序 章   第一章   第二章   第三章   第四章   第五章 

第  五  章

第十五分所は戦犯収容所

今迄三回冬を越しましたが、何時も同じ仲間と同じ仕事場で、収容所だけが良い建物に変わって行っただけでしたが、この冬は知らない土地で、知らない人達と、それに仕事も変わって、然も此処は戦犯収容所だと言います。毎日、何人かが取り調べを受けて居る様です。其処に行ってからも、遊ばせては貰えませんから炭鉱の様な仕事に従事していたと思うのですが、其処で何をして居たのか余り記憶に残っていません。きっと数日しか行かなかったのだと思います。

ついに私も呼び出しが来ました。其処は広い部屋に木の長椅子が沢山並んでいて、其の前に机が三つ並んで居ました。長椅子に私一人が腰掛けて待って居ました。他には誰も居ません。『兵隊を五ヶ月しかして居ない私の何を調べるのだろう』『如何して私が戦犯なのだろう』不安一杯で待って居ました。

やがて初老の目付きの鋭い鷲鼻の将校が来て小さな部屋に呼ばれました。衣師団と八路軍(中国共産軍)との戦闘に参加したかどうかの調べでした。同じ幹部候補生のAが行ったのにお前は何故行かなかったのかと、色々脅したりして調べられました。
其れは執拗な尋問でした。三ヶ月余りの教育期間中の移動と場所を正確に答えました。そして私は最後まで教育隊から出た事は無いと頑張りました。彼は怒って「良く考えておけ」と言って帰ってしまい、私は勝手に帰ってはいけないのだと思い、其のまま部屋に残りました。

十月に成って居ます。夜に成るとマイナスに冷え込みます。呼び出されて其のままの服装で来たので寝るどころでは有りません。彼はその日から三日間姿を見せませんでした。流石に三日目に成ると、水も飲んでいないので立つと倒れそうに成ります。鍵は掛かって居ません。出ようと思えば出られます。出て誰かに知らせ様かと迷いました。『ええいっ!未だ一日や二日は大丈夫だろう』と壁に持たれてウトウトしていました。

彼は三日目の午前中に遣って来ました。吃驚して「フアイ?ポチム」(なぜ?どうして)と言って直ぐ帰してくれました。彼は「帰って考えておけ」と云った積もりの様でした。爺さん一言「帰って」と言ってくれれば、寒い思いも、空きっ腹になる事も無かったのに、日本語は難しい。外は物凄く良い天気だったのですが、食堂まで行くのにフラフラしました。

其れから間も無くクロホーズ(国営農場)に行かせてくれました。捕虜が農場に行くのは良く働いた者へのサービスです。地の果てまでもある広い畑から、じゃが芋の収穫をします。毎日掘って居るのか、食べて居るのか解らない様な仕事でした。有る程度掘ったら、芋を山にして土を被せ、再び掘って行きます。

楽しく働いて居る時、私だけを呼びに来て収容所に連れて帰られました。『又何処かへ送られる』帰るトラックの上で覚悟を決めました。『私、一人で連れて行かれるとは』心細い十一月の初め頃の事でした。帰ると直ぐ私を入れて五名がトラックに乗せられ駅に向って出発しました。一緒に行く人に聞いてみると「共産党の講習を受けに行く様だ」との事。パッサージ(罰・刑務所)で無くて安心しました。

以前に行ったのは集団農場で、今度行ったのは国営農場です。流石に国営ですが、何処までも続くじゃが芋畑も、途中に有った広大なトマト畑も、赤く熟れたトマトは実を落とし、やがて凍って仕舞う事でしよう。トマトは青いのを収穫して塩漬けにし、食料の不足する冬場に充てがわれます。

地の果てシベリアに流されて来た人達の子孫。そしてスターリンを恨んで居る人達。言葉には出しませんが働きもしません。何故、私がこの人達と講習を受けに行くのだろう。今年のダモイで取り残されたのが少し解って来た様な気がしました。


大都会ウラジオストックへ

初めてソ連の列車に乗りました。木の寝台車です。捕虜用の列車では有りません。其れも木製の二段ベッドです。今回も何処の駅から乗ったのか、何処でシベリヤ鉄道の本線に這入ったのかも解りません。
何も知らされないまま、降りた駅もあの大きいウラジオの駅では有りませんでした。多分一駅手前か、一駅向こうで降りたのではないかと思います。町の感じは中国の青島の街に似ていると思いました。坂ばかりの街です。港に降り、岸壁に横付けされた貨物船に乗り込みました。

船が共産主義を教える収容所です。各地から七十人余りが集められて居ました。其れを学歴によってA、Bの二クラスに分けられ、私はAクラスです。教科書はなく紙とペン先にインクが渡され、紙は思い思いに切って綴じ、ノートを造ります。
先生はお歳を召した高橋先生と、もう一人は若い猪俣先生と言う方で、ノモンハン事件(一九三九年満州国とモンゴルの間の国境線をめぐり、実質的には両国の後ろ盾となったソ連軍と日本軍の間で戦われ、日本軍は大敗北したまま停戦となる)の生き残りの方です。高橋先生は昭和の初めに亡命して来られた方だそうです。高橋先生は片足が不自由でした。

毎日「マルクス・レーニン主義」の講義です。収容所に帰って講義しなければ成らないらしく、全部ノートに取らねば成りません。難しい言葉ばかりです。「弁証法的史的唯物論」何て講義が有りました。難しく難解でこの講義を一番ハッキリと覚えて居ます。

幾らマルクス・エンゲレスと言ったって、私達が捕らわれた国は収容所ばかりの国、レーニン主義と言われても、言葉は発せられない国、反対すればシベリア送りです。如何に共産主義が良い理論でも、現実にはスターリンの独裁だ。「ヨーボネ・スターリン」と言う考えは頭から離れる事は有りませんでした。理論は理論。現実は現実と受け止めて、何が何でも一句残らず書き留めて帰る。其れだけに必死で学んだ事は事実です。

此処でも皮膚を遣られました。鉄の部屋にスチームを通して居ます。其処に四六時中居ると股の皮膚が遣られ、インキンと言う様な状態に成りました。医務室で薬を付けて貰ったのは良いですが、其の晩痒くて眠れない程でした。薬をつけた所が真っ赤に成って被れて居ます。又何か違うものを塗って貰いました。益々酷くなり汁が出る様に成って、じくじくしています。
軍医の人も此れは困ったと言って、今度は粉薬をつけてくれました。大変楽になり痒く無くなりました。翌日も粉薬を付けて貰い、其の粉薬だけの治療が二、三日続きましたかね。すっかり乾いて薬が効いたようです。
後もう少しで完治です。再び医務室へ、軍医が「お前は不思議な身体をして居る」と、「この粉はメリケン粉だよ」と言います。前は硫黄、今度はメリケン粉です。私の皮膚はどう成って居るのだろう。

