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第 一 章
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学校は出たけれど
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このお話しは、外地で育った少年が、中国天津市の日本商業学校を卒業して、其の翌年の四月に現地で召集された物語です。
南方では玉砕撤退が続き、沖縄戦も敗戦濃厚に成りました。日本からの補充も望めなく成った中国の日本軍は、最期の手段として現地の十八歳の少年をも招集したのです。学校で五年間、軍事教練の教育を受け、即戦力に成ります。言葉も日本語より中国語の方が達者な若者です。
入隊通知が来たのは昭和二十年三月も押し詰まった二十七日頃でした。当時、私は上の学校に志望して居ましたが、戦争のため日本に帰れず米穀統制会と言う所に勤めて居て、滅多に家には帰れません。母から勤め先に電話が有りました。
『四月一日、泰安に入隊を命ず』赤紙ではなく、ただの葉書でした。慌しいお別れです。三日続けて送別会が有りました。
日本租界に住む男子も、二十歳に成ると日本に帰って本籍地の師団に入隊して居ました。今回は天津で、其れも始めての子供の入隊です。物凄い見送りの人でした。小さい時から世話に成った人達、勤めて居た統制会の人達全員の喚声に送られて、汽車は三十一日のお昼過ぎに出発しました。緩やかにカーブして南に向い、駅が隠れた時、不覚の涙が線路に落ちました。
隣りには私物を受け取る為に母が付いて来て居ます。通路には隣りの駅まで送ると言って経理の三人娘が立って居ます。
風に当って涙の乾くまで外を見て居ました。次ぎの駅で三人に別れて列車は一路泰安に向って南下して行きます。もう娑婆ともお別れです。夕方到着母は旅館に一晩、私達は駅前の部隊に、お粗末な土間に板を張った所で一夜を明かしました。
頭の上の小さな窓から昼間の様な月の光が差し込んで居ました。便箋に姉と一緒に泣いた同僚の人に最期の手紙を書きました。こんな月の明かりは初めてでした。「月の明かりで書いて居ます」と言う書き出しで。
翌日私物と一所に母に託しました。この返事で大変な目に会うのですが。
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十八歳の少年兵
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この頃は、最強と言われた関東軍(旧満州軍)は南方方面の戦線に行って留守です。私達の住む中国の河北省も安全では有りません。幾ら平穏と言っても戦争をしている国に住んで居る私達です。ですから天津商業は三年生になると、日本租界の守備要員として銃も支給され、実弾も弾薬庫に有ります。
先輩は昭和十二年七月七日盧溝橋の事件(北平の盧溝橋で、誰が撃ったとも分からない、たった一発の発砲事件が、その後の支那事変の発端となった。北平は現在の北京ちなみに其の頃は北京とは言いませんでした)の時には、留守に成った守備隊に替わり租界を襲撃から守った学校です。そんな環境ですから、弾の音には慣れている子供達です。教官も現役将校が三人も居て、実弾射撃も何度かしました。
その様な現地入隊の若者と、内地(日本)から来た二十歳で正規に入隊した人と一緒に、一期の訓練を受けました。同期の者で四中隊の教育隊に入ったのは、後で出て来るシベリヤで亡くなった門田君だけでした。
初めて軍事演習を受ける内地の人、五年間訓練を受けて来た私達、班付きの古兵殿に徹底的に搾られたのは私達でした。この太平洋戦争が始まる以前から中国に住んでいる家庭の子供達です。
派遣軍の上層部に手を廻して、「うちの子を宜しく」と色々有った様です。其れが禍してビンタも余計に貰いました。班付きの古兵は「オイ、支那人」と私達の事を呼びます。
「何をしても貴様に負けるものか」と思って居ますから、「何だ、其の目は」と又殴られます。負けず嫌いの私です。拳をギュッと握り締める心の中は複雑。
毎日の様に奥地から飛んで来るアメリカの戦闘機P-五十一の攻撃を受けながら、訓練は転々と場所を変えて行われました。それは農村の中で有ったり、鉄橋の守備隊と一緒で有ったりします。
