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眞悟の時事通信
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田母神前空幕長の闘いと天安門事件から二十年
 まず、一月二十六日の憲政記念館とその周辺の情況をお伝えしたい。
 この日夕方七時から、憲政記念館で西村塾主催の田母神前航空幕僚長の講演会が開催された。
 その日の午後は、横の国会では、第二次補正予算案に対して衆議院賛成・参議院反対の結果が出たので、両院協議会が開かれ両院の決議の違いを確認することになっていた。両院協議会でそれを確認すれば、衆議院の議決が国会の議決となり第二次補正予算案が国会を通過して成立する。これを参議院に対する衆議院の優越という。
 両院協議会とは、このように両院の決議が食い違ったという事実、はっきり言って子供にでもできる既に明らかになっていることの単純な確認作業にしか過ぎない。しかし、摩訶不思議、この確認作業が、一月二十六日の夕方になっても行われず、結局翌日に持ち越されることになる。議員諸侯は、どういう理由で協議が終わらないのか分からない。従って、その晩、国会では数百名の国会議員がボーッと両院協議会の結果が何時出るのかと待機していた。
 
 この国会から道を一つ隔てた皇居寄りに憲政記念館がある。ここは、戦前は陸軍参謀本部があった場所だ。そのもっと前は、井伊大老が桜田門に向けて出発した彦根藩邸があったところ。
 この憲政記念館に五百席のホールがあり、田母神氏の講演会はこのホールで行われたのだが、来場された人数は八百名に達し、三百人が立ったままとなった。盛況というより気の毒なほどびっしりと人が入り、貧血で倒れた人が救急車で病院に運ばれた(後日、無事退院を確認している)。
 この情況のなかで、来場者は極めて熱心に田母神氏の話を聞き、うなずき、そして拍手した。
 演題はもちろん我が国の近現代史である。そして、我が国は侵略国家ではない、よい国だと言ったら、空幕長は侵略国で悪い国だと言わねばならないと解任された奇妙なマンガのような空幕長更迭のいきさつも聞いておく値打ちがあった。その時横の国会内で待機している国会議員諸侯の頭の程度が分かるからである。

 西村塾は、派手な広報の手段を持たない地道な勤労青年の集まりで、この集会も地味なものになると予想していたのに、何故、これほど多くの人々が来場されたのだろうか。
 それは皆、「田母神さんは、当然のことを言ったのだ。よくぞ言ってくれた」と思っているからである。そして皆、日本が悪い侵略国家だという汚名、思い込みから、一日でも早く祖国を解放し、日本人としての誇りをもって生きたいと願っているからだ。この思いが、心から心へ伝わって田母神氏の話す憲政記念館に人々を集めた。
 聞くところによると、田母神氏の講演日程は、六月まで詰まっているという。そして、二十六日の憲政記念館の情況は田母神氏が行く日本各地で起こっている「現象」だという。
 
 ここにおいて言えることは、昨年十一月の航空幕僚長更迭から発した田母神氏の闘いは、既に田母神氏個人の闘いではなく、
「日本民族の誇りを取り戻す国民運動」になっているということだ。
 ところで、既成政党に属する国会議員諸氏は、大政翼賛的超党派で田母神氏糾弾にまわって更迭し、また任命責任を追求し、その時は隣の国会で両院協議会の結果待ちをしていた。憲政記念館に現れたこの民意の動きとは無縁の輩であった。
 今、国会議員で田母神氏擁護の集会に出席できるのは、当初から田母神航空幕僚長は当たり前のことを言ったと発言していた小生そして無所属か改革クラブのごく少数の議員しかいない。
「天下一人を以て興る」という言葉があるが、今の既成政党は選挙用の「難民収容キャンプ」であって、国家再興の役に立たずと改めて思う。羊は何匹いても羊の群れにすぎない。群れのままどっかに連れて行かれる。
田母神氏一人の働きの足下にも及ばない。

