小学校も商業学校も戦前の中国の天津市で卒業した私は日本の学校を出た人とは少し考え方が違って居るかも知れません。食べ物はともかく遊び道具から喧嘩相手も違うのですから。
学課も中国語は中国の先生英語はイギリス人の先生三年生の時に戦争が始まったので二人共退職されました。中国語は話すのは習わなくても皆なベラベラで喧嘩に成ると中国語が出ます。英語は後で考えれば残念な事をしました。五年間あの儘習って居ればもっと話せる様に成ったかも知れません。
然し一番に言える事は人を見る目が自然に備わった事、この人は信じに足る人この人は程ほどにして早く離れる事、色んな国の人の中に居ると然も戦争中この目が無いと生きて行けなかったでしよう。子供ながら結構危ない所まで遊びに行って居ました。だけどシベリヤから帰って商売を始めたら日本の人に何度も騙されました。日本に帰れた安心感とまさか同胞にと思う気持ちが有って、何人にも騙され初めの家具屋は辞めました。
中国で習った事の一番は古い諺です。歴史の差です、日本の千七百年余りの字の文化と、三千年にも及ぶ色んな国の興亡の中で生まれた歴史の中の文化には、人や国の根本が有ると思います。日本の全ての古文書は3千年近い昔の思想家の書き残した文が引用されて居る様に思います。今の議員さんが政治家とお思いなら選挙の事より少し古代中国の外交の根本を勉強して下さい。
中国最初の国(本当は夏の国等古い国が有った)殷の様に国民に重い犠牲を強いて倒れた様に、現代の日本は国民を犠牲にして世界中に紐付きのお金をばら撒いて、企業も国も倒産寸前です。自衛隊は軍隊では無いそうですから不審船一隻捕まえられ無いのは仕方有りませんが。国民一人守れない国が他所の国の援助するとは。
文を本題に戻します。私達の科目には未だ漢文と言う時間と中国語が有り、最初に覚えたのが 身体髪膚此れを父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の初めなり。 辛いシベリヤの抑留暮らしもこの言葉を思い出して耐えたものです。この後に続く「身を立て名を揚げ」は蛍の光で有名です。
孔子が弟子の曾参に教えたと云われて居る。変わった言葉で興味を持ったのが
「人間万事塞王が馬」 国境の砦近くに住む老人(塞翁)の馬が、国境を越えて胡の地に入ってしまった。数ヶ月たつと胡の駿馬を連れて帰って来た。乗馬を好む様に成った息子が、落馬して足を折った。戦争が始まって、多くの若者死んだ、この息子は足が不自由なため徴兵されず生きのびた。「人間」は正しくは「じんかん」と読み「人の世」の意味です。
禍福はあざなえる縄のことし。禍と思えば福となり、福だと喜んだら禍のもとに成ったりする。 驚いたのは武田信玄の旗印で有名な「風林火山」の語源は孫子の兵法でだった事です。「疾(ハヤ)きこと風の如く、徐(シズ)かなること林の如し、侵略すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し。」と続く、昔の人も其れなりに勉強して居たのですね。
平安の時代に書かれた清少納言の「枕草子」の中に有る「夜をこめて鶏の虚音ははかるとも、よいに逢坂の関は許さじ」と書いたのは、孟嘗君の「鶏鳴狗盗」の逸話から引用され広く知られる様に成った。
其の孟嘗君の逸話とは。斉王の使いで秦の国に行ったとき秦の昭王は彼の力で斉国が強く成るのを恐れて彼等を監禁した。彼は食客の力で脱出し天下第一の関所函谷関にたどり着いたが、夜中で関所は一番鶏が鳴かないと開かない、早くしないと追っ手が来る、其の時普段約に立たない食客が鶏の鳴き真似をして関所が開いて脱出出来たと云う逸話。
其の他中国の言葉を引用したと思われる文や歌は沢山有ります。
芭蕉の「閑さや岩にしみ入る 蝉の声」は王籍(紀元前480年頃)の「蝉噪ぎて林愈々静かなり」を踏まえたもの。
蕪村の「畠うつや鳥さえ啼かぬ山かげに」は王安石の「一鳥啼かずして山更にに幽なり」を踏まえたもの。
又井伏鱒二が「この杯を受けてくれ。どうぞなみなみ、つがしてくれ、花に嵐のたとえもあるぞ。サヨナラだけが人生だ」と歌ったのも杜牧の「揚州夢記」の一遍にある。「君に勧む金屈シ。満酌辞するを須いざれ。花発けば風雨多し。人生別離に足る」から受けたものかな。
取り上げれば切りが無い程有るのでは。
功遂げて身を退くは天の道なり (老子・第九章)
最高位に達すればやがて下降する。事業をなしとげたあとはトップの地位にしがみつかぬ事が肝要だと云う事。清の時代の末期に革命を目指した「光復会」の綱領に「功成遂退」の句があり、革命は民族の誇りを回復する為であって、権力を握る為では無い事を表明して居る。然し権力は魔者理想どうりには行かなかった。
日本の議員さんも恥を掻くまでには辞めてみたら。
中国の大河は水面は悠々と流れて居ます。私が毎日学校に通のに渡った白河も泥水がゆったりと流れて居ます。然し水面下の黄土の水は渦巻いて居て日本橋を架けた、工兵隊の兵隊さんの命を沢山奪いました。
中国大陸も同じ事です、不幸にも日本が侵略したのはあの広い大陸の点を占領しただけで、その他の広い大陸は何千年の歴史の中の1ページを刻んだだけでした。だから私達子供が何処へ遊びに行こうが敵と云う目で見られた事は有りませんでした。大きな国です。全てを飲み込んで悠々と数千年の歴史を刻んで来たのです。

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