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第 四 章
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春が爆発した
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私達は最初の長い冬はテントの家で越しました。テントの家では、水筒の水が夜中には凍って仕舞います。外気の温度が緩む頃には収容所の外は湿原が顔を出して来ます。湿原と言っても日本の山に有る様な物とは規模が大分違います。其れは見渡す限りの草原です。然し、其の草は底なしの沼の底に根を張り、上で太陽の光を浴びて居るのです。直径四十センチもある草の柱で、穂先だけ水面に現れた草原です。氷が解けると狼も近づけません。
毎夜、山から狼の遠吠えが聞こえます。ソ連兵の撃った狼を見た事が有ります。セパードよりやや大きく白っぽい灰色ではないかと思うのですが、泥まみれで非常に汚かったです。顔が犬とは少し違います。口が大きくて目の色が不気味でした。兵舎の馬を襲いに来るらしいです。
其れに愛嬌な顔をしたノロです。鹿の種類ですが角の有るのは見た事は有りません。日本ではヘラジカと言うのではないのでしようか。鹿より丸味をした可愛い顔をして居ました。
狼が天敵です。捕虜は仕事から帰ったら「ドラワー、タスカイ」と云って焚き木を取りに山に行きます。其の時に何度も見ましたが、逃げるスピードは凄いです。狼も簡単には獲れないでしよう。大きさはトナカイ位で鹿よりはかなり大きいです。
ノロが現れるとソ連の歩哨が眼の色を変えて自動小銃を撃ちながら追っかけます。殆んど逃げられます。狼は最初の冬だけで次の年には全く姿も遠吠えも聞こえ無く成りました。
シベリアの春は一瞬に過ぎます。其れは凄い春です。
白黒で地獄の様に荒れ狂う冬にも負ける事は有りません。其れも一瞬の競演です。虫も一斉に孵化します。炭鉱へ通う道の両側は野生の牛蒡並木です。(此の根は木の様で食べられません。新芽も駄目でした)二メートル下までは凍って居る凍土に、どの様にしてこの様な綺麗な花が咲くのでしよう。
今も忘れられない花が有ります。其れは友を埋めた丘に咲いた見事な花々です。大きな真っ赤な百合の花、一つの茎に三方に向かって開きます。そして小さな可憐な鈴蘭、清楚でひときわ目立つ桔梗の花、絨毯を敷き詰めたように咲く蓮華の花、その他に名も知らぬ花々の饗宴です。其の美しさはシベリアの冬を越した者にしか与えられない自然の贈り物です。
春になると嬉しいダモイ(帰国)の噂が流れます。然し、一緒に来た初年兵はもう殆ど居ないのです。
夏の記憶は殆ど有りません。暑い夏に一度、流れている川から、水道の取り水をする土管の取替えの工事に行った事が有りました。だけど水が冷たくて十分も入って居られなかったのを覚えて居ます。夏でも炭鉱のボタ山の北側を掘れば雪が出て来るのですから。
そしてアッと言う間に秋風が吹き出しました。春から夏に成る時と同様に野や山がカラーのドレスを着ます。春が緑なら秋は赤です。本当に一夜の饗宴です。燃え尽きる様な真っ赤な色に黄色の絞りを散らして短い宴に燃えます。未だ九月の初めと言うのに、冷たい雨の日が続きます。それが何時しかみぞれに成り白い雪が舞い、又長い冬が訪れます。
其の頃に、この部隊全員が収容所を移動しました。最初の冬に大量の死亡者を出したのに懲りたのか、カザンカと言う小高い丘に有る元ロシヤ人の強制収容所だった場所に変わりました。去年の秋には千人以上居た兵隊は、三百人程になって居ました。収容された人員も少なく帰国したものか、他所の収容所に移ったのか分かりませんが、此処は炭鉱専門の収容所です。
ブラブラして居た将校も居なく成りました。この頃から食べ物も重湯では無く、粟とか稗や高粱のしっかりした食べ物に成りました。丸太を積上げた家です。もう家の中で水筒の水が凍る事も有りません。あれだけ悩ませた虱も居りません。大隊長も中隊長も居なく成ると同時に、生活の基盤が出来て、衣糧も整い下着も取り替えてくれ、やっと人間らしい生活に成りました。
何故、指揮官や将校が居なくなったら給食まで変わったのでしよう。ソ連側が変わったのか、捕虜の方の横流しが無くなったのか、真意の程は我等一兵卒には解りません。言える事は補充兵のお父さん達は全滅したのに、歳を取った将校で亡くなった人は一人も居なかったと言う事です。思い帰せばあのツダゴーの収容所程、酷い所は無かったと思います。
病死ではないのですが、同じ初年兵二人が目の前で亡くなりました。一人は寒い冬での作業を終えて収容所に帰ってからの事、其れまでにその人に何が有ったのか知り得ませんが、外でバケツの水を掛けられたのです。此の時、外の温度はマイナス三十度位あったと思います。座り込んで居た彼の体が段々と丸く成り、慌てて初年兵が担いで医務室に運びましたが、すでに遅く彼は亡くなりました。元々兵隊には向かない位、線が細く体力も有りませんでした。倒れそうな彼に何故水を掛けたのでしょう。彼に水をかけた本人には、何の処罰も有りませんでした。
この件と、もう一人は暖かく成ってからの夕方の事です。皆な外に出て居ました。其の時、急にE君が鉄条網に向かって走り出しました。一瞬の出来事です。皆が声を上げた時には三重に張った鉄条網に登って居ました。鉄条網の中を廻って居るシェパードが火の付いた様に吠えて居ます。皆で一斉に「E、戻れー、戻れー」と叫びました。その声も空しく「カタカタカタ」と望楼から自動小銃の音がして、上迄行かない先に、ポトリと落ちました。
