板井孝壱郎・宮崎大医学部准教授
「本当は生きたい! でも、『あんな姿』では死にたくはない!」
この想いを、息切れしそうな声で伝えてくれた塵肺(じんぱい)症の患者Aさん。前回のコラムで紹介したこのAさんは、その後どうなったのか。今回はその続きをお話しよう。
「今度病気が悪くなったとしても、呼吸器を着けることは絶対にしないで欲しい」。そう書かれた「お手製リビングウィル」を主治医に手渡したAさんは、決して「死にたい」から「延命治療の拒否」を求めていたのではなかった。
このことは何もAさんに限ったことではなく、多くの患者さんに言えることである。おそらく(すべての皆さんがそうである、とは断言できないけれども)、いわゆる「尊厳死の宣言書」というものを書こう、と思う人たちにとって以下の三つは必ずと言っていいほど共通している「願い」ではないだろうか。人生の最期に臨むにあたって、できうることならば、(1)苦しみなく、(2)穏やかに、(3)(特に女性の場合に多いかもしれないが)美しくありたい、という願いが。「襲い来る苦痛に、悶え苦しみ、チューブにまみれた姿」ではなく、「自分らしく」「人間らしく」最期を迎えたい、という願い。でも、この「人間らしさ」「自分らしさ」に裏付けられた、「その人らしい」最期とは、いったいどのようなことを指すのだろうか?
■話が違う
この問いに向き合うとき、私はもう一人、別のケースの患者を思い起こさずにはいられない。その70歳代半ばの末期がん患者のBさんは、ある団体の「尊厳死の宣言書」を持っておられた。担当医の先生は、これまた患者思いの、周囲からの評判もいい先生であった。Bさんは自発呼吸(自分で呼吸する力)は安定しているので人工呼吸器は着いてはいないが、経口摂取(口から栄養を取ること)はできないので、抹消からの点滴の他に、経管栄養のチューブがいくつかつながれている。こちらの呼びかけに反応することはなく、会話をすることはできない。身体をさすったりすると、手がピクリと動いたり、顔の表情も「感情表現」と明確に判断できるものはないが、時々、眉をひそめるような様子が観察される。
Bさんの夫は、担当医に、「先生、家内はもう助からないというお話でしたよね。もう意識も戻らないのなら、家内は『尊厳死の宣言書』を書いてますから、ここにあるように、『過剰な延命は一切』止めて欲しいのです」と嘆願した。夫からの申し出に対して、主治医は「わかりました。奥様の大切な最期の願いですものね。ご主人もさぞおつらいことと思いますが、奥様のご希望通り、『一切の』栄養チューブも取り外すことにしましょう」と苦渋の決断をした。そのとき、夫は深々と頭を下げ、何度も何度も、「先生! ありがとうございます、ありがとうございます!」とお礼の言葉を述べたと言う。
さて、この話がここで終われば、ある意味「ハッピー・エンド」なのだが、「事件」はBさんの「延命治療」を「一切」止めてから4日目に起こった。いつものようにお見舞いに訪れた夫が「先生! 先生! ちょっと来てください!」と声を荒らげながら主治医を呼んだ。慌てた主治医が病室を訪れると、夫はBさんの姿を見ながら、「先生! どうしてこんなことになるんですか!?」と、ものすごい剣幕で医師を責めるように言う。
「こんなこと」というのは、Bさんの「状態」を言っているらしかった。確かに、いまのBさんの状態は、経管栄養のチューブも、抹消からの点滴も全部抜き去ったので、「一切の」栄養も水分も供給されていない。そのために、皮膚がカサカサになり、床ずれらしきものも見受けられ、さらには呼びかけには応えずコミュニケーションが取れない状態とはいえ、顔を見ると、眉間(みけん)にシワが寄っており、見ようによってはなんだか「苦しんでいる」ようにも見えなくはない。
そこで、主治医は「ご主人さん、今の奥さんの状態を見て、驚かれているようですが、でも、すべての栄養チューブを、奥さんとご主人の要望どおり取り去ったわけですから、水分さえもお体には入らなくなっているので、こういうことになるのは当然のことですよ」と、「なぜそんな風に声を荒らげておっしゃるのですか?」と、むしろ医師の側からすると、夫が「驚いている」ということに「驚いている」といったような調子で応えた。ところが、「こうなるのは当然のことですよ」という言葉に、これまた驚いた様子の夫から、「当然って先生、そんな! 栄養チューブを外したら、こんな状態になるなんて、全然説明してもらってないです!」と言われたそうだ。
■善意の一人歩き
私自身はこの話を、主治医の先生から後になって「こんなことがあったんだけどさぁ…」と「喫茶☆りんり」でコーヒーを飲みながら聞いたのだが、読者の皆さんは、どうお感じになっただろうか? お気づきになった方も多いと思うが、その通り、ここでもコミュニケーション不足が招いた「誤解」、そして医師の「独善」が起こってしまっている。
医師側にしてみれば、「まだ栄養チューブによる治療を続けさえすれば生きられるのに……。でも、何よりもBさん自身の願いだし、ご主人もそれを実現したいと思っておられるんだから、『一切』止めるのはつらいけど、でも、Bさんとご家族のためだから」と、「善意」で行ったことは間違いない。ところが、リビング・ウィルを受け取ったときに、そこに記載されている「過剰な延命を一切拒否する」という文言を、「文字通り」一切合切が「過剰な延命」だと判断したところから、「思いやり」が「思い込み」に変貌(へんぼう)し、「善意」の「一人歩き」が始まっていたのだ。
他方で、Bさんとご家族の側には何が起こっていたのか。Bさんは現時点ではもうコミュニケーションは取れないが、「リビング・ウィル」を書くときに、「一切の過剰な延命を拒否すること」が、具体的には「どのような医療行為を止めることなのか」を、しっかりとイメージできていただろうか? そしてまた、夫も妻にとっての「過剰な延命」とは、具体的には何を指しているのか、理解できていただろうか? おそらくお二人とも、いや、お二人に限らず、このような「リビング・ウィル」を書かれるすべての方も十分に「イメージできている」「理解できている」とは言えないのではないだろうか?