又異国で新しい年を迎えました。四度目の正月です。十八歳の少年も二十二歳の青年に成りました。この時は元旦に餅が出されました。四年振りのお雑煮で新年を祝う事に成りましたが、正月とて浮かれた気持ちにはなれません。占領された日本に住む家族の事ばかり案じていましたから。陽の射さない街ウラジオでの事です。


ウラジオの海が凍った

ウラジオは太陽の無い暗い街です。講義が済むと甲板に出て、ウラジオの暗い街を街灯が光を増すまで毎晩眺めていました。ウラジオに二ヶ月半程も居たのに、太陽が出た日は一日も無く、極東の只一つの港でしたが、冬は太陽がほとんど拝めませんでした。明るくなったと思ったらすぐ薄暗くなり、何時までも薄明るい街。

或夕方、波に音が有ります。ウラジオの港は深い入り江で普段は穏やかな港です。小さな漣が「ザラザラ」と音を出して居ます。良く見ると海はシャーベットの様に成り、其の小さな氷がひしめき合って音を出して居るようです。まるで波が水と塩分を振り分けて居るように見えます。其れがだんだんと穏やかなうねりに代わり、静かに成ってきました。翌朝、起きて吃驚です。見渡す限り湾は輝くばかりの美しい氷原に変わって居ました。あの塩辛い海水が水だけ集まって凍ったのです。其の内に、船も難破船の様に船体が氷に覆われて来ました。もう少しするとトラックでも走れる様に成るそうです。

講習の期間中色んな所に見学に行きました。最初に行ったのが博物館でした。色んな物が有った筈ですが、残念ながら記憶に残って居るのは狼の剥製だけです。『此れが吠えて居たのか』割と大きな身体でした。

次に行ったのが「ボルショイ・サーカス」です。一般のソ連の人と一緒に見ました。特に驚いた事も有りません。白けた目で見ていたからかも知れません。此処は異国の地である事は歪めないのですから。

最期に行ったのが街にある映画館です。上映されたのは天然色の「シベリア物語」で、此れは日本にも来ましたが、感動しました。シベリヤの大地をカラーで見る。其の広大なスケールに圧倒されました。筋書きは単純なもので、戦いに狩出された青年が、戦いを終えて故郷のバイカル湖畔に帰ると言う様なものだったと思います。
初めて見たカラーの映画でした。確かに過酷なシベリアの自然も映画で見れば素晴らしい。この映画の挿入歌が「ザ・バイカル」でした。好きな歌の一つに成りました。

岸壁に荷降ろしの作業にも行きました。流石に各収容所の代表、凄い働き者ばかりです。麻袋に入った穀物を船から倉庫に積上げる作業で、一袋が六十キロ余り有ります。クレーンで降ろされたのを担いで、タラップを駆け上がり高く積んで行くのです。私もこの頃が一番体力の有った時期だと思います。六十キロの大豆の入った麻袋を担いでも、何時間でもへこたれる事は有りませんでした。

そんな或る日、四人の軽音楽団の人が来て船倉で奏でてくれました。この人達はプロだと思いましたね。リーダーのバイオリンを弾く黒柳さんと言う人、黒柳徹子さんの父親だと今でも思って居ますが、素晴らしい音色でした。当然の様に、何時までもアンコールが止む事は有りませんでした。

講習も終わりに近く成った頃、クラスで劇をする事に成り、私達のクラスは農村の地主と小作の問題を取り上げて、劇にしたと思います。ストーリーの記憶は残念ながら有りません。私は田舎の夕暮れの中で唱歌「故郷」を歌う役でした。
私がラストです。絣の着物を着て唄いました。布に井桁を書いて作った着物です。ただ忘れられないのは、一番二番と唄って、三番目の歌は「志を果たして 何時の日にか帰らん 山は青き故郷 川は清き故郷」大合唱に成りました。誰もが好きな唱歌です。でも子供の頃の記憶が蘇り、懐かしい故郷や家族を思い出し、歌えなかった歌だったのです。

高野辰之作詞・岡野貞一作曲

一 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
   夢は今も廻りて 忘れがたき故郷
二 いかにいます父母(ちちはは) 恙(つつが)無しや友がき
   雨に風につけても 思い出る(いずる)故郷
三 志しを果たして いつの日か帰らん
   山は蒼き故郷 水は清き故郷

強い意志を持って生き残った選りすぐりの若者達。でもこの歌には勝てませんでした。レーニン主義も弁証法も有りません。有るのは故郷でした。
この講習も一番寒い一月の末に終わりました。


精鋭が帰って来ました

私の記憶も曖昧なもので、帰りの記憶が有りません。どの様にして皆と別れたか、列車の旅は、そして何処の駅か、記憶には何にも残って居ません。思い出すのは一味違った私達六名が(帰りは高山君が一人増えました)、収容所の事務所に並んで、集団長に帰った申告をした事からです。松山・高山・佐伯・増田・山下・そして私。其の時初めて集団長や本部長に会いました。そして新しい十五分所の編成が発表されたのです。
*集団長 関本  *本部長 桜田   *日直 斉藤・小畠
*内務分団長 小畠  *第一分団 *第二分団 *第三分団 *講師団長 松山
*青年オルグ 高石  *講師団 斉藤・高石・小畠(私)
*教師 増田・山下以下数名
集団長の関本さんは元、陸軍の軍曹で有った人。本部長の桜田さんは元陸軍少尉(大学から幹部候補生の方)。此の人達は何処に居て、どの様な経路で此処に来たのか全く知りません。でも全員若い人達です。皆さん生きて四年目を迎えた方達です。落ち着いて静かな人ばかりの様な気がしました。

私の仕事は大変です。日直は二十四時間勤務ですから、ソ連の将校と二人で収容所の人員を掌握しなければ成らないのです。炭鉱が多いですから三交替で作業に出て居ます。作業に出て行く員数、帰って来た員数、夜中でも門の衛兵所の前で数えねば成りません。夜中の十二時前には出て行く三直、一時頃帰って来る二直。これ等をソ連の日直と一緒に把握して置かなければ成りません。其の他に毎日夕方の六時に全員を集合させて点呼を行います。知らせる鐘はレールの切った物をぶら下げて其れを叩いて鳴らしていました。
一月の終わり頃です。寒さはマイナス四十度の多い日が続きます。各分団四列縦隊に並んだのを、ソ連の将校と「アジン・ドワー」と数えて行きます。彼は大きな板を持って来て、四十五×四=百八十+三=百八十三といちいち書いて計算するので、此れは大変です。並んだ人の計算が出来たら、次に入院患者、炊事係り、其れを二直の作業者等と合わせ、「フセ(全員)何人」と合わせねば成りません。
簡単な事が彼には大変な事なのです。合わなかったら何回も数え直します。其れ以上に寒空に並んで待つのは、如何に慣れたとは言え冷え切って仕舞います。私が板を持って初めに作業や入院患者や炊事の人員は書いて置き、私が数えて「フセ・五百チュラウエーク」と一発で合わせます。暫くしてから整列させるのを各分団の廊下にしました。此れで点呼は少し楽に成りました。
第十五分所は五百人余りの収容所です。其れは今迄の収容所と違って、鉄条網の中は日本の学校の校舎にソックリです。廊下が有って片方が窓、片方に教室位の部屋が続きます。中は今迄通り二段ベッドが有ります。
週に二、三回共産主義の講習が有りました。習った者が私達ですから、今考えても冷や汗が出ます。私達が教師団に教え、彼達と一緒に講義します。私は日直の日は行きません。しかし、講義する側より、受講する側の方が大変だった気がします。

