|
第 二 章
|
ツダゴーの強制収容所
|
捕虜とはこう云うものなのだ。「生きて虜囚の辱め(はずかしめ)を受けず」と教えて居たのは捕虜に成るより、死んだ方が増しだよと云って居たのだ。長い時間を掛けて築いて来たプライドなんて一瞬の内に打ち砕かれて仕舞います。本当に飢えれば、落ちて居る物でも拾って食べるし、見て居なければ人の物でも黙って食べる。
哀れな事に一番最初に覚えたロシア語が「ダイ・ソーロク」少し頂戴と云う言葉です。長い間この事だけは他人には云えませんでした。恐らく何十万人の捕虜だった人達も同じ気持ちだったろうと思います。体験した者でしか分からないでしょう。
倒れる寸前に成る頃、やっとツダゴーと云う収容所に辿り着きました。此処は狼も近づく事が無いと云われる底なしの湿地帯で、そのすぐ脇に収容所は、建てられています。壁も屋根も布で出来た細長い五十メートル近い布の建物は土を掘り下げて建ててあり、その掘った土で四方のテントを盛り、下から入り込む風を避けるよう造られています。きっと風で飛ばされるのを防ぐ為と防寒対策なのでしょう。両側に入り口を設けていて、入り口付近にストーブが有り、その左右に簡単な木枠で出来た棚のような寝台が続いて居ます。
細長い同じような建物が二棟、幅の広い大きな矢張り布の建物が二棟、それに小さい四棟の建物も有ります。こちらも布張りで、これは将校の住まいと医務室等です。
収容所の周りを取り巻いた三重の鉄条網があり、四隅に有る望楼には自動小銃を持った兵隊と鉄条網の間をシェパードが走っています。映画で見た囚人の監獄よりひどい収容所でした。このお粗末な収容所で一冬に五百人近い友が亡くなるのです。
建物の中に入っても寒さは和らぎません。藁布団と背中に背負って持って来た毛布が一枚だけです。その上に外套を掛け、着の身着のままで疲れ切った身体を横たえました。もう外の湿地の土は凍って居ます。
華北の天津で育って、寒さには強い筈なのに、寒くてお腹が減って、眠る事さえ出来ません。空腹を満たす為に水ばかりを飲むものだから、どうしてもトイレが近くなります。トイレは山際の東の端にあり、道だろうと思われる道が一応ついていました。遠回りが嫌だから真っ直ぐ行くと広っぱに出るのですが、その道は直径三十センチ位の草株の凸凹道です。真っ暗な中では歩き難く何度も蹴躓きました。
空に満天の星とはこの事を言うのか、手の届きそうな空に、細い美人画の睫毛の様な上弦の月が浮いて居ました。この時の情景は忘れる事は有りません。不安と望楼の自動小銃の恐怖で、細い三日月が涙で霞みました。
「我に七難八苦を与え給え」祖父の得意な昔話です。山中鹿之助が三日月に祈ったと言われる故事、唇を血の出る程咬んで誓いました。『死ぬものか』
其の夜中、初めて狼の遠吠えを聞きました。縄張りに入って来た死にかけた捕虜達を、裏山から見下ろして居たのでしよう。
|
革靴が木の靴に成った
|
今までの野宿の事を思えば、布張りとは云えども家ですから夜露は凌げるし、藁布団は思ったより暖かく良く眠れました。
早朝起こされて食事の支給と言われ、真っ暗な凸凹の凍土の上に並びました。千人近く居るのに、並んで一人ずつ飯盒に入れて貰います。貰う食べ物は鮭の缶詰位の酌に一掬いの重湯だけです。
この行列の何日目かに履いていた靴が凍りました。寒い中国大陸に住んで居ましたが、革靴が凍ったのは初めてです。木の靴の様で歩き難く、足に合って居ない大きな靴です。チャップリンの様な歩き方に成りました。靴に合わせ布と言う布を足に巻き、作業に行きました。
この時の作業は鉄道の線路の盛り土です。凍った土を掘って、江戸時代に川を渡す時に人足が担ぐ荷台の様な板に、土を盛り二人で提げて運びます。寒くて長旅で弱った補充兵のお父さん達はとても働ける様な身体では有りません。
バム鉄道の枕木一本が日本人一人の遺体と言われています。何日鉄道の作業に通った事か、此の頃、川は未だ凍ってはなく作業の側の川には八目鰻が居ましたが、私は一匹も捕る事は出来ませんでした。
其の内、私は伐採に廻されましたが山での作業は歩くだけでも大変で、降った雪は平野には無く山に吹き寄せられて居ました。蝦夷松か、とど松か名前は知りませんが、長い松葉が五本出ている木です。此れを切り倒して枝を払います。この作業は大変でした。若しこの作業を此の儘続けて居たら、私はきっと生きては居なかったかも知れません。
