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第 三 章
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闇からの脱出
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ランプの係りは三十歳位の無愛想なマダムです。この小母さんがホヤや金網を掃除して、ランプの壷の中に灯油を入れて準備します。八時間程照らすランプを渡す係りです。炭鉱で働く三十歳位のマダムは大勢居ます。本当に働きません横着者です。掃除をして居ないランプを平気で渡すのです。その様なランプが当ったら災難で、坑道に入って間も無く網が詰り暗く成って消えて仕舞います。こんな時は同僚の灯りが唯一の頼りです。一人で居る時はトイレに行くにも、パーリンの時に避難するにもすべて手探りです。
一度、私の所だけランプ無しで作業して居ると、ナチャニック(炭鉱の責任者)が来て「明かりは無いのか」と聞きます。「ポメライ」(死んだ)と言うと、暫くしてマダムが来ました。これ以上怖い顔は無いと言う顔つきで「マーリンキ ナァー」と言って、ランプを渡して帰って行きました。大分怒られた様です。其れ位のお小言で素直になる様なマダムでも有りません。「ヨーッポイ・ボハマー、ヨーボネマダム」(馬鹿やろー、いかれた小母さん)とは私の台詞です。(外国の悪口は直訳では書き難い)
其れからもランプは度々消えました。消えたランプで穴から出て行く時が命がけなのです。線路の有る所まで来れば、所々に明かりは点いて居ますが、其処までに辿り着くまでが手探りで大変なのです。慣れた穴ですから何とか出ては行きますが、廃鉱に成った穴が沢山有ります。迷ったら出て来られなく成ります。
私達が穴の中で苦闘して居る間に、地上で作業して居た人達は全滅しました。特に補充兵のお父さん達は殆んど亡くなられました。
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極限の戦い生か死か
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本当に最初の冬は地獄でした。着た切り雀の私達は、炭鉱の穴の中での作業着も、帰って寝るのも同じ服です。妹が作ってくれて大事に腹に巻いて居た千人針も、虱の巣に成り焼き捨てました。
仕事から帰ったら持ち帰った石炭を一斉に燃やします。蚊一匹居ても眠れない私です。裸に成りシャツをストーブにかざして虱退治です。丁度胡麻を煎って居る音がします。部屋の中はマイナス十度にも拘らず、一晩寝ると同じ様に増えて居ます。弱った人の虱達が団体で引越しして来るのでしょうか、何十匹か何百匹のこの虫たちに悩まされ続けました。作業で幾ら疲れて居ても、火に焙って殺す事だけは忘れませんでした。
亡くなった人のシャツや跨下は虱と卵でサンドペーパーの様にザラザラだった事を付け加えて置きます。
毎月身体検査が有ります。「ピェイロイ」とは「Aクラス」、B・Cと分けられます。Aクラスは炭鉱、Bクラスは地上作業、Cクラスは所内の作業や墓堀等、検査の基準は矢張り尻の肉付きです。陸上やスケート・柔道で鍛えた尻は痩せませんでした。
不思議な事に幾ら寒くても、幾ら弱っていても、風邪はひかなかったですね。他の誰一人として風邪に掛かった者は居ません。ところがマラリヤは大流行しました。マラリヤは南方の病気と思って居ましたが、其れに掛かった方達は収容所で亡くなられるか、別な所に送られるか、後に残ったのは大量の「キニーネ」と言う錠剤です。この薬を水で溶いて晒しを黄色に染めてマフラーや腹に巻きました。虱が来ないと言っていましたが効果の程は解りません。
皆が寝る時間に出て行って朝帰ってくる。昼過ぎ出て行って夜中に帰って来る。そして朝出て夕方帰る事も有ったのですが、この記憶が余り有りません。春が来るまで夢風病者の様に炭鉱に行ったり帰ったりの日々でした。
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月下に並ぶ全裸の死体
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私が炭鉱に入ってからの一ヶ月か二ヶ月の間に他の作業場では、其れは大勢の下級兵士が亡くなりました。正確か否か解りませんが、私は今でも四百八十人余りの方が亡くなったと思って居ます。終生忘れる事の出来ない光景です。二直から帰るのは夜中の一時頃です。厳寒吹雪の走る凍土の上に、毎日増える遺体、墓の穴を掘るのが間に合わず、裸の死体が凍土の上に何十と並んで居ました。