後日談に成りますが、日本に帰国して直ぐ労働組合の偉いさんが来ました。話は咬みあわず二度と訪れる事は有りませんでしたが、彼は「組合を大きくして、労働者の権利を、労働条件を、賃金闘争を」との事でした。「権力の奪取しか労働者の生きる道は無い」と私。此れで二度と組合の人は来ませんでした。今考えれば此れが私の防波堤に成ったと思います。

『何を言って居るのだ。何が解って居るのだ。流刑の地、シベリアに流されて、血の涙を流して居るロシヤ人が何百万人と居るのを知っているのか。何が共産党だ、勉強しろよ』と不愉快に成ったのは事実でした。


内務分団は職人の人々

内務分団長と言っても私は何もしません。ミスが有ったら怒られ役です。内務分団の仕事は、医務室(病室も有ります)・炊事(糧秣受領は斉藤君が行ないます)・縫装・消防・営繕等が有ります。

面白い事が有りました。炊事で鮭を焼いて出したのです。何時もはスープの塩味に使って居ます。其れをドクトルに見付かったのです。早速衛兵所に呼ばれて行くと、ドクトルが坐って待って居ました。日直の将校が私に片目を瞑って合図をします。「怒って居るぞ」と言わんばかりです。

ドクトルは女性です。「如何して鮭を焼いた」と彼女、「日本人は焼いて食べる」と私。「ビタミンネート。マスラーネート」(ビタミンも油も無くなる)と彼女。「スープに入れてもアジナーク(同じ)だ」と私。日直のソ連の将校が首を振って居ます。恐らく「逆らうな」と言って居るのでしよう。「パッサージ・ポニマイス」(有罪だ、解ったか)だそうです。

ソ連の仲良し将校は、両手を広げて「ファイー」と言いながら、奥の部屋に入れました。六畳位の何も無い部屋です。『ウへーこの部屋寒いわぁ。晩に成ったら駄目かも』今度は直ぐ側にソ連の日直が居るから大丈夫だろうと思って居ました。案の定、彼が彼女に交渉してくれた様で、日直だから困ると言ったのではと思います。夕方までには出して貰った様な気がします。其れからも度々給食の事では揉めました。でもパッサージは無く成りました。

待望の風呂が出来ました。収容所に風呂が付いて居た事は有りません。今までの収容所ではせいぜい炭鉱に有るシャワーを浴びて帰る位が関の山でした。今度は違います。日本の風呂の様に首まで浸かって温まれます。それも一週間に一度は入れます。皆が終わって寝る頃に入って居ました。大体其の頃に内務分団の人達も入ります。

立って居ても胸の辺りまでお湯が有る此の風呂は営繕の班の人が造ったのです。本当に日本人は器用な人が居るものです。大きな木の風呂桶ですから一度に十五人は入れます。幾ら大勢で這入ってもお湯がぬるく成りません。外はマイナス四十度も有るので、外に出れば手ぬぐいが直ぐ凍りつきます。棒の様になった手拭いを振り振り帰ります。
最初の頃を思えば夢の様です。最初からこの様な待遇で有ったならと思わずには居られません。

非番の日に、例のソ連の将校に呼ばれて家に行った事があります。家は台所と居間だけの質素なその家に、年齢はブンケラの婆位で美しい奥さんが居られました。私を薪割りに呼んだのです。薪割りは得意です。

ロシヤの薪割りは日本とは少し変って居ます。斧は少し形が違うものの重さも同じ様な物で、割り方が合理的です。一定の長さに切って有る丸太を立てて、「エイヤァ」と斧を打ち込むのは日本と同じです。
此処から撃ち込んだ丸太ごと反対にして振りかぶって、斧を下にして斧の頭を打ち付けます。すると丸太の重みで真っ二つに割れます。この頃は元気でした。
彼が帰って来る昼頃には全部割り終わって居ました。「カンチャイダ・スパシーバ」(終わったのか有難う)と、「イジスーダ」(来いよ)と中に呼ばれて、奥さんが作ったピロシキをご馳走に成りました。中は人参の甘いアンコが入って居ます。

ピロシキは日本に帰って色々食べましたが、此れに勝るピロシキは有りませんでした。其れに良く喋るマダムは早口に捲くし立てます。半分位は解らないのですが、「ダァ。ダァ」と返事をしながら、話半分で、頂くものも頂かねばと頬張りました。数える程しか無い楽しい思い出の一つでした。


捕虜達の息抜きの事

この頃はロシア民謡が流行しました。ウラジオの講習で覚えて帰った事も有りますが、哀愁の漂うロシア民謡が捕虜の心を捉えたのではと思います。毎晩部屋ごとに合唱する歌声が流れて居ました。「ともし火」「カチュウシャ」「トロイカ」「ワルシャワの労働歌」「バイカル湖のほとり」「インターナショナル」等沢山の歌が歌われました。部屋で口ずさんだり、クループで歌われたのは主にロシヤ民謡でした。其の裏悲しい曲と歌詞は私達の境遇に会って居ましたから。全員で歌うのは大抵「インターナショナル」でした。良く歌った歌です。

起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し 
覚めよ我が同胞 暁は来ぬ
暴虐の鎖断つ日 旗は血に燃えて 
海を隔てつ我ら 腕(かいな) 結び行く
いざ闘わん いざ 奮い立て  いざ 
ああインターナショナル 我らがもの
いざ闘わん いざ 奮い立て  いざ 
ああインターナショナル 我らがもの

最初で最期の運動会も行ないました。全員休日の日ですから、多分メーデーの日では無かったかと思います。どんな種目を行ったかは記憶にありませんが、最期の各分団でした対抗のリレーは良く覚えて居ます。
此れでも元陸上部、歳も一番若いし、歳を取った人の多い内務分団、最期のランナーとして走りました。カーブで牛蒡抜きしたにも拘わらず、何着かは覚えて居ません。未だ早い人が居たのでしよう。此れが十五分所の最期の記憶です。

其れから間も無く四十名程の移動が有りました。二つの班に別れ、一班は私、二班は斉藤君、私達が出たら日直は居なく成ります。何度も騙されて居る私は、例のソ連の将校に移動は嫌だと言いました。処が彼は「今出ないと帰れなく成るかも知れない」と言ってくれます。KGBに調べられた事のある私はそうかも知れないと思いました。
此処から出て行く顔ぶれは特に元気な人達です。列車は前に行ったウラジオに向って走って居ます。今度は何処へ行くのでしよう。