敵機は機関車を狙って来るのです。帰りは身軽にする為、弾を撃ちつくして帰るようで、その余った弾は私達の頭をかすめます。
訓練の途中から其れ迄の陸軍の基本だった対ソ戦から対米戦へ、白兵戦(剣などで突き刺す戦い)は激突射撃に、其れは銃剣で突くのでは無く、走りながら撃つ練習へと変わって行きました。
今考えれば自殺行為と同じです。自動小銃の雨霰(あられ)の中に三八式歩兵銃で飛び込んで行く、もうこの時点で戦には成らなかった。
一期の訓練の間に三人の犠牲者が出ました。一人は銃の暴発で、もう一人は木銃で背中を殴られて、一人は眉間を撃っての自殺でした。敵の攻撃や機銃掃射で亡くなった者は居りません。
夕食が済みバッカン(食事を入れたバケツ)の返納も終わり、此れから消灯迄の時間が一番息き抜きの時間のはずです。破れた服やシャツの修理、家族や友人に見送りのお礼の葉書を書いたり、寛ぎの自由時間が時々と言うより毎晩の様に何か起こります。
班付きの古兵に一日の総括です、何かと因縁付けられて制裁を受けます。
一番辛いのは全体責任と言って、二列に並んで向かい合って顔を叩き合う、「太鼓ビンタ」です。
軽く叩くと「何だ貴様」と言って張り倒されて、叩き合いが何時までも続きます。力は入れ難いし、泣きながら叩いて居る友も居ました。
自由時間のこの時間が一番の恐怖の時間でも有りました。届いた便りもこの時渡されます、葉書が一番良いのですが封書の時は色々有ります。一度会社の一番親しいかったと言うより、二人で一組と言う仕事して居ました、彼女が本部の経理、私が七つの支部の責任者と言う関係で、何時もお金を合わせる為に残業ばかりの同僚でした。
男の様な名前で来ているのに、班付きの兵隊には女の手紙と解るらしく「皆に読んできかせろ」と言います、逆らう事は出来ません、封を切って居ない手紙何が書いて有るのだろう、危険な事は書いて無い全部「検閲済み」の赤い印が押して有ります。皆の前に立たされて 其の手紙を読みました、今に成っても決算が出来て居ない、と仕事の事,此処までは良かったのですが、死な無いでとか淋しく成ったとか女性らしい気使いの文が続きます、こんなの読むのは嫌だと止めました、続きを読めと言います、「彼女に失礼だと思うで有ります」と言った様に思います。「其れは男だろう読め」この後の事はもう覚えて居ません、皆の前で読まされたと言う記憶だけが鮮明に残って居ます。 |
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戦場での面会
始め入隊した泰安の町の練兵場の有る衣師団の兵舎から。田舎の部落へ移って訓練が始まりました。この頃私の母と最初に書いた、幼馴染のM君の母上が面会に来ました。私より部隊の上官が驚いて軍の行動は秘密です。教育の班長が慌てたのを覚えて 居ます。
この時天津の日本租界の名物「栗饅頭」を200個位中国人に担がせて持って来ました。大きな饅頭で有名な栗饅頭でした、(私は甘いものは余り好きではなかった)教育隊全員に配りました。親子だけ部屋で話し天津の近況を聞きました。母が饅頭を今の内に食べろ食べろと言うから 空きっ腹に大分食べた様に思います、夜に熱が出て困りました、
此処は敵の中です駅までMと二人で護衛して行きました、昼間に襲撃される事は有りません、
駅で列車に乗って窓を開けてMのお母さんがあれこれ注意とた居ました、彼は一番末っ子です。汽車が「ガタン」と動き出しました、すると窓がM君のお母さんの頭にゴッンと落ちました。其の時の彼のお母さんの目今も忘れる事が出来ません。訓練は激しさを増し、アメリカのP51戦闘機が毎日来る様に成りました。機関車を狙って来て 余った弾を私達訓練中の上にばら撒いて奥地に向って帰って行きます。何時も3時頃来るから定期便が来たぞと言って居ました、機銃七ツ付けているのに誰も当たった事は有りません。
二回目の面会は鉄橋の警備隊で警備をしなからの訓練の時でした。今度は母一人で来ました。駅の近くで雇った中国人に矢張りお菓子を持たせて、今度は警備隊の兵隊と私達一個分隊ですから、ゆっくり出来ますが、治安が良く有りません。夜中に奇襲されます、「お母さんもう面会は来ないで」と言いました。母も「もう来れ無いかも知れない」と言いました。