青い月の光に照らされて顔だけ包帯を巻いた裸の友の姿です。せめて日本の土を踏んで逝きたかったであろうと思います。このような辱めを受け、乞食同様の扱いで死んで行くのは無念だったろうと察します。国には妻や幼い子供達が居られるでしょう人達や、両親の期待の息子さんで有った事でしよう。ローソクの一灯、線香の一本供える人も無く、この様な姿で横たわって居るとは思いもよらないでしょう。今も尚、置き去りにされた名も無き遺骨の数々はシベリヤの大地で迎えが来るのを待っていると思います。
この頃に、他の収容所から大勢の人が補充されました。こんな事があって、皆から「殺人南波大隊」と云って恐れられて居ました。如何してあんなに大勢の人が死んだのでしょう。私は鳥目に成っても一日も休みは貰えず、ずっと見え難い目でも炭鉱で働きました。だから墓の穴掘りには行った事は有りません。
何十人もが狩り出され、交替で二十四時間墓穴を掘っても間に合わなかったようです。裏山の凍った土の上で焚き火をして、凍土を溶かしながら堀っている様子です。何箇所も燃え上がる炎は、白黒の世界を真っ赤に染めていました。地獄図とは正に此れを言うのかも知れません。
人からの聞き伝えでは二メートル位掘って、大勢一緒に埋めたと云う噂でした。北向きの太陽の当たらない所だから、今掘ってもあの当時の儘、十九歳の少年が出て来るのではと思い続けて居ました。然し半世紀以上経った現代、温暖化も進み、其れにCクラスで体力の無い人達が二メートル以上もあの凍土を掘ったとは到底思えません。墓標も朽ち果てて場所さえ解らなく成って居る事でしょう。
将校の小さい家では、美味そうな肉の匂いをさせ、しかも仕事もせずに、この冷たく横たわった部下の姿をどの様な気持ちで見て居たのでしょう。一人でも命を掛けて交渉してくれる人は居なかったのだろうか。
日本人は「我が身は鴻毛より軽し」と言い「義を見てせざるは勇無き」とも、つい先程まで腰に日本刀を下げて居た人達です。武士道とは我が身を守る保身の術だったのか。情け無い南波大隊の将校。誹謗中傷している様に思えるかも知れませんが、シベリアという地獄で鬼はすぐ目の前にも居た気がします。この光景は帰国しても何十年と夢に出て、うなされ続けた月下の光景です。
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暁に祈る事件
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この事件は余り触れたく無かった事件です。私は帰国する迄ツダゴーの私達の収容所で起こった事だと思って居ました。それ程シベリヤの捕虜の間でも有名な事件でした。真相は有名な事件ですから御存知と思いますが、あらましは吉村憲兵曹長が(吉村は憲兵を隠す為の偽名)ノルマを達成出来なかった者を、裸にして木に縛り、其のまま朝まで放置したと言われています。零下何十度にもなる戸外で体温が下がって、朝日が上る方を向いて頭を垂れて死んで居たと言う事。其の数は数十人とも言われて居ます。
何時頃私達がこの「暁に祈る」と言う言葉を聴いたのかは定かでは有りませんが、私は帰国するまで私の収容所で起こった事と信じて居ました。それ程同じ様な事が幾つも有ったと言う事です。
仕事の事で因縁を付けられて、命の綱の食事を取り上げられるのは日常茶飯事。ビンタ等は有り難い方で、立たされたり使役に行かされたり、初年兵には当たり前の事でした。
小学生から一緒だった友を見た時、何が有ったのかメガネのツルも無く、レンズも片方しか付いて居ませんでした。「メガネは」と私。「もう無い」と彼。身体の弱かった彼は上の人に叩かれたのでしよう。此の日が友の姿を見た最後でした。
今でも下士官や将校の手記は殆ど読みません。「ふざけるな」デーンと高い所に坐って、疲れ切った初年兵をアゴで使って、サッサと二年位で帰国して、何がシベリヤだと言う思いが消えません。良い人も居たかも知れませんが、少なくとも我が大隊の将校で兵士の待遇に尽力した者は殆ど居ないに等しいと思っています。私には其の様な人は医務室の曹長だけでした。
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鳥目に成った
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遂に目を遣られた。一直の昼間での作業の時、坑内に入ると、ライトの光を当てても周りが殆んど見えない。この頃はヨーボネ(いかれた)ランプでは無く、バッテリーの頭に付けるライトに成って居ました。しかし暗くて、他人のライトさえも暗く見える。
「オーイ、目が良く見えなく成った」と言うと「其れは鳥目だ」「今、鳥目の者は多いらしい」と、此れは困った。ライトの光を当てても見え難くかったら危ない。
作業を終えての帰り道、雪空の薄暗い道は見え難く、遥か彼方の山の稜線が見える程度です。昼間でも曇っていたら見え難く不便なものでした。日暮れにもなると室内の裸電球だけの灯かりしか見えず手探り状態なので、晩の診察に行きました。
診療所の軍医はソ連の女医と其れに軍曹の看護兵が居て、先ず熱を計ります。
此処では何の病気でも、熱が無ければ病気では有りません。