高石君が自ら命を絶った

済みません最期に書くのは悲しいから、此処に記します。
名前を呼ばれて私達は汽車で出発し、残った人達は全員ダモイしたようです。
この期間七月、八月に帰還した人達の中には、猛烈な共産主義のリーダー達が居た様です。私達が工場の建設をして居る時に通って行った列車です。
貨車をプラカードで飾り、赤旗を振って帰って行き、下船拒否をしたグループの人達です。其の集団は日本政府に色々と要求をして、国会に詰め掛けたりもした。良し悪しは全く別問題です。
其の組に戦闘的な私達の青年オルグも一緒に帰ったのです。私の様な、いい加減な男なら良かったのですが、生真面目な彼は多分、党に入ったのだと思います。

私が帰国して祝いに駆けつけて来てくれた時、彼は自分の事は何も言いませんでした。思い起こせば彼が私達の田舎に来たのも良く解らない。其の後、大阪の泉南で繊維会社の社長に成ったと聞きました。流石に遣るなと喜んでいる矢先でした。

当時は不況で組合管理の会社が出来た時代です。戦後日本は不況の嵐、生活苦に加え会社と組合との板ばさみに遭い、追い討ちはマッカーサーによる「レッドパージ」共産党への弾圧です。この時は逮捕者が多数出たと思います。詳しい事は解らない事ばかりですが、彼は自らの命を絶った。

彼のお袋さんは良く知って居ます。其の時、彼の父親は日本には居られなかったと思います。当時では珍しい新聞配達をして居ました。新聞を取る家は何軒も無い時代です。苦労して家を再興したその祖父が「偉い子だ」と言っていました。幼い頃の忘れられない友でした。

不思議な因縁で、彼の父親は山東省の青島市に行って居られ、其れで彼は青島学院に入ったのだと思います。そして私と同様に現地召集され、その後互いに別々の収容所に行かされ、巡り巡ってウラジオの講習会で偶然一緒に成ったという事です。

私では何の力にも成れなかったかも知れませんが、若しも、若しもダモイが一緒で有ったなら、彼を其方の道には行かせ無かったでしょう。命をやっと持ち帰ったと言うのに、『何故なんだ』と悔しくて成りませんでした。残念な事に人間の運命って、当人が思いもしない方向に動いて行きます。

戦争によって学んだ事は、強者が弱者を庇うのではなく、弱者を一層苛める体制にあったという事です。人間不信とも云うべき状況で、私達は子供から大人に成って行きました。惜しみて余りある高石君の死。今も尚、彼の面影が偲ばれます。一途に燃えて散った青年の話です。


最後の仕事、工場を建設す

さあ元に戻りましょう。列車から降りたのはウラジオの街、以前行った街の港では有りません。西に在る深い入り江のシベリア鉄道の前です。驚いた事に鉄条網が有りません。工場の塀の内です。街の収容所とはこんな物なのか、建物もブロック造りの体育館の様な立派な建物です。こんな所で四年間過した者と、狼の吠える谷の湿地の中で生きて来た者との違いに、人の運不運の余りの差に驚くばかりでした。元から居る人が六十人余り、私達を入れて百人位の収容所です。此れは収容所と言えますかね。

沢山の技術者、特に旋盤工の人達が此の収容所を出て、民間の企業に行ったと言っていましたが、もう日本に帰るのを諦めたのでしょうか。
此処で働いて見て、炭鉱の仕事が如何に重労働だったか、そして失礼ですが街に居た人は如何に楽だったか思い知らされました。今居る人達は初めからウラジオに居たのか、私達の様に奥地から出て来た人かは知り得ませんが。

作業は三階建てのビルを造る仕事です。ロシア人が仕事をして居る間は、列車で送られて来た砂をトラックに積みます。ノルマは一人八台です。大変な様ですけど此れが簡単にクリア出来るのです。スコップを使うのは専門の炭鉱労働者ですから容易い御用です。其れにノルマのカラクリを見つけました。一人八台は直ぐ側の砂を積み込んだノルマです。遠くに成れば台数は少しで良いのです。極端に言えば八倍の距離だったら一台で良いわけです。今居る私達は監督の居ない所で作業して来た者達ばかりの集団ですから、監督が居なくても同じ様に作業します。解らなければ聞きに行きます。直ぐ監督は付かなく成りました。

ノルマの計算も私が事務室へ行って、ただ一人の事務員のジェウチカ(娘さん)に言って書いて貰います。やがて私が計算した方が速いので自分でする様に成りました。彼女は小さな計算機を一生懸命廻して、足し算や引き算をします。学校の実践室に有った小さい方の計算機です。どうも掛け算割り算は出来ない様で、熱心に見て居ます。「ファイ・ポチム」如何してと聞きます。「五年間習った」と言い、何回も同じ計算を繰り返して居るので、先ず検算の仕方を教えました。其れから閑な時に掛け算と割り算を教えました。大人しい静かなお嬢さんでした。

夕方に貨車が這入って来ます。毎日では有りませんが、セメントやブロックを全員が出て降ろします。私の班と斉藤君の班は互いに競争するものだから必死です。凄い者は三袋担いでタラップを駆け下ります。セメントは重く一袋四十キロは有ると思います(もっと有るかも)。二組で勝った負けたで楽しんで作業していました。

私の苦手はブロックです。手送りで降ろします。手の皮が薄く成って指紋がなく成り血が滲みます。手袋が欲しい。皆が作業しなくても良いと言ってくれましたが、そんな訳には行きません。此れは辛かったです。
何時の間にか、元から居た人達も競争に加わる様になっからは、作業が早く終わるので仕事に対する不服も無く成りました。
ブロックの三階建ての家も大分出来ました。

そんな私達の班に給料が出ました。確か一人、百五十リーブル位だったと思います。捕虜に成って始めてです。しかし、お金を貰っても買い物に出られる訳では無く、売店が有る訳でも無し、使い道は一緒に働くロシア人に頼んで買って来て貰うだけです。煙草が五カッペーク(五銭)ですから百五十ルーブル(円)は使い応えが有ります。

酒好きの者は、強いウオッカを四年振りに呑んで大きな声で遣り出しました。それを見ていて何だか嬉しく成ったのを覚えて居ます。フラフラと通路を歩いて、皆が笑顔に成りました。処が沢山の酔っ払いが出てきてウオッカは禁止に成り、結局ビールや煙草位に制限されました。私は給料をどの様に使ったか、全く記憶が有りません。ビールは不味いと言う記憶が有りますから、その時、買って飲んだのでしようね。


ダモイ列車が行く

私達が此処へ来てから毎日の様にダモイ列車が通ります。貨車をプラカードで飾り其処にスローガンが書かれ、赤旗を振って労働歌が聞こえます。七月になると九時頃まで外は明るく、何時までも列車が通るのを待ちました。『凄い人達だなあ。』『今迄、何処に居て何をして居たのだろう。』私達も手を振って送ります。一斉に赤旗が左右に揺れ「スターリン万歳」の声も聞こえます。最初に見た時は、驚きと羨望の眼差しで見送っていました。建設中の倉庫の前にあるシベリア鉄道の向こうは入り江の海です。何千キロも走って日本海を見たら、きっと嬉しさが爆発する事でしよう。手を振りながらも、私達はいつだろうと恨めしそうに見送りました。その列車の通った後は皆、無言で部屋へ戻ります。