吹雪く日は人間が山に入るだけでも大変なのです。ましてや木々も凍って居ます。鋸切りの刃さえ受け付けてくれません。それに木を切る時は気をつけていても突然凍った幹が裂けて跳ね上がったりするので、とても危険な作業なのです。
でも唯一つ楽しみが有りました。白樺の木に、ゴムの木につける様な傷を入れ、飯盒を受けて樹液を飲みます。僅かに甘く栄養失調に成りかけている者には有り難い飲み物でした。しかしロシヤ人に見付かったら大変です。こそこそ隠れて切込みを入れるのですが、其れも初めのうちだけで、凍って飯盒には貯まらなく成りました。
捕虜の糧秣(りょうまつ)は一体どれだけ支給されて居たのか、我々には分からない事です。ただ兵隊に支給される物と言えば朝と晩に粟と稗や高粱(こうりゃん)で作る重湯と一日三百グラムの黒パンだけです。それでも此の重湯を巡って、ジャブジャブの薄い上澄みと、底にある濃い処との取り合いで、下級兵士と古兵が命がけで争った食べ物です。最初に其れを頂いた時、牛の飼料を思い出しました。そんな匂いなのです。其れを大きな五右衛門風呂の様な釜で煮ます。大きな釜の底の方には雑穀の固いご飯があったのですが、兵隊達には上澄みを配って居たのです。将校や下士官などは、固い雑穀のご飯に加え副食も有ったらしいです。別棟の幹部の家では芳しい良い匂いがして居ました。する事は今の官僚と変わり無いでしよう。
この頃から倒れる兵隊が沢山出て、この収容所で冬を越せずに五百人近くの初年兵や補充兵のお父さん達が亡くなりました。炭鉱に入っている人も次々に倒れました。皆な壊血病や凄い発熱と栄養失調で骨と皮になって亡くなりました。その遺体を入れる為の穴は、土が凍って中々掘れず、掘っても死者の方が多くて間に合わないのか、裸の死体が幾十と凍土の上に並んで居ました。そして本命の炭鉱にも欠員が出来て、私も二十六番炭鉱で働く事に成ります。
遺体と一夜を過ごす
未だ炭鉱に這入る前の出来事です、仕事は何をして居たのか記憶に有りません。一番酷い生活の時だったと思います、兵隊の殆んどは栄養失調、其れが食べないで長い道のりを歩いて来た続きでしたから。骨と皮とはこんなのだと思う程酷い身体でした。
私を除いて、私は一番下の初年兵です、何かと因縁付けられて食事を取り上げられました。仕事も古い兵隊の何倍も働かされます。帰ってから裏山に柴を取りに行くのも初年兵です。でも私はひどくは痩せませんでした。其れでも家の周りに有る小さな溝が飛び越えられませんでした。
寝台は4人づつの上下二段に成って居ます、真ん中に仕切りが有るから寝るのは二人づつです。一所に寝るのは食べ物の話しばかりするお父さんです。山形か岩手だったかも知れません。二人の毛布を掛け防寒外套を掛け二人で固まって寝ます。
私は寝る前に必ず裸に成って、シャツと袴下(こした)をストーブにかざして虱退治をします。
毎夜床に入ってから「しるこ」や「ぜんざい」の違いとか、「おはぎ」と「ぼた餅」の違いとか、最期は銀シャリに味噌汁で終わります。
早かったです、ある夜私が虱退治から帰って潜り込むともう寝て居ました。夜中に目が覚めました。今夜は寒いなと思いましたが昼間の疲れで直ぐ寝て仕舞いました。朝方近くなって又目が覚めました。退治した虱がゴソゴソして、「痒いなー」と思いながらも又夢のなかえ。朝何で今夜はこんなに寒いのだろうと思いながら目が覚めました。私より何時も先に起きるオッサンが起きて居ません。「飯上げの時間ですよ」と覗き込みました。
其の時の彼の顔忘れる事が出来ません、目も口も半開きで痩せた顔は般若の面の様な顔でした。
分隊長から小隊長、医務室が来て、慣れた手つきで裸にして、担架で連れて行きました。
初めて彼の裸を見ました、身体中に黒い斑点が有りました。栄養失調から来る「壊血病」だそうです。眠って居る内に息を引き取った。正に眠る様にとはこの事か。
それで昨夜は寒かった、虱も私の所に引越しして来たのでしよう。人の命て何とはかないものでしよう。何事も無かった様に飯上げをし、重湯をすすって作業に行く。帰って来ると代わりの人が、其処に又寝る。もう「オハギやぼた餅」の話はしないで下さい。
|
二十六番炭鉱に入る
|