この出来事は帰ってから何十年も夢で魘されて「帰れー帰れー」と一生懸命叫んで居る自分がいます。側に寝ている家内には「うーん、うーん」と唸って聞こえるそうです。
E君の胸に去来する思いとは一体どんなものか、此処に居た捕虜は皆、多かれ少なかれ彼と同じような思いを持って居たのではと思います。寒さに加え重労働を強いられ、自分が生きて行くだけでも精一杯の毎日でした。其の上、上官に痛めつけられ使役に回され、挙句少ない食料を取り上げられる。
この柵を越えると、誰かが手を引いて日本に連れ帰ってくれるというのでしょうか。追い詰められた彼は、正常な判断が出来なくなっていたと思います。何時帰れるとも知れない捕虜生活の中で、彼の目に映ったのは何だったのでしょう。
しかし辛い思いをして今日まで生きて来たのに、何故なんだと胸が詰まります。
こんな事が実際に有ったのかと考えます。今の現代では考えられない出来事です。あれは私が勝手に想像して夢を見て居るのでは、と思う事も有ります。六十年は遠い昔に成りました。
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野ネズミ捕りの名人
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この凍土にもネズミが居たのです。如何に飢えてもネズミを食べ様とは思いも付きませんが、其の小さなネズミを捕まえる名人が居りました。現場を見た訳では有りませんが、聞き伝えの話しでは水筒で捕るらしく、其の水筒の小さい口に何やら仕掛けをしてあると言う。
其れを食べるのを見た人の話では雀の焼き鳥の様だったと言います。この陸軍の水筒は二種類有り、当時は階級制度があって、陸軍の場合は水筒まで差を付けていました。
中には蛇捕りの名人も居て、此れは料理して居るのを見ました。鮮やかとしかいい様が有りません。首の所を折って一気に皮と骨と内臓を取り除きます、透き通った綺麗な身だけに成ります。此れをストーブの上で焼くのです。鰻を焼いて居る様な良い匂いが部屋中に漂います。これ程殺生な事は有りません。ごくりと生唾を飲むと言うのはこの時の状況でしょうか。空きっ腹を抱えた私達に其の良い匂いは、堪らないですよね。
炭鉱作業者は監視付きです。捕まえる事が出来ない私達は、収容所と炭鉱を往復するだけで、自然を見る事位しかなくカエル一匹捕る事も出来ません。
捕虜の食料は世界の条約で決められて居ます。働く捕虜に何故支給されなかったのか、其れはソ同盟の戦後の食料不足が第一に挙げられます。支給される筈の捕虜の食料も輸送の途中で消える事も度々あったようです。
又輸送手段の難しいへき地に多くの日本人を送った事もあります。そして極めつきは同じ捕虜になっても、何時までも階級制度の意識が強く下級兵士になる程、配分が少なかった事が挙げられます。
その後三年目から食料の量も輸送もしっかりして、規則通り届く様に成りました。この頃に将校も兵隊と離され、食べ物の争いも無くなって来ました。そうすると扶養家族が減った様なもので炊事洗濯が整って虱も居なく成りました。シベリアの生産が格段に上がったのも事実です。
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カザンカの収容所
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引越しが決定的に成ったのは、暖かく成って湿地の水が掘り下げたテントの長屋に入って来た為です。作業から帰って、裸足に成ってザブザブと水の中を歩いて寝台に行きます。其れで引越しに成りました。
今度の収容所は湿地の中では有なく、丘を上がった所です。小さな収容所ですが、やっと人間らしい建物に入りました。でも作業の辛いのは同じ事です。
暖かく成ってブンケラの現場で、廃品を使って色んな道具を造りました。貨車を引っ張る為の仕掛けを考えました。人力だと空の貨車でも三人位で押さねば動きません。石炭を積んだ貨車を動かす為には、最初の出だしは六人全員の労力が必要です。古い貨車ですから空っぽでも動かないのも有りました。それでウインチを使って引っ張る装置を造りました。赤錆びて動か無かったウインチは油で磨き、古く雨晒しだった「安川のモートル」に油を注して動く様にしました。此れなら五、六台まとめて引っ張る事が出来ます。其れからはとても楽に成り、大いに役立ちました。何故か炭鉱の中にあるモーターもブンケラの物も、全て日本製のモーターでした。此方ではモーターでは無く、モートルと言っていました。
この収容所に居た時に蛍を見ました。二直の炭鉱からの帰りでの事です。夜中の十二時少し廻った頃でしょうか、疲れてソ連兵に追い立てられながら、炭鉱から下って降りたその道から、遥か向こうの川岸まで一面に蛍の光です。淡い緑色の光を点滅させ、ボーっと浮かんでは消え、幻想的な光が踊っていました。十一歳まで日本の田舎に居ましたが、こんな大群は見た事が有りません。
何時も凍って居る様な所に蛍が居るとは、其れも凄い数で異様な光景にも見えました。シベリヤは花も一度に咲きますが、蛍も一度に孵るのでしようか。
それにしても此処は極寒の大地です。土は二メートル位の深さ迄凍ります。凍った川も底の方は水が流れているとは言え、こんな寒い処でどの様にして冬を越すのでしよう。其れに其の後、次の年も其の次の年も一度も蛍には会えませんでした。四年間居ましたが唯一度の蛍の光でした。
此処を流れて居る川の本流に行った時に、鱒(多分鮭では無い)の大群の遡上を見ました。川を埋め尽くした鱒の群れが、砂浜に打ち上げられて両岸が白く成って居ます。流れて行く死骸も凄い数です。