曇りばかりだったウラジオも夏ともなれば雨は一滴も降らない好天が続きます。作業は順調に進みます。面白い建物です。一階と二階の床の仕切りはブロックに穴を開け、其処に線路のレールを通します。其の凹みに厚い板を差し込んで行き、其の上にコンクリートを流し込んで、それで終りです。一階は大部屋と小さい部屋が二つ、二階三階は大部屋になっており倉庫でしょうか。簡単な建物です。壁や天井に細長い板を斜め十文字に打ち付け、其処にセメンを塗ります。と言ってもハート型のコテの背で掬って(すくって)壁にぶっつけるだけです。後は八十センチ位の木のコテで均して(ならして)行きます。一人左官をして居た者がいて、仕上げは彼がしてくれるので綺麗に出来ました。

この作業場でトラックを運転しました。トラックはアメリカ軍が持って来て居た、あの六輪起動のトラックです。キーは付いて居ません。ボタンで押せばエンジンは掛かります。大きな貨車は三十人位でやっと動きます。毎日五・六両は入ります。其れを引込み線から出して置かなければ成りません。夕方全員で「せいのー・せいのー」と大変です。
構内に何時も其のトラックは置いて有ります。ボタンを押しさえすればエンジンは掛かります。恐れを知らぬ若者が、此れで引っ張ろうと思いつきました。トラックの前に付いて居るウインチのワイヤーを貨車に掛け、バックで引っ張ります。アメリカのトラックです。馬力が有ります。五・六台一度に引っ張って行きます。貨車にブレーキを掛ける人が居れば二人で出来ます。ザマー見ろと言う感じです。トラックを使って居る事は監督に知れましたが、何も言われませんでした。昔ならトラックでも運転をしようものなら即、歩哨が飛んで来て、自動小銃で「バリバリ」と撃ち殺される所です。四年も経つと変って来るものです。

そんな時ダモイに成りました。『今度こそ本当だろうか?三度目の正直なのか?冬が来る前に帰りたい』再びソ連の歩哨に聞きました。
「クーダ・ハジー」「パイジョウム・ナホトカ」ソ連兵もニッコリ笑いました。「ダー」
「オーイ、今度は本当らしいぞ」嬉しそうな皆の顔。
「インターナショナルでも歌おうか」


「さあ皆今度こそダモイだ。パイジョウム・ナホトカ」


ダモイの基地ナホトカに戻って来た

駅から歩いてダモイの基地に到着です。入り口は綺麗に飾られたアーチを潜って這入りました。心がウキウキして皆、笑顔の入場です。中は満員でした。迎えの船が来ないのだそうです。着いたら係りの人からの説明が有りました。話しも上の空です。でも、幾ら待っても船が来ないのです。「何時来るか解らない」その返答だけです。「そんな、やっと此処まで来て何でぇ。」
説明を聞きに事務所に行って見ました。事務所によると、私達の前に帰った人達が何か要求をして、其れで下船するのを拒否して居るそうです。少し前に、あの元気に革命歌を唄って通って行ったあの連中です。其の気持ちは良く解ります。使うだけ使って、戦争に負けて取り残され、待っていたものは地獄のような捕虜生活です。皆見捨てられたと思って居ました。下の兵隊だけがトボトボと歩いて凍土に這入って行ったのですから、あの敗戦の前でも、爆雷抱いてソ連の戦車を待って居たのは初年兵だけでした。上の兵隊の指揮者は山の中です。其れは恨み言の一言位は言いたいですよ。

でも其の時、私達は困ったなーと思いました。帰れないし、二・三日経って解った事ですが、此処には水が無い。食事の時に湯呑み茶碗一杯のお茶だけしか貰えません。今は真夏、喉が渇いて堪らない。其れで作戦を考えました。「皆、仕事に行って水を飲もうか」と「何でも遣るで」打てば響く仲間です。事務所に交渉したら直ぐ仕事は見付かりました。船からの荷卸しです。斉藤君の班も誘って港へ穀物の荷降ろしに行きました。早速、「ワダー・イエース」(水有りますか)水を飲んで、一仕事です。地獄の炭鉱で生き残った人達です。嫌々する仕事では有りません。面白い様に仕事は捗ります。『こんな連中と日本に帰っても一緒に仕事したい。』
それでもまだ船は来ません、夕方海の見える所まで行って見ると、其の下は四年前に傷心の思いで上陸したあの浜辺です。木の桟橋が少し大きく成った位で変り有りません。其の向こうは日本海です。其の先に祖国が有る。日本海が真っ赤に燃えた凄い夕焼けだ。自然は何時も美しかった。

粉雪が舞う死の行軍を思い出します。あれから四年。走馬灯の様に長い四年間が思い起こされます。目がほとんど見え無く成っても炭鉱に這入った。中指の爪が無く成っても石炭を掘った。高い所から落ちても死ぬ事は無かった。幸運だったのか、いや運なんか一度も良い事は無かった。一番辛い仕事に廻され、今年こそはと淡い希望を持っては毎年残されて、やっと此処まで辿り着いた。日本海を前にして色んな思いが走馬灯の様に駆け巡る。海が黒い色に変って行きます。其の日も其の翌日も船は来ませんでした。


愈々帰るぞ祖国へ

船が来るそうです。明日は乗船が出来るらしい。全部のアクチーブが集まって集団の編成が話し合われました。最期に来た私達の班から全部の責任者をと言う事になり、結局私に廻って来ました。『帰れるのなら何でも遣るぞ。』其の夜は班の者達と遅くまで話し合い、「帰国途中には、一切政治運動はしない」「一人の脱落者も出さない」「早く皆を故郷へ帰す」「援護局から無理難題が来たら皆と相談してから動く」その様な話しをしたと思います。

一夜明けて、其の日も晴天です。もう船は桟橋に横付けされて待機して居ます。船尾の日の丸が眩しい。船に書かれた文字は大郁丸。今思い出しても、船に乗るまでの間は雲の上を歩いて居た様に思います。全員広場に集合して、七・八百人は居たでしょうか。前の台の上にあがって挨拶をしました。
「皆さんやっと生きて此処まで来ました。此処に居るのは誰のお陰でも有りません。自分の力で勝ち取ったダモイです。そして帰ったら、今度は私達の日本の再建に全力を尽くしましょう。思いを果たせず亡くなった友の為にも」
こんな意味の事を話したと思います。其の後、援護局の人達の説明が有り、其の人達の先導で乗船です。船の下に日赤の看護婦さんが並んで居ます。「ご苦労さん。ご苦労さん」の声に迎えられてタラップを登りました。船に乗るまでは水の泡にならぬよう、細心の注意を払っていました。此処まで来ても、何時ダモイが止められるかも知れません。

