
私兵達はレフィナの言葉に耳を貸さない。
遥かに経験において勝っている彼らの言葉に、レフィナは返す言葉を見つけられなかった。
一瞬目を伏せた先で、牙を剥いて唸って居るハクが居た。
そのハクの姿に勇気を得て、兵を見上げる。
「敵は居るわ。私を信じて」
「しかし、お嬢さん。ハクはまだ訓練途中で―――」
と、そこで古残兵の言葉は突然止まった。
古残兵の首に一本の矢が突き刺さっていた。
古残兵は既に息絶えて居る。
彼が糸の切れた人形のようにその場に倒れるよりも早く、先ほどからハクが睨み付けていた林から無数の矢が放たれた。
「敵襲!敵襲ッ!―――ぐあっ!?」
矢は街道上で停止していた偵察隊の頭上から降りかかってきた。
咄嗟に剣を抜いて矢を払い、レフィナは林に目を向けた。
ちょうど林の影からわらわらと歩兵が姿を現してきたところだった。
槍の穂先を煌かせて、突進してくる。
その数、およそ二百。
(さっきの矢の数からすれば弓兵は百………合わせて三百)
六倍の兵力差は如何ともし難い。
いや、今の矢の攻撃でこっちには負傷者も出て居る。
戦力差は六倍以上だ。
(撤退するしかない―――)
「うわぁぁっっ!!殺されるっ!!」
「逃げろっ!」
「ちょ、みんな!」
撤退命令を出そうとして、レフィナは呆然とした。
既に私兵部隊は統率を失い、潰走しようとしていたのだ。
所詮は傭兵やごろつきなどの寄り集まり、烏合の衆に過ぎないという事か。
それに比べ、敵の統率は完璧だった。
「―――あれは………」
敵の後方に、数騎、突進する歩兵に加わる事も無く戦場を見つめて居る男が居た。
視界に捉えたのは一瞬に過ぎなかったはずだが、それでも男の容姿は瞼の裏に焼きついた。
灰色の髪と左の蒼い瞳、右の黄金の瞳。左右不揃いの瞳が男の端整な顔立ちに妖しいとも言えるほどの魅力を与えていた。
噂を聞いた事はある。スタルナス帝国一の名将とも謳われる東部方面軍司令長官キエフ=ロドリナスの片腕とも評される妖将オルティア=フリンシュ。
その姿を見た途端、レフィナの思考は真っ白になった。
敵はただの小部隊ではなかったのだ。
オルティア=フリンシュが部隊を率いて居るのがなによりの証拠。
あの部隊がこのダンツァ村付近に居た理由。
それは―――。
「あの部隊は大本営を攻撃しようとしていた?」
「御嬢様、命令を!」
呆然としていたレフィナの耳に、悲鳴にも似た叫び声が響いた。
我に返って辺りを見回せば、まだ十名余りの兵が残っていた。
既に歩兵の突進は目前に迫って居る。
味方に当る事を恐れて、弓隊は射撃を控えて居る。
(今なら撤退できる)
レフィナはそう判断した。
「撤退します」
「はっ」
踵を返して、レフィナ隊は撤退を開始した。
敵も猛然と追撃してくる。
レフィナ一人ならば逃げ切れるが、兵の中には負傷兵も居り、逃げ切れない。
「このまま逃げて。大本営に敵部隊の存在を報告しなさい!」
「お、御嬢様!?」
「急ぎなさい!」
レフィナはそう命じて、再度踵を返した。
襲い掛かってくる敵の中に剣を閃かせて飛び込んだ。
彼女と一緒に戦場に飛び込んだのは、ハクだけだった。
その後の記憶は曖昧だ。
気付いた時には、全身返り血塗れで、小さな小川に半身を浸して倒れていたのだ。
おぼろげに、敵の追撃を振り切るために川に飛び込んだところまでは覚えて居る。
全身の疲労は限界を超えていた。
どうやって岸に這い上がったのか、記憶に無い。
「………ハク」
共に戦火を潜った相棒の名を呟く。
霞んだ視界に、何か白い物が見えた。
よく目を凝らせば、返り血と己自身の血に塗れ、ぐっしょりと濡れたハクが、自分の隣に倒れて居るのが見えた。
その口は未だに、レフィナの甲冑の袖を咥えて居る。
「ハク………おまえが私を引き上げてくれたの………」
撫でてやろうとし、はっと気付く。
「ハク、おまえ………」
大きく見開かれたレフィナの瞳に、見る見るうちに涙が盛り上がった。
既にハクは息をして居なかったのだ。
ハクはレフィナをここまで引き上げたところで、力尽きたのだ。
「ハク………」
本当ならば掻き抱いて慟哭したいところではあるが、周りにはまだ敵が居るかも知れず。
それ以前に、そのような体力はもはやレフィナにも残されて居なかった。
激痛を意識の外に押し出して誤魔化しつつ、ハクを優しく胸元に抱き寄せる。
ハクの体はまだ温かった。
レフィナは三日後、ぼろぼろの体を引きずるようにして、大本営に帰還した。
フロレシア帝国軍はレフィナ隊の齎した報告を受けて迅速に行動し、オルティア=フリンシュの部隊を撃破する事に成功していた。オルティア=フリンシュには逃げられたようだが、彼らの大本営奇襲の企図を砕く事に成功したのだ。
その軍功を讃えられ、包帯で全身を覆ったレフィナは皇帝スレイマン三世に謁する栄誉に浴し、皇帝の自ずから感状を与えられた。
しかし、レフィナの表情はまったく優れなかった。
ハクを失った事が、彼女にとってそれほどに大きな衝撃となっていたのだ。
彼女は大本営からも程近い丘の上に小さな墓を作り、そこへハクの遺骸を埋め、遠征の終了と共に帰還する軍に随い、ルーガへと帰還したのだった。
「だから、ハクは私の命の恩人なの」
捨て犬の頭を撫でながら、レフィナの目は追憶の中に眠るハクを見つめていた。
「レフィナ………」
オットーとギルは顔を見合わせて。
ギルが肩を竦めて、口を開く。
「飼ったらどうだ?」
「え?」
レフィナが顔をあげる。
その瞳が潤っているのを見て、ギルは少し顔をしかめて顔を背けた。
「飼えば良いだろ?」
「………良いの?」
「ああ、良いよ。ギルに続いて飼い犬三号と言う事で」
「おい」
オットーの言葉に、ギルが半眼で突っ込む。
「俺はこいつの飼い犬じゃねぇぞ」
「え、そうなの?」
「てめぇ」
惚けるオットーに、ギルの表情に険が浮く。
オットーは軽く肩を竦めて、ギルの殺気をいなし、レフィナに優しげな目を向ける。
「飼うんだったら名前を付けてあげなくちゃ。どうする?」
「ハク」
「ハクか。よし、ハク。先代ハクに負けないよう頑張れよ」
オットーはそう言って、ハクと名付けられた捨て犬の頭を撫でてやった。
「ウ〜、アゥン!」
犬が心地良さ気に鳴く。
「やる気満々みたいだね」
「よろしくね、ハク」
レフィナの顔に笑顔が戻っていた。
「お。雨が上がったみたいだぜ」
空を見上げて、ギルが言う。
オットーもレフィナも、そしてハクも空を見上げて。
「天もハクを祝福してるみたいだね、レフィナ」
「うん!」
レフィナは輝かんばかりの表情で頷いたのだった。
『忠犬ハク』 完
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