帰国してから解った事ですが、この時父も徴兵されて居たのでした。私には知らすなと言って父は行ったそうです。この時は送って要らないと一人で帰って行きました、私は望楼に上がって母の乗ってる列車を待ちました。間も無く北へ帰る列車が来ました、窓から大きなドンゴロスが落とされ母が手を振って居ました。此れが一生の別れかも知れ無いと言う思いが過ぎりました。落とされたのはピーナッツの這入った袋でした。皆が出て破れて散らばった南京豆を集めて居ました。私は望楼から直ぐ降りる事が出来ませんでした。恐らく軍の知り合いに頼んで私の居る場所を何時もマークして居たのだと思います。此れが猛烈母さんの面会記録です。
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一期の検閲
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三ヶ月の訓練が終りました。各中隊の対抗戦の始まりです。其の成果が問われる検閲です。古兵達が「四中隊は何時もトップだ。恥を掻かせるなっ」とハッパを掛けます。検閲は昼間の戦闘と夜間演習が有ります。
昼間は古い兵隊が敵になっての戦闘の視察でした。此れは難なくこなしました。問題は夜間演習です。陣地の要所に立って監視の任にあたる歩哨の動作の視察です。歩哨は私が四中隊の代表です。歩哨には一般守則と特別守則が有ります。一般守則は歩哨が何時も守らなければ成らない決まりで、特別守則とは今日此処で守らなければ成らない規則です。特別守則は直属上官にしか言っては成りません。
何故こんな事を細かく言うのか、実は視察で大問題が起きたのです。仮想の敵が撃って来たり、中国人に扮した人が通ったりと色々有って、最期に大隊長を初め中隊長等幹部の人が団体で廻って来ました。
「誰牙(シェィヤー)」(誰だー)と構えて待ちます。一人の将校が来て「此処の特別守則は何か」と聞きました。私は自分の中隊長は知って居ます。でも真っ暗闇の中、この将校は知りません。
姿勢を低くした儘、中隊長か小隊長の言葉を待ちました。直属の上官は何も言いません。もう一度聞かれました。「言え無いで有ります」十人位居た人達がざわめきました。『中隊長より上の人は知らないもん』は心の中。団体はザワザワ帰って行きました。
さあ大変、教育隊の古兵達が「貴様、大隊長を知らないのか」と「知らないで有ります」「知らないで済むか」と袋叩きに遭いました。遅い夕食は口の中が切れて食べられませんでした。
翌朝全員集合して査閲の評価が有りました。聞けば他の中隊は皆、特別守則を言ったそうです。『自分だって必死で暗記したのだもの、言いたいよ。でも、直属の上官にしか言ってはいけないと言われた』『小隊長か中隊長が教えてくれたら良いのに』小さく成って一番後ろの方に並んで居ました。
先ず、大隊長から査閲の結果と注意が有りました。昼間の批評等は上の空です。続いて夜間演習の評価が有りました。「私は初年兵の諸君に昨日初めて会った。軽はずみに特別守則は言わない様に」ですって。そして総合でも四中隊が一位に成りました。
『班付きの古兵殿、この口の切れたのを如何してくれるのだ』『昨夜あれだけ私は大隊長殿を知らないと言ったのに』この査閲、へそ曲がりの勝ちでした。
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恩賜の煙草を戴いて
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一九四五年は近年に無い猛暑が続き、全く雨の降らない年でした。錬兵場の有る兵舎に戻った日、一期の検閲も終わり、くつろいだ気持で居る時でした。広大な麦畑の彼方に、真っ赤な太陽が沈んで行きます。紅の残る錬兵場に、初年兵全員の集合が掛かりました。
各中隊長も参列して居て、兵隊達も背嚢だけを外した正装です。何も告げられずに「右向け右」此方は東です。「天皇陛下に対し奉り」「捧げ銃」天皇陛下に対しての厳かなラッパが鳴り響きました。
全員に菊の紋の付いた恩賜(おんし)のお酒が注がれました。「飲み方初め」全員一合余りのお酒を呑み干しましたが、慣れない酒です。沈んだ太陽が又出て来た様に目の前が明るく成りました。今度は菊の紋の付いた煙草が一本ずつ渡され、此れも同じく東に向かって一斉に煙を吹かしました。やけに長い口つきの煙草でした。