Bさんの「こんなこと」という状態、すなわち、栄養や水分が不足することによって起こる症状のことを、医学的には、「低栄養状態による合併症」といい、ときには栄養や水分が不足していることから体力が低下し、ひいては免疫力も低下することが原因となって、感染症を起こしやすくなることも含む概念である。医療関係者にとっては、「当然」知っているべき「常識」である。
しかし、患者さんやご家族は、そうしたことが起こることを知らないばかりか、「一切のチューブを外す」ことによって、(1)苦しみなく、(2)穏やかに、(3)美しく、旅立つことができる、というイメージだけを持っていることが多い。テレビの影響も大きいかもしれない。医療ドラマなんかで、例えば吉永小百合さんクラスの大女優さんが「先生、私はもう十分生きてきました。この先はもう、自分の力で生きられるところまでで結構です。ですから、人工呼吸器も、栄養チューブも、一切必要ありません」と告げ、そして「一切」のチューブが取り外されて、まさしく(1)苦しみなく、(2)穏やかに、そして(3)美しく(!)亡くなっていく……。こういうシーンを見るたびに、私は心の中でいつもつぶやいてしまう。「せめて化粧ぐらい落とせよ」と。
だから、もし巻き戻すことができるなら、医師が「一切のチューブ」を抜いてしまう前に、「実は、すべてを抜いてしまうと、まったく栄養も水分も入らなくなってしまいますので、そのために皮膚が乾燥したりするだけでなく、ときには『低栄養状態の合併症』と言いまして、免疫力が低下するなど、奥様の状態が悪くなってくることもあります。もし今のお話を、奥様ご自身がお聞きになったとしたら、どうお感じになられるとご主人は思われますか?」と、コミュニケーションを「スタート」させることが必要だったと言える。
この後にどのような「シナリオ」が展開していくのか、それは一つひとつのケースごとに異なるとしか言いようがない。けれども例えば、夫が「そうですか、全部止めるとそういうことも起こるんですね。本人も肌の潤いがなくなることは、嫌がるかもしれませんよね。そういう、自分らしくあるために必要なことだったら、本人だってそれを過剰な延命とは思わないかもしれませんね」と、「私(夫)だったら」という視点からではなく、「妻だったら」という視点で考えてくださるように、サポートできる可能性が開かれるだろう。
■Aさんの沈黙
Aさんの話に戻ろう。「『死にたい』のではなく、『あんな姿』では死にたくない」という思いを、やっとのことで言葉にして伝えてくれたAさんに対し、私のとなりで話を聴いていた呼吸器内科の主治医の先生がこう言った。
主治医:「Aさん、そうだったんか……。ごめん、Aさん! 僕はAさんからこの紙(=お手製のリビングウィル)を受け取ったとき、Aさんはもう、できる治療も何もかも全部止めて、『もう死にたい』と言ってるんだと思い込んじゃってた!」
この言葉を聞いて私は、「この先生、すごいわぁ。ちゃんと『思い込んでた』ってことを伝えて、謝ることができる医者なんて、なかなかおらんで」と関西弁まるだしで心の中で思ったものだった。さらにこの医師は続けてこう話した。
主治医:「それでね、Aさん。僕はこれまでAさんと同じ塵肺症の患者さんをたくさん診てきたんだけど、その中で、あぁ…、もうこの患者さんには、呼吸器をつないだとしても回復は難しいかなぁ、と思った患者さんには、そのことを話して、患者さんといっしょに考えた結果、呼吸器を着けなかったこともある。でもね、Aさんの場合は、いま肺炎を併発しててね、この肺炎は、いまは薬だけでなんとか維持できてるけど、この先ひょっとしたら、いったん、人工呼吸器を着けないと難しいかな、ということが起こる可能性を感じてるんだよ。だけど僕は、塵肺の方はもう治すことは難しいけど、この肺炎は安定的人工呼吸管理をすれば、まだ治せる、と思ってる。だからそのときはAさん、僕に任せてもらえないかな?」