捕虜の私達は沸き立ちました。たった一匹で良いから欲しい。でも歩哨は絶対捕らせてくれませんでした。何故だったのでしよう。流れて居る鱒の中には動いて居るのも沢山居たにも拘らず指を咥えて見ているだけで、喉から手が出るほど恨めしい光景でした。
人っこ一人居ない川で橋は勿論有りません。石炭を運ぶ小さな鉄橋が架かって居るだけです。人が踏み入る事のないこの川は凄く雄大で、縦横無尽に悠然と流れていました。太古の昔の川は皆この様だったのだろうと思います。
そして渡り鳥です。渡り鳥が南へ渡って行く時期は悲しい晩秋の季節で、此れは辛い思い出です。私達の居た収容所は沿海州の北側の谷間に有り、朝鮮半島経由で日本に向う通り道に成って居たのか、とても沢山の群れが綺麗な列を作り、渡って行きます。長い列を作ってゴマ粒より小さい点が、南西に向って延々と続きます。
秋に成ると此処の大きな谷は渡り鳥で賑わいます。北の高い山脈の稜線を飛んで行く群れが殆どですが、たまに地上スレスレに飛んで行く群れも居ます。夜中仕事を終えて帰る途中に頭上スレスレに一列に並んで飛んで行く群れに出会って、びっくりした事が有りました。
暗くて鳥の種類は解りませんが鶴の様な大きな鳥では有りません。大きさはカラスかカモメ位だと思います。
側で聞く羽音は割合大きな羽音を出して飛んで行きます。其れは命がけの飛行の様に聞こえ、とても辛そうに羽の音が「キュウ・キュウ」と鳴って、前の鳥から離れまいと必死で飛んで居る様に見えます。後尾の鳥に成れば思わず「頑張れ」と応援したく成ります。吹雪の来ないうち早く日本に帰れよと願うばかりでした。
寒い北のツンドラ地帯から暖かい日本を目指して命を賭けた旅なのでしよう。それで無くても落ち込んで居る私達ですから、尚無口に成ります。徐々に少なく成っていく収容所の事を思えば、此処に残された我が身を呪うばかりでした。早や冷たい風が頬を擦る淋しい晩秋の出来事でした。そして、間も無く白い物が落ち出して来る事でしよう。
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七難八苦を我に与え給え
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山中鹿之助には成れませんでした。一番下の兵士が生きて行く事は奇跡に近い事でした。同年兵で元気で帰った友は居ります。其の人達の仕事は、炊事係り・病院の勤務・慰問団等で、幸運にも外の作業に行かなかった人達ばかりです。何故か皆さん三年で帰られて居ます。三年と四年では大違いでした。三年で帰った人は「ご苦労さん」四年で帰って来た人達は「赤が帰って来た」と嫌われました。米ソの冷戦の為です。
鉄道工事・伐採・そして最も重労働の炭鉱に借り出された頑丈な農家の出身者や肉体労働経験者の方達が、何故早く倒れたのでしよう。食事の配給は班毎に別けます。(靴も凍て付く寒さで、並んで貰うのは無くなりました)班の古兵殿が分けます。
黒パンは物差しで計って切ります。公平な様ですが真ん中は高く両端は低いのです。パンの両端と雑炊の上澄みは初年兵に回ってきます。餓鬼の集団です。皆が眼を光らせ睨んで居ますが、恨めしそうに眺めるだけでした。
着る物も上の兵隊はラシャの様な分厚い冬服です。下級兵士は木綿の冬服です。流石に靴だけは関東軍の防寒靴に成りましたが、此れも余り役には立ちませんでした。
四十歳近い補充兵のお父さん達が、枯れ木の様に倒れました。肌に黒い斑点の様な物が出来て、或者は虱に血を吸い取られた様に骨と皮だけに成って、「銀シャリだ・味噌汁は・おはぎとぼた餅の違いは」等とうわ言を言い出したら長く有りませんでした。寝た儘で朝起きて来なかったお父さんも居られました。
此の方達の故郷には若い妻や幼いお子さん達が居られるでしょう大切な一家の大黒柱の方々なのに、たった一枚の紙切れが、この人達の運命を変えたのです。当時は兵士の命は一銭五厘だと言われました。それは葉書一枚の値段です。どんな思いで故郷を去られたのでしょう。この様な亡くなり方で、さぞかし無念であったろうと思います。苦労を共に過ごした分、哀れでなりません。
変な人達の死。
下の寝台で寝ている人が、夜中に厠に行くのが寒いからと、上の段に寝て居る人の水筒にオシッコをして、(寝台にぶら下げて居るので、手の届く所に水筒は有ります)上の人は其の水筒の水を飲んで居ました。其れを飲んだ彼は味覚も分からない位弱っていたのでしょうか、そして二人とも亡くなりました。
嘘の様な本当の話です。普通では考えられない話しですが、どちらのお父さんも心身共に変に成って居たのかも知れません。
指を鋏でちょん切られた話。
仕事中に指を引っ掛け、爪が剥がれそうに成りました。半分以上剥がれて其の痛さは尋常ではありません。辛抱強い私でも流石に唸りました。
拷問で生爪を剥がされるのは、想像に絶するほど痛いと聞きます。まさにそれです。腹に巻いた晒しを裂いて指に巻き、其の後も仕事は続けましたが、中途半端に付いた爪が神経を逆撫でするのです。帰った後、急いで医務室に行きました。例の軍医の曹長です。
並んで待って居る時、数人前の人が指の凍傷で診て貰って居ました。それも、いとも簡単に「切ろうか」と軍医は言ったかと思うと、ハサミで「エイッ」とばかりに切り落しました。痛み止めや麻酔など有りません。
「ギャー」と彼は悲鳴を上げました。骨も一緒にですよ。其れを見ていた私の方が驚きました。コソコソと下がって帰ろうと思いました。
「オーイ、小畠帰るな」と声を掛けられました。前に皮膚病で長い事入院して居ましたから、面識があるのです。仕方なく指を見せました。「此れは取った方が早い」と言って、ピンセットで一気に剥がされたのです。
