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天津日本商業学校
天津日本商業学校校歌  
                作曲 岡崎純一
                作詞 岡野貞一  
一  永久の皇世寿ぎて
        瑞雲なびく祖国の空に
    仰げ太陽を  生命の力
        これぞ吾等が賛美の象徴
二  至誠進取の魂をもて
        商覇を競う冀北の丘に
    磨け知徳を  若さの誇り
        これぞ吾等が至上の歓喜
三  商神の啓示に羽ばたきて
        時代の波打つ四海の涯に
    拓け運命を   日の児の誉れ 
        これぞ吾等が天与の使命 
    校     史
    御大典記念事業として男子中学校の設立が建議され、
    昭和7年、商業学校に決定し認可を受く。
昭和8年4月 開校式 (華語専門学校内)
9年12月 初代校長 若菜 佐
10年3月 校舎移転 、(旧共立病院跡)
11年4月 校旗制定、校歌制定
10月 新校舎落成、移転(淡路街)
12年7月 第一回母国修学旅行
7月 日支事変始まる
13年3月 第一期生卒業、(29名)、私天津へ
14年3月 第二期生卒業、(26名)
4 第七期(私達)入学 
14年8月 24回甲子園大会に出場
5月 御親閲拝受   
8月 大水害、山海関へ疎開
8月 第二代校長、大沢富士雄着任
15年3月 第三期生卒業
8月 第25回甲子園大会出場
9月 第3回母国修学旅行
16年3月 第四期生卒業、(45名)
4月 第四回母国修学旅行
8月 三度満州代表取るも甲子園大会は戦争の為中止
11月 第一号滑空機進空式
12月 第三代校長、立花 徳着任
12月 大東亜戦争始まる
17年3月 第五期生卒業。(50名)
4月 第五回修学旅行(私達)、北中支へ
7月 柔剣道部満州遠征
12月 第六期生卒業、(72名)
18年4月 第六回修学旅行、(北中支)
12月 第七期生卒業、(89名) 私達
19年4月 生徒募集中止さる
12月 第八期生卒業
20年2月 第九期生卒業
2月 閉  校
在校生は中学及び工業に転校
8月 終 戦  

短い校史ですが先輩達は天津襲撃にも天商生として日本租界の守りに付き、大水害の時は山海関に疎開して勉強した時は先輩にお世話に成りました。大東亜戦争開戦の12月8日はフランス租界イギリス租界の閉鎖に私達も参加しました。いつも天商は日本居留民の行事の先頭に立って来たと思って居ます。
私は第七期の卒業生です。天商の一番充実した良い時代に在籍したのかも知れません。天津商業の学生として大変なプライドを持って居ました。甲子園の大会にも満州の学校を破り二回も出場し、剣道も満州の各学校を破り優勝したと思います。異国の地で行った勉学も遊びも全て大変な私の財産だと思って居ます。
私達七期は修学旅行は内地では無く、済南・徐州・南京・上海・蘇州・青島・済南と廻って来ました。日本には帰れ無かったのです。今に成って思えば大変良かったと思います。今の旅行では見れ無い所も見学出来て。
帰国後初めて参加した同窓会です


 

今は体調を崩して二回ほど欠席させて戴きました。

いつ又お会い出来るか残念ながら自信が無くなりました。少年時代の熱い情熱を燃やした天商、私の全ての原点で有ったと思って居ます。歳を取ると昔の事ばかりが鮮明に甦り、通学で通った万国橋・フランス租界・夜空に浮かぶハイャライのネオン白河に映って綺麗でした。学校に隠れてイギリス租界の映画館に良く行きました。望郷等忘れられ無い映画でした。
私達の第二の故郷天津、学校も日本租界も見る影も無くなって居る事でしよう。
下の写真は天商か若しかしたら淡路小学校かも知れません。矢張り故郷は遠くに有りて思うのが良いかも知れません。宮島高女の方が写したものです。侘しい私達の学び舎の姿です。


天商健児も早七十歳を遥かに越えました。日本全国に散らばった皆さん元気に行き来の出来ない歳に成りました。出来たらお便り下さい。
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