Aさんは、医師の話を、じーっと黙って聴いていた。時間にしてみればものの30秒ぐらいだったと思う。ところが医療者にとって一番苦手なのが、この「沈黙の空間」。つい患者さんに向かって、「どうする? Aさん、どうする? 着けない? 着ける? どうする?」と迫ってしまいそうになるのだが、しかしここがガマンのシドコロ。このとき患者さんは「いま考えている最中」なので、私は主治医と看護師さんに必死にアイコンタクトで「待ちましょう! ここは、患者さんが話し始めるまで待ちましょう!」というオーラを必死に出していた。医療者の皆さんにはやや厳しい言い方になってしまうが、「何かを話す(する)」方が、実は「楽」だったりする。「何かを話す(する)」方が、自分が「何かできている」とか、「してあげられている」という達成感や満足感を得やすいからだ。でも、「語らず待つ」ということ以上に「エネルギー」のいる「能動的行為」はない。「Active Waiting(能動的に待つ)」という姿勢を実際の現場で貫くのは、「言うは易し」で並大抵のことではないが……(私も「十分できてます!」とは到底言えない…苦笑)。
Aさんは、ゆっくりと口を開いた。「先生、先生がまだ助けられる、治せると思うときには、そのときには先生、呼吸器、着けてもらっていいです」と。
このあともう少しAさんと細やかな話(何をどこまでして欲しいか)を1時間ほどいっしょにしてから、私たちは、Aさんの部屋を後にした。医局に戻る道すがら、私は少しイジワルな質問を主治医にしてみた。
わたし:「先生、よかったですね。Aさんとの『接点』が見つかって。でも先生、ひとつだけ質問してもいいですか?」
主治医:「なんですか? どうぞ?」
わたし:「先生、今回のAさんの場合は、肺炎治療のために『一時的に』呼吸器を着けて、その安定的呼吸管理中に抗生剤などの投与が奏功して、もう一度ご自分で呼吸する力が戻ったら、呼吸器を取り外せるって、そうおっしゃいましたよね? Aさんの場合は、その可能性や確率がまだ十分高いということなんでしょうけど、でも、例えば、最初の見立てでは、『おそらくまた外せるだろう』という医学的予測のもとに装着した人工呼吸器が、その後、予想以上に呼吸状態が悪くなってしまって外せなくなるってこと、ないですか?」
この質問に対して主治医は「うっ、ホンマにイジワルな質問というか、『板井トコ』(私を指さしつつ)ついてくるなぁ」と、苦々しい表情で応えた。幸いAさんの場合は、その後、呼吸器を装着しなくてはならない事態にはならないまま、退院され、ご自宅で、信頼できるホームヘルパーさんの介護のもと、しばらく宮崎で過ごされた後、九州にある同じ塵肺症の患者さんが集まられている施設に行かれ、最期はそこで呼吸器を着けることなくお亡くなりになったそうだ。
「抜けるだろう」という予測で医学的にしっかりとしたエビデンス(根拠)に基づいて挿管した呼吸器が、予測に反して「抜けなくなる」。こうした「医学の不確実性」という問題は、医療専門職と患者・家族とのコミュニケーションを考える上で、実は一番「やっかいなこと」ではないかと、日々、倫理相談を受けながら痛感している。この次には(また機会があれば)、「抜けるだろう」と思っていたのに、「抜けなくなった」呼吸器のこと等、「医学の不確実性」をめぐる事例についても、どんな風に対応したのか、お話したいと思う。
病気になったり、けがをしたりした時、誰もが安心して納得のいく医療を受けたいと願います。多くの医師や看護師、様々な職種の人たちが、患者の命と健康を守るために懸命に働いています。でも、医師たちが次々と病院を去り、救急や産科、小児科などの医療がたちゆかなる地域も相次いでいます。日本の医療はどうなっていくのでしょうか。
このコーナーでは、「あたたかい医療」を実現するためにはどうしたらいいのか、医療者と患者側の人たちがリレー形式のエッセーに思いをつづります。原則として毎週月曜に新しいエッセーを掲載します。最初のテーマは「コミュニケーション」。医療者と患者側が心を通わせる道を、体験を通して考えます。ご意見、ご感想をお待ちしています。