此れも「ギャー」でした。当分の間、仕事中は困りましたが休む事も有りませんでした。左の中指です。少し爪は大きいですが、綺麗な爪が生えて来ました。
「ダイ・ソゥロク」この言葉程情け無く、恥かしく屈辱的な言葉は有りません。しかも一番早く覚えた言葉です。「少し下さい」と言う意味です。まるで乞食です。此処まで落ちるのに日にちは要りませんでした。煙草以外は貰ったと言う記憶は有りませんが、この言葉は今迄誰にも話した事も書いた事も有りません。最初の一年か二年目の事でしたが、思い出すだけで辛く恥かしい。矢張りツダゴー時代は人間では有りませんでした。
身体にも心にも、傷は沢山有ります。今と成っては体の傷は治っても、心に受けた傷は癒える事は有りません。奴隷より未だ下だった様に思います。
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馬鹿馬鹿しいお話
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炭鉱に送り込まれて間もなくの頃の話です。全財産を着て作業して帰って、其の儘寝て又其の儘作業に行く。地獄の様な日々の事です。夜中の青い月の下をトボトボ帰って居る時、カルトーシカ(じゃが芋)が沢山落ちているでは有りませんか。
慌てて外套のポケットに入れ、喜び勇んで帰り、夜中の食事を済ませ、と言っても冷たい雑穀の重湯をすするだけです。
皆が寝静まるのを待って、飯盒に水と拾ったカルトーシカを入れ、大きなストーブの上に飯盒を載せて、寝床の中からそれを見張って居ました。ストーブは皆が持ち帰った石炭を入れたばかりで、勢い良く燃えて居ます。やがて飯盒から湯気が勢い良く出初めました。「オォ・ハラショ」。もう少しもう少し。
木で作った手造りの箸を持って、辛抱して待ちました。蓋を開け様とすると其処から「変な匂い」慌てて飯盒を提げて外へ出ました。開けて見て吃驚!暗闇でも解るじゃが芋では有りません。崩れて悪臭を出す馬糞でした。マイナス四十度でカチンコチンに凍ったこの丸い物は匂いも無かったのです。誰にも気付かれる事が無かったのが救いでした。
今度は幸運なまともな出来事です。煙草を拾いました。後にも先にもこの様な事は初めてでした。布の家に盛った土の上の雪も少しずつ融け始めた頃の事です。夜中の作業から帰ると、朝方に寒くて何度か眼が覚めます。起きて遠くの厠に行くのは寒いし、朝の仕事の人達は作業に出て行って、外には誰も居る気配がありません。家の周りの溝で手っ取り早く済ませて居ました。
其の上の方に「ピカッ」と光る物が有ります。遅い日の出に照らされて、雪が融け始め、露出して来たのでしよう。何だろうと拾いました。歩兵砲の信管を入れて居た缶です。ピースの五十本入りの缶を一回り大きくした様な物です。中を明けて見ました。油紙に包んだ煙草がぎっしり入って居ます。日本の光と言う煙草です。辺りをドキドキしながら見渡しました。運よく誰も居ません。有り難や有り難や。不運の神様の様な私にも幸運が来ました。
此れを埋めて隠した人は、この冬が乗り切れずに亡くなったのでしようか。オォ南無阿弥陀仏。でも此れを吸うのがまた大変でした。皆の居る所で吸えば匂いを嗅ぎつかれて取り上げられるので、初年兵の仲間だけでこっそり隠れて煙草を吹かした様に思います。
オォ神様仏様お煙草様、何たる幸運。
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捕虜と黒パン
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シベリアの捕虜は黒パン無しでは語れません。三百グラム程の一切れが命の糧でしたから。其れは膨らんで居ない雑穀を焼いたものです。酸っぱい匂いのする発酵した汁を混ぜて焼いたパンです。大変酸っぱくて堅く重たいパンでした。だから三百グラムと言っても小さな物です。其れを分ける光景は餓鬼の集団です。幾ら睨んでも、大きな塊が来る訳も無いのにね。
暖炉の側で悠々と待つ下士官が羨ましい。階級章はもう無いのに、分隊長が居て小隊長が居て、中隊長、大隊長が、厳然と何もしないで別棟におわします。
目ぼしい持ち物は全て黒パンに代わったようです。ロシア人と交換です。最期の貴重品の時計も、たった一本の黒パンに代わって行った様です。
友の死体が並んで居た頃です。私の一番苦難の時がやがて来ます。其れは鳥目です。休みは貰えず全てが手探りで生き抜きました。この頃は極度な栄養不足で鳥目に成った人は多かった様です。黒パンを練るときに入れる「ドロジュウ」と言う物を、鳥目になった全員に配られました。其れは発酵した酸っぱいだけの汁です。幾らひもじくても呑み難いものでした。
この黒パンで酒を造った人が居ました。小さく千切って水筒に入れ、それに水を注ぎ入れて棒で突き、蓋をして置いておくと、何日かしたら発酵して蓋が「ポン」と飛びます。呑んだ事は有りませんが、これだけでアルコールが出来て居るらしいです。
あんなに酸っぱい黒パンが、命を懸けて争う程大事な食料だったのです。哀れと言う他は有りません。
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厳寒の深夜の作業に泣く
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屋外でしかも夜間の作業です。全て始めて経験する凍傷との戦いです。積み込む石炭は温泉の様に湯気を上げて居ます。外気との温度差五・六十度です。積み込んだ石炭の中からパローダー(ボタ)を、スコップで掘り起こして出さねば成りません。湯煙の中の作業です。睫毛が湯気に当って濡れ、濡れた睫毛に氷の結晶が貼り付き見え難く成ります。