然し、私は日本の軍医(後で出てくる曹長)に「鳥目の様です。坑内では何も見えません」と言うと、「坑内の作業は無理だな」そう女医と話をして居ましたが、「ニチオゥ・アデハイ・ネート」(大丈夫、休まなくても)だそうです。この曹長には後日大変お世話に成ります。
「ニチオゥ」と言われても穴の中ではさっぱり見えません。仕方なく「ジェラ・ボーイ」炭鉱の入り口の大きな戸を開け閉めする係りに成りました。其れも三直の真夜中です。中は蒸気を送って十度位に保たれて居ますが、外はマイナス四十度で其の寒さは尋常では有りません。この八時間はとてつもなく長く、辛く耐え難いものでした。
時間の中頃に発破を掛ける時、石炭の出るのが止ります。この用がない時は足踏みしたり、歩き廻ったり、中に入って見たりしました。中は暖かいと言っても其れは作業場での事、入り口辺りは外と同じで、むしろ吹き込む風が強く、とても寒いのです。それでつい、大きな戸にもたれて眠って仕舞いました。体温が下がって来たのです。
作業中ですので当然ですが、マシイナー(電動車)が石炭を引いて出て来ました。戸と一緒に七・八メートル飛ばされました。気が付いたら大騒ぎです。マシイナーを運転して居たのは、例の生意気な小僧です。怪我はしていませんが、バーニヤ(入浴場)のストーブの側まで運んで貰っていました。体温を上げる為に裸にされて、マッサージをしてくれたお陰で難をのがれましたが、体温が戻ると何て事は無かったのです。ナチャニックに大声で怒鳴られました。又お前かと言う様な顔をして。そして次ぎの日からブンケラ(掘り出した石炭を積み込む所)に廻されました。地上作業です。入れ替わりの多い捕虜の中でこの日から最期までブンケラでした。
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遅い春が覗いて来ました
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遅い春が覗いて来ました。春夏秋冬それぞれ四回ずつ経験しました。幾らシベリヤでも五月とも成れば土の表面は融けて来ます。冬と春が押し合いをします。吹雪く日も有りますが、土の中からは青い芽が覗き始めると、炭鉱の往復に通る道端にも天然の牛蒡、タンポポ・オバコ等が一斉に芽を吹きます。
東北や北海道出身の多い部隊ですから、食べられる植物は良く知っている人達です。掘り起こす為の木のヘラを作り、帰り道に器用にタンポポやオバコを掘り起こして持ち帰って来ます。私も真似て採って帰り、飯盒で湯がいて野球のボール位に絞ります。主食のお粥に混ぜて食べました。久し振りの満腹感です。然し、苦いのなんのって便秘に成りそう。それでも毎日帰り道に一生懸命に採りました。其れも一直か三直の帰り道です。夜中に帰る二直では採る事は出来ません。鳥目は瞬く間に治りました。
その様な事が有って、休日には歩哨が付いて野草採りが始まりました。高級な野草のアカザ・ノビロ等です。北に住む人達は良く知って居ましたが、野草を食べて死人が出ました。がむしゃらに取った中に毒草が有った様です。それ以来、野草採りは禁止に成りましたが、春の遅いシベリヤの大地に張り付いたタンポポやオバコ等の雑草が、命も鳥目も治してくれました。雑穀のお粥に湯がいた草を混ぜて、量を増やして食べたお陰です。
奇しくもそんな折、私は冬に大流行した湿地の風土病らしい疥癬(カイセン)に良く似た皮膚病に掛かりました。お尻から大腿部にかけて、穴が開いた様な感じで皮膚が融けて行きます。冬にかかった大勢の人達は何処かの病院に連れて行かれました。私は患うのが遅かったので病院への入院はさせて貰えません。此処の医務室には五、六人なら入院出来ますが、その時は私一人だけでした。
医務室に寝かされても薬が無いので、うつ伏せに寝てヨードチンキを塗って貰うだけです。段々酷く成って「これ骨かな」と言う程ひどく成りました。日光が出ると外で尻と大腿部を風に晒すだけの治療が続きます。いわゆる天日干しです。陽と風に当たって融け掛かった皮膚が乾き、それが引き攣って如何な慢強い私でも、痛くて一日中唸っていました。まして夜になると否が応でも神経はそこに集中し、ズキズキと疼いてとても眠れるような状況ではありません。
其の様な折り、作業に行っている友が、電線を止めている陶磁器製の碍子の中に絶縁として入れてある硫黄を持ち帰って来てくれました。ドラム缶で即席の風呂を作って、其れをお湯に溶かして入ったら、何と見る見る内に傷口が癒えて良く成りました。例の曹長が頼んでくれたのか、友達が知って居たのか、本当に綺麗に直りました。これが四年間で一番重い病気でした。
余談ですが我が家には「六十ハップ」は常備薬として置いています。孫の汗疹が出来る夏に成れば何時も風呂に入れていました。肌が綺麗に成ります。何でも治る気がします。最大の危機を脱出しました。此れも友のお陰でした。
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