このラーゲル(強制収容所)は確か、最初は南波大隊で占めていましたが、炭鉱に入る頃には海軍や、歳を取った補充兵のお父さん達が大勢居ました。然し何時どの様にして送られて来たのか、あの北朝鮮で一緒にソ連軍を待ち伏せていた人達とは違って居ました。後から来た元気な海軍の若者達は二十五番炭鉱、ヨボヨボした陸軍が二十六番炭鉱でした。規模は二十六番の方が数倍も大きかったように思います。
補充で這入った私は初めから三直です。(この三直と言う呼び方は海軍の呼び方です)陸軍だったら三勤と言う筈です。夜中に出て行きます。皆が寝静まった夜十一時過ぎに集合して、冷たさを圧縮した様な星空の下を吸う息で喉や胸が痛いのを堪えて背中を丸めて細い雪道を「キュキュ」と踏みしめながら山の炭鉱に向かいます。マンドリン(自動小銃)を抱えた歩哨の「ベストラ・ベストラ」(早く、早く)の声に急かされ、地獄へ向かう死人の群れの様でした。
初めて炭鉱を見て、身のすくむ思いがしました。ボイラーを焚く煙がモクモクと上がり、其の蒸気が到る所で噴出し、其れが外灯に照らされて、まるで地獄の三丁目の様な光景です。
控え室に入ってランプを貰います。未だこの頃は灯油の手提げランプしかなく、あの頭に付ける電池で灯すヘッドライトでは有りません。坑内の爆発を防ぐ為に細かい目の金網で被ってあるので煤が溜まり易く作業の後半とも成ると見え難く無くなり、薄暗く重くて仕事には邪魔な物です。
二直の作業者達が上がって来ました。顔も服も真っ黒です。ロシヤ人はバーニヤ(浴場)で身体を洗い、服を着替えて帰りますが、捕虜は外で坑内から出て居る水で顔を洗うだけで終わりです。そして入れ替わりに私達がゾロゾロと入って行くのです。中の温度は十度位に保たれて居ました。
トロッコの線路は複線になっており、其処を二百メートル位進んだ辺りの枝道でグループ毎に分かれて入って行きます。其処から傾斜二十度位の鉱脈に沿って登ると、前の人が掘って居た作業場に着きます。石炭の層は一メートル四十か五十センチ位で、背の低い私で少し屈む位で作業出来ますが背の高い人は中腰で大変です。既に発破を掛けてあり、直ぐ石炭は出せる様に成って居ます。白いゴワゴワのシートの様な作業着を着て、頭にはヘッドライトを付けたロシヤ人の監督が、「ダワイ・ダワイ」(さあー早くしろ)と急き立てます。
石炭の出し方は、発破で崩れた石炭を巾五十センチ位の鉄の樋に入れて下に降ろします。其の樋は「ガタン、ガタン」とモーターで前後に動いて下に送ります。下には鉄のトロッコが待って居て、其れが十台以上に成れば馬で引いて外に出すのです。その作業を生意気なガキが馬を操って「ピリォー」と鞭を鳴らしながら出て行きます。このガキと丸三年付き合う事に成るのです。
炭鉱を始めて見た坑内の記憶は、狭くそして湿気が多くてジトーっとしています。上の岩盤を支えて居るストイキ(丸太)が、両脇に立ち並び不気味に思えました。いずれ書きますがこの丸太が上の岩石の重みで裂けるのです。
発破で崩した石炭を六人掛かりで出します。スコップで樋に入れて下に降ろし、手前から奥へ奥へと取り除いて行き、段々石炭の場所が遠く成ると一列に並び、順繰りに送って行きます。全部出し終えたら、発破の係りのロシヤ人が来てブリを揉み(石炭の層に穴を開ける)ダイナマイトを差し込みます。同様の穴を十箇所程開けて一つの穴に大体三本程ダイナマイトを突っ込んでいるようでした。
其の間に私達はストイキ(丸太)を線路から上の現場迄上げます。其れが終わる頃に、発破のおっさんが「パーリン」と大声で叫びます。慌てて横穴に非難します。「ドーン」と地響きがして石炭が吹っ飛びます。又其れを必死で掻き出すのです。
出し終わる頃には八時間が終わり、又発破を掛けて次ぎの「ピエロイ。スメナー」一直の者と交替です。殆んど消え掛かったランプを提げ、穴から出て行きます。精も根も尽き果てて身体の中まで真っ黒ですが、構内から出て来る水は目だけしか洗えません。全て凍って其の水しか無いのです。ゾロゾロと再びラーゲリに向かって帰って行きます。体中真っ黒けっけの目だけ白いパンダの行列です。
|
落 盤
|
落盤は炭鉱には付き物ですが、それは、それは凄まじいものです。私達の入った二十六番炭鉱は石炭の層が薄く一メートル五十センチ位の石炭の層に沿って二十度程に斜め上に掘り登って行くのです。小さい落盤には何度か遭遇しましたが、生死が紙一重と言う位、大きな落盤に一度だけ遭いました。