履いているフエルトの長靴は暖まって、足が汗を掻きますが、汗掻きの私は危ないのです。炭坑内の時は喜ばれて居ましたが。真っ黒い汗は監督に「ハラショ アラポーター」と、此処では死活問題なのです。長くは作業出来ません。一時間働いたら大急ぎで火の有る小屋に飛び込み、先ず足に巻いた毛布の三角巾を乾かします。其の小屋は皆の脱いだ三角巾の毛布から出る湯気と、乾かす足の匂いで異様な匂いが充満しています。
乾いたら再び足に巻いてフエルトの長靴に足を突っ込み、急いで其の小屋から飛び出します。のんびり休憩して居る暇はありません。上からマダム達が「ポールネイ、ベストラ」(一杯に成った、早く)と急き立てます。
仕事の嫌いな小母さん達五人位と、若い十五六歳の娘が二人、口ばかり五月蝿い女連中です。その彼女達と三年近く付き合う事に成るのですが、連れの相棒達は次々と変わって行きました。何故か私だけは終わりまでブンケラの積み込み作業です。
大きな事故を起こした事も有りました。其れも真冬の事でした。石炭の出て来るのが何時も作業日程の真ん中の時間帯で止ります。この時間は発破を掛ける時です。其の間に私達はマダムが選り分けたパローダーを、トロッコに積んで捨てに行きます。高い八メートル位のヤグラの上を下って行きます。丸太をトロッコの車輪に突っ込んで、その丸太をしっかりと押さえてブレーキを掛けながら下って行きます。
真っ暗な中、可也スリルが有ります。ブレーキを掛け過ぎると最期は押して行かねば成りません。掛けないと車止めを破って吹っ飛びます。そうなると命の保障はありません。新人が面白がってブレーキの係りをやって居ました。何度目かにスピードが出すぎて「オーイ、危ないぞ」と言われたので、力任せに丸太を押した様です。丸太は何度も使って擦れて、細く成って居たのでしよう。「ポキン」と折れました。慣れていたら折れた棒の反対を差し込んでブレーキを掛けるのですが、うろたえて其の儘、車止めを乗り越えて四人とも真っ逆さまに落下して行きました。
落ちて暫くの間は記憶が有りません。気が付いた時に、ニーナとカーシャが側に居ました。あの口の悪い娘達です。残念ながら再びその後の事は全く覚えて居ません。私は翌日の夜も仕事に行ったので、怪我もたいした事は無かった様です。
あの時の記憶に残って居る事は、落ちる僅かな時間に今迄に過した子供時代の記憶が、頭の中で高速回転して甦った事です。人間とは不思議な生き物です。落ちる瞬間にあれだけの事を思い出すとは、この時も柔道の受け身が無意識に出たのでしよう。
又もナチャニック、あのドアーの時の親分が来て、私が気付いて大丈夫だったのを確認して「ニヤリ」と笑いました。又お前かと言う顔をして・・・・・。
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北の十字星は冬の星
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一日三交替ですが昼間の記憶は余り有りません。矢張り夜の作業ばかりです。暖かく成れば敵は雨です。雨具は全く有りません。春だ、夏だと言っても夜は大阪の冬に近い位に温度は下がります。其れにシトシトと雨に打たれると、寒さも然る事ながら、惨めさは心を暗くします。炭鉱に着くまでにびしょ濡れです。こんな時ブンケラの上からガタガタ言ったら凄いです。下から聞くに堪えない、悪口雑言の知る限りを怒鳴り返します。流石のマダム達も雨の日は遠慮して静かでした。
積み込みにはパローダー(ボタ)の監視官が居ます。何時も升の様な容器を持って居て、其の中に混ざって居るボタの量を検査します。検査官と言ってもヨーボネ(いかれた)オッサンです。雨に濡れた石炭は見分け難く、雨の日は何時もブツブツ文句を言います。良く喧嘩をしました。
ブンケラから一度に出さずに、少しずつ検査をしながら分けて出せと言いますが、そんな事をしていたら身体が冷えて持ちません。そして最期には喧嘩になります。選炭のベルトも止め、積んだ貨車の石炭も全部降ろして、ボタを除けて積み直せと言い出しました。遠くに有る事務所からナチャニックも来て、いかれたオッサンと今度は二人で怒鳴り合います。
びしょ濡れで立っている私達にはナチャニックも何も言いません。誰が手を抜いているか分かって居るようです。今度は選炭場に上がってマダム達が怒鳴られます。大体其れ位で収まります。小気味良い時もあります。
冬に成れば敵は吹雪です。其の敵の大将は凍傷です。お互いに相手の顔を何時も見て居ます。顔の色が透き通った様に見えたら直ぐ知らせます。走って休憩小屋に行って大急ぎで摩擦で暖めて来ます。色が黒い様に感じたら手遅れですが、発見が早いから一部の損傷で直ります。
何と言っても一番印象に残って居るのは、風も無いのに染み入る様な晴天の夜間の作業です。温度はマイナス四十度を越して下がります。空気が痛いと言ったら良いですかね。空には星はこんなに有るのかと思う程、びっしり重なり合って青く輝いて居ます。流石北の国の星達、星明りとはこの事を言うのでしょう。炭鉱は三交替ですから三分の二は夜の仕事です。然もブンケラは屋外の作業です。雨や吹雪や曇りの日以外は星と共に働きました。
真上に北極星が、ひと際存在感を示せば、北斗七星が鮮やかに見えます。星が手の届く位に近づく夜は、キーンと凍てついた空気になり、そして遠くの音が良く聞こえます。
時計の無くなった捕虜は北の星の時計を持って居ました。其れも正確な時を刻む十字星です。あの山の上迄行ったら二直の仕事は終わり、あちらの木の上迄行ったら三直の仕事は終わり、夜明けの遅い冬の朝の交替は真っ暗でした。