中隊長から「明日の早朝に全装具を付けて集合、師団本部泰安に向かって行軍」と言う達しが有り解散しました。沖縄も占領されたのだ。「本土防衛に帰る」と言う噂が流れました。「いや南下するソ連軍を北海道で迎え撃つのだ」噂は噂を呼び「全員玉砕だ」「恩賜の酒や煙草が出れば最後だ」と何時も怖い班付きの古兵殿も今晩は静かです。恩賜の酒がたたって厠から出て来られない兵士も沢山居りました。未だ十八歳、酒の味の解る歳では有りません。
私は私物の整理をして、重い物は全部捨てました。擲弾筒(てきだんとう)の弾だけでも七キロ(一個九百グラム弱)は有ります。皆に付いて行け無かったら、それこそ大変です。三十キロ近くを身に付けて歩かなければ成りません。
就寝前に届くかどうか分からない軍事郵便を何枚か書きました。元気いっぱいと書いて。
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貨車の移動は屈辱の旅
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完全軍装の一日の行軍は苦難の移動でした。七月の炎天下、腰に巻いた擲弾筒(腰に四発、背嚢に四発)の弾が足に当たって歩き辛く、足に合わない軍靴は、中で足が踊って豆だらけです。足は痛いし、喉は渇くし散々な行軍でした。
もはや学校での教練では有りませんから、街から一歩外に踏み出せば敵地です。途中遠くで発砲も有り、小さな襲撃があった様でした。赤土の道をモクモクと最後部から遅れまいと必死で付いて行きます。「五分間休憩」と前の方で号令が掛かります。慌てて追いつくと「出発」と号令が掛かるものですから、用を足す暇も有りません。泥の川を渡ったりするので、濡れて水でふやけた足が大きな軍靴の中で遊んで居ます。本部にやっとの思いで帰り着いた時には足じゅうが豆だらけです。木綿糸を針に通し、其の糸にヨードチンキを沁み込ませ、出来た豆に糸を通して行きます。正に飛び上がるとはこの事か、二十数個有りました。其の日はとてもではないけれど歩けませんでした。翌日には出発です。
其の兵舎に年寄りの兵隊が沢山居ました。丁度父位の年齢の人達で、この人達は現地の人達だと直感で分かりました。此れは帰国してから聞いた事ですが、其の中に父も居たのです。父は私には言うなと言って出て行ったそうです。
戦争に慣れた人達です。終戦に成ったら、直ぐ汽車に飛び乗ってさっさと天津に帰ったと言って居ました。
翌朝本土決戦の為、私達は中国第一の霊峰と言われる泰山の麓の泰安駅から朝鮮に向けて隠密裏に移動を開始しました。一つの貨車に二個分隊位乗ったと思います。戸を閉め切った貨車に揺られ、暑い一日が終わろうとしていた頃、駅の引込み線に入りました。戸がやっと開けられ、狭い貨車から開放された皆は、外に出てトイレを済ませ、食事を受け取ったり、ウロウロしたりして身体をほぐして居ます。見れば天津駅の引込み線で見慣れた場所です。この引込み線の直ぐ傍に一年前迄住んで居た家が有ります。そして今、親兄弟達の住んで居る家の通りの灯りも見えます。走って行けば三・四分で行けます。学校に遅刻しそうな時、何時も通った道です。でも私達の場合、此れからが大変でした。班付きの兵長が、「天津から来た者は出ては成らぬ」と言う命令です。「用を足す者は申し出よ」と言われ、便所に行くのになんと監視つきです。吃驚しました。『その様な目で私達を見て居たのか』
長い間停車して居ました。此処は北支派遣軍の兵站基地で軍需品等色んな物資を積み込んだのでしよう。貨車の開き戸の所に坐って、我が家の灯を見て居ました。『皆寝て居るだろうな』と思うと堪らなく成りました。『だけど如何して私達に見張りが付くのだろう』『中国で育った私達は逃げ様と思えば何時でも逃げられる。軍服を脱いで中国服さえ着れば中国人が助けてくれる』『逃げると思って居るのだろうか』『私が上官だったら走って帰って来いと言うのに』見張られた事が如何しても納得出来なかった。十八歳の純な気持ちも踏みにじられ、段々腹が立って来て悔し涙が頬を伝った。