 ところで、我が国にこの歴史観の見直しと回復を目指す国民運動が興りつつある本年は、天安門事件から二十年の節目である。
 田母神現象と天安門事件、一見関係ないように見えるが、大いに関係がある。
 何故なら、村山富市談話にある「日本悪玉史観」、「自虐史観」は、我が国の「独創」ではなく、天安門事件後の中国共産党の演出によるものだからである。
 従って、この歴史観から脱却して我が国の誇りを取り戻し、国際社会に散布された言われなき汚名を消去するためには、国際的謀略特に中国共産党の対日謀略を観なければならない。
 そして、この謀略が露骨に始まったのは二十年前の天安門事件以後である。
 この背景を視野に入れて「日本は侵略国家ではない」と言った航空幕僚長更迭を観れば、田母神氏を非難した与野党の総体は、意識することなく中国共産党に協力する彼の謀略に嵌った哀れな群れであることが分かる。
 然り、これが、日本国会の実像である。
 仮に意識しかつ確信して軍人のトップである航空幕僚長を更迭したのならば、その後始めて行われた国会に於ける一月二十八日からの内閣の施政方針演説とそれに対する質疑の中で、この重大な歴史観の問題が取り上げられるはずである。しかし、それらは忘れられ無視されていた。
 この歴史観回復をぬきにして、総理の施政方針演説に言う「明るく強い日本」、「活力ある日本」はないはずなのに。

 さて、一九八九年六月四日、中国に於ける政情不安は一挙に高まり天安門広場に百万の民衆が集まり自由化を求めた。中国共産党は彼らを戦車で蹴散らして踏み殺し、人民解放軍は銃を民衆に向けて殺戮し鎮圧した。「政権は銃口から生まれる」(毛沢東)、故に、政権を銃口で守ったのである。
 これに対して、「民衆に銃を向ける国家に未来はない」として国際社会は中国への制裁に入った。中国共産党は苦境に立つ。
 そこで、中国共産党は、国際的な制裁緩和を勝ち取るために、さらに、民衆の共産党に対する恨みを解消するために、共に徹底的に「日本を利用する方策」をとった。前者においては、対日微笑と恫喝、後者においては、反日教育を徹底したナショナリズムの煽動である。

 まず、対日微笑と恫喝の結果は。
 この頃、中国首脳が日本の政治家に、日本が制裁を続けるならば、「中国から一億の難民を日本にむけて送り出すぞ、それでもいいか」と言い放ったという話が伝わってきた。これは、立派な恫喝だ。
 その故か、早くも天安門事件の翌年のサミットで、海部総理は対中制裁解除の方針を打ち出し、その六ヶ月後には、中国の女スパイと関係があるといわれた大蔵大臣が訪中して世界に先駆けて対中ODA(政府開発援助)を再開した。
 そして、中国の成果の極めつきは、悔やんでも悔やみきれない一九九二年十月の天皇皇后両陛下の中国ご訪問だ。それを決めた総理は宮沢喜一。これにより、中国は早くも天安門事件などはなかったかのように振る舞うことができるようになった。

 次に、中国共産党は民衆の共産党への恨みを回避するために、国内での愛国教育つまり反日教育を実施する。これは、一九九三年に江沢民が主席に就任してからさらに徹底される。
 この結果、中国共産党は極悪非道な日本軍から中国民衆を救った輝かしい歴史を持つ民衆の保護者となった。同時に中国共産党にとって、中国支配の正当性には、悪い日本の存在がどうしても必要となった。その為に、この反日宣伝は、単に中国民衆に対してのみではなく、当の日本を始めアメリカや全世界に向けて開始されることになった。
 世界に先駆けて対中制裁を解除した海部内閣、宮沢内閣は、何の抗議もせず、当然この反日宣伝を肯き受け入れた。
 かさにかかった中国は、一九九二年二月に「領海法」を制定して我が国固有の領土である尖閣諸島を勝手に中国の領土としてしまったが、宮沢内閣が抗議した形跡もない。抗議するどころか、この内閣は、その年の十月に、天皇皇后両陛下の中国ご訪問を実現してしまった。このようなご訪問は、自国の領土を勝手に自分のものだという傲慢無礼な国に対して決してしてはならないことである。
 以上、天安門事件以降、日本の善意はことごとく中国に裏切られ続けた。そして今や、中国の対日方針は、歴史を持ちだして日本の上位に立ち屈服を勝ち取るというものであり、その為に、日本には絶え間なく自虐史観の遵守を迫ると共に全世界に反日宣伝を徹底させている。
 
 歴史を振り返れば、中国のこの反日謀略は、中国共産党が、天安門事件からの国際的また国内的評価失墜から脱却するために開始したものである。
 従って、この天安門事件から二十年を迎えた本年、我が国に自虐史観・日本悪玉史観ではない正当な歴史観を回復しようとする国民運動が、田母神航空幕僚長更迭をきっかけに生まれてきたことは、極めて意義深いことであり、歴史的符合であると言える。
 この国民運動こそ、我が国の将来を決するものであり、断じて負けるわけにはいかない運動である。来るべき、政界再編の大きな選別基準である。
平成
21
年
1
月
31
日
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