私達は其の星を北十字と呼んで居ました。十字架の様に一辺が少し長い十字の星です。真上の北極星を中心に、裾(すそ)を廻りながら捕虜と一夜を過ごします。北十字星は冬の星です。仕事の辛い夜に限って、彼はなかなか動きません。仕事に夢中の時、彼は捜さないと解らぬ程遠くへ行って居ます。望郷の念に駆られながら星と共に泣いたり笑ったりしました。顔を洗って帰る頃には流石の星達も力を失って、トボトボと歩いて帰る頃にやっと東の空が赤く色付き始めます。こんな冬を此処で三度耐えて生き抜きました。一日も休まずに。
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捕虜の葉書は偽りの中に
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本籍に向け二度ほど往復葉書を出しました。往復はがきとペン先・其れに粉インクが支給されました。枝木にペン先を縛り付け、粉のインクを水で溶き、(俘虜用郵便葉書)と書かれた往の方に書きました。上官から「現状を其の儘書いてはいけない。ソ連を褒めて書かないと届かない。そして片仮名で書くように」と言われました。日本の国には祖母しか居ないと思い、片仮名で「ナニモフジユウナク、ゲンキデハタライテイマス。ドノヨウナコトガアッテモ、カナラズカエリマス。ソレマデハオバアサンモ、カナラズゲンキデ、マッテイテクダサイ」と言う様な事を書きました。
私にはもう祖母しか居ない、『祖母の為に必ず帰る』と決めて居ました。明日は私かと思う程、飢えて居た時に書いた葉書です。其れから一年位して返事が来ました。懐かしい姉の字でした。父母姉妹弟全員無事に帰ったと書かれて居ました。お金は中国で全部没収されたので、生活は楽では無い様な事が書かれて居ました。
この便りを貰ってから私の考えも変わりました。嬉しかったのです。敗戦で然も全員海外にいて、一人も欠ける事無く日本の故郷に帰って居るではないか。何が有っても生きて帰るぞ。強い想いが湧いて来ました。ジエウチカ(娘さん)達が「ポチム」(如何したの)と不思議がる程に・・・・・・。
「身体髪膚此れを父母に受く 敢えて危傷せざるは孝の初めなり」
其れからも昭和二十三年十二月二十二日に二回目の葉書を出しました。其の葉書は此処に有ります。母が陰膳据えて肌身離さず持って居た葉書です。葉書も茶色く成り水で溶いた粉のインクも色褪せて、五十七年の歴史を感じます。半世紀昔の若者がどんな気持ちで居たのか、参考までに此処に出して見ます。
= 昭和二十三年十二月二十二日発信 =
父上様を初め母上様その後お変わり無くお暮らしの事と存じます。又姉上様、すま子、満範君も元気で父母様の手伝いをして居ると信じます。九月に受け取った便りに寄りますと、家の生活の方は大変困って居られるとの事、心痛に耐えません。私が帰るまで頑張って下さい。私の方は勤労者の国ソ同盟は、あらゆる物資が市場にあふれ、私達の手にも自由に入り、生活面に於いても、作業面に於いても、なんの苦労も有りません故御安心下さい。私の事は八月頃帰国した岩手県雫石のAさんと言う人が良く知って居ります。この人は私を弟の様に世話をして下さった人です。出来たら連絡を取って見て下さい。(中略)母上様お身体の方はお変わり有りませんか、母上の事が心配で成りません。毎日お祈りして居ります。姉上を初め皆さん母の事宜しくお願い致します。では貧しくとも元気で新しい年をお迎え下さい。
矢張り思った事は書けませんでした。「今年も帰る事は出来ませんでした。今戦犯収容所に居ます」等とはね。お袋は倒れて寝込んで仕舞うかも知れません。この便りの返事は貰った記憶が有りません。この手紙を書いたのは炭鉱の人達が全員帰って、私達数人が十五分所の収容所に移され、其処から代表でウラジオの講習に行っている時だったと思います。残されたのと戦犯と言う事で傷心の時です。
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ソホーズに行く
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ソホーズとは集団農場で、一週間太陽の下での作業です。休む事無く良く働いた者達に与えられるご褒美のような作業です。其処は牧場地で毎日の草刈が仕事です。大きな背丈位の柄の鎌で「バッサ・バッサ」と刈ります。其れを集めて馬車で運び、広げて干します。
バターやチーズを造るのも手伝いました。摘み食いではなく、指で掬い舐めです。此れは最高でした。チーズ造りは今考えると原始的な方法でした。厚手の布の袋に搾り立ての乳を入れ、二人でザワザワと揺さぶります。すると水と分離してモロモロした物が出来ます。後はマダム達の仕事で、私達は知りません。
本当に毎日がノンビリと過ぎ、捕虜と言う事も忘れる様な毎日でした。草刈に行く前に昨日干した草を、ホークのお化けの様な道具で、乾き良い様に引っ繰り返します。
日本の柔道の噂を聞いたポパイの様な腕をしたオッサンが「ヤポンスキー柔道」と言って誘いを掛けてきます。そして今日も同じ様に「柔道、柔道」と言います。此の場所はフワフワした草の上で、何があっても安全です。
「ヨーシ、一発」と両手を出し「イジスーダー」(来い)と構えると大きな腕で掴み掛かって来ました。私は慌てて後ろに下がりましが、凄い腕力で、のし掛かって来ます。誂え(あつらえ)向きのチャンス。
得意の巴投げで一回転して草の上に。飛んだオッサンも見ていた皆も大喜び「ハラショ・ハラショ」の大騒ぎ。其れからも「ダワイ・ダワイ」と掛かって来ましたが。二度としませんでした。今度したらあの巨体に潰され兼ねませんから。