船は貨物船でしたが、船倉に畳が敷いて有ります。私の所には各分団のアクチーブと、何故か一人老人の将校が度胸を据えた様な顔をして居ます。変ですよね。四年前には当番兵にも成れない初年兵が指揮をしたのですから。その人に挨拶だけはしました。だけど笑顔は向けませんでした。『貴様達は大勢の補充兵や初年兵を見殺しにした。此れだけは、許せない』と言う思いが有ります。

援護局の人と、人員の確認をして後は出航を待つだけです。皆が落ち着いた所で、私は甲板に上がって見ました。丁度スクリュウが廻って桟橋を離れる所です。後部の甲板にもたれて離れて行くナホトカを眺めて居ました。この時、初めて一人残らず帰国出来ると胸を撫で下ろしたものです。私の役目の大半は終った。後は無事家族の待つ故郷までだ。船はスピードを上げてシベリヤ大陸段々遠くなる。凍土に埋めた友の事が瞼に浮かびます。鏡の様な日本海に白く残る航跡それらが涙でぼやけ、長い間忘れていた涙が止まりませんでした。

忙しく動いて居た船の係員の姿も見え無く成り、沿海州の山並みも遠く小さく成りました。今日も暑そうな青空です。下に降りて班の皆の話を色々聞いていると、矢張り故郷はバラバラです。北は北海道から南は広島で、大体北方面の人が多かったようです。
二日位の航海だったと思います。二日目の夜中に舞鶴湾に入ったと思うのですが、静かな湖の様な海面に周囲は緑の山に囲まれた所に停船しました。そして翌朝八時頃、静かに奥に入って錨を降ろし、その後確か艀(はしけ)で上陸したと思います。全員が上陸するのを眺めて居ました。

桟橋や其の付近には黒山の人だかりです。幟を持った人、日の丸を振っている婦人会の人達、割烹着が懐かしい。私は最期に艀に乗り上陸しました。母位の婦人会の方達に囲まれて「お帰り。お帰り」の中に「良く帰られたね」と言う言葉が有りました。言葉に詰り慌てて母を捜しましたが、其の辺りには見えません。私で終りです。名前を書いた幟を持って居る人がとっても悲しげで、其処を通る時の辛さは忘れる事は出来ません。

皆、牛が通るような柵の中を通って頭からDDTを掛けられています。流石に此れにはムッとして、足を止めました。柵の上でDDTを持って居る職員がペコッと頭を下げたので、黙って頭から首から掛けて貰いましたが「牛では無いのですが」と言って通り過ぎました。矢張り父母は来て居ません。

全員風呂に入り、広い畳を敷いた部屋で寛いで居る時、私と数人のアクチーブは別室に呼ばれ、其処で長い時間大した用事も無いのに引き止められました。其処にはアメリカの兵隊も見えます。前の騒動に懲りて指導部を分けたと思います。

皆と合流して手紙が渡されました。懐かしい家族からの手紙です。沢山の便りを受け取る人、一通も来て無い人、其の人は友に来て居たのを読ませて貰って居ましたが、流石に淋しそうに見えます。後で知ったのですが、大きい都市は完全に焼野が原で、其処に居た人には便りはないのです。私には姉が家の代表として便りの中に皆元気と、したためて有りました。そして一人千円を支給されました。貰った時は何も思いませんでしたが、戦後の物価の高騰を思えば、たった千円で、この焦土を生きて行けたでしょうか。
明日の出発に備えて、北と南に組み分けられました。私は西舞鶴駅、斉藤君は東舞鶴駅、一緒に帰った私の班の人達は殆んど東舞鶴組で東北の人達です。西舞鶴組は四・五人程でしたね。一夜寝たら故郷へ出発です。未だ暑い八月二十四日の事でした。


列車は故郷に向かって

故国の朝は美しかった。裏の山も前の海も静寂そのものだった。「国敗れて山河有り 城春にして草木深し」遥か遠くで蝉が鳴いて居ます。そう言えばシベリアには蝉は居なかった。朝食はご飯に味噌汁におかずも添えて有り、栄養失調で亡くなった人達が「銀シャリに味噌汁を・・・・」と言っていた言葉が思い出されて、胸が詰ります。殆どの人の最期に聞いた言葉です。

北へ帰る人達に別れを告げて、私達も整列して点呼の後、トラックで西舞鶴駅へ行きました。町並みは懐かしい昔と同じ佇まいで、やがて到着。駅前に整列して、援護局の人と一緒に各人を降りる駅ごとに分けて居る時に父母が来ました。両親が老けていたのには驚きました。「よう戻った」と言って母が泣き、「お父さん、歳取ったな」と言うと、父も涙ぐみました。忙しいので話しは其れ位で乗車の準備をしてホームに入り、大阪・神戸に向けいよいよ発車です。

積もる話しが山ほど有るのに、何をどう話して良いものやら、話の糸口が見つからず、両親と膝を突き合わして只、向き合って居るだけです。然し、そこには安堵感がありました。窓から見える景色は昔と変わり無く、田の稲の緑が続きます。子供達の姿も見えます。もう夏休も終ったのかな。ギラギラ照り付ける暑そうな日でした。
間も無く福知山に到着。此処で時間待ちが有るそうで全員ホームに降りて、別れを惜しむように此れまでのお礼とお別れの挨拶をしました。其の為、発車時間が遅れて駅長や職員が慌てて「済みません、早く」と、四、五分遅れましたかね。『少し位の我が侭は許してくれよ』とは勝手な弁。

尼崎で大阪の人と別れて、汽車は神戸駅へ。此処に親戚が待ち受けて居ました。ホームに降りて此処で降りる人達と別れの挨拶をして居ると、神戸の叔父や叔母や工場の人か運転手までも来て、私の行く手を遮るかのように五、六人の人があれよ、あれよと言う間に駅前に止めてあった車に私を乗せました。本当にアッと言う間でした。父母も何時の間にか私の荷物を持って車に来ているではありませんか。母が「御免ね、広島迄行ったら赤旗に連れて行かれるから」と言います。私は黙って居ましたが、『あれだけ嫌いなソ連の真似なぞする訳無いのに』

連日、帰国者が下船しないで船で頑張っていた連中が、赤旗振って国会や新聞を賑わして居たそうです。其の直ぐ後の船ですから、大騒ぎして作戦を練って神戸で降ろすと決まった様です。

叔父の家は、高台に有り、運よく戦災を受けなかった。(下に有ったもう一つの家は爆撃で瓦礫の山に)庭の戸を開け放し、御馳走を前に並べてビールを戴きました。張り詰めて居た心も緩んで、神戸の空襲の話など聞きましたが、私の事は一切言えませんでした。とてもあの地獄の様な生き様、母には話す事は出来ません。
私の葉書を胸に入れ、陰膳供えて居た母には。矢張り生きて帰れて良かったと思わずには居られません。一言だけ「お母さん、あの門田は死んだよ」と告げました。彼は同級生です。母と彼のお母さんが一緒に泰山(山東省)の麓まで面会に来てくれた仲だったのに、「気の毒にあの子は門田さんの末っ子だったのよ」と悲しみました。