慣れて来るとストイキ(材木のつっかい棒)の間から、砂の様な石炭の細かい砂がサラサラと落ちて来ます。危ないぞと思って居ると、その辺の部分が「ドサッ」と落ちます。大体その様な落盤が多いのですが、実際に掘り出して居る所にはストイキは立てて有りません。石炭を出してから丸太を立てます。掘って居る最中に全体がドサッと落ちた事が有り其れは凄い落盤でした。
落ちるパローダー(ボタ)には二種類が有ります。石炭の様に黒光りして割れた所がカミソリの様に尖ったパローダーと、べっとりして丸みを帯びて湿った白い石の様な二種類です。
この大きな落盤には前兆がありました。上から砂の様な物がサラサラと落ち、何時もとは違った異変だなと思って「逃げろー」と叫んだ時には遅く、私は下に向かって頭から飛び込みました。風圧で可也下まで飛ばされ助かりましたが、小さい私より大きい人は逃げ難く、この事故で亡くなった人も居たと思いますが、こんな大事故だったのに怪我をした者や、埋まったままの者がどうなったのか記憶に無いのです。
この後も、十メートル位の高さがあるヤグラの上からトロッコと一緒に四人で落ちた事が有りましたが、其の時も前回と同様に何人亡くなったのか?怪我人は?と聞かれると、全く記憶に無いのです。寒さに加え飢餓状態でしたから、何時誰が死んでもおかしくない様な状況だったからかも知れません。死ぬと言う事に麻痺して居たと思います。
落盤は冷静で有れば気が付きます。サラサラと砂が落ちて来たり、立てて或る丸太がミシミシと悲鳴を上げたりします。でも大きな鉄の樋(リキィタッケ)が「ガタンガタン」と音を出して、夢中で石炭を出して居る時はウッカリ見落とします。其れは楽な仕事では有りませんでしたから。身体だけが勝手に動いて居ます。八時間殆んど休憩の無い重労働、十九歳だからこなせたのかも知れません。炭鉱作業は、特別に食料が支給されると言われました。しかし、此処でも何ら変わりはありませんでした。
|
堪忍袋の緒が切れた
|
相変わらずのひもじい給食の中、体力が落ちAクラスから落ちこぼれ、Bクラスに下げられる人達が沢山出て、グループの人が何時も変わります。炭鉱の作業はAクラスの者しか入れません。其れは尻の肉付きで選ばれます。
三年兵の猛者が入って来ました。初めから「オイ、お前等」とか「ランプをお前の物と交換しろ」とか威張り散らして、仕事などする気は全く有りません。『嫌な奴が入って来たなー』と思って居ました。皆も同じ様に思って居た様です。
発破の係りが来る迄に石炭を出し終らなければと焦って居る時です。「オイ、お前下へ行ってワゴンを見て来い」と言う様な事を言ったと思います。こんな時、素直で無いのが私です。「自分が行ったら如何ですか」「私は此れを早く出さねば」「なにー、此処へ来い」背の高い彼は安全な丸太の或る所に坐って居ます。私は無視して奥の石炭を掻き出して居ました。一番奥に居る私の所にノコノコと来て「貴様ぁー」と言いざま拳で殴られました。私は黙ったまま、握っていたスコップの背の方で力任せに顔を張り倒しました。大きな体が吹っ飛んで岩に跳ね返され転がり落ちました。何とも言えない顔をして這い上がって来ます。前代未聞、上の兵隊が初年兵に殴り倒された。
然しもう一発は躊躇して居ると、彼は武者ぶり付いて来て、二の腕に噛み付いて来ました。と同時に同僚が来て二人を引き離してくれたのですが、其の時凄まじい激痛が走り肩の下の肉が噛み切られたかと思いました。
その後、彼は黙って下の方に降りて行きましたが、此れはただでは済まないぞと内心思っていました。何時も出る私の悪い癖です。「オーイ、腕から血が出ているぞ」と言われて急いで脱いで見ると、くっきりと残った歯型の数箇所から血が溢れ出て居たので、その場凌ぎに傷口の少し上を石炭で汚れた手拭を巻きつけて仕事を続けました。
帰る時、彼の顔をきっとした目で見ましたが、彼も頬が少し腫れて赤く成っている様でした。帰ったらきっと仕返しをされるだろうと覚悟を決めていました。何しろ札付きの怖い古兵殿です。然し帰っても何事も有りませんでした。もう襟には階級章が付いて居ないからか、同僚が片時も離れず側に居てくれたお陰なのか分かりませんが、後悔はしていません。うずく腕を抱えて寝た事は言うまでもありません。
咬まれた傷に石炭の微塵が入り、青い刺青となって六十年経った今もハッキリ残って居ます。
|
|
|