大鎌で刈るのが上手に成った頃、一週間の楽園も終りました。捕虜に成って始めて味わった楽しい日々でした。
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ダイ・クリー(煙草頂戴)
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紙巻煙草を吸っている人はこの村には居ません。ナチャニック(炭抗のボス)ぐらいは吸って居ましたかね。殆どのロシヤ人は「マホルカ」と言う荒引きの煙草です。庭で育てて陰干しして、葉も茎も荒く潰した物を新聞紙の紙に巻いて唾でくっ付けて吸います。普通の紙巻煙草より良い香りがして美味しい様な気がしました。一年も過ぎて仕事も私達の主導で行われる様に成ると、煙草も「頂戴・頂戴」と言わなくても纏めて(まとめて)くれる様に成りました。
日本人は器用な人が多い。マホルカを入れる小さな巾着、火を点ける火打石の一式、石は道端に落ちて居る白っぽい石、擦る鋼は炭鉱のスコップの切れ端、火の付く縄は木綿糸か草の穂の様な物。結構簡単に火は点きます。貰ったのかパンと交換したのか、何時も腰にぶら提げて持ち歩いて居ました。未だマホルカが手に這入り難い時には、南瓜の葉の枯れたのを吸ったりしました。他の枯葉に比べれば一番良かった様な気がします。
時効に成ったからから言うのでは有りませんが、帰国した時、前の畑で親父に焼かれた、袋の中にマホルカの種が這入って居ました。日本に有る煙草の葉とは葉っぱが全く違います。丸い厚みの有る葉っぱでした。此れを吸える様に成った時には死から脱出が出来た時でした。休憩時間に一服吹かすマホルカの煙がユラユラと昇って、この頃になると、もう哀れな捕虜では有りません。
もう此処に来て三年目、炭鉱でも一番の古株です。「ダワイ・ダワイ」と急かされる事も有りません。マーリンキ(チビ)も大きく成りました。秋が来れば十八歳だった少年も二十二歳に成ります。
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新しい収容所に移る
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三年目の年が来て又収容所が変わりました。今度は新しくてゆったりとしたスペースがあります。木の二段の寝台には変り有りませんが、丸太を組んだ大きなハウスです。少しは人間らしい扱いに成りました。立派な大きな食堂も出来、作業時間の違う炭鉱労働者です。何時行っても食事が出来る様に成りました。雑穀ですが箸で食べる主食とおかずとスープも有ります。餓鬼の様な時代は終わりました。
この時初めて使役で厠の掃除に行きました。後にも先にもこの一度だけですが、其れはロームと言う一、五メートル程の鉄の棒(片端が尖ってもう片端は潰して平)で出来たロシヤ製のツルハシを持って、便所の中に入って行き、凍った三メートル程も有る糞の柱というか塔を倒します。
匂いは無いものの、カチンカチンに凍った其の塔は簡単には倒れてくれません。そして何度もツルハシで叩きながら亀裂を入れて砕いて行くのですが、時折り細かく飛び散った破片が服の間に入るのには閉口しました。大の方と小の方の柱を倒し終わった時には流石に疲れました。
そこまでは何とか良かったのですが、帰ってからがさぁ大変でした。外套の中に入った氷の破片が徐々に融けて、臭い出して来るではありませんか。
外で徹底的に振るって帰って来たのに、皆には嫌がられるし、自分自身もひん曲がりそうな臭いが鼻に衝いて、鼻に衝いて、往生しました。外套は着替えが支給されて無いので、着ている物の洗濯は出来ません。少ない休日の中で堪らなかった出来事でした。
この収容所で忘れられない出来事がやって来ました。遅い春がやっと訪れた頃の事です。三直の仕事を終えて帰って寝て居ると、友達から劇団が来て居るからと起こされ見に行きました。
食堂を片付けて舞台を造り、歌や劇や踊りを同じ捕虜の人達が演じて居ます。アコーデオンの音を聞くのは何年振りでしよう。三年目にしてやっと人間らしい扱いをされ始めた時、久し振りに聞いた其の音色が、無性に懐かしく嬉しく思いました。
其の劇団の中にロシヤ娘に扮して「急げ幌馬車」の曲に乗って踊る人が居ます。「オヤッ」ネッカチーフの下から見え隠れする顔には見覚えが有ります。が、まさかと思い最期迄見て居ると、最後の挨拶で化粧を落して劇団全員が並びました。「アッ」矢張り彼です。彼は姉の職場に日本から送られて来た少年で、一人ボッチで淋しそうだからと紹介された少年です。四年振りの再会です。何を話したか記憶に有りませんが、アコーデオンの音楽に合わせて、化粧をしてクネクネと踊って居た姿は忘れられません。何故彼がこんな所で踊って居るのだろう。そして何故シベリヤに彼は居るのだろう。其れから間も無く彼は帰国したそうです。
私は今まで此処まで生きて来た事は幸運だったと思って居ました。死骸の中から這い出してでも、何とか生き延びようと思って居ました。捕虜とは、全員が悲惨で皆、奴隷だと思って居ましたから。「死して虜囚の辱めを受けず」其の教えに逆らって生きて来たのだから、どの様な扱いにも耐えて此処まで来たのに、あの劇団の人達は一体何なのだろう。私達は極東の片隅で石炭の中を真っ黒になりながら這いずり回っていた。今三年目にしてやっと人間らしい暮らしを得たと言うのに。
この時初めて、違う顔を持つ外のシベリアを見た感じがしました。