無風状態の瀬戸の夕凪。何時までも黒い扇風機が首を振って居ます。
明日は朝の汽車で祖母や兄弟の待つ故郷へ。


十一年振りの故郷に立つ

早朝の列車で郷里の広島に向かいました。両親と伯母と一緒です。至る所で未だ空襲の傷跡が残って、街も前から見れば商店街でも裏や屋根はバラックです。裸から立ち上がってやっと商売に漕ぎ付けた店です。
車窓から眺める海や山、川、私が日本を発ったのは小学五年生の時です。昔と同じ様に仁丹と味の素・キンチョウの看板広告が見えます。あれから十一年に成ります。こんな形で日本に戻ろうとは、思いもよりませんでした。故郷の幸崎町に着いたのは昼も大分廻った頃でした。一日遅れて帰ったのに駅は物凄い人です。迎えに来て下さった人で溢れて居ました。

ソ連からの帰国者は駅での挨拶は禁止です。只、「有難う御座いました」と言うだけでした。ソ連からの帰国者は何者なのでしよう? 敵が帰って来たと言うのでしようか。国の賠償と言われて四年間も働いた。でも日本政府は赤が帰って来たと言う。

小学校の先生の顔も親戚の人達や、亡き祖父の友達だったお寺の和尚さんの顔も見え、「良く、帰りんさったのー」と労いの言葉。ゾロゾロと町を歩いて家に向かいました。途中郵便局の前まで祖母が迎えに降りて居ました。「直行か、立派に成って、良く帰って来た」「お爺さんが居たら」と、言って泣きました。祖父は私が中国に行った翌年に亡くなりました。

実家の下の道で「ご心配をお掛けしました。此れからは一生懸命働いて、ご恩に報いたいと思います。暑い中、お迎えに来て戴いて有難う御座いました」と、丁寧にお礼を言って家に入りました。
十一年振りに見る我が家。何も変って居ません。然し祖父はもう居ない。仏壇に手を合わせました。祖父が存命なら何と言って声を掛けてくれただろう。「おー、よう帰った、よう帰ったのう」「よくぞ耐え忍んだのう」と、褒めてくれたかも知れません。それとも、目を潤し、頭を振るだけかも知れません。何しろ、お祖父ちゃんっ子で育ちましたから。『お祖父さん、直行が帰りましたよ。』

今は、私の鳥小屋は無く、離れの梁の上には、小さい時の自転車や釣竿が上げられて居ました。小学校五年生の思い出が其処に有りました。親戚の人達やご近所の人達が忙しそうに晩の支度をして居ます。八畳の仏壇の前で横に成りました。天井の模様も子供の時と全く変わり有りません。涼しい風は縁側から入って背戸へ抜けて行きます。其の儘夕方まで寝て仕舞いました。

目が覚めると前の畑で父が焚き物をして居ます。瀬戸の夕凪、煙が真っ直ぐ昇って居ます。遥か前の海は夕日で赤銅色に眩しく輝いて、まるでお伽の国に居る様です。私の戦争はやっと終わった様に思えました。
下に降りて、父が焚き木をして居る所に行って、見てびっくりしました。私の衣類や持ち物全てを焼いて居るのです。何故か魂を焼かれて居る様な気分。「何で焼くの」と、「虱が居たらと思ってな」「そんな物居ないよ」『此れ、私の四年間の命なのに』は心の中。焼いて断ち切れる様な事では無いのに。全てが煙に成って空に消えて行きました。あの辛かった四年間は、この煙の様なものだったのかも知れません。その煙が目に沁みます。


GPUとGHQの違い

GPU(ゲーペーウー)とは正式には「ソヴィエト人民委員会付属国家政治局」と言います。此れは例の三日間閉じ込められたところです。
帰国から、暫くして東京のGHQに呼び出されました。如何して私のような一番下の兵隊を調べる事が有るのでしよう。アクチーブで帰ったからなのかと思い、出頭しました。
汽車賃は一等席が支給されていましたので、普通席を買い神戸から夜行の急行に乗り、食堂車で夜景を魚にビールを飲んで長い時間を潰しました。朝方、東京に到着。指定された宿舎は、皇居の堀の側を通って、坂を下りた辺りに有ります。バラック建ての家が並んで居ました。翌日行ったビルは銀座の三越の近所で、昔の名前は「商船ビル」と書いて有りました。

二階の大広間の衝立に仕切られた所に通されました。今まであらゆる試練を受けて来た私です。怖いものは有りません。若いアメリカ人が流暢な日本語で挨拶をし、「協力をお願いします」と言われたのには驚きました。
大きな地図を広げて良く見る様に言われました。どうも私が居た所の様に思います。何分にも、素直で無い私の事です。「間違い無いか」とか、「何か他に有りませんでしたか」と聞きます。ノラリクラリ返事をして居ました。『何をこのアメリカ野郎、原爆など落して』心の中は反抗心でムカムカして居ます。
「チヨット待って下さい」と言って席を立ちました。アイスクリンを持って帰って来ました。「どうぞ」と進めます。
その辺で私も少し解って来ました。米ソの冷戦でソ連の国を調べて居るのだ。遠くから「分団長殿」と大きな声がします。『不味いな、早く終わって帰りたいのに』見ると顔馴染みの糧秣受領のK君です。手を上げて応えて後は無視しました。其の日は大した答えもせず終りました。

宿舎に帰ると彼が待って居ましたので、これ幸いとGHQの様子を聞きました。長く居る人は三ヶ月も居るそうです。驚きです。皆は日当八百円が目当てだそうです。八百円は当時では大金です。一ヶ月居れば二万四千円にも成ります。当時では重役並みのお金です。『虚しいなー、あの生死を掛けて生きて来た事が、お金儲けの道具に成る』

歩いて行ける所に確か「みどり」と言う喫茶店が有りました。近くに歌舞伎町の駅が有るそうです。駅へ行く道は煌々と電気が点いて賑やかです。喫茶店から裏は明かり一つ有りません。何処までも闇の続く焼け野が原です。一日GHQに行ったら一日休みです。休みの日は銀座とか浅草をウロウロして一日を過ごしました。十日位居ましたか、アメリカの彼が「忙しいですか」と聞きました。「ハイ、早く帰らねば」とお願いします。「ではお帰り下さい」と成り、其の晩の夜行列車で神戸に帰りました。

昨今の様に電話で家と連絡が取れる時代では有りません。お袋はアメリカに何で逮捕されたか心配で夜も日も無かったらしい。やっとソ連から帰ったら今度はアメリカに連れて行かれる。