夜が明けて家の灯りも薄明かりで光を失って行きます。空が紫色に成る頃、貨物列車の戸が閉められて北へ向って発車した。愈々、家族とも天津ともお別れだ。貨物列車の貨車はカタン・ゴトンと尻に堪える。小さな窓から外を見て居ました。遊んで居た懐かしい風景が後ろに通り過ぎて行きます。「何時まで見ているのか」と注意されました。「此処は私の遊び場だった所で有ります」街と共に不安と悔しさを包み込んで朝靄の中に見え無く成りました。『サヨウナラ故郷天津』
時々、小窓から外を確認していました。懐かしい河北省の秦皇島を過ぎ山海関の万里の長城を潜って貨車は満州に入り奉天を過ぎた頃、何時もの線路とは違うので、見るのを止めました。列車は日本海側を走って、そして前津に停車しました。
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前津にてソ連軍を迎え撃つ
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一九四五年の七月、中国の済南地方に展開して居た衣師団が敗戦濃厚になって、日本軍は本土をソ連から守るべく北海道に移動を開始しました。先発隊が出発した後、私達本隊も隠密裏に北朝鮮に到着した時にはもう日本海も敵に制されていて、迎えの船は来ない様です。
それから時を待たずして、対米英戦争の和平仲介を依頼していたソ連が日ソ中立条約を破棄して、八月九日ロシヤは日本に宣戦布告し、満州へ攻め込ん出来たのですソ連軍は物凄い勢いで南下して来ていて、此処で決戦と決まりました。師団の名前も衣から襲師団に変わり、初年兵は海岸線で戦車を迎え撃つ事になりました。一人一台の体当たり戦法です。
私達の敵は海上から来て、羅津・清津に上陸した敵機動部隊です。ソ連軍は北朝鮮の日本軍を過少評価して居た様です。
師団の本隊は山で陣地の穴掘りらしい。
私達は炎天下の海岸で、朝早くから暗く成る夜まで、蛸壺を掘っては戦車に見立てた大八車に飛び込む練習を繰り返していました。この年は異常気象なのか入隊して此の方、雨の降った記憶が有りません。火傷しそうな砂浜を這いずり廻って、体力も限界です。『何処まで敵は来て居るのだろう』甲型爆雷の模擬弾を抱えて、ぼんやりと日本海を眺めて居ました。
この「甲型爆雷」はドイツの対戦車爆雷で、海軍の潜水艦が持ち帰り、恐らく其れと同じ物を日本で造ったと思われます。丸く中央が窪んで居て磁石に成って居ます。戦車の下に潜って底の鉄板に貼り付けます。すると三秒で破裂します。底があの大きな戦車の泣き所で、鉄板が薄いそうです。穴を掘っては飛び出す。三秒で爆発します。飛び込んでも、失敗しても命は有りません。こんな大事な任務を如何して十八歳の少年に任すのでしよう。
私達の少年時代は軍事教練で教えられたままに、青春の全力を捧げた事は事実です。後日聞いた話ですが、本隊はすでに撤退した満州に於いて、私達と同じ現地召集の少年達に、爆雷をトラックで運んで渡した後、そのトラックは一目散に逃げたと言う事です。哀れにも少年兵は、爆雷を抱いて先を争って戦車に飛び込んで散ったそうです。此れが皇軍の実態でした。私も、本当に今日か明日が最後かと言う時に、何の恐怖も感じ無かったのが不思議で成りません。見渡す限りの白い砂浜、其れに防風林があります。この松林こそが只一つ隠れる場所です。ナマコの苦手な私には関係ない事ですが、前の遠浅の海にはナマコが幾らでも居ました。
そんな朝、至急本部の有る山に集合の命令が来ました。始めて師団本部のある山に向かい、其の山の平地に全員が集合しました。玉音放送が有ると言う事です。「キヲツケー」シーンと成り、前の方で「ガリガリ」と雑音が入り何か話して居る様です。時々「朕は」「朕は」と言う声が聞こえました。「負けた」「無条件降伏」等と囁かれて居ます。「日本は降伏したらしい」「そんな馬鹿な」「隊に帰って待機せよ」と言っても私達の師団はこの山に居ます。何の説明も無いまま解散です。
戦いは終った。海の見える木陰に腰を降ろして、ぼーとして居ました。神風も吹かなかった。大和魂も通じ無かった。銃を抱いて一日坐っていました。『天津に居る家族は如何成って居るだろう』『日本の田舎で一人居る祖母は大丈夫だろうか』