この年はダモイの大変多い年でした。炭鉱のマダム達も「ヤポンスキー・フセ・ダモイ」(日本人は全員帰る)と言いますが、去年も私達炭鉱で働く者は帰れませんでした。今年も地上作業の人達だけは何時の間にか減ってしまって、静かな収容所に成って行きました。冷たい雨の日が続く様に成り、又冬が来ます。
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ブンケラの人間模様
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此処で三年働いたブンケラの事をお知らせしましょう。ブンケラの責任者はサザレンコです。赤ら顔のノッポで気は小さい。其れに貨車で這入って来るストイキ(丸太)の責任者でもあります。私も暇な時には寸法に合わせて丸太を挽きます。丸太の中に居る白いサナギはあぶって食べます。見掛けに寄らず美味しいですよ。
そして私達の天敵のようなパローダー(ぼた)の監視員のいかれたオッサン。それから上の選炭場に居るマダム五人と、度々ちょっかいを出して来るジェイチカ(娘さん)二人。
ガタガタ言うマダム達には何時もは「婆ァー」と呼んでいて、用事の時だけ「ヘーイ、マダーム」と調子良く呼んでも「婆ァーダ」と返事が返って来ます。意味が解って居たのかも。
石炭が順調に出て来るとコンベヤーが動き、マダム達は大きな声で合唱します。それがとても上手にハモッて居て、歌は桁外れに上手くプロ並みです。流石ロシア民族と言う感じでした。しかし計算は小学校一年生並みです。此れはオバサン達だけでは有りません。ナチャニック(一番の親玉)も同じく教養はまったくありません。こんな所で私の商業学校で習得した暗算が役に立ちました。全て暗算で出来る様な事ばかりですから。
彼女達は夏でも冬でも弁慶の様にマフラーを被って、出て居るのは目だけです。たまの休みの時に立ち寄ったりしても誰だか解りません。声を聞いて婆ァだと解ります。ちゃんと化粧して居たら結構未だ若そうです。
ニーナが休みの日に、お菓子を持って来た事が有りました。着飾って化粧して来ました。十五・六の子供だと思って居たのに、赤毛でスタイル満点の美人です。「柔道・柔道」と言って組み付いて来るから、石炭の上に投げ飛ばして居たのに驚きでした。其れからは意識した訳でもないのに柔道は出来なくなりました。辛い侘しい捕虜の暮らしの中で三年間、同じ所に居られた事が何かに付け幸運で有ったと思います。
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悲しいダモイ
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炭鉱のロシヤ人達の様子が異常です。其の日は十月に成りどんよりとして寒い日だった。上の責任者の人も「ヤポンスキーは全員居なく成る」と言います。『若しかして、今年こそは帰れるかも知れない』密かに期待しました。ロシア人全員が「お前達、今日で終わりだ」と言います。ブンケラの責任者のサザレンコも「明日の作業の事が張り出された」「この一直の仕事で終わりだ」と言います。
ニーナが降りて来て、「パプカ・マムカ。イエス」 (貴方のお父さんお母さんは居るの)と聞きます。「居る」と言ったら「ハラショ」と言って、小さな両面の鏡をくれました。「ニイ・ナーダ」と返しました。ニーナは無理矢理に置いて上に上がって行きました。『ロステダーニヤ』(さよなら)
この日ブンケラに交替の組は来ませんでした。『ダモイだ。今度こそは本当だ』と喜んだ事は言うまでもありません。ブンケラの人達に送られて収容所に帰りました。収容所の中は全員集まって、てんやわんやの大騒ぎです。
「ダモイに成った。今から名前を呼ぶ者は、装具を持って集合」と言われ、次々と名前が呼ばれました。其の中に私の名前も有りました。全員で五十人余りです。
『今度こそ、今度こそは帰れるのだ』皆に手を振って雪空の中を出発しました。初めて通る長い峠に差し掛かかった頃、曇って居た空から粉雪が舞い始めました。
やがて誰からともなく「何故私達だけなのか」と言い出しました。全員帰ると言っていたのに如何してなのか、付いて来ている歩哨に聞きました。顔なじみの兵隊です。「クーダ・ハジー」(何処に行くのか)「スーチャン」と言う名前の町です。「ダモイダー、ネート」ダモイでは無いと言う。名前を言われなくて、残った人達の方が全員帰ると言っていた。
糠喜びした事が「ポチム」(如何しても)虚しい。
雪だった空から霙(みぞれ)交じりの大雨に成りました。峠は未だ先が長そうです。峠の中程に有る空き家の収容所に入り、今夜は此処で泊まり明日出発すると歩哨の話。服は濡れ食事も無く、ペチカは有るのに焚き物が無い。小さいレンガの家が続く収容所です。沈み込んだ私達の隣の家からは元気な声の合唱が聞こえます。この人達は何処から来た人達だろう。
其の時聞いた歌の歌詞です。
一、 吹雪くスーチャン眠れぬ夜は ペチカ囲んで思い出話し
泣いて笑って 笑って泣いて 結ぶ今宵の夢楽し
二、 窓にもたれてあの娘(こ)の歌を そーと歌えば名知らぬ星が
すーと流れて 流れて消えた 結ぶ今宵の夢悲し
其の夜以降、この歌は聞いた事が有りません。たった一度聞いたこの歌を今でも覚えて居ます。そしてあの人達は、何処へ行ったのでしよう。
シベリアと言う国はどんな所でも半日も歩けば収容所が有ります。
其れが何日掛かろうが目的地までの移動中は、食べ物は絶対支給されません。傷心の夜が明けて昨夜の雨は上がりました。どんよりとした雪空の下、第十五分所に入りました。
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