ゼロからの出発

幸運と言う神、幸せと言う仏、その様な神も仏も全く縁の無い私でした。三年で帰った人と、私の様に四年も居て最期頃帰った者とは、天と地程の違いが有りました。
先ず捕虜にならなかった同級生は、学徒動員で空に散って逝った多くの学生に変わって、大学に入って居ます。
三年で帰った友は、皆一流企業や銀行に就職して居ます。四年も苦労した私達は赤のレッテルを貼られ、就職は愚か「招かざる帰国者」です。米ソの冷戦に巻き込まれ、大手の企業には赤の名簿が出回った時代でもあります。帰国して始めた商売も大陸でノンビリ育った私には、とても荒んだ神戸の人には付いて行けませんでした。
無理やり連れて行かれた共産圏だからこそ、帰国者が理論の端をかじって「考え方の幅が広まって帰った」と言って欲しい。日露戦争の雪辱を晴らすべき日ソ中立条約を無視して日本を攻撃する様な憎っくきスターリン共産主義に被れる事等有り得ません。

兵隊時代の給料を広島まで受け取りに来いと、通知があり一応は行ってみました。しかし、一ヶ月の給料が七十円弱の計算の様で、其の給料は往復の汽車賃とお土産で、四年半の死闘の代償は消えてしまいました。
軍人恩給の事で再び広島へ。恩給は二日掛かりで行ったのに、一年掛け分が足りず「他に何か御用は有りませんか」で終り。
そして徴兵保険の満期の金を広島まで来て下さいと、徴兵保険は大正十五年から掛けたのに、当時私の給料が五千円だったですから、たったの千円を貰いに広島まで行ける訳も有りません。
其れより何より天津時代に政府の保護の下に設立された横浜正金銀行に預けたお金は一銭も返りませんでした。敗戦後、その銀行は名前を変え、海外の預金をタダ取りしたにも拘らず、優良銀行と言われて戦後を謳歌した東京銀行です。

如何ほどに苦しめられても耐えて来た日本国民、其れが太古の昔からの我が民族なのかも知れません。


恨みは深しシベリア大陸

生きる為に思想教育も受けました。拒否したらどうなったと思います。もっと厳しい所に送られて、凍土に埋められていたかも知れません。同じロシア人でも反政府者は死刑かシベリア流刑された恐怖のスターリンの時代です。

戦争とは人間の心を鬼にします。自分を守る為に保身に回ります。それだけに留まらず 、猫がネズミをいたぶる様にして死に至らせます。異常な精神状態にある事は確かです。

捕虜時代の事を一言も家族にも話さない方が結構沢山居られます。何故だか解りませんが、下の弱い兵隊を犠牲にして生き残った人は、沢山居りました。皆、自分が可愛いですからね。
立場が逆転していたら私とて同様の事をしたかどうかは疑問符ですが、ただ私にも憎んだ人は何人か居りました。生きて帰ったら、日本中探してでも仇は討ってやるとまで思った事もありました。
しかし、其れは帰ってから母や家族とくつろげば、してはならない事だと思い、胸に仕舞い込んで忘れるよう努めました。家族の笑い声は何にも代え難いものです。

終わりにイルクーツク大学教授のセルゲイ・クズネツィフ教授(歴史学博士)のソ同盟の公式文書を調査された著書の中に、日本人の軍事捕虜の死亡率は他のドイツ・ルーマニヤ・イタリヤの軍事捕虜に比べて死亡率が大変高かった。其れは極端な食料不足、厳しい肉体労働による身体の衰弱、病気・作業場の事故・シベリア、極東・極北の自然条件に順応しきれ無かった事が上げられる。そしてこうも書かれて居ます。ラーゲリに禁固された事による神経への影響は計り知れないとも書かれて居ます。

スペイン精神医のオントニ・ケンピンスキーさんはこう記して居ます「ラーゲリに居たらどうなるか、自分で考えて見るがいい。なぜなら、其れは誰も体験できないものだから、この言葉はスターリンのラーゲリに居た日本人の軍事捕虜にあてはめる事が出来るであろう。」と述べられて居ます。

もう一つ重大な発表がロシアの元ジャーナリスト、アルハンゲリスキー氏よって発表されて居ます。マリク外務次官が46年にモロトフ外相にあてた報告で 日本人の本国帰還該当者は百五万二千四百六十七名と記して居るてんを根拠に『抑留者は百万人』と唱えて居ます。
このロシアが出した機密文書に有る数字も疑問視する向きも多い。ロシア側は日本政府の発表より少し大目の数字を発表する事で、日本国民を納得させようとして居ると指摘して居ます。
一人でも少なくしたい日本政府、其れに少し増やす事で闇に葬ろうとするロシア。

広いシベリアの大地に消えた日本人、兵隊から一般邦人女性も含めて、皆闇の中に消えました。でも絶対歴史からは消さないで下さい。一人でも良い語り継いで戴きたい。

旅行で暖かい服を着て、短時間過ごすのとは少し訳が違います。バナナで釘が打てる冷凍庫の中に居る世界です。冷凍人間が何十と並んで居ましたが、哀れで思い出すと矢張り涙が出ます。

今はロシアの体制も変わり国民も広く知られる様に成った抑留者問題、日本の厚生省も日本人墓地の改葬に乗り出したそうです。其れはロシア人も吃驚、掘り出して急いで焼いて日本に送る。しかし対応の遅い日本は、調査は全然しないそうです。誰が何時如何してと言う事には全く触れないそうです。触れて欲しくない歴史を消そうとしたのはスターリンだけでは有りません。日本の政府も同じ事をしました、ロシア人も驚く事を。


               あ と が き


一九四五年八月第二次大戦に敗れてから六十年に成りました。当時の「生き残り」は少なくなり、十八歳だった少年も七十八歳に成ります。たかが四年間、されど四年間の出来事が、私の長い人生に良いに付け悪いに付け影響を受け続けました。
警察が住所を確認に来た事も有りましたし、アメリカ軍のGHQに東京まで呼び出されもしました。悲しいかな大手の企業にも勿論就職は出来ませんでした。
色んなラーゲリ(強制収容所)があったと思いますが、十八歳の少年兵があのシベリアの地獄で生きて行くと云う事は、奇跡に近い事でした。食べ物も無くひもじい思いをし、着る物も碌に無く寒さに震え、虱に悩まされ、上官には虐められ、やっと生き延びたら希望もしないのに共産主義の教育を受け、アクチーブ(積極分子)として帰った私に取って、早く忘れる事が戦後でした。

日本は戦争に負けたからこんなに繁栄した等と言わないで下さい。強制収容所の鉄条網の中で飢えと寒さで死ぬのは、虫がカゴの中で死ぬのとは違うのですから。日本政府はこの実態を知るため、惜しみない努力をしたでしょうか?

戦後六十年も過ぎると政府は怪しく成って来ました。金撒き外交も然る事ながら、残虐な目に会わされたアメリカの片棒を担ぐかのように着いて行きます。今更蒸し返す事は年寄りの冷や水なのかも知れませんが、事実は事実としてこの先の日本に警鐘を鳴らすものであります。

侵略が続く限り、地球に平和は訪れません。撃ち合いだけが戦争では無い事、大切な命の重さを知って戴いたら良いのですが、其の付けを負わされるのは私達国民なのです。どうか、報われる事も無くぼろきれの様に亡くなった兵士の為にも戦争の惨禍を繰り返さないで下さい。
心から平和を願って此れを書きました。


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