無条件降伏する前に、広島にも長崎にも「ピカドン」と言う新型爆弾が落ちて全滅した言う噂も本当だったのだろう。此れから何百年も草木も生え無いと言っていた。『広島の叔母さん達は如何成ったのかな』『そして私達は如何成るのか』
陽は後ろの山に沈み、下の日本海が段々黒色に成って来ます。日本は白旗を上げた。『無条件降伏とは、この先兵隊は如何成るのでしよう』考えても、考えても悔し涙の一日でした。火照った土の上に雑納を枕にして横に成りましたが、目は冴え、その上に蚊のやたら多い山の中でした。
此れが敗戦の日の一九四五年(昭和二十年)八月十五日でした。
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最期の戦友金城君
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彼と何処で一緒に成ったか全く解りません。然し、最後の決戦と言われた北朝鮮の前津と言う町の海岸線で、対戦車戦の特訓を受けていた時に知り合った戦友です。彼の先祖は慶尚南道(朝鮮半島の東南端に位置)の王族だと言う。それに相応しい立派な体格で、笑うと金歯が覗いてとても可愛い青年です。
私が大陸育ちと言う事で直ぐ友達に成りました。凸凹コンビです。色んな話をして其の時に彼の先祖が王家という事を聞きました。私達の任務に生存は有りません。暑い八月の事です。ソ連軍は破竹の勢いで南下して来ています。彼は逃げて家に帰れば良いのにと思いました。勝ち目の無い戦いで、ソ連軍が来たら単独で戦車に挑まなければなりません。それは死を意味しています。本隊は山に入って海岸には居りません。彼は軍服さえ脱げば帰れるのです。然し彼は最後まで私達と一緒に、穴を掘っては飛び出す訓練に耐えていました。そして敗戦の今日を迎えたのです。私も其の時は彼の事はすっかり忘れていました。山で何を考えるでもなく、ぼんやりと一日を過し、テントを張って其処に寝転びました。私の行き先は両親と住んで居た中国天津です。幾ら考えても十八歳の少年には脱走してと言う度胸は有りませんでした。
寝むれない夜を過ごし、薄明るく成って来た頃、ウトウトして居ると、同じ幹部候補生のあの金城君が「直ぐ行こうわしの家に」と起こしに来ました。「必ず日本に帰らせて上げる」と有難かった。然し断りました。「私は逃げるのだったら北へ行かなければ成らない」「君は帰るのが当たり前だが、自分は残る」彼は一人で山に登って行き、僕は見えなく成る迄、立って見送りました。彼は何度も何度も立ち止まり、振り返りながら消えて行きました。その彼の姿が今もまぶたに焼きついています。其の後、死のシベリヤ行きが有っても、あの時の事は後悔をして居ません。シベリヤで木っ端みじんに撃ち砕かれるまでは、私は未だ日本男児だったのだから。
良い奴だった金城一等兵は、今如何して居るかな。私は其の時、其の時に親友が何時も傍に居てくれて、悲惨な中を生き残れた。
この晩一人の准尉が自決されました。只その人だけです。「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えた師団長、大隊長、参謀等何処へ行ったのでしよう。私達は皇軍ではなかったのか、あんなに国の為と燃えたのは何だったのでしょう。教育とは恐ろしいものです。
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満州から脱出する人々見た
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何度も言う様ですが、一九四五年の北鮮は稀に体験する熱い夏でした。其れから間も無く武装解除の命令が来ました。皆が武器を出し、二度と使用出来無い様に銃や擲弾筒のゲツケイ(弾丸の信管を押して発射する心臓部)を折って出しました。
其れから何日間かソ連軍は姿を見せませんでした。かなり襲部隊を警戒して撃ち合いを避けて居る様です。丸腰に成ると唯の十八歳の少年です。皆は満州からあれ程苦労して逃げて来ているのに、天津迄どうしたら行けるだろうかと真剣に考えていました。この国を越して天津まではとても無理だろう。太公望が少年の頃、黄河の中原から今の沿海州近くまで殷の国に追われて逃げたと云われて居るが、とても敵地の中を天津市までは逃げきる勇気はなかった。そうこうしているとソ連軍が入って来て、もはや学校から外へ出る事は出来なくなりました。中国で育ったからと言っても、外に居る喧嘩友達も、もう仲間では有りません。三八式歩兵銃を持って私達を見張って居ます。
武装解除され丸腰の兵隊の前を、貨物列車あり、無蓋車有り、客車あり、どの列車にもこぼれ落ちる程の人間を詰め込んで南下して行きます。どの汽車も線路が空いた時だけノロノロと動き、近くに駅があるのか、私達の居る前に良く止りました。しかし汽車が止まっても誰一人、降りようとはしません。乗って居るのは満州から逃げて来た女子供が大半で炎天下の中、何処から乗って来たのか食べ物も、水も無いでしょうに、力の無い子供の泣き声が糸を引きます。聞く私達はたまらない。捕らわれの私達には如何してやる事も出来ない。
一番惨酷だったのは客車の屋根の空調の所に、縄で子供を縛って親がしがみ付いて居ました。屋根の鉄板は焼けついてフライパンの様だと思います。この人達は国が送り込んだ人達なのに、上の責任者は一足先に逃げ帰ってしまって、云わば捨てられた国民なのです。国って何なのだろうと十八歳の私でも疑問に思いました。なんとか生きて帰ろうと、決死の覚悟で汽車に乗り込んだに違いないでしょう。この惨酷な地獄の様な引き揚げの光景が、長い辛い抑留暮しを支えて来ました。あの母子よりましだと思い続けました。あれから六十年に成ります。今でも幼児の泣き声を聞くと胸を絞め付けられ、何故か涙がにじみます。
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屠所の羊の行き先
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ソ連軍が進駐して来たのは半月位経ってからでした。初めは姿は見せず指示だけです、武装解除して弾薬を出す事、校庭の真ん中に武器弾薬を出しました。武器は使えない様に「ゲッケイ」を折って(雷管を押す物)出しました。其れでもなかなか現れませんでした。
忘れもしない昭和二十年の十月二日、私が十九歳になった誕生日の朝の出発です。丸腰で雑嚢と水筒と毛布を巻いて斜めに肩に掛け、トボトボと長い列が北へ向かって出発しました。どれ程歩いたか記憶に有りませんが、自動小銃(マンドリン)を持ったソ連兵に囲まれての行進です。
途中南下するソ連軍とすれ違いました。どの兵士も汚いなりをして自動小銃を持ち、女の兵隊も沢山混じって居ました。戦車も沢山通りましたが、傍で見ると、かなり大きな巨大な鉄の塊で威圧感があります。果たして、この下へ潜り込む事が出来たでしようか。傍に行く前に蜂の巣にされて居た事でしよう。
やがて「日本窒素」と書いて有る大きな工場の敷地に入りました。其の工場の岸壁に集合させられ、其処でソ連の女医によって身体検査が行われました。先ず尻の肉付きの検査、其れから前の検査と毛を剃られました。何と言う屈辱感、此の頃からまるで奴隷の様な扱いだと思って居ましたが、其の時は此れ等が何を意味するものなのか理解出来て居ませんでした。此処は咸興と言う町で硫安を造っている工場だそうです。今の日本窒素の前身です。
古惚けた貨物船に詰め込まれて、乗船すると直ぐ出航しました。上官は「アメリカの撒いた浮遊機雷が有るので、北を廻って北海道に帰る」と言います。私達の詰め込まれた船倉の下には、カマスに入れられた米がぎっしりと詰まって居ました。甲板には干したスケソウダラも積まれて居て、これも戦利品なのでしようか。
挙句には船の中でも大半の人が時計と万年筆を盗られて、ソ連軍は物盗りなのかと思いました。私達数人は其の時、下の米の中で寝て居ました。マンドリン(自動小銃)を抱えたソ連兵が二人降りて来て身体検査です。私は暗いのを幸いに親父に買って貰った腕時計だけはカマスの間に落として助かりましたが、他の者は万年筆に時計、めぼしい物は全部盗られました。乞食の様なソ連の兵隊でした。でも本当の地獄は此れからが始まりです。
朝食だけは食べて出発し、其の日も暮れました。船は北へ向かって航行して居ます。その後の食料の支給は有りません。甲板に水が有るだけで、正に奴隷船の様です。下へ潜っては生米をかじり、上に上がって水を飲み、スケソウダラを盗んでかじりました。此れは辛くて喉が渇いていけません。
どの位乗って居たのか、長かった様に思いました。甲板から見る日本海はもう冬の海です。冷たい飛沫が顔を叩きます。長かった航海も終わり、夜中に船は泊まりました。ゾロゾロと真っ暗な砂浜に降りましたが、此処は港では有りません。砂浜に板の桟橋が一本出て居るだけの長い浜でした。皆一斉に飯盒で飯を炊くのですが、水が無いので潮水で炊きます。然し何日もまともに食べて居ないお腹は、潮水で炊いた苦いご飯は受けつけませんでした。
東の空が明るく成って来ます。十月の初めと云うのにこの寒さは何なのだろう。ここが北海道なのだろうか。ふと、不安な気持ちが過ぎります。夜がすっかり明けて集合すると、丘の上から大勢の人が覗いて居ます。「ウワー」日本人では有りません。「此処はシベリアだー」何故、上官は北海道へ帰ると騙し続けたのでしよう。正確には此処は何処なのか、これから如何されるのでしよう。
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捕虜の行進は続く
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どんよりと曇った空の下、行進が始まりました。無人の道は小石を散らした広い砂利道です。其の両側は日本海の潮風を受けて、真っ赤に紅葉した楓の様な木に飾られています。其の美しさとは裏腹に石ころばかりの道は、三途の川を渡る死の行進だった様に思えます。
もはや二度と天津にも日本に帰る事は出来ないかも知れない。聖戦と言われた戦いは何だったのか、「一死をもって君恩に報じる」其の人が降参と言った。「耐え難きを耐え」とはこの事だったのか。
曇った空から粉雪が舞い初めました。夏服では寒い。雪が地面を走ります。空きっ腹を抱えて何日も、何日も重い足を引き摺りながら、ただ黙々と歩きました。
川は沢山渡りましたが、何処まで行っても橋は掛かって居ません。川が有れば裸足で渡ります。車が渡れる様に石を投げ込んで浅くして有ります。しびれる様な冷たい川をザブザブと・・・・・・
本当に屠所の羊とは正にこの行進でした。何日歩いても村も町も有りません。それにしても寒い、夏服の上に雨合羽を着ました。雨合羽と言っても初年兵の其れは、水をはじく様な代物では有りません。員数で支給されて居る代物です。雪は毎日降ったり止んだりしています。何日食べて居ないのだろう。川の水を飲むばかりの毎日で、過酷な状況にも只管耐えるしかなく先の見えない死を臭わすような行進でした。
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命の金平糖
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携帯の食料は靴下に入れた米が一升足らず、携帯食の乾パンが一袋、しかし米を炊く様な休憩は有りません。頼りは乾パン一袋です。何日間かの船の中で食べて仕舞った人も居ます。何時まで歩くのか解らないこの道行き、海水で炊いたご飯は、食べてからすぐ全部戻してしまいましたから、お腹は空っぽです。
私はいざと言うときの為に残して居た金平糖を舐めながら、最後尾を必死に付いて行きました。乾パンは何時何処で食べたのか全く記憶に有りません。ただ十粒も無かった金平糖の甘さと赤や白の色だけはハッキリ覚えて居ます。
子供の時から甘い物はそんなに好きでは有りませんでした。商業一年生の時の臨海学校で食べたゼンザイ、兵隊の面会で母の持って来た栗饅頭を食べて夜中に発熱した事が有ります。甘い物は嫌いでも有りませんが、そんなに好きでも有りません。でも金平糖は別です。かと言って、帰国してから食べた記憶は有りませんが、テレビで時々、昔の懐かしいお菓子として放送されます。出来上がるまでに何日も掛かるあの星粒、私にはどんな宝石より美しく見えます。
あの果ての見えない荒地、何処までも真っ直ぐに続く広い道、何日歩いても橋の一つも無い道に、夜に成れば手の届く所に金平糖の様な星が輝いて居ました。この行進の終わり頃の事は記憶に有りませんが、谷の右と左に炭鉱が見え、其の向こうの湿地帯に収容所らしき建物が見え隠れして居たのを覚